mcmc333
2026-03-26 12:42:21
5014文字
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此岸より

Bルート大有。春のお彼岸。
母との話や過去のことなどを大崎へ語る有明の話です。

 瞼が重たくなるほどの陽射しのなか、大きな歩幅で階段を上がっていく大崎の背を追う。有明は心ばかりの線香しか持っていないにも関わらず、仏花やお供え物を持っている大崎よりも歩みが遅くなりがちだった。時折吹きすさぶ春風はまだ少し冷たいが、駆け足で彼に並ぶころには額に汗がじんわりと滲んでいた。
……すみません」
 大崎が歩幅を狭め、二段下に居る有明の手を掴んで引っ張る。
「いいえ。僕の方こそ、あなたにばかり持たせてしまってすみません」
「付き合ってもらっていますから」
「それでも……もう少し力があればあなたの役に立てるし、足が長ければ楽だし、口付ける時も踵を伸ばさなくて済むのにな」
 有明が笑ってかかとを浮かす。水の入った桶をそばに置き二人して雑草を抜き始めると、青臭い匂いが鼻をついた。今日は彼岸明けである。秋以来訪れられていなかった墓を掃除すると大崎から聞いた有明は、自分も手伝いをすると言って無理について来た。
 電話で聞いた大崎の声音から察するに、複雑な面持ちをしていたのだろうが、逡巡した後『では、お願いします』と承諾を受け、今日彼の祖母の墓まで来た。
 彼女が眠る墓は、大江島出身の者が多く埋まっているという共同の墓であり、卒塔婆は無く、あまり訪れる人が居ないのかうら寂しいところだった。道中微かに聞こえていたメジロや鶯の声すら、皆が眠るこの地には届かない。
 隣の墓も、少なくとも一年以上誰ひとり訪れていないのだろう。雑草やよく分からない草が背を伸ばし、大崎家と誰かの墓へ顔を出している。誰も来ないだろうにいつもの手袋をし、更に掃除用の手袋を重ね、淡々と清掃をこなしていく大崎の横顔に汗が伝った。それをじっと見つめている有明に、大崎が「手が止まっています」と咎める。
「えへ。見とれちゃってました」
「冗談はいいです」
「冗談じゃないですよっ! もう……。ただ、ぼーっとしちゃって。大崎さんは……祖母孝行だなあと思ったんです。僕なんかは、一度も父の墓参りが出来ていませんから」
 有明の言葉に、大崎は手を止めて復唱した。
「一度もですか」
「ええ。一度も」
 有明はいつものように笑った。切れ長の目を細め、筆で書いたような整った眉を下げて。大崎にはそのどれもが今にも千切れそうだと思った。欺瞞に満ちた、力強く緻密な糸で巣を張っておいて、いざ自分がその中へ潜り込んでも――息の根を止める前に、大雨で流されていってしまいそうなところがある。そうなる前に自分が手をかけなければと思うものの、機会を延ばし続けて今日まで来てしまった。
 有明は艀で転びかけたときのような、儚げで打たれ弱い顔をしてちまちまと雑草を弄る。隣に座り込んで大崎も草を鷲掴みにした。
「行きたいとは思わないんですか」
……お話したら手が止まっちゃいます」
「まだ汚れだらけですからゆっくりやりましょう。そのあいだ、教えてください。あなたのこと」
 有明は数回瞬きすると、ぽつぽつと話し始めた。
「僕が父を看取ったことは、以前にもお話しましたよね。それから、母に恨まれて私宅監置されていたことも」
 有明は、父を看取った日を昨日のことのように思い出せる。苦しみを訴える充血した瞳、涙や目脂がこびりついた目尻、つり上がって自分や奈緒美を叱っていたときを思い出させる、小綺麗に整えられた太い眉。痩せこけた頬、だらしなく開いた威厳の無くなった口元、ひゅうひゅうとか細い音を鳴らす皺だらけの喉、そして全てを諦めたような眼差し。
「可哀想だった。見ていられなかった。……本当に、助けてあげたかったんです」
 父の介護は何も母ひとりですべて賄えた訳ではなかった。あのときの自分が、食事をどのように父へ与えていたかは定かではない。何せあまりの衝撃に、自分も一緒になって止めていた息の苦しさに、それから起きる出来事に、ところどころ有明の記憶は朧気だったからだ。
「間違っているんでしょうね?」
 大崎は、この期に及んで反省の欠片も見せない、うつくしい殺人鬼の瞳を真っ直ぐに見て頷いた。今後何があっても、自分だけは肯定してはならないと思った。
…………はい」
「でももう、それはいいんです。たとえ間違っていても恨まれても、答えが出なくても。それでも、いまあなたがそばに居てくれるから。――話を戻すと、母はとにかく父を愛していましたから、息の止まった父を見たとき、それはもう取り乱していました」
 幼い有明は、瞼を閉じて静かに眠っている父のそばで、罵られながら、そんなに叫んだら父さんも眠れやしないだろうになんて思ったりもした。大崎には言わないが。
「人が亡くなったときって、とても忙しない手続きが必要でしょう。悲しむ隙なんて与えられないくらいに、ご遺族にとっては辛い時期です。立つこともままならない母のそばで、僕は必要な手続きを手伝っていきました。葬儀社の選定に、父の友人や親戚への連絡……。子供でしたからそれくらいしか出来ませんでしたが、ひとを見送るときには、こんなに多くのことが必要なんだと学んだのもこのときです」
 あなたが殺したんだと、お前が居なければと、鬼だと罵られながらも間違っていないと思い続け、今日まで一度も『間違っていない』とは、母の前で言えたことは無い。母は狼狽し泣き続けながらも、父の葬儀の日には艶やかな長い髪をひとつにまとめあげ、奈緒美と共にしゃんと背筋を伸ばして立っていた。その日だった。有明が座敷牢へと入れられたのは。
「あれだけ父を見送るために準備をしたのに、僕は父の葬儀に出ることは叶いませんでした。母が上手く誤魔化したのでしょう。お前は一族の恥だから出るなと、言われて、…………それで、僕は……
 有明は草をむしる手を止めると、顎をあげて鼻を啜った。大崎は一番上の手袋を脱ぎ捨て、彼の代わりに伝い落ちる雫を拭った。遮るもののない墓地は陽射しが強く、有明の白い頬を火照らせていた。
「草は終わりにしましょう。一度水を――
「僕、ぼく……父がどんな顔をして棺桶で眠っていたのか、どんな風に骨になったのか、なんにも知らないんです。納骨にも立ち会えませんでした。母が絶対に許さなかったから。それで、家を追い出されてからも出向く機会を逃してしまったんです」
 大崎は、ぽろぽろと泣く有明の肩に手を添えたまま、なんと声を掛ければ良いのか分からずに黙っていた。さらけ出された項が赤く染まっている。彼はごめんなさい、お墓の前で、としおらしく泣きながらも、なんだかんだ歯ブラシできちんと墓石の溝を擦っていた。ふ、と知らず止めていた息を吐き、深く空気を吸い込む。澄んだ春の匂いに混じり流れる線香の煙が、有明の首元から香る。
「あなたが葬場に勤めているのは……そういうことが、あったからですか」
「そうですね……。今思えば、それがきっかけだったような気がします。父を……看取るだけじゃなくて、きちんと見送って、骨を拾い上げたかったのかもしれません。仕事として、やり遂げて、誰かの役に立ちたかった」
 溝を磨き終えた彼は、ひと仕事やり遂げたように輝かしい笑みで額の汗を拭った。あれだけ湧いて出ていた涙はもう枯れている。
「前妻たちも、あなたの葬儀社で?」
「ええ! ほんとうに嬉しかった……納棺師の方がとても綺麗に整えてくださって、なんだか共に生きていたころよりも生気を感じられて……、幸せそうに見えました」
 それは詭弁だろう。たとえ死が彼女たちを救ったとしても、有明の腕に深く残る大きな傷は事実であり、一生消えはしない。
「前妻たちの墓へは」
「行ってません」
「確執があるんでしょう」
「人聞きが悪いですね。違いますよ。ただ好かれていないだけです」
「詭弁です」
 有明は死相の浮かぶ、自身の助けを必要とする、不健全な人間にしか興味が持てないだけだ。だからこそ、真に愛していたとして『成し遂げた』ことに対しさして興味も無いのだろうと大崎は思う。
 彼女たちを救う『権利』を放棄し、干渉し命を奪い、罪に問われることなくまた大江島で罪を塗り重ねた罪人が、今度は大崎を看取ろうとする。そしてきっと大崎を看取ったあとは、懲りもせずに誰かを『助け』ようとするはずだ。
 無邪気に口を尖らせる有明に、大崎は何度目か目の前の怪物を殺す決意を新たにした。しかし、墓石に張ってある壊れかけの蜘蛛の巣を壊す、有明の薬指にしぶとく居座っている指輪を睨みつけてしまう自分にも、酷く嫌気が差した。
「話が逸れてしまいました。そういうわけで、僕は今でも多くのひとを送り出してきましたから。あなたも安心してください」
 大崎の胸の内を見透かしたような瞳が弧を描き、有明は彼の手袋の内側に指を差し入れた。感覚の鈍い皮膚でも、有明のあたたかい手の温度はよく分かる。蒸れた手のひらを揉まれて、大崎は思わず後退りした。
「今度は納棺師の仕事に就くのも良いかもしれません。なにごとも勉強ですから。浴槽で看取ったあなたのことを、誰よりもうんと綺麗にして、丁寧に身支度して、やさしく拾い上げてあげますから」
「自分は浄土真宗ですから――
 身支度は必要ない。亡くなった人はすぐに往生する。何度も言っている。しかし彼の手によって看取られ至極丁寧に葬儀を挙げられ、泣きながら見送られた前妻のことを考えるたび。どうしようもなく孤独で救いようがない彼を知るたびに、少しずつ天秤が傾いていく。彼を知りたいはずであるのに知りたくなかった。自分から聞いたくせに、こうしている間にも大崎はずっと墓穴を掘っている。文字通り、自分の眠る墓の。
 分かったように有明が「知っています」と前髪を耳にかけた。
「えへへ。……でも、寂しくて堪りませんから、きっと帰ってきて欲しいです。お盆だけでも良いですから。お墓の掃除も任せてください。ほら、綺麗になったでしょうっ」
 有明が磨き上げた石に打ち水をした。それくらいなら、と言いかけて唾を飲み込む大崎の剣呑な視線に、有明は口元を隠し微笑んだ。
「即得往生ですから、あなたの元には帰りません。看取らせることもしません」
「ええ……残念」
「それにこの墓は共同ですから、掃除しなくたって困りません」
「とは言っても、管理が行き届いていないでしょう? 現にこうやって僕たちが」
「そうですね。でも、自分はあなたを殺してから死にますから。仕方ありません。墓は後の誰かに任せます」
「それっていつです?」
 最初も言ってましたけど、と、お供え物を並べながら有明が言った。勢い余って今日と言いかけたところを、そういえば明日は予約がなかなかとれないレストランを有明と行くために予約していたのだと思い、言葉に詰まってしまった。
……………………次の……
「えへへ。すぐに答えられないんですねっ」
 立ち上がった有明が大崎を見下ろしてぐっと顔を近づけた。ひときわ強い風が吹き、桜の花弁が有明の上からはらはらと降ってくる。大崎の前髪に張り付いた花弁を、柔いものを扱うように摘んで掲げた。この人には柔く可憐な花がどうしたって似合うのだなと大崎は思ってしまった。
「それならまたリップサービスの予約を入れてしまいますから! 来週二人で、お昼の十二時」
「いいえ。他に行くところが出来ました」
 首を傾げる有明に大崎は立ち上がり、言った。
「あなたの父上のお墓です」
 有明は左頬を抑えて何度も目を瞬かせる。大崎を見上げる彼の顔はいつも無垢な子供のようだった。何を言われているのか理解するのに時間がかかるようだったので、大崎は「大体の場所は分かりますよね」と続けた。
「わ、分かります。祖父母も同じお墓ですから! 何度も行ったことはあるんです。でも……
「彼岸も明けていますから、きっと鉢合わせはしないはずです。一度は行くべきだと思います」
 あなたの父親でしょう。と言われて、有明は瞠目した。
「ええと、行きたい気持ちはあります。あの、でも…………
「有明さん」
 どうして、と言いたげにくるくる回る視線と素直な表情に、大崎はふと口角を緩めた。
「一緒に行きましょう」
 有明は伸ばされた手を掴んでゆっくりと頷いた。大崎はその手を強く握り返して、汗ばむ彼の額に口付けた。