青海かなえ
2026-03-26 17:40:41
17403文字
Public 名的名
 

花なき花瓶

・枕元に花瓶が置かれるようになった的場さんの話
・的場さんと名取さんと夏目と先生が出てきます
・女の子の妖が出てきます
・的名だと思うけど左右が曖昧な人間が書いてます
・本当になんでもいい人向けです

 枕元に、美しい花瓶が置かれるようになった。

 夏の終わりの朝のことだ。朝日が、まっすぐ部屋に差し込んでいた。的場が目を覚ますと、枕元に玻璃で出来た花瓶が一本置かれていた。寝起きの頭でも、なにか奇妙なことが起こっていることは理解できた。
 妖祓いなんて家業の家に生まれたからには、一般人が俗に言う「非日常」や「奇妙な出来事」は、的場にとってはただの日常にすぎなかった。同業者より、人の怨嗟や家の因果の気配が濃いかもしれない。的場に向けられる視線や思いは、いつも憎しみや妬みがまとわりついていた。的場は、枕元にぽつんと置かれた花瓶に触れた。障子の隙間からまっすぐ差し込む細い光が、花瓶を突き刺すように照らしていた。自分じゃない誰かだったら、はっと息を飲んでいたかもしれない、と的場は思った。ただ的場はどこまでも的場静司で、的場静司がするべきことは、玻璃の表面に浮かぶ光の反射に耽溺することではなく、早急な事態の究明だった。的場は、訝しげに花瓶を持ち上げた。花瓶と言われて想像するものより、ずっと軽く薄かった。どうやら一輪挿しのようで、細長い試験管のような形をしていた。表面がまるで螺鈿のように色が変化してゆく様はただの玻璃ではないように思えた。よく見ると、花の意匠が彫られていた。ひとつの曇りもない玻璃に刻まれた意匠。繊細で触れがたい美を感じるけれど、それはどこか痛ましい傷痕のようだった。的場は、その痛ましい傷を親指でなぞり、目を細めた。ひやりと冷たく硬い感触にまじって、かすかに妖の気配がした。うつくしい花の意匠。花の名前には、心当たりがあった。
 
 
 
 
 その日から、たまに枕元に硝子の花瓶が置かれるようになった。どうやら、花瓶の形状は決まっていないようで、小さな一輪挿しの日もあれば、壺のような形をした大きな花瓶の日もあった。頻度はまちまちで、二日後に置かれることもあれば、数週間空くこともある。そして、そのどれにも、最初と同じように花の意匠が彫られていた。彫り跡を指でなぞると、かすかに妖の気配がした。怪しいことこの上ない。けれど、何故か悪い気はしなかった。何度か寝たふりをしておかしな贈り物をする人物を待ち伏せようとしたけれど、なぜかいつも途中で眠り込んでしまう。朝方に目を覚ますと、また枕元に花瓶が置かれていた。すべてがあまりにもささやかで、いつの間にか、的場の日常の一片となっていた。
 
 

「はあ」
 
 
 
 名取の呆れたような相槌に、的場の口角が上がった。名取本人は、曖昧な相槌で濁したつもりらしいが、眉間にぐっと寄った皺は隠せておらず、呆れを通りこして苛立っていた。嘘つきすぎて逆に正直とは言い得て妙だ。付き合いが長すぎて、探らなくとも腹の内がわかってしまうのも考えものだった。机を挟んで向かい側に座っている的場は、名取を見て微笑んでいた。眉根を寄せる名取は、先ほどまでの居心地悪そうに正座をしていた青年と同一人物だとは思えない。的場からしてみれば、そんな神経質な性質を隠しきれていない男が、いきなり無遠慮な態度を取ること自体はおもしろい。自分のことは頓着しないくせに、他人のことになるとずいぶん敏感なことだ。向かい側にいる的場は、湯呑みに入ったぬるい茶を啜った。
「それが一ヶ月続いてるんですよね」
……放置しておくには危険な状況では?」
「なにかもっとアクションを起こしてくれたらやりやすいんですけどね。ただただそれだけなので、対処の施しようがないんですよ」
「ああ、そうですか」
 名取は呆れたように返す。名取は、さっきから一度も湯呑みに口をつけていなかった。警戒か、緊張か。的場は、手慰みに茶菓子を手に取り、口に放り込んだ。食べるかと名取に聞いてみても、呆れたように首を横に振るばかりだった。
「それにしても、花瓶か……。やはり妖の考えることはわからない」
 名取は、顎に手を当て、眉間に皺を寄せた。顎に手を当てるのは、拓磨がよくする仕草だった。潔癖のくせに、人に影響されやすい。名取のこういう一面を見るたびに、おもしろいと好奇心をくすぐられる反面、的場はどこか冷えた気持ちになる。的場は面白くなさそうに襖の向こうにある庭に視線を移した。名取は、黙ってしまった的場に変わるように口を開いた。
「ですが、なぜ私に?」
 的場は、名取に視線を戻した。眼鏡の向こうにある赤いような茶のような名取の瞳をじっと見る。ふっと微笑んだあと、的場は首を傾げ、わざとらしく目を細めた。
「花瓶の表面に、牡丹の意匠が施されていました」
 名取の表情が固まる。
「ふと、牡丹の別名が名取草だった事を思い出しまして。もしかしたらあなたの家が関連してるのではないかと」
 疑いを隠さない言い回しに、名取は小さく息を呑んだ。まるで、名取の叛逆の疑いを言外に匂わせるような物言いだった。蛇のように鋭い的場の目に、名取はたじろぐ。名取の口から、乾いた笑いが溢れた。
「はは、頭主直々に呼び出された理由が今の今まで分からなかったんですが、まさか釘を刺すためとは」
「まあ、単純に知っていることがあったら聞きたかったのもありますよ」
 的場は、緊張を解き、茶を啜った。
「花瓶、見ます?」
……拝見させていただきます」
 名取はそっけない言い方をしながら、本心では喉から手が出るほど欲しかった。代々伝わる術具は、その家の血筋のものが使ってこそだ。名取も学生時代からずっと実家の蔵や縁がある場所を探し回った。ただ、さすがは廃業した惨めな一族。名取の実家の蔵にあったものは、お世辞にも管理状態がいいとはいえなかった。資料の乱丁、汚れ、紛失……。指摘しだしたらキリがない。自分の家についての情報や手がかりはどんな小さなものでも手に入れたかった。
「では蔵からいくつか取ってくるので待っていてください」
 的場は、静かに立ち上がり、部屋から立ち去った。的場が閉めたひとつの汚れのない障子を、名取はじっと見た。違和感。所作が洗練されるのは、ある程度の年齢を重ねれば当たり前のことかもしれない。けれど、的場一門頭首として相応しい所作をする的場静司を目にするたびに、学生時代の的場静司が脳裏に浮かぶ。傍若無人で、お世辞にも行儀がよいとはいえない的場静司。そこまで考えて、ああ、行儀が悪くて傍若無人なのは今もだった、と名取は心の隅で安堵した。そして、安堵している自分がまるで他人のようだった。
 
 

「こちらです」
 しばらくして、的場が大きな風呂敷を抱え、座敷に戻ってきた。風呂敷の中から、ひとつずつ花瓶を取り出し、机の上にずらりと並べてゆく。形に差異はあるものの、どれも華やかな作りをしていた。名取は意を決して、いくつかある花瓶のうちのひとつをぐっと覗き込んでみた。底に大輪の牡丹の意匠が施されていた。普段、無骨で色気のない壺ばかり扱っている名取には、ずいぶん少女趣味に感じられた。名取は断りをいれ、そっと花瓶を持ち上げた。花瓶に使われるものとは思えないほど、硝子は軽く、厚みがない。爪の先ほどの厚みしかなく、花なんて本当に生けられるのだろうかと思わず疑ってしまうほど、繊細な作りをしていた。水を注がれただけで、その重みに耐えきれず呆気なく割れてしまいそうだった。繊細で、華奢で、少女趣味。名取家の術具はよその家のものよりは華があるが、比べ物にならない。術具ではないのだろうか。名取が首を傾げたところで、黙って見ていた的場が口を開いた。
「ずいぶん慎重に触れるんですね」
……割ったらどうするんですか」
「不燃ゴミに出します」
「ええ……
 他所の家の物かもしれないのに、豪快なことだ。自分の一挙挙動を観察するような的場の視線に耐えながら、名取は花瓶をひっくり返す。底にも、製作者のサインはなかった。
……名取家の物かどうかはこれだけでは何とも」
 名取は目を伏せ、花瓶を机に置いた。的場は、花瓶に映った名取の顔を見ていた。硝子の表面の曲線に合わせ、名取の表情がぐにゃりと歪む。名取が的場に向ける、仮面を何枚も被ったような表情とは違って、少しだけ興味深かった。名取は、自分の弱さを徹底的に隠そうとする。身ひとつで生きていくしかない野生生物が、自身を強く見せようとする姿を彷彿とさせる振る舞いを、的場は好ましく思っていた。それを口に出すと名取が傷つくことも、傷ついたことを隠そうとして眉間に皺を寄せることも同時に知っていた。
「持って帰りますか?」
……いいんですか?」
「いいですよ、別に」
 はい、はい、はい……と、名取の目の前に花瓶が次々と置かれていく。
「さて、いくつ持って帰りますか?」
 おおよそ素手では持って帰ることができない量の花瓶が、名取の目の前にずらりと並んだ。








 ***

 日が落ちるのが、少しだけ早くなってきた。夏目と斑は、塔子から頼まれたおつかいの帰りだった。二人で買い物袋を抱え、並んで河川敷を歩いていた。夏目が足元に目をやると、夕暮れ特有の濃い影が、二人の足元から長く伸びていた。この前まで、あんなに明るかったのに……。夏目は、半袖から伸びる細腕をさすった。何か一枚羽織ってくるべきだった。夏の暑さもなりを潜め、そろそろ衣替えの季節だと塔子が張り切っていた。ついこの前まで朝晩関係なく蒸し暑かったのに、近頃は夕方になってくると、うんと冷えてくる。特に今日は肌寒い。夜明けに降った雨のせいかもしれない。今朝は湿っていたアスファルトも、今ではからりと乾いていた。
 夏目は、改めて塔子から渡された買い物メモを開いた。牛乳、南瓜、葱、マヨネーズ。先ほど商店街で買ったものと照らし合わせ、ひとつずつ確認する。どうやら漏れはなかったようだった。
「おい、夏目! 饅頭!」
 斑は、饅頭をねだった。夏目は両腕で抱えた、七辻屋の紙袋を斑から奪われないように斑から遠ざけた。紙袋の中に、藤原家全員分の饅頭が入っていることを、斑は知っていた。
「俺は饅頭じゃないぞ」
「知っとる」
「先生、田沼がくれたやつなんだから大事に食べろよ」
「夏目も食うか?」
「とか言いながら、いつもひとりで平らげるだろ。せめて茂さんと塔子さんの分は残しておけよ」
 斑は、なあっとまるで猫のように鳴き、夏目の肩によじ登った。同年代と比べるとどうにも華奢な夏目の右肩に、ずしりとした重みが乗る。
「太ったんじゃないか?」
 夏目は、じろりと睨んだ。斑は、素知らぬ顔をしてあくびをした。
「気のせいだろ」
「米俵と同じくらい重いぞ」
 肩に乗った斑の頬を、夏目はきゅっと軽くつねった。肉を摘んだ程度なのに、痛いと大袈裟に暴れる斑に、夏目は体勢を崩し、派手に尻餅をついた。
「こら! 先生! 人の肩で暴れる……
 夏目は、反転した視界の隅で、河原で蹲っている少女を見つけた。
「お、おい! どうしたんだ?」
 夏目は、少女の元に慌てて駆け寄った。蹲っていた少女は、驚いたように顔をあげた。夏目は、息を呑んだ。
「どうやら人の子ではないな」
 斑の言葉に、夏目はそっと頷いた。少女が動くたびに、長い髪が揺れ、真珠層のようにゆらめいた。まるで螺鈿細工のようだった。少女の形をした妖は、人の子に声をかけられて驚きのあまり腰を抜かしているようだった。
「食べるか?」
 夏目は、紙袋から饅頭を取り出し、妖に渡した。
「それは塔子たちの分だろ」
「あと三つあるんだから、残り二つを塔子さんたちにあげればいいだろ。先生はもう食べるんじゃないぞ」
「なに⁉︎」
「お前、名前は?」
 夏目は、手元にあった饅頭を妖に差し出した。妖は、ぎゅっと唇を結び、意を決したように口を開いた。
「サンカヨウ、です」
 風の音にかき消されてしまいそうなほど小さな声だった。硝子と硝子が触れ合ったようなかすかなサンカヨウの声はかろうじて夏目の耳に届いた。
「サンカヨウ?」
 どこかで聞いたことがある。夏目は頭を捻ったが、思い出せない。サンカヨウと名乗った妖は、ぱちぱちとまばたきをしていた。思い切ったように口を開く。
「声が聞こえるのですか」

 

 
「よほど力が強いものにしか、こいつの声は聞こえないようだな」
 斑は座布団の上で身を丸めた。結局、夏目はサンカヨウを部屋に連れて帰ってしまった。
 サンカヨウは、小豆色の座布団の上に体縮こまらせて座っていた。お前の部屋、段々と妖お悩み相談所みたいになってないか? と斑が軽口を叩く。サンカヨウは物珍しそうに夏目の部屋を見渡していた。
「どうした? 何か変か?」
 いいえ。今にも空気に溶けてしまいそうな微かな声が、夏目の耳に届く。
「人の家なんて、初めて入りました」
「初めて?」
「はい」
 妖は特定の個人が土地を所有しているという概念が薄いため、好き勝手出入りする者が多い。人懐っこいと思っていたが、もしかしたら人が嫌いなタイプの妖なんだろうか。具合が悪そうだったとはいえ、自室に連れてきたのはまずかったかもしれない。
「人が好きじゃないのか?」
「人は好きです」
 サンカヨウは夏目の問いかけに、間髪入れずに口を開いた。
「人は好きなんです。山神様からよく賑やかで美しく愛しいと人の子の話を聞いてました。ただ、私は力が弱く、しばらく山を降りることができなかったんです……。人の子の住処が珍しく……不躾に見てしまってごめんなさい」
「そんな力が弱く倒れるくらいなら山にこもってた方がいいんだろ。なんでわざわざ人里に降りた」
……山神様が愛しいと、美しいと言った人の子を一目でもいいから見てみたかったんです」
 サンカヨウはまるでひとりの少女のようにはにかんだ。
「山から降りたときに、とある男性とお話したんです」
 斑は自分から聞いておきながら、サンカヨウの返答にかけらも興味がなさそうにあくびをした。サンカヨウの口元が、わずかに綻んでいた。まるで童話に登場する少女のように頬を赤めていた。
「その方のために、何かしたくて」
「なんだ、惚れた腫れたか」
「誰かと言葉を交わしたのはとても、本当にとても久しぶりだったんです」
……どんな会話をしたんだ?」
「たわいもないことです」
 サンカヨウは目を細めた。夏目は、少しだけ悩んで口を開いた。
「なにか、なにか彼のためにしてあげられることがあるなら……
「手伝おうか?」
「え?」
「は⁉︎」
 夏目の横で斑が抗議の声をあげる。斑は、制服のスラックス越しに、夏目の膝に爪を立てた。夏目は、そっと斑を抱き上げた。
「お前、また面倒なことに首をつっこんで」
「だってサンカヨウだけだとまた倒れるかもしれないだろ? 寝覚が悪いじゃないか」
 先生、頼むよ。七辻屋の奥にケーキ屋ができたの、気になっていただろ? そこに連れていくからさ。夏目は、斑の丸々とした腹を撫で、雑に機嫌を取る。にゃあと、気持ちよさそうに斑が鳴いた。
「何かしてやりたいんだろう? その人に」
 優しい思いが、目前で消えてゆくところばかりを見送っているせいだろうか。余計なことに首を突っ込む癖は治らない。その度に斑はなんだかんだ言いながら付き合ってくれていて、それに甘えるのが恒例になっていた。
「じゃあ、決まりだ」
……ありがとうございます……あ、お名前」
「夏目。夏目貴志だよ」
 夏目様、夏目様……。サンカヨウは、まじないのように夏目の名前を唱える。夏目の年齢を優に超えているはずなのに、サンカヨウの姿は、まるで夏目よりずっと年下の少女のようだった。
「なんだ?」
「いえ、誰かの名前を聞くなんて、どれくらいぶりだろうって……
 サンカヨウのか細い声に、夏目の頬が緩んだ。
「なごなごしているところ悪いが」
 なごなご。ライトな物言いに夏目は吹き出しそうになった。聞け、と斑が腹を立てるので仕方なく話を聞こうと向き直ると、彼の細い目がきらりと光った。
「お前、その人間の名前は知っているのか?」
「名前! 聞いてない……です」
「そんなもん調べようがないだろう!」
「先生! でも確かに厳しいな……ただ、うん? サンカヨウの声が聞こえるくらいの力の持ち主……」 
 夏目の脳裏に、数人の顔が浮かぶ。
「なあ、サンカヨウ。その人ってなんかこう……キラキラしてなかったか? 無駄に……顔がきらびやかで……髪の色素が淡くて目が赤っぽい感じで……背景に薔薇が飛んでそうな」
「名取の小僧はまた女を侍らせてるのか!」
「い、いえ! 髪は黒かったです」
 夏目の口元が思わず引き攣る。
……長い髪をひとつにまとめてました。右目が何かの術で隠れていて……
「まさか」
 特定の人物が夏目の脳裏に過ぎる。番傘の奥に隠れた、不敵な笑み。細められた隻眼。黒いざんばら頭を一つに括った男。夏目はあまりの衝撃に眩暈がした。
「お知り合いなんですか⁉︎」
 サンカヨウは身を乗り出した。夏目と同じ人物にたどり着いた斑が青ざめ、夏目の代わりに口を開いた。
「的場静司。有名な祓い屋だ」

 
 
 
 
 ***

 本当、厄介ごとばかり舞い込んでくる。
 
 名取は、足元に散らばった資料を一枚拾い上げた。名取家の資料は、長い間蔵に放り込まれていたため、状態が非常に悪く扱いには慎重を要する。名取は破かないよう慎重に書を捲った。牡丹を模した印が記されている記載にたどり着くと、手を止めた。部屋にずらりと並ぶ花瓶に彫られている意匠と、書物の印を見比べ、ため息をついた。名取は、的場から依頼された調べ物に難航していた。名取家は、古くから紙を扱う家であり、印を用いた術が多い。朝から資料を見比べながら、牡丹を用いた印を探しているけれど、どの印に用いられている牡丹も、花瓶に彫られている牡丹の花とは異なっていた。そもそも牡丹というだけで名取家に当たりをつける的場も的場だ。名取は自分の眉間に寄った皺に触れ、ため息をついた。
 
 電話の着信音に、名取の心臓が跳ねた。固定電話が置いてあるリビングに向かい、息を整える。固定電話にかかってくる電話の半分が同業者からの嫌がらせだ。呪詛返しのまじないを心の中で唱えながら、名取は受話器を手に取った。
「お世話になっております。的場です」
……的場さん?」
 つい、拍子抜けした声が出た。先程とは別の意味で、受話器に握る手に力がこもった。
「依頼した案件の進捗を伺おうと思って」
 進捗確認の電話にしては、的場の声は弾んでいた。名取はひっくり返したように荒れている資料部屋を横目に言い淀んだ。
「進展なしですか」
 的場は名取の歯切れの悪さで察したようだった。さらりと見透かされた名取は言葉に詰まる。
「的場さんの見解を聞かせていただきたいです」
「私の見解?」
「実際にその現象にあってるのはあなたなんですから」
 的場は、なるほど、と答えた数秒考えた後口を開いた。
「なんだかやることが枕返しみたいですよね」
「枕返しって……
 名取は、的場の物言いに呆れた。的場はどんな状況でも余裕がある。自分の日常が脅かされても彼の不遜な物言いは変わらなかった。
「冗談を言ってる場合ですか」
「冗談じゃないですよ。全体的にしょうもないというか」
……でも、強いメッセージを感じませんか?」
 繊細に彫られた意匠や、薄い玻璃を見た時から感じていたことだった。妖だろうが、人だろうが、何か的場に伝えたいことがあるように思えた。
「メッセージ?」
「伝えたいことがある、というか」
「呪いでしょうか」
「祈りかもしれません」
「いや、呪いでしょう」
 名取は壁に背を預けた。呪いでしょう。言い切る的場の声は、刃のように鋭い。
「もしこの得体のしれない花瓶を置かれているのが夏目くんだったら、もっと必死に調べていましたか?」
「別に、そんなことは……
「本当に?」
 電話口の的場の声は、軽やかだった。しなだれかかるような重みもなく、かといって責めるような棘もない。それどころか、その声色はどこか無邪気で、名取は困惑した。正解の返答はなんだろう。そもそも、正解なんて存在するのだろうか。言葉を選ぶ数秒の沈黙が息苦しかった。的場の無遠慮で率直な物言いに、あるのかないのかわからない正解を探してしまう。いつもそうだ。的場の真っ直ぐな言葉に、いつもしどろもどろな返答をする自分を、名取は苦々しく思っていた。
「本当に」
 自分でも驚くほど、名取ははっきりと言い切った。本当に? 本当だ。夏目でも、的場でも、変わらない。もちろん夏目に比べると的場は身を守る術を知っているだろう。だからと言って、適当に調べているわけではない。
「はは」
 的場が短く笑う。的場の面白がるような、乾いたような、はたまたこちらに失望したような笑い声だった。何を意味するものなのか、名取にはさっぱりわからなかった。全て正解で、全てが間違っているのかもしれない。息が詰まる。
……意匠からは手がかりが掴めないので、別方面から探していきます」
 花瓶が名取の視界に入る。呪い。的場の言葉が脳裏にこびりつく。こんな美しい花が、呪い? 名取は、件の花瓶に目をやった。美醜にさほど関心がない名取ですら、この牡丹の意匠は美しいと感じた。




 ***
 
「サンカヨウ。本当にここなのか?」
 長い畦道を越え、獣道に入り、荒れた山肌を登る。鬱蒼とした木々を掻き分けてもうどれくらいたっただろう。山道に慣れている夏目でなければ途中で根を上げていた。悪路を息も絶え絶えに登った先に、小さな洞窟のようなものが見えた。
「もしかしてあれか?」
「そうです」
 夏目が指を指すと、サンカヨウは嬉しそうに頷いた。最後の力を振り絞り、夏目は小さな洞窟の入り口まで歩いた。
「こちらです。こちらの洞穴は鍾乳洞でございます。私たちはここで山神様に捧げる器を作っているんです」
 夏目は恐々と暗い洞穴に足を踏み入れる。ひやりと冷たい空気が、夏目の頬を掠めた。
「きれいだ……
 夏目が今まで写真や映像で見たどの鍾乳洞よりも美しかった。岩で覆われた天井から、まるで真珠層のように虹色にゆらめく鉱物が垂れ下がっていた。この洞穴自体がひとつの硝子細工で作られた芸術作品のようだった。呆気に取られている夏目の横で、斑は色めき立っていた。
「おお! 話には聞いていたが、目にするのは初めてだな」
「この鉱石を砕いて作る器や壺は、幸福を呼ぶと言われている。そんでもって」
「酒が美味いとかいうんだろ」
「そうだ! 実に美味と聞く!」
「こちらの鉱石を砕いて加工したものを、その方に届けているんです」
 サンカヨウに促され、夏目は鍾乳洞の奥に進んだ。小部屋のような空間があってそこに花瓶がずらりと並んでいた。
「すごいな……
 どの花瓶にも牡丹の意匠が彫られていた。やわらかな花弁が幾重にも重なった牡丹の意匠に、夏目は目を奪われた。興味がなさそうに欠伸をした斑は、面倒くさいのを隠そうとせずに口を開いた。
「なんで牡丹なんだ?」
「牡丹が好きだと」
「的場さんが?」
「ええ」
 意外だ。夏目と斑は顔を見合わせた。斑と夏目の共通認識としては、的場静司は植物に華やかさや愛らしさを求めるのような男ではなかった。的場静司とは、二人の中では冷静かつ合理的……というより、近道を無理矢理作り出す男だった。
「私が知ってることはそれだけなんです」
「それだけ?」
「ええ。それだけ」
 サンカヨウは、目を伏せた。的場とサンカヨウの間にどんな会話があったのか、夏目には知る由もない。妖と好きな花の会話をする的場の姿を想像することは、夏目には難しい。斑を抱く腕に力が入った時、夏目の腕の中にいる斑の耳がぴくりと動いた。
「夏目、人の足音がする」
「足音?」
 耳を澄ますと、微かに足音が聞こえてきた。足音は、ゆっくりと夏目たちがいる場所に近づいてきていた。人? 誰だ? 夏目は警戒しながら、じっと近づいてくる足音の主を待った。ついに人の姿が見えた時、夏目は目を見開いた。髪の色の色素が薄い、成人男性、遠くからもわかる華やかな雰囲気に、夏目は身に覚えがあった。
「もしかして……
……夏目?」
 柔らかい声に、夏目は足音の主を確信した。
「な、名取さん」
「また、首を突っ込んでいるんだね」
 足音の主……名取は、困ったように笑った。
 
 
 


「それで、また首を突っ込んでると」
 名取は夏目の話を聞き、頭を抱えた。夏目は反省する素振りもなく、まっすぐに頷いた。
「夏目、私は的場から依頼されてその花瓶の妖の正体を突き止めにきたんだ」
 夏目の顔がサッと青くなる。
「祓うのか?」
 斑の鋭い言葉に、名取はちらりと居心地悪そうに固まっているサンカヨウに視線をやったあと、頭を横に振った。
「それはわからない。的場への報告の義務はあるけど……まあ、適当に流しておくよ」
 サンカヨウは、名取に向かって小さな口をパクパクと開いたり閉じたりをする。名取は戸惑い、首を傾げた。数秒の沈黙の後、斑が口を開いた。
「名取、お前さてはサンカヨウの声が聞こえていないな」
 名取は一呼吸置いた後、そうみたいだね、と自嘲混じりに言った。サンカヨウは慌てたように、何かを訴えているようだったが、名取の耳には届かない。力が弱い者には、サンカヨウの声は聞こえない。高校生の的場静司の姿が、名取の脳裏に過った。まだ短い黒い髪、黒い学生服に包まれた今より小さな背中。でも彼、まあまあですよ。あの日、的場に言われた言葉が、名取の一番柔らかい場所に絡みつく。
「名取さん……
「大丈夫だよ、夏目」
 心配する夏目を、名取はそっと制した。的場の言葉は、まるで呪いだ。名取は、目を細めた。いつもと様子が違う名取から、夏目はそっと目を逸らした。夏目の視界の端に入ったサンカヨウの姿を見て、夏目の表情が凍った。花瓶を持っていたサンカヨウの手が透け、花瓶が地面に落ちる寸前だった。
「サンカヨウ、危ない!」
 夏目は、急いで手を伸ばした。だが、間に合わず花瓶は地面にまっすぐ落ち、音を立てて割れた。サンカヨウは目を見開き、自分の両手をじっと見ていた。名取は透けているサンカヨウの手を取り、じっと観察した。
「きみ、力を失いかけてるね」
 名取は、眉根を寄せる。サンカヨウは戸惑いながら、おそるおそる頷いた。
「サンカヨウ、消える前に的場さんに自分の気持ちを言わないのか?」
 サンカヨウは、夏目の言葉に口を噤み、俯いた。
「まあ、難しいだろうな」
 当然のように発せられた斑の歯に衣着せぬ物言いに、夏目は眉根を寄せた。名取は、少し悩んだ後、そうだね、と肯定した。
「的場は祓い屋だから」
「じゃあ、祓い屋じゃない的場さんはどうなんでしょうか」
「え……?」
 祓い屋じゃない、的場? 名取は、その言葉を、何度も反芻する。夏目の言葉に、名取は何も返すことができなかった。
「す、すみません。おれは的場さんのことよく知らないのに、変なこと言ってしまって」
 様子がおかしい名取を見て、夏目は慌てて謝った。
「いや、うん、そうだね……うん、そうだ」
「え?」
「いや、私と的場は会った時から、ずっとお互いに祓い屋だったんだ」
 夏目は、口を挟まず、じっと名取の次の言葉を聞いていた。名取は迷いながら言葉を紡ぐ。
「的場にあった時の私は、今よりずっと未熟だったけれど、それでも祓い屋だったと思っているし、あいつはすでに完全に祓い屋だった。だから」
「はい」
「祓い屋ではない的場なんて、考えたことなかったな」
……きっと、的場さんもそうなのかもしれないですね」
「そんなことないよ。的場はなんとも思ってない」
 名取は、自分でも驚くほどはっきりと言い切った。夏目がたじろぐ。
……そうなんでしょうか」
「ただ、サンカヨウは祓い屋ではない的場と話したのかもしれないね」
 それは恋のようなものを抱くのかもしれない。名取は、祓い屋ではない的場を想像しようとしたが、頭に浮かぶのは、黒い傘を差す的場だった。祓い屋ではない、的場。的場と長い付き合いになってきたと思っていたが、知らないこともあるのだと改めて名取は痛感した。
「惚れた腫れたは面倒だなあ」
 斑は、サンカヨウと名取を交互視線を送り、つまらなさそうに欠伸をした。
 


 *** 



 名取と夏目が山を降りた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。田んぼ沿いの畦道を、二人は並んで歩いていた。古びた街灯や、混沌とした蛙の鳴き声や、砂利を踏む乾いた足音。すべて夏目の日常にありふれているはずなのに、どこか胸がざわついた。
「先生はいいのかい?」
「ああ、サンカヨウが作った盃で酒を飲みたいって残ってしまって……本当酒のことばかりで」 
 夏目は、名取の横顔をちらりと見た。甘く整った顔立ち……いつもの名取に違いなかった。だが、サンカヨウの住処を離れてから、どこか様子がおかしい。不安定な街頭の明かりのせいだろうか。しんとした空気に耐えきれず、夏目が口を開く。
「名取さん」
「ん?」
 夏目の声に反応した名取は、拍子抜けするほどいつもの調子だった。普段と同じように、優しい名取の声に、夏目は安堵して肩の力を抜いた。
「サンカヨウのことなんですが」
「ああ……
 名取が目を伏せ、唇を結んだ。
「サンカヨウは、消えちゃうんでしょうか」
「そうだね……力が弱くなりすぎてる」
 今までサンカヨウに力を供給していた山神が消えてしまっている。その状況で頻繁に山を降りているのは自殺行為だ。サンカヨウもわかっているだろう。
「自らの因果が、自らに降りかかっているんだ。憐れむものじゃない。サンカヨウ自身の選択だよ」
 憐れむものじゃない、と言ったときの名取の瞳が少しだけ揺らいだことを、夏目は見逃さなかった。夏目は少し考えて、わかってます、と言ってこくりと頷いた。
「消える前にサンカヨウと的場さんを会わせることがはできないでしょうか」
「でも、叶わない恋だ」
 名取は、躊躇うように夏目から視線を逸らした。
「私たちがやろうとしていることは、とても残酷なことなのかもしれない」 
 夏目は唇を強く結び、思わず足を止めた。思いも寄らず自分が友人を傷つけたことに気づいた名取も、慌てて足を止めた。
「夏目、ごめんね。君を否定したかったわけじゃないんだ」
「名取さんの言ってること、わかります。おれはとても残酷なことをしようとしているのかもしれない」
 名取は、静かに夏目の話を聞いていた。
「でも、伝えなかった想いって、どうなるんでしょう」
 断続的に明滅し続ける街灯が、名取の横顔を強く照らしては消える。手を伸ばせば届く場所にいるはずなのに、夏目は名取が遠く思えた。
「夏目は、優しいね」
 名取は、いつも夏目を優しいと言う。たが、夏目からすると名取のほうがずっと優しい。優しくて、思慮深く、そして何よりも正しくあろうとする。現実というものを知っていて、それでも正しくあろうとするのはおそらくとても苦難なことなのだろう。夏目は、自分がひどく浅はかなことを言ってしまった気がした。急いで口を開こうしたが、名取はそっと制した。
「いいんだよ、わかった。手伝おう」




 *** 




「おお、それが幸福を呼ぶ盃か」
 サンカヨウは、斑の盃に酒を注いだ。花瓶と同じ鉱物で作られている薄玻璃の盃は、幸福を呼ぶと言われているらしい。伝聞によって広まった噂だが、根も葉もないことをサンカヨウは知っていた。だが、山神が色が揺らめく不思議な盃で、上機嫌に酒を飲む姿を見ていると、サンカヨウは訂正することができなかった。
「夏目様と一緒に帰らなくてよいのですか?」
「ガキ共の世話には疲れた。うまあい酒が飲みたいんだよ」
 盃を傾け、斑は一口酒を口に含んだ。鼻を抜ける日本酒の香りに斑は満足げに頷いた。そのまま小部屋の隅にずらりと並べられた花瓶に視線をやった。形状はそれぞれだが、どれも牡丹の意匠が彫られていた。
「見事な牡丹だ。酒の肴になる」
「ありがとうございます」
 斑の素直な賛辞に、穏やかに礼を言った。サンカヨウは、斑の傍らに腰を下ろした。一瞬よろめくような仕草を、斑は見逃さなかった。
「お前、山を降りて大丈夫なのか」
……いいえ」
 サンカヨウは曖昧に頷いた。今も指先が微かに透けていた。サンカヨウは、自身が不安定な存在であることを自覚せざるを得なかった。
「的場のどこがそんなにいいのやら」
……
「夏目を傷つけてまで伝えたい想いとやらはどんなものなんだ。話せ」
 斑の皮肉めいた物言いに、サンカヨウは目線を足元に落とした。
「こんなに、こんなに早く力尽きるとは思わなかったんです。夏目様には本当に申し訳ありません。ただ本当に、彼と特別な会話を交わしたわけではないんです」
 じっと静かに次の言葉を待つ斑から、サンカヨウは視線を逸らした。
「ある日、私は一日だけならと、山を降りました。そしたら、彼がいました。彼は庭の牡丹の木を見ていました。私が、あ、と声を漏らすと、彼は振り返り、すぐに牡丹の木に視線を移しました。私は自分の声が聞こえる人の子に出会えたと、それはもう有頂天になりました。私は彼と何か……とにかく何でもいいから言葉を交わしたかった。それで、彼の視線の先にある牡丹の木に目を惹かれたんです。美しい牡丹でした。幾重に重なった薄くやわらかな花弁は繊細なのに、どこか凛としていて……そしてなぜかとても傲慢に思えました。私は彼に牡丹が好きかと尋ねました。そしたら一言、はい、と。その短い言葉が、どこまでも優しくて、そして寂しくて……
 サンカヨウは口を噤んだ。言葉を探すように数度まばたきをした後、口を開いた。
「少しでも彼の安らぎになればいいと思った」
「陳腐だな」
「ええ」
 サンカヨウは、いつものように穏やかに微笑んだ。そして、ふらつきながら立ち上がり、自身が作った花瓶に触れた。斑は座り込んだまま、今にも崩れ落ちそうなサンカヨウのか細い背を見ていた。
「私にできることは、花瓶を作ることだけ」
 サンカヨウの透き通った指先が、花瓶に刻まれた牡丹の意匠をゆっくりとなぞる。
「花なき花瓶を作ることだけ」
「花なき花瓶に、いったい何の意味があるんだ。もしも的場が本当に牡丹が好きなら、花瓶よりも牡丹を置けばいい」
「彼は、花を手折ることを喜ばないと思いました」
「そうか? 欲しいものはどんな手段を使っても手に入れるやつだろう」
「そうかもしれません。でも、欲しいと好きは違います」
 サンカヨウはひらりと振り返り、目を細めた。薄い瞼の奥にある虹彩が、螺鈿のように揺らめいた。
「彼は、牡丹がお好き」
 
 

 
 
 *** 
 
 
 
 名取が自宅に帰りついたころには、すでに夜も深まっていた。山登りで疲れた体を引きずり、受話器を手に取る。そのまま慣れた調子で的場に電話を掛けた。呼び出し音が数度なった後、はい、と的場が返事をした。
「例の花瓶の件でお話があるんですが」
 


 
 ***
 
 
 
 サンカヨウは、花瓶を抱えて長い縁側をひっそりと歩いていた。的場の本邸に足を踏み入れたのは初めてではないのに、屋敷の美しさにうっとりとしてしまう。大きな庭池の上に建てられた邸宅は、日本家屋特有の静謐と的場家の歴史を内包していた。庭池の向こう岸に植えられた草木は、青々と輝いていた。サンカヨウが的場の寝室の襖に手をかけたとき、朱色の錦鯉がぴしゃりと跳ねた音がした。襖を用心深く開けると、布団の上に的場が寝ていた。緊張でサンカヨウの心臓が跳ねる。眠りのまじないをかけているとわかっていても、どうしても的場が目を覚まさないか心配になってしまう。サンカヨウは、的場の顔を覗き込んだ。伏せられた薄い瞼には、うっすらと血管が浮かんでいた。肉が薄い頬や、滑らかな曲線を描く顎を一瞥すると、サンカヨウは抱えた花瓶をゆっくりと的場の枕元に置いた。そっと花瓶から手を離そうとしたとき、眠っていると思われていた的場の目が開いた。サンカヨウは慌てて身を引こうとするが、的場に腕を掴まれた。
「お前か」
 的場の強い力に、サンカヨウの細い腕が軋む。痛いはずなのに、サンカヨウは的場の瞳から目を離せなかった。サンカヨウにとって、この上なく危機的な状況のはずだった。だが的場の瞳に射られたとき、サンカヨウの心は歓びに満ちていた。心臓が高鳴る。己が的場に祓われることより、心臓が跳ねる音が的場に伝わってしまう方がずっと恐ろしかった。
「名は」
「サンカヨウと申します」
 ひとつの躊躇いもなく己の名前を伝えた自分自身に、サンカヨウは驚いた。祓い屋に名を知られるということは心臓を握られるのと同義なことを、サンカヨウは知っていた。
「これは呪いか」
 的場は、畳に転がった花瓶に視線を送った。サンカヨウは頭を静かに横に振った。
「いいえ……もっと、ずっとくだらなものです」
「何が目的だ」
「牡丹の花が好きだと……それで」
「見たことがあると思ったら、お前、あの時の妖か」
 サンカヨウは、的場から目を逸らした。見たことがある。サンカヨウは的場の言葉を反芻する。あまりにも残酷な物言いだと、心の底から的場を責めたくなった。それがどこまでも身勝手なことをサンカヨウは知っていた。
「呪いの類か?」
 的場は、低い声で尋ねた。
「呪い」
 サンカヨウは今にも掻き消えそうな声で繰り返した。呪い。呪いになればいいのに。サンカヨウは心の底から願った。花瓶に刻まれた牡丹の意匠のように、彼の中で美しい呪いになればいい。なんて身勝手でみすぼらしい。
「私の花瓶は、呪いにすらなり得……
 サンカヨウの唇は、何かを語るように動いていたが、声にならず掻き消えた。的場が眉根を寄せたとき、掴まれていたサンカヨウの右腕が砕けた。砕けた欠片はまるで硝子の破片のような粒子になり、布団の上にぱらぱらと落ちた。サンカヨウは驚いたように目を見開き、すぐに目を細め微笑んだ。サンカヨウの小さな唇が的場に何かを伝えるように微かに動いた。ほんの数文字の短い言葉は、声にならず消える。サンカヨウの言葉は、的場の耳には届かなかった。障子の隙間から差し込んだ光が、サンカヨウの右腕だった欠片を照らす。光を反射する欠片は、まるで螺鈿のように美しかった。


 ***


「サンカヨウは、大丈夫でしょうか」
 夏目は声を抑えながら、隣に座る名取に問いかけた。名取は何かを誤魔化すように瞼を伏せ、どうだろうね、と呟いた。夏目は名取の仕草でサンカヨウの結末を察して俯いた。名取は秘密が多いのに、隠し事が苦手だった。名取と夏目は、的場の寝室の向かいにある小さな和室で、すべてが終わるのを待っていた。小さな和室は夏目の自室と同じくらいの大きさで、普段は倉庫代わりに使われているらしい。光が入らず薄暗く埃っぽかった。傷んだ畳の上には、夏目と名取が術をかけた薄い半紙が散らばっていた。
「やっぱり、君を連れてくるべきじゃなかったのかもしれない」
 名取はこぶしを固く握った。夏目は慌てて口を開いた。
「行きたいって言ったのはおれです」
 二人の間に沈黙が続いたとき、突然襖が開いた。名取と夏目が驚いて顔を上げると、寝間着姿の的場が立っていた。
「終わりましたよ」
 的場の様子は、普段と何も変わらない。相変わらず、いっそ冷淡とも言えるような冷静な振る舞いだった。的場は、電灯くらいつけたらどうですか、と呆れながら吊り下げ灯の紐を引っ張り、照明をつけた。白い人工的な光が眩しく、夏目の目が眩み顔を顰めた。名取は顔を上げ、口を開いた。
「祓ったんですか」
 名取の口ぶりは、仕事相手に対する淡々とした物で、責める素振りは欠片も感じられなかった。
「ええ」
 的場は、座っている夏目と名取を見下ろし、目を細めた。
「祓いましたよ」


 ***


「夏目くんは、やっぱり甘いですね」
 的場と名取は、夏目を見送ると的場の寝室に戻った。夏目は迎えに来た斑の上に乗る前に、的場に花瓶を持ち帰っていいかと聞いた。的場が頷くと、夏目は的場の寝室の端に転がっていた花瓶を拾った。最後に夏目が口を開かなかったのが気がかりだったが、サンカヨウの結末を考えると仕方ない。的場は、機嫌よく乱れた寝巻きの襟元を整えていた。名取は、剥きだしになった的場の首筋から目を逸らした。学生時代からの付き合いとはいえ、名取が的場の寝室に足を踏み入れるのは初めてだった。
「やはり、あの妖は私に眠りの術をかけてたみたいですね。名取家に運よく阻害の術があってよかった」
 鷹揚に笑う的場に、名取はなんと返事をすればいいのか検討がつかなかった。サンカヨウの洞窟に訪れ、夏目を送り届けた後、的場に電話して件の妖を見つけたことを報告した。夏目のサンカヨウに最期に想いを伝えてほしいという願いを叶えるためだったが、サンカヨウと的場を会わせれば、的場がサンカヨウを祓うことはわかりきっているはずだ。それなのに、自分はなぜ……。ずっと堂々巡りの考えが名取の心を巣食っていた。
「結界を見直したほうがいいじゃないですか。あんな消えかけの妖に忍び込まれるなんて」
 名取が苦言を呈すると、的場は口角を上げた。
「まあ、正直に言うと少し楽しんでいたんですよね」
「は?」
 的場の楽観的な物言いに、名取は呆れた。確かに依頼を受けたときも、的場の素振りはどこか状況を楽しんでいるように感じた。サンカヨウが無害な妖だっただけで、呪いの類だったらどうするつもりだったんだろう。それとも、窮地に立たされても対処が可能という力を持つ者故の無邪気な傲慢さだろうか。名取の表情が曇ったことに気づいた的場は、障子を開け視線を庭園に向けた。
「あなたが想像している理由ではないですよ」
 的場の横顔に、名取は目を奪われた。朝の白い光が、的場の肌を柔らかく照らしていた。澄んだ風が入り、的場の髪がさらりと靡いていた。
「あの花瓶はとても上物で、繊細な意匠と見事な造形が美しかった。それに」
……それに?」
 名取は、心うちを的場に悟られないように慎重に口を開いた。的場は庭園に向けていた視線を、名取に向けて目を細めた。名取の心臓が跳ねる。
「おれは牡丹が好き」
 ぴしゃりと、遠くから鯉が跳ねる音がした。名取は的場から目を離せなかった。朝日がまっすぐに部屋に差し込む。秋の始まりの朝だった。


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あとがき