しお
2026-03-26 01:03:41
6300文字
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フライデーナイト・フライト

海外ロケからの帰りの飛行機でセンチメンタルになる簓の話。付き合ってるささろ。

 悪い予感ほど当たるものだと言うが、これに関しては予感というよりただの経験則だった。
 アパートの外から自宅の窓に電気がついているのを見つけた盧笙は、やっぱり、と深く溜息を吐き出す。それから猛然と金属製の階段を上り始めた。まだ日が落ちたばかりの時間帯だから、近所迷惑とまでは思われないだろう。そうであることを願う。
 ガチャガチャと音を立てながら開錠し、玄関を開け放つ。辛うじてドアを閉めて鍵をかけたが、靴は三和土に放り出して大股で廊下を闊歩する。リビングに乗り込みながら、大声で名前を呼んだ。
「簓ァ! 何しとんねんワレ!」
「お、盧笙! おかえり~!」
 恫喝めいた盧笙の声にも全く動じることなく、簓はリビングで足を伸ばしてリラックスしきっている。テレビからはゴールデンタイムのバラエティ番組の楽しげな笑い声が溢れ、リビングを満たしている。ローテーブルには簓が調達してきたらしい惣菜がいくつか、皿に移されずにパックのまま広げられており、その近くに口の開いた缶が一つ立っている。いつもと変わらない見慣れた光景に毒気を抜かれそうになったが、一本だけそこにある缶がアルコールではなくジュースのものだと気づいて、盧笙はまた眦を吊り上げた。
「何でおんねん! 今日くらいは自分ち帰れって言うたやろ!」
「まぁまぁ、そないカッカせんと。とりあえず座ったらどうや? 立ったままやと疲れるやろ」
「誰のせいで疲れてると思てんねん!」
 肩を怒らせて声を張り上げる盧笙を、簓は笑いながら眺めている。リラックスした状態から身動きを取ろうともせずにケラケラ笑う簓の姿に、真面目に取り合う気がないのを悟って盧笙は口を閉ざした。このままでは埒が明かない。
 はあ、と聞えよがしな溜息を零してから、鞄を置いて自分で買ってきた弁当を電子レンジに放り込んだ。
「弁当買うてきたん? 何弁当?」
「のり弁」
「せやったら白身魚のフライやな! フライデーやからフライ食べたなったんやろ! 俺もフライがええなぁ思て、チキンのフライ持ってきたで!」
「うっさいし、お前のそれは唐揚げやろ」
「鶏肉を揚げてんねんからフライでええや~ん」
 ぺらぺらと捲し立てる簓をいなしているうちに電子レンジがチンと鳴る。水切りかごから引き上げたグラスに水道水を汲み、ほの温かい弁当とともにテーブルに載せて、手を合わせてから弁当の蓋を開けると簓が不思議そうに盧笙の顔を覗き込んできた。
「あれ、ビール飲まんの?」
「飲まん」
 ぴしゃりと答えるとさすがの簓も感じるところがあったのか、すっと口を閉ざす。それを横目に盧笙は米を頬張り、しっかりと咀嚼して飲み下してから宣告した。
「食うたら自分ち帰れよ」
 簓が反論、あるいは話題をすり替える前に、リビングの隅にでんと置かれたスーツケースを顎で示して続ける。
「あれも、あないなとこに置かれとったら邪魔で敵わんわ。今日中に持って帰れよ」
 言い切ると、同じテーブルについている男の方からシュンと消沈した気配が漂ってくる。それを知りながら盧笙は決然とフライに齧りついた。
 ここで甘い顔をしてはいけない。簓のこれはほぼ演技だ。いくらかは本気でしょげている部分もあるかもしれないが、しおらしい姿を見せれば盧笙が追及を緩めると思ってやっているのだから、その手に乗ってはいけないのだ。正直なところ、多少かわいそうに感じてきてしまっているが、ここで厳しくするのが簓のためでもある、と盧笙は自分を戒める。
 何せ簓は、十日に及ぶ海外ロケから今日の午後に帰国したばかりだ。
 行き先はシンガポールと聞いていた。時差は一時間ほどしかないため、メッセージは普段とほぼ変わらない頻度で交わしていたが、日程が進むにつれ簓にじわじわと疲労が溜まっていくのがメッセージの文面からでも伝わってくるほどだった。十日間で一度だけ通話した時の話によれば、もともと詰め込み気味のスケジュールだったのが、天気が不安定なせいで雨が止んでいる間を縫って撮影しているので、さらに過密になってしまったという。
 極めつけが今日だ。午前中に『今から六時間半のフライトや! やっと盧笙んち帰れるわ~』というメッセージが簓から届いていることに、盧笙が気づいたのは昼休みだった。すぐに『お疲れさん。今日くらいは自分ち帰ってゆっくり休めよ』と返したが、昼休み中はとうとう既読にならなかった。最近の飛行機にはWi-Fiが備わっていて、フライト中でもスマホが使えるらしい。現に行きのフライトでは、暇を持て余しているらしい簓から機内食だの窓から見える景色だのがどんどん送られてきていた。しかし今日は写真どころか既読になることすらない。きっと疲れ果てて眠っているのだろうと思い、盧笙はそのままスマホを仕舞った。それほど疲れているのなら、盧笙がわざわざ言わなくても今日は大人しく休むだろうと思っていた。時間割の最後の授業を終え、再びスマホを手に取るまでは。
 新しい通知は何もなかった。意外に感じてぱっと画面上の時刻を確認する。簓から聞いていた到着時刻はとうに過ぎ、荷物のピックアップや入国手続きに手間取ったとしても、もう全て済んでいていい頃合いだ。もしやあの簓が、スマホを見る余裕もないほど疲れているのだろうか、と込み上げてきた心配に突き動かされてトークを開くと、昼休みの盧笙のメッセージには既読がついている。
 咄嗟に、あいつ、と思った。普通に考えれば、見るには見たが疲れていたので返信しなかった、とも捉えられるが、気ぃ遣いの簓が労いの言葉をかけられているのに無反応というのはちょっと考えづらい。どちらかといえば即座にスタンプの一つでも返して、会話に一区切りつける方だろうと思う。まして、相手は雑に対応しても問題ない盧笙だ。どんな返事でも問題ないのに、何も返さないということは、と推測を重ねる。
 ――うちに来る気か?
 わかった、とは言いたくない。しかし適当な言い訳も思いつかない。その結果の、無言。それが盧笙の導きだした答えだった。
 果たしてその読みは的中し、釘を刺しておいたにも関わらず、簓はこうして盧笙のリビングに上がりこんでしまっている。こうなると、昼休みに送った盧笙のメッセージがフリのようだ。あんなん送らんかったらよかった、という後悔をきんぴらごぼうと一緒に飲み込む。そうすると、萎れた簓が箸を動かしていないことに気づいた。
「なぁ、はよ食えや。冷めるで」
 口にしてから、はっと気づいて慌てて付け足す。
「食欲ないんやったら無理せんでも……
「盧笙、怒ってる?」
 座ったまま肩を落とした簓が、そろりと窺うように尋ねた。俯き気味の顔から視線だけを盧笙の方に向ける。不意打ちで上目遣いを浴びて、盧笙は喉の奥でぐぅと唸った。さりげなさを装っているが、この角度もこの声色も、盧笙からの「もうええ」を引き出すための計算尽くだ。そうとわかっていながら、実際に簓の視線を正面から浴びてしまうと、盧笙の決意は簡単にぐらぐらと揺れる。理由は単純。簓に惚れているからだ。
 盧笙と簓は数ヶ月前から恋人として付き合っている。元より簓の強引さに押し切られがちだった盧笙だが、付き合い始めてからはさらに簓のおねだりへの抵抗力が弱まってきていることを自覚している。一人の人間としても恋愛対象としても盧笙が惚れこんでいる男が、他の人間とは一段違うところに盧笙を据えてくれて、盧笙ただ一人にしか見せない顔を向けてくれる。そんなの、自分にできることならどんな望みだって叶えてやりたいという気になろうというもの。
 今日、盧笙ができれば簓に来てほしくなかった理由もその辺りにある。十日ぶりなのだから本当は盧笙だって早く会いたかったが、ひとたび簓の顔を見てしまったら、それだけで済ませる自信がなかった。この数ヶ月で一通りのやることはすっかり済ませている。抱き合う心地よさを知ってしまった今、恋人と自宅で二人きりというシチュエーションになればどうしたって期待が募るけれど、疲れている簓にゆっくり身体を休めて欲しいと思うのも本心だった。襲いかかるほどには切羽詰まっていないつもりだが、そこにあるものに手を伸ばしたい欲求に耐えるのはそれなりに辛い。いっそ簓と会わなければ、我慢も必要ない。だから来るなと言ったのだった。
 奥歯を噛み締める。ここは冷たくあしらうべきだと厳然と理性が判断を下す。そうだ、怒ってるからさっさと飯を食って家に帰れ、と言うべきだ。しかし、情が邪魔をする。どれほど眉間に皺を寄せてみたところで、そこで叱られた犬のようにシュンと項垂れているのは、十日ぶりに顔を合わせた恋人でしかない。
 盧笙は箸を置いて眉間を軽く揉んだ。
……怒っとるわけやない」
……そうなん?」
 この、すぐさま飛びついてこないところが、いかにも手慣れていて忌々しいと同時に、どうにも甘ったれで可愛らしいと思えてしまうからどうしようもない。はぁ、ともう一つ溜息を吐き出してから盧笙は白状した。
「正直、五分五分くらいの確率で来るんちゃうかなと思うとった。せやけど」
 一度言葉を切った盧笙は、部屋の隅のスーツケースに目を遣る。
「空港から直行っちゅうんはさすがに想定外やったわ。来るにしても、荷物置くのにいっぺん帰ると思てたんやけど。真っ直ぐうち来たんやったらだいぶ早い時間に着いたんちゃう?」
「ん~、まぁな」
「あっ! お前!」
 簓が何事か言いかけたのを、盧笙の鋭い叫びが遮った。
「スーツケースの車輪拭いたか!? 拭いてへんやろ!? 外転がしてきたままそこ置いとるよな!?」
「え、うん、拭いてへんけど」
「ちょお待ち!」
 盧笙は俊敏に立ち上がると、きょろきょろと周囲を見回した。突然の行動に呆気に取られているらしい簓がびっくりした顔で見上げてくるが、説明は後回しにして一か所にまとめた紙ゴミを浚う。大判のチラシや包装紙を二、三枚ほど見繕って、スーツケースの車輪の下に滑り込ませた。
「何? どないしたん?」
 簓は座ったまま身体を左右に揺らして盧笙の手元を覗こうとしている。普通なら簓も立ち上がって近寄ってくるだろうに、そうしないということは、立ち上がるのすら億劫なのだろう。そんな状態なら大人しくすればいいのに、とまた俄かに苛立ちが沸き立ってきて、盧笙の返事に棘が忍び込む。
「汚れた車輪そのまんま置いたら床が汚れるやろ。せやから紙敷いた」
「あ、あ~、なるほどな? 確かに、言われてみればそうやわ、全然気ぃついてへんかった」
 ぶっきらぼうな盧笙の解説に頷いた後、簓はことりと項垂れて、低い声で「ごめん……」と呟いた。その一言だけは、演技でもポーズでもなく心底から零れたものだとわかってしまって、盧笙はそれ以上簓に対して冷徹さを維持することができなくなった。
 元通りに腰を下ろし、簓の方に身を乗り出して俯く頭に手を伸ばす。荒っぽい手つきで髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら、晒されたつむじに向かって話しかけた。
「そないヘロヘロの癖して、なんで来たんや、お前は」
 問いかけながら、盧笙は『はよ盧笙に会いたかってんもん!』とか、そういう言い訳が間髪入れずに飛んでくることを予想していた。しかし簓はすぐには反応せず、しばらく盧笙に弄ばれたままで黙っている。おや、と思いかけた頃にようやく、すぅっと息を吸い込む気配が伝わってきた。
「俺、飛行機乗る前、盧笙にメッセージ送ったやん。これからフライトや~、って」
「せやな」
「あれ送った後にな、急に、こないだ盧笙と一緒にここで飛行機事故の番組見たこと思い出してん」
 言われて、盧笙は記憶を辿る。確かにしばらく前、数十年前に起きた航空機墜落事故の再現番組を簓と二人で見た。日本の地上波で初めて放送されるという、ブラックボックスに記録された操縦士たちの逼迫した音声の生々しさがまだ記憶に残っている。
「思い出して、飛行機乗るの怖なったんか」
「怖いっちゅうのとはちゃうかな。っちゅうか、怖なったとしても乗らんわけにはいかんし、乗ったもんが落ちたら逃げようもないやん? もしそうなったらまぁ、それはしゃあないやん」
「普通は墜落事故に巻き込まれることを『しゃあない』では済まさへんと思うけど、まぁええわ。ほんで? 怖なったんやないんなら、どないしたん」
 先を促すと簓は、んん、と低く呻いた。言い淀んでいる様子だったが、盧笙が手の力を弱めてつむじの上を往復するように撫で始めると、観念して続きを語りだす。
「急に思いついてもうてん。事故った飛行機に乗っとった人らも、『飛行機が着いたらあれしよう、これしよう』って予定立てとったんやろな、って。俺が盧笙にメッセージ送ったみたいに」
 耳から流れ込んできた簓の言葉を意味をまず理解する。それから数秒の間を置いて、じんわりと感覚が広がっていく。
 確かに、言われてみればそうかもしれない、と思う。誰だって事故の予見なんてできないし、よほどの心配性でない限りは自分の乗っている飛行機が墜落するかもしれない、なんて考えもしない。もし心配していたとしても、そういう事態に陥ってしまったら、たった一人の旅客にできることなどない。簓の言うように『しゃあない』と思って受け入れることくらいだ。
「そんなん考えついてしもたから、なんちゅうか、日常っちゅうか? 『いつものやつ』に、はよ戻りたいなぁって思うて」
 気づいたら、盧笙んちに向かっとった。
 ぽつりと簓の呟きが落ちる。それは波紋を広げ、盧笙の内面を揺らし、ざぶざぶと濡らした。ああもう、こいつは。口には出さずに嘆息して、盧笙は力加減しつつ簓の脳天を小突いた。
「あだっ!?」
 大仰なリアクションをする簓を置いて、立ち上がる。キッチンまで歩いて冷蔵庫の扉を開ける盧笙を、簓がじっと見つめているのが、背を向けていてもわかった。
「そんなん言われたら、追い返されへんわ。もうええ、泊まりたいんなら泊まっていき」
 そう言いながら、冷蔵庫から缶ビールを取り出して振り向く。簓は盧笙がアルコールを手にしているのを見つけて、ぱあっと顔を輝かせた。あまりに鮮やかな表情の変化に、盧笙は思わず苦笑を溢す。まるでコント中の演技みたいだ。
「せや、零も呼ぶか。来るかどうか知らんけど」
「おっ、ええなぁ! ほんなら俺も、ちょっとばっかし飲むかなぁ」
「お前はやめといた方がええんちゃうの。どうしても言うんやったら止めへんけど、ほんまに飲むんなら先に布団敷くわ」
 テーブルにビールを置いて盧笙が寝室に向かおうとすると、簓が服の袖を引く。
「気ぃ遣ってもらってありがたいんやけど、先に飯食おうや! 零呼んでも来るまで時間かかるやろうし、あんまり上の空やとせっかくアゲアゲになっとるフライがシナシナになってまうで!」
「フライやから揚げ、揚げって? やかましいわ」
「唐揚げだけに? やるやん盧笙!」
「やめろ、偶然や!」
 盧笙が腕を振って服を掴む簓の手を振りほどいても、簓は愉快そうにケラケラ笑っている。ついさっきまでのしょぼくれた姿など影も残っていない。
 簓のはしゃぎっぷりは数分前との落差が激しすぎて、どこか空々しくもあるが、盧笙は追及しないことに決めた。それが演技であれなんであれ、簓が笑っているのならそれでいいと結論づけ、一緒になって声を上げて笑った。