海野_海人卓
2026-03-26 06:06:13
3919文字
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【モルヒネのねがいごと】_導入部分

進捗出してないとやってらんないよーーー!!!

 青年の足取りはいつだって、まっすぐだった。隣に片割れが、導き手がいたから。
 ならば、その片割れがいない今ならばどうだろうか? どうしようもない不安感があるならば?
 たった今、アッシュヘアの青年は焦燥していた。その足取りの先にあるのは、今頼れるたった一つのよすがだった。

【モルヒネのねがいごと】

 その日は少し曇り空が広がるような、小雨でも降ってきそうなどんよりとした天気だった。
 この喫茶店のマスターであり、夜にはダイニングバーでバーテンダーとしての姿も持つ西園寺翼は、客のいない店内で皿を磨いている。……こんな微妙な天気の日に客足が増えるはずはない。例え、今日が土曜日という一般的には休みの日であっても……否、休みの日だからこそ。普段であればもう少しある客足も、ほとんどなかった。今朝の天気予報でも降水確率は40%と絶妙に微妙な雰囲気だったことを思い出す。
 店内にいた最後の客も十数分前に退店しており、珍しく誰もいない店内に少しの寂しさを感じていたのかもしれない。西園寺が浅く溜息を吐いた瞬間、その耳にドアベルの奏でる音が入った。
「いらっしゃいませ、エンバーズにようこそ」
 お客様が来た、と接客モードに入った西園寺の目に映ったのは、目の下にクマを作った青年である。昼頃になればよくこの店に足を運ぶ甘党の男性……起業家の野口ちぐさ。どこか顔色の悪い彼を席に座らせると、西園寺はいつも通りの手際でコーヒーを準備しだした。
 これからは頻繁に来るつもりだし、店主のキミには迷惑をかけるけれども自分が来た際には真っ先にコーヒーを淹れてほしい。あとできればケーキも。キミの勧める物に外れはないですからね――そんな要望を覚えていたから西園寺は野口ちぐさに淹れたてのコーヒーを出す。どこか虚ろな目をしてコーヒーを見ていたちぐさに、西園寺は少し心配になって声をかけた。
「どこか、体調でも優れないんですか?」
「ああ……いや、僕はそうでもないのですが」
 西園寺に声をかけられたことにより、どこか遠くを見ていた赤褐色の弱々しいまなざしがゆっくりと店主の黒玉の眼を捉えた。ちぐさのその目に映るのは、焦りとわずかな猜疑心だ。西園寺がその違和感を感じ取る前に、先ほどまで少し嗄れていた喉が言葉を紡ぎ出す。
 ――姉が、数日前に倒れまして。
 唖然とした顔の西園寺を見て、ちぐさはわずかに目を眇める。まるで何かを確かめるように、試すかのように。言葉を一つ一つ選びながらちぐさは淡々と事実だけを述べる。数日前に自身の目の前で姉……野口あかねが倒れたこと。現在も目を覚ましておらず、入院状態にあること。そして、もう一つ。
「原因、不明……?」
「そう、どこを調べても異常は見つからなかったんです。
……まるで、眠っているだけのようだと、身内の者ではないほかの医者には言われましたが」
「そうな、んですね」
 西園寺の脳裏には、一瞬とある事件の記憶が蘇ってきた。まるで明晰夢のような、信じられない世界の姿。そこで見たモノ、事実、すべてを一瞬だけ思い出す。走馬灯のように駆け抜けるそれらに、けれどもあれは別の世界の話だったはずだと自分で可能性を否定した。その様子を、西園寺の反応をちぐさが観察していることに気づいていたかも怪しいほどの動揺だった。
 ちぐさは姉にその診断を下された足でエンバーズに来たのだ、と話を続ける。ゆらり、と先ほどよりも明確な意志を持ったまなざしが西園寺の眼を貫いた。まるで何かを確信したかのような、見透かそうとしているようなその視線に喉が渇くような感覚を覚える。
「ねえ、西園寺さん。僕にはずっと気になっていたことがあるんです」
 その眼は、期待さえ孕んでいるような気がした。絶望しかない砂漠でオアシスを見つけたかのような、そんな期待を。
 普段よりもいくらか感情を露骨にさらけ出しているそれに西園寺が一瞬たじろぐも、ちぐさは気にせずに言葉を続けた。
「何故、キミが姉と……あかねちゃんとあんなに親しそうにしているのか、わからないんですよね。
接点なんてほとんど無いでしょうに、まるで昔からの知り合い同士みたいにあの人が笑っている……
 どうしてなんだろう、と軽すぎる口調でちぐさは笑った。彼の状況ではありえないほど、高揚した気分を見せるかのようにぎらりと輝く視線を西園寺に向ける。
 ――ねえ、どうしてですか?
 しかし、問われた西園寺は答えに窮してしまった。何故か? その理由は明らかにあのよく分からない事件だ。しかしそれを話したところで、信じてもらえるだろうか? 今でも、今でも自分とあかねが見た夢なのではないかと疑うようなそれを話したとて、どこまで信じてくれるのかも怪しい。答えに詰まっているうち、ちぐさの興奮も醒めてきたのか普段通りのニヒルな笑みを浮かべて肩をすくめた。
「問いただすつもりまではないですよ、ただ……その様子。
姉について、双子の僕でも知らないような何かしらは知っているようですね」
 例えば……そう、打ち明けたところで信じてもらえるか怪しいようなことに巻き込まれてしまったことがある、とか。
 ちぐさはそう言うと、少し冷めてしまったコーヒーを口に含んで嚥下する。落ち着きを取り戻した彼の様子に、西園寺はほっとしたような表情を見せながらも驚いていた。
 あまりにもピンポイントな推論にも驚いたが、冷静さを取り戻した点にも驚愕を隠せなかった。もし自分が彼と同じ立場であったら――妹の結弦が同じ状況にあって、同じように手がかりを持っていそうな人間のもとを訪れるとしたら――こんなにも冷静さを取り戻すことができようか? 少しどころではなく自信がない、とすら思う。喪う恐怖を克服できない自分では無理かもしれない、とまで考えたところでちぐさがコーヒーのおかわりを要求する。
 思っていたよりも動揺していたのか、手がいつの間にか勝手に淹れていたコーヒーを差し出せばちぐさは当然のように受け取り、またその漆黒を口に運んだ。その様子はかなり様になっており、顔立ちがよく似ているあかねのことを思い出す。しかし、今の状況を思い出すとあまり楽しい気分にはなれないままだ。
……あかねさんが、早く目を覚ますと良いですね」
……そうですね。お気遣いいただいて、どうも」
 どこか苦虫を嚙み潰したような表情を見せると、ちぐさは胸ポケットから一枚の名刺を取り出す。
 連絡先の書かれたそれを西園寺が受け取ると、ふいとそっぽを向いたちぐさは「何か分かることが……僕にも言えるようなことがあったらいつでも連絡してください」とだけ言って会計を宣言する。あれだけ踏み込んできながらそれ以上の詮索をしない様子に西園寺が戸惑っていると、先ほどまで顔色の悪かった彼は口を開く。
「勘違いしないでください。別に……無理やり聞いてもよかったんですけど。
問いただしたからといってこの事態が解決するわけではないので。無駄なことはしない主義ですから」
 そう言って退店していくその背中は、入ってきた時よりだいぶ足取りも軽く幾らか背筋も伸びていた。
 退店を告げるドアベルがいつも通りに響く、その余韻と妙な疲れを咀嚼する暇もなく次の客が来たことで西園寺はちぐさの様子とあかねのことを思考の隅に追いやることとなった。

 ――その日の深夜、エンバーズはいつもより控えめではあったものの賑わいを見せていた。
 しとしとと降る小雨がBGMとなって穏やかに時間は過ぎていき、一人、また一人、そして最後の客が闇夜の中に消えていくと店内はまた静けさを取り戻す。店じまいの準備をしていれば、またドアベルが鳴って来客を告げた。
 こんな時間に、誰でしょうか? そう思って振り返った西園寺は目を見開く、そこにいたのは昼間にも来店したちぐさだったからだ。軒先で雨に濡れているからか、ぽたぽたとかすかな水音が聞こえてくるものの店内に入る様子はない。しかしその表情には焦燥感がにじんでいた。
「ちぐささん、」
 どうされたんですか、と言いかけた西園寺の言葉を遮って彼は声を振り絞った。その声は、痛々しいほど苦渋に満ちたものだ。
「悪いけど、今からちょっと来てもらえませんか」
 姉の状況が、変わってきたんです。……悪いほうに。そう告げられた西園寺は少し急いで店じまいを終えると、ちぐさの背を追って外へ出る。路上駐車された高級車に西園寺が唖然としていると、ちぐさは「説明している時間も惜しいので乗ってください」と言って運転席の方へ乗り込んでしまった。土足でもいいのか、と疑問を持ちつつも西園寺が乗り込んだのを確認するとちぐさは車のエンジンをかけた。真夜中の運転、ヒリついた空気が車内に満ちている。西園寺の視線は自然と窓の外へ向かった。規則的に整列する街灯は一部が曖昧に光ったり、ちかりちかりと点滅したりしており、そのせいか元々狭い道路は薄暗い。
……どうにも、不可解なことがありまして。もう悠長なことは言っていられない。
だから申し訳ないけれど、西園寺さんにも協力を求めたいんです」
後写鏡に映るちぐさの表情はあまりにも真剣で、追い詰められている人間のものだった。西園寺があかねの様子を訊ねると、彼は少し躊躇いを見せてから答える。
「これは、検査をし直しているうちに分かったことですが……
否、端的に言いましょうか――このままだと、数日中には姉の心臓は止まる、と言われました」
 西園寺はあまりにも信じがたいその事実を聞いて、今度こそかける言葉を失ってしまった。