わからん
2026-03-26 17:22:34
3798文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】深夜の寄り道

飲み会の帰りに肉まんを買い食いしてるくさひぐ

「肉まん食いてえな」と隣を歩いていた日下部がふと呟いた。「そう思いません? あんたもどうです」
 返事——自分は曖昧な唸り声を上げただけで、肯定などしていなかった——を待たず、日下部はくるりと体の向きを変えて目についたコンビニの自動ドアをくぐる。追いかけた日車が店内へ入ったときにはもう、レジで目当てのものを買おうとしているところだった。
「これ、ふたつで」
 彼の元へ行くべきか迷ったが、結局は雑誌コーナーの近くで会計が終わるのを待つことにした。漫画雑誌、情報週刊誌、女性向け雑誌、ホビー誌、コンビニコミック……。日車の人生において一度も手をつけたことのない、そして今後も手に取らないであろう類の本が、所狭しと並べられている。
 色とりどりに印刷された表紙の群をぼんやり見下ろしていると、背後から足音が近づき、出ましょうと日下部が促してきた。
「どうぞ。なんだか昔よりもちっちゃくなった気がするけど」
「俺は食べると言っていなかった」
「あれ——そうだっけ? すいません、早とちりして」
「別にいいんだ。匂いを嗅いだら食べたくなったから」
 財布を出したが日下部は首を振り、金を受け取る気はないと言った。「たかが百円ちょっと、わざわざ出さなくていいですよ。俺の奢りってことで」
——ありがとう」
 深夜の住宅街近辺となれば人通りも少なく、食べ歩きを咎めてくる者はいない。二人して酔っていることもあったのだろう。のろのろと並んで歩きながら、仄かな湯気を立てている肉まんにかじりついた。
 舌に肉汁の熱を感じ、塩っ気が強い肉の味がなだれ込んでくる。味覚から脳、脳を介して全身がぽかぽかと温まるような、ささやかな充足感に包まれた。
 高カロリーで高塩分なコンビニ食らしくいかにも脂っぽい味は、深夜に空腹を覚えるとなぜか恋しくなってしまうものだ。うめえと隣から感嘆の声が聞こえてきたが、日車もまったく同意見だった。
「飲み会帰りの肉まんはマジで最高だな」
「君の言うとおりだ。これから暖かくなってくるとアイスもいい」
「最っ高」と応じつつも、日下部は続く言葉でわずかに口ごもった。「本当はラーメンにするか迷ったんですけど」
「行かなくてよかったのか?」
「え、誘ってよかったんですか」
「俺は構わなかったが」
「飲み会でもそんなに食べてなかったでしょ。だからあんまり食わない人なのかなって」
「ああ……
 あんなに騒がしかった空間でよく他人のことを見ていたなと、日車は思わず自分のことを棚に上げて感心してしまった。
 日下部は飲み会中、フリーの呪術師である冥冥をはじめ、家入や、京都校の教師らしい庵歌姫といった女性陣にずっと捕まり、しこたま酒を飲まされていたはずである。
 日車はといえば、伊地知や猪野ら東京校側の者たちと、今後の展望や呪術師としての心得について話し込んでいた。それが思いのほか熱の入った議論になったため、食事が疎かになっていただけだ。ただ、会話と並行して相応な量の酒を飲んでいたので、さほど空腹というわけでもない。
「夜食自体は前の仕事で慣れていたからな。俺の前職について聞いたことはあるか」
 日下部が目を瞬かせ、頷いた。
「弁護士でしょう」
「ああ。あっちの業界は案外に飲ん兵衛が多い」
「まじすか」
「東北、それも北のほうの出身だとさらに輪をかけてな。夜遅くまで飲んでから事務所へ戻り、明け方まで仕事をしていることも多かった」
「うわあ……
 月が出ていない暗闇の中でもはっきりとわかる。日下部がげんなりとした表情を浮かべていた。
 予想通りの反応だ。そしてこの話のオチも決まりきっている。
「当然ながらお勧めはできない」日車は肩を竦めて眉を上げてみせた。「たっぷり寝たあとに深夜つくった書類をチェックすると、あり得ない間違いしかしていなかったからな」
「はははっ——でしょうね」
 無邪気な笑い声につられて日車自身の口角も上がっていた。
 息を整えた日下部が食事に戻ったのを見て、日車も手元の肉まんに意識を戻した。冷める前に食べきったほうが美味い。心地よく感じられる沈黙のなか最後の一口を飲み込み、包み紙を丸めてコートのポケットへ仕舞い込んだ。
 日下部がふうっと白い息を吐く。
「飲んだあとに職場へ戻って仕事だーって、昔だと五条や夜蛾さんがよくやってたな」
「夜蛾さん?」
「東京校の前学長です。かつ、パンダや他の呪骸たちを作った傀儡呪術学の第一人者」そこで続きを躊躇うように黙り込んだ。「……死滅回游中、渋谷事変の実行を教唆したっつう濡れ衣を着せられて、処刑されちまった」
……すまない」
 一拍おき、日下部は緩やかな動作で首を横に振った。
「こっちこそ、急に湿っぽい話ですみません」
 再び訪れた静けさは、少し前とは異なり気まずさを伴っている。
 日車は正面の暗闇へと視線を戻した。……己の身を置くと決めたこの世界には、知らないことが多すぎる。呪術師としての基礎知識はもちろん、呪術高専のことも、仲間たちのことも——今日の飲み会で初めて顔を合わせた呪術師たち、彼ら彼女たちの戦友だったであろう、かつての呪術師たちも含めてだ。
 多くの血が流され、友や恩師の死体が積み重ねられた末に、この先も癒えない傷が、今も日下部たちを苦しめ続けている。
 新参者である日車はそれに寄り添えない。自分が傷口から目を逸らすことしかできないのは、納得はしていたが、その事実にやるせなさが込み上げてくる。
 失敗した。
 さっきの自分はもっとうまく立ち回れたはずだ。
 何もできないのが歯がゆい。過去の傷をわざわざ抉り、開かせるという愚かな真似をさせたのは、自分自身に他ならないのに……
「今度誘っていいですか」
 日下部の声に、いつしか俯いていた顔を上げた。
「いま、何と」
「飲みに行きましょうよ今度。二人で」もしくは、と彼は付け足した。「昼メシに一緒に行くとか。今日はあまり話せなかったし」
 思いがけない誘いで返答に詰まった。落ち着くためにひと呼吸ぶんの間を挟む。
「いいのか」
「当たり前でしょ。元々はあんたを歓迎するための飲み会だったんですよ」
 日下部が眉根を下げてへらりと笑った。「他にも色々、今までできなかった忘年会とか新年会とか諸々のお疲れさま会とか、そういうのを兼ねた意図もあるにはあったんですけどね。冥冥たちに捕まっちまって、何もかもがおじゃんになっちまって。本当はあんたともっと話したかった」
 ……それは——
「なぜ?」
「え、『なぜ』……?」
 驚いた声を上げて日下部が立ち止まり、顎に手を当ててうんうん唸り始める。
 困らせてしまったと、日車の胸中に再び罪悪感が込み上げてくる。しかし、日下部が悩んでいたのはほんの少しの間にすぎなかった。
「年が近そうだし……
 彼は後頭部をかきながら言った。
「同年代で男の呪術師って、東京のほうにはあまりいなかったし……。だからもっと話したいっつうか、仲良くなりたいっつうか——恥ずかしいんでこれくらいで勘弁してくれませんか」
 街灯は遠かったが、話を打ち切るより前に、日下部の頬や耳は暗闇でもわかるほどに赤く染まり上がっていた。頭を勢いよく横に振り、とにかく、と彼は声を上げる。
「これからは否が応でも長く付き合ってく仲でしょ。だからよろしくお願いしますって、メシに誘ったのはそういう意味です」
……これからは長く、付き合っていく仲……
 日下部の頬が一段と赤くなる。
「あの、復唱されると恥ずいんで——
 にわかに周囲が明るくなった。
 分厚い雲の向こう側へ隠れていた月が姿を現したらしい。青白い月光が降り注ぎ、日下部の赤らんだ顔がはっきりと浮かび上がる。彼は日車と目が合っていることに気づくと下を向き、気まずげに自身の後頭部や首筋を撫でていた。
 ……彼のことは、優しい性格ではあるが、根本は大雑把で投げやりな男だと思っていた。
 実際はもっと繊細で聡明な心をもつひとなのだと、この瞬間に知った——自分で言っておきながら照れるのか、かわいいなと不意に思ってしまったのが、おそらくは最後のひと押しだったのである。
 ふっと日車の肩から力が抜けた。気配で気づいたのだろうか、おそるおそる顔を上げた日下部がにっと歯を見せて笑い、肩を優しく叩いてくる。
「ま、そのための肉まんであってメシですよ。今度誘うんで、楽しみにしといてください」
 帰りましょうと彼は歩き始めたが、あとをついてくる音が聞こえないために背後を振り返ってきた。
「おーい、早く行きましょうよ。それともこのへんでお別れ? アパートは別の方向でしたっけ」
 ぎこちなく首を振り、早足で追いつく。
 隣に並んで歩くも、こっそりと横顔を盗み見られていることにすぐ気がついた。なぜ今までわからなかったのだろう? 彼から向けられている好意は、ひとたび認識すると途端にわかりやすい。
「飲みか昼食の件」
「ん?」
「楽しみにしておく。だから、敬語はもういらない。日下部」
 吐息をこぼして笑う気配があった。「喜んで。これからもよろしくな、日車」
 頷いて頭上を振り仰ぐ。二人の頭上で丸い月が、しららかな光を放ちながら都会の夜空に浮かんでいた。