梗史郎と詩魚と別れたあと、モグラはフラフラと抽斗通りまで帰ってきた。気づけば見慣れた引き戸が目の前にあって、どうやってここまで帰ってきたのかという記憶がモグラにはない。相当効いてるななんて思いながらもぐら湯に入る。中には誰もいない。がらんとしたもぐら湯に、少し肩を落とす。それに気づいて、モグラは眉を寄せた。
――――寂しいなって思います。
詩魚の言葉が脳裏をよぎる。そうだな、寄り添えるならば寄り添ったほうがいい。それが生き物なのだから。
――――真木さんの幸せを、お前が決めるな。
梗史郎の言葉が、胸を刺す。ああ、そうだ。真木の幸せは、真木のものだ。それを外から俺がどうこう言えた義理ではない。だって。
だって真木にとって、モグラはただの友人なのだから。
「あー。痛ぇな……」
モグラは上がり框に座り込んで、両手で頭を覆う。友人。それで十分だった。十分だったはずなのに。
きっかけは広辞苑。頭にぶち当たったそれで負傷したモグラを、真木と八重子は親切にも助けようとしてくれた。翌日には薬やレバーを差し入れてくれた。関わってしまったせいで幽霊が見えるようになってしまったのに、それでも彼女らは離れていかなかった。
線引がうまい八重子。人に気を使い、踏み込みすぎないようにする真木。ふたりともとても優しい、いい子だ。ただそれだけだったはずなのに。
差し入れを持ってきてくれるようになった真木と、よく話すようになっていった。少しずつ距離が近づいて、少しずつ笑顔を見せてくれるようになった。ふわりと、小さな蕾がほころぶような柔らかな笑顔に、思わず胸がはねた。仏頂面が多い真木の、懐に入れてくれた証であろう愛らしい笑顔に言葉を詰まらせれば「モグラ? どうかしたか?」と首を傾げた。それまでよりも幼く見える彼女に、これが彼女の素の姿なのだろうと察する。それが、あまりにも愛おしく感じて。自分が彼女の特別の中に入れたという実感が湧いて、それがひどく嬉しかった。
交流は続く。差し入れを持ってきた真木とそのまま他愛のない話をしたり、課題のために場所を貸したりした。ひどく穏やかで、あたたかな時間に自然と表情が緩んでしまう。
「なに?」
「ああ、いやな、こういう時間は久しくなかったからな。なんだかいいなと思ったわけよ」
「なるほど。それなら、まあ、良かったよ」
ホッとしたように目を細める真木が、愛おしい。ヒトは皆等しく愛おしいものだったはずなのに、その頃には真木が頭一つ分愛おしく感じていた。元とはいえ武神として、ヒトを護る神として、特別扱いはいかんよなと思っても永くヒトとして過ごしたことで手に入れた心は言うことを聞かなかった。
縁は続く。八重子の故郷の島に行ったときは、心臓が止まるかと思った。初めて見た風呂上がりの真木は、いつもの愛らしさの中にかすかに色香を漂わせていて思わず生唾を飲んだ。それに気づいたときには真木に申し訳なくて穴に埋まりたくなったし、イケブクロさんの爪とぎになってもいいと思うほどだった。じとりとした梗史郎の目は、すでにモグラの自覚すらしていなかった気持ちを察してしまっていたからだったのだと、今ではわかる。更に、心臓も息も止まるかと思うような出来事があった。人魚様に引っ張られた森を助けようと、その足を掴んだ真木がそのまま海に落ちてしまった。男と女。しかも、男は一目で体重があることがわかるのに、体重差があることなんてわかっているはずだったのに、真木は森を掴んで落ちていった。
『ここらへんの潮の流れは独特なんだ、泳ぎに慣れた人でも気をつけて』
八重子の言葉が脳裏をよぎる。幸いにもマギーくんのお陰で、真木と森は難を逃れて人魚様岩まで泳ぐことができた。モグラは、このときほど誰かを拝みたく思ったことはなかった。本当にあの瞬間は肝が冷えた。もしマギーくんがいなければ、真木は。そんな事を考えると、今でも恐ろしくて体温が下がるような気がする。モグラが森の怪我にカス灯を掠らせると、真木は畏れをもってモグラを見た。そのあと、他の生き物が食べたら危険だから鏃を回収しろと言ったモグラを見る真木は、呆れたようなホッとしたような顔をしていた。真木はモグラを畏れ、それでも受け入れてくれたのだとひどく安堵した記憶がある。
喜びは続く。縁日で狐の詐欺にあったときに、真木がいの一番にモグラを頼ってくれた。真木はあまり親と関係が良くないし、あの世絡みだから親に頼れないのはわかる。ただ、真木は藤史郎ともかかわりがある。そちらに相談に行くこともできただろうに、真っ先に頼ってくれた。頼ってくれるようになった。真木の一大事だと言うのに、モグラはその事実に心が静か高揚したのだ。狐から金を巻き返したときのホッとしたような顔も忘れられない。あの顔を見られただけで、駆け回った努力が報われたと思ったほどだ。
他にも、一度死んだところや御霊を見られた。犬飼家での豪華なパーティーに参加した。正月の餅つきでは、杵を持ち上げた時点で腰に警戒信号が走り諦めるという情けない姿も見せた。モグラになったきっかけ、ヨモツオオカミの剣こと疫病神の残り滓の封印が解け、これまで以上の厄介事に巻き込んでしまうことがわかった。あのときはもうだめかと思ったが、真木は戸惑いながら混乱しながら、それでも静かに言ったのだ。
「私には、眼の前には、いつものモグラがいるなあって、見えるよ」
「お前の目標はなんだ? 少なくとも、私はそれに付き合うよ」
「じゃあ、そうしよう」
それが、どれだけ嬉しかったか。救われたか。きっと真木にはわからないだろう。どんな事を言っても付き合うつもりがあるというその言葉に、モグラの言うことを否定するつもりのない言葉に、どれだけ救われたことか。
救われたと思ってしまった瞬間、モグラは自覚した。自分は、この子がほしいのだと。
手中の玉として、大切に大切にしまい込みたいのだと自覚してしまった。
愛しくて愛しくて、他の誰にも渡したくないのだと気づいてしまった。
心臓を、鷲掴みにされたような気がした。
なんて、なんて愚かしい。自分のような罪人が、あんなにいい子に恋慕を寄せるだなんて。あの子が心を寄せてくれたのは、友として、頼れる大人としてだと言うのに。なんて、浅ましい。烏滸がましい。
モグラは頭を抱えていた腕をだらんと落とした。夜の帳が下りたもぐら湯は、ひどく暗い。いつまでも、くらやみ。今いる場所は、百暗の名を表しているような気がしてさらに気が滅入る。モグラは重い体を引きづって、どうにか電気だけつけた。ぱちんという音と共に、ぱっと明るくなる。それが、少しだけ心を落ち着けてくれた。
「お前躁鬱激しいんだから、まだ動けそうなときは部屋を明るくしてあったかいもん飲めよ。入れたら風呂もな。体が温まれば多少違うんじゃない?」
無理にとは言わないけどさと、真木が言っていたのを思い出した。さっき少し動けたから白湯でも飲もうとヤカンを火にかける。いつもの椅子にだらりと腰掛けて湯が沸くのを待った。ヤカンが高音を響かせて、沸いた湯を湯飲みに注ぐ。沸騰させすぎたなと思いながらそれに口をつけた。持っているだけでじわりと手を温めてくれる湯呑に、情けない顔が映っている。モグラはそれに眉をひそめて、大きくため息を付いた。ちまちまと湯を煽れば、それだけで胃から温まるのを感じる。白湯を飲み終わり、頭の整理も終わったモグラは大きく息を吐いた。
「あんないい子にアレだけ尽くされちゃ、そりゃ惚れるわ」
ぽそりと呟いたのは、降参の言葉だった。
「モグラ」
記憶の中の真木が、モグラを呼ぶ。
そうだ。この名前が、今は前ほど嫌いじゃない。だって、真木が呼んでくれるから。
「モグラ」
仏頂面で。かすかに目を細めて。ときに怒ったり、呆れたりしながら強く。ときに楽しそうに、声を上げて笑いながら。
「ねえ、モグラ」
親しみを持って、友人のように呼んでくれるから。友人の名として、呼んでくれたから。
『いつまでも暗闇』という罰を表すものとしてではなく、親しく好ましい友人としての『モグラ』にしてくれた。
「はー、真木ちゃんよ、お前はほんとに初めてのものをくれるなァ」
息を吐きながらこぼされた言葉は、呆れと喜びの色を含んでいた。そういったモグラの顔は、頬を僅かに染めてふにゃりと緩んでいる。
「ここまで永く生きて、初恋のために奔走することになるたァ思わなかったよおっさんは」
心の奥底にしまった、大切なものを取り出した。
ラベルを剥がして、張り替えて。
『真木が好き』を『真木と幸せになりたい』という願望に変える。
『大切なもの』を『大切にする』という決意に変える。
ここからが始まり。ここからが正念場。
口八丁手八丁、手練手管を御覧じろ。
「悪いなぁ、真木。元が付くとはいえ、俺ァ神だからな。執着心が強いんだ。でも、ま、いっとう大切にする覚悟だけはある。必ず、振り向かせて見せるから、覚悟しろよ」
天を仰いだモグラの目には、もう躊躇いの影は見えなかった。
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