荻谷
2026-03-26 00:00:04
13709文字
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ゆめうつつ

峯が大吾さんのお誕生日に1日を買う話です。大吾さんお誕生日おめでとう話です。エロくないけど長いです

 三月の日差しは、まだ冬の冷たさを孕んだまま、気怠く重く、肌にのしかかる。それでも、春の訪れを告げる風は時折カーテンを優しく揺らし、部屋に淡い光を運んだ。
 脈打つように痛む頭を抱え、大吾は深いため息とともにベッドから這い上がった。寝起きの体に纏わりつく倦怠感をシャワーで洗い流し、鏡の前でネクタイを締める。
 鏡の中の男は、歳に見合わぬ苦労を滲ませ、いたく老け込んで見えた。子供の頃は二十を越えれば紛れもない大人になれると思っていたのに、今の自分はあの頃思い描いていた大人とは程遠い。
……三十二か」
 呟いた言葉は、誰に届かず洗面所に消えていく。
 今日は自分の誕生日だ。
 だからといって、なにかが変わるわけじゃない。いつものジャケットを羽織れば、少しは気持ちがしゃんとする。
 迎えの車に乗り込み、後部座席に深く身を沈めた大吾は携帯を取り出した。画面にはいくつかの通知が表示されている。
 順々に流し見ていく通知のほとんどは、自身の誕生日を祝う言葉だった。ありきたりな文面に、定型文で淡々と返していく。
 指先を動かしているうちに、車は神室町の喧騒を抜け、東城会本部の重厚な門をくぐった。
「おはようございます!」
 車を降りると、整列した組員たちの野太い声が一斉に響き渡る。大吾は軽く頷き、彼らの敬礼を受け流しながら、迷いのない足取りで本部内へと進んだ。
 階段を上り、見慣れた部屋に入れば、もう逃げ場はない。今日のスケジュールの最終確認を済ませ、部屋に一人残された大吾は、デスクに向かう代わりに窓辺へと立った。
 どこまでも続くような澄んだ青空を見上げ、遠くに霞む桃色の花弁に目を凝らす。誇らしげに春の訪れを告げるその色が、大吾は好きだった。
 ポケットから煙草を取り出し、ジッポで火を点ける。深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。紫煙が朝の日差しに溶けていくのを眺めながら、小さく息をつく。
「さてと」
 タバコを灰皿に押し付け、デスクに向かおうとした、その時だった。
 こんこん、と控えめにノックの音が響く。
「入れ」
 大吾の声に応じて分厚い扉がゆっくり開く。そこに立っていたのは、思いもよらぬ男だった。
「失礼します」
 少しくぐもった低い声が室内に響く。早朝だというのに、峯はぴっしりとスーツを着込み、身形を完璧に整えていた。両手に巨大なアタッシュケースを握り、恭しく頭を下げる。
 近づいてくる瞳はいつものように鋭く冷たい。
 しかし、その奥にはめらめらと燃えるような炎が宿っていた。
 大吾はただならぬ気配に、思わず唾を飲んだ。
 普通に考えれば、あの巨大なケースの中には金が詰まっているのだろう。
 だが、上納金を納める時期にはまだ早い。それに、峯ほどの男が事前連絡もなく自分の元を訪れるなど、本来ありえないことだった。
 急用か。それとも、何か緊急の事態が起きたのか。
 大吾が思考を巡らせる間も、峯は迷いのない足取りでデスクに近づき、二つのアタッシュケースを静かに並べて置いた。
「峯?どうした、朝っぱらから。何かあったのか」
 困惑した声音にも峯は表情一つ変えず、まっすぐと大吾の瞳を見据えた。
「大吾さん。お誕生日、おめでとうございます」
「あ、あぁ。ありがとう」
 まさか彼が、誕生日の祝いを伝えるためだけに朝一番で本部へ来るとは思わなかった。
 頬を緩める大吾とは対照的に、峯は一層顔を顰めた。
「早速ですが」
 彼はアタッシュケースの留め具に指をかけ、鍵を外した。
「こちらは前金です」
 ばちん、ばちん、と小気味よい金属音が二度響き、ゆっくりと蓋が開く。明かされたその中身に大吾は目を見張った。
 隙間なく、整然と詰め込まれた圧倒的な量の紙幣。それが、二つのケースの両方に、ぎっしりと満ちていた。想像を遥かに超える量に、言葉を失う。
「これは……
 大吾はぽかんと口を開けたまま、ただ見つめるしかなかった。
 札束など自分の顔と同じくらい見飽きている。それでも、これほど露骨に、生々しく提示される札束の塊は、異様としか言いようがなかった。二つ合わせて十億、いや、それ以上かもしれない。彼の資金力をもってすれば、この程度造作もないだろう。でも、いきなりどうして。
 呆然とする大吾をよそに、峯は開いたアタッシュケースを大吾の方へ向け、狂気さえ孕んだ真剣な眼差しで彼を見つめた。
「あなたの一日を、俺に買わせてください」
「え」
 開きっぱなしの口から、間の抜けた声が漏れる。
 峯が何を言っているのか、理解が追いつかない。
「本日の食事会並びに各組長との会議は、すべてリスケジュール済みです。今この瞬間から明日の朝まで、あなたの予定は完全に空白になりました。不足分は後日すぐに持ってきます」
 有無を言わせぬ口調で淡々とまくし立てる。
 流暢に紡がれる言葉どれも頭に入ってこない。
 固まる大吾の手元から愛用のビジネスバッグを取り上げた峯は、手早く中身を整えた。最後に携帯電話と財布が所定の位置にあることを確認し、迷いなくファスナーを閉じる。
「さぁ、行きましょう」
 峯は大吾の手を掴み、そのまま強引に歩き出した。
「おい、峯!ちょっと待てッ……!」
 必死の抗議も虚しく、大胆な男は迷いのない足取りで進んでいく。只事ではない気配に、廊下に控えていた護衛たちが慌てて駆け寄ってきた。
「六代目!それに峯会長も……一体どうされたんですか!」
 峯は立ち止まることなく護衛たちを一瞥し、氷のように冷徹な声で言い放った。
「お前らはここで待機していろ。会長直々のご命令だ」
 さらりと嘯く男に、護衛たちが愕然とする。その圧倒的な威圧感に気圧され、誰もそれ以上言葉を続けられなかった。
 手を引かれるまま本部のエントランスを突き抜け、車寄せに停められた峯の愛車へと押し込まれる。
 その一連の流れがあまりにスムーズで、まるで幻のようにさえ思えた。
 車のドアが閉まり、エンジンが低く唸りを上げる。
「峯!一体どういうつもりだ!」
 ようやく正気に戻った大吾は、運転席の峯に向かって声を張り上げた。
「なにか?」
 平然とした顔で、アクセルを踏み込む。滑らかに走り出した車は、あっという間に本部を小さく遠ざけていった。
「なにか?じゃねぇだろ!急に一日買うとか言われても意味わかんねぇよ!お前だって、白峯会の仕事があるだろ?俺だって、今日も仕事が山積みだし」
 狼狽える大吾を置き去りに、車は迷うことなくどこかへと走り続ける。あまりにも堂々とした誘拐犯は、大吾の顔など見ようともせず、前方の道路だけを見つめていた。
 自分の話を聞いているのか、聞いていないのかわからないその態度に、段々と腹が立ってくる。
「おい!聞いてんのか!」
 思わず声を荒らげた瞬間、峯の顔色が変わった。
 「っ……!」
 小さく息を呑み、ようやく大吾の方を横目に見た。赤信号で車を止め、改めて向き直る。その瞳は、先ほどの事務的な冷たさは微塵もなく、不安げに揺れていた。
「聞いてますよ、大吾さん。俺のことは、お気になさらず。あなたの予定はすべてリスケ済みと、先程申し上げたはずです」
「あぁ。聞いたよ。聞いたけどな、峯。だからって、ああそうですかって、着いていけるわけねぇだろ」
 大吾が言葉を重ねるたび、峯の表情はみるみるうちに暗く沈んでいった。揺れていた瞳が大吾を捉えたまま潤み、唇がぐっと引き結ばれる。
「帰ってきたら、手伝います。俺が責任を持って、全部。だから、だめですか?」
 絞り出された声は、ほんの僅かに震えていた。
 日頃不遜な彼の殊勝な態度に息を飲む。大吾は大きくため息をつき、額を押さえた。
……俺の一日は高いぜ?」
 いたずらっぽく口角を上げ、隣の男の肩を軽く叩く。
 手が触れた途端、峯の顔が一気に明るくなった。先ほどまでの態度が嘘のように、全身に自信が満ち溢れ、大吾の手を強く握り返す。
「あなたの一日に見合う価値を示してみせます。期待していてください」
 そう断言したあと、峯はハンドルを握り直してアクセルを踏み込んだ。
 結局、俺はどうしてもこいつに弱い。
 今頃、騒然としているであろう本部を一瞬思い浮かべ、大吾は逃げるように目を瞑った。
 
 ♢
 
 車は難なく都心の喧騒を切り裂き、西へ向かう高速道路へと滑り込んだ。
 流れる景色は灰色から、次第に柔らかな緑に移り変わっていく。だらしなく座席にもたれ掛かりながら、大吾はぼんやりと窓の外を眺めていた。
 ふと、視界の端に派手な意匠の建物が横切る。屋上に潮を吹く鯨のオブジェが乗ったそれは、どう見てもラブホテルだった。なんとも言えぬそのユーモアに小さく笑いが漏れる。
 そのまま、隣で仏頂面を浮かべる男をちらりと盗み見た。どこか充足感に満ち溢れた横顔は、大吾の憂鬱など一切感じ取っていない。
 行き先は「着いてからのお楽しみ」だという。とにかく、絶対に後悔はしないらしい。
 一瞬、峯と目が合った。彼はすぐに目を逸らし、それから小さく口を開く。
「少し、強引過ぎましたかね」
「少しどころじゃねぇよ。めちゃくちゃ強引だよ」
 わざと呆れたように吐き捨てる。しかし、その声には少しの棘もない。
「すみません。でも、どうしても……大吾さんのお誕生日をお祝いしたくて」
 緩やかに投げられた直球が、大吾の胸を抉る。
「俺も最近、仕事詰めだったしな。お前にこうでもして貰わなきゃ、休む踏ん切りもつかなかった。ちょっとだけ、感謝してるよ」
 その言葉が耳に届いた瞬間、峯の表情が目に見えて明るくなった。
「なら良かった。 絶対に満足させてみせますよ」
 自信満々な彼に何も言い返せない。そのまま沈黙が訪れる。
 エンジンの低い唸りと、タイヤがアスファルトを叩く一定のリズムが大吾に、抗いがたい眠気を運んだ。段々と瞼が重くなり、うつらうつらと船を漕ぎ出す。
「どこか、行きたい場所はありますか?」
「行きたい場所?うーん」
 微睡みの中に溶け出した思考は、まとまらない。
「買い物でも、食べたいものでも。何でもお付き合いしますよ」
「欲しいものは、別にないな。食いたいものも……今は思いつかねぇ」
 うん、と頭を捻るが、少しも働かない。遠くに、空よりも少しだけ深い青が見え、突拍子もない考えが浮かんだ。
「あー、じゃあ海行きてぇな」
「海ですか?」
「うん。俺、ずっとこっち住んでて、あんま行ったことないから 」
 最後の方は、ほとんど寝言に近かった。
「分かりました。ちょうど宿の近くに、海が綺麗な場所があるんです」
「そうか……それは、楽しみだな……
 心地よい揺れと静寂に、黙々と運転を続ける峯の横顔。
 やっぱり、好きだ。
 峯は黙っているときが一番かっこいい。口を開けば、理屈っぽくて、揚げ足取りで、変わっていて──それから、可愛い。
 柄にもなく気恥ずかしい本音が脳裏を掠める。それを認める強さは、今の眠気の中にはない。大吾はそのまま、深い闇へと意識を沈めた。
 
 ♢
「大吾さん、大吾さん」
 肩を優しく叩かれる感覚に、大吾はゆっくりと目を覚ました。
 視界がぼやける。数度瞬きを繰り返すと、目の前にぼんやりと峯の顔が浮かんだ。
 覗き込むその顔はむず痒いほど愛おしげに目を細めていて、釣られて笑ってしまう。峯はますます甘く蕩けた顔で大吾の額に垂れた前髪を、そっと撫でつけた。
「よく眠れましたか?」
「ん、あぁ。こんなによく寝たのは、久々だ」
 まだ頭が回らない。もっと寝ていたいという子供のような欲求を、欠伸と一緒に飲み込んだ。
 髪に触れていた手が離れていくのを、少しだけ名残惜しく思いながら、ぐっと身体を伸ばす。
 それから窓の外を見て、大吾は思わず声を上げた。
「海だ……!」
 目の前には、どこまでも続く青い空と、深い紺色の水平線。そして、光を反射して輝く白い砂浜が広がっていた。
「もっと近くに行こうぜ!」
 シートベルトを外した大吾は峯の返事を待たずに車を飛び出した。
 革靴が砂に埋もれる不自由ささえ、今は新鮮だ。波打ち際まで駆け、白い水飛沫を上げては引いていく波の音に耳を傾ける。
 見慣れぬ景色に目を奪われていると、急に身体が冷えてきた。無意識に二の腕を擦った瞬間、ふわりと首元に何かが巻き付いた。
「寒いでしょう?」
 いつの間にか背後に立っていた峯が、自分のマフラーをそっと大吾の首に巻きつけた。臙脂色の柔らかい生地が頬を撫で、ふわりと峯の匂いに包まれる。大吾は無意識に顔を埋め、深く息を吸った。
「ここにはたまに来るんです。景色も綺麗で人も居ない穴場なんですよ」
「いいのか?俺なんかに教えちまって」
「もちろん。でも、俺と大吾さんだけの秘密ですよ」
 峯が穏やかに微笑む。大吾は嬉しさを隠さず、鼻を鳴らして笑った。
 しばらくの間、二人は無言で海を見つめる。
 変わらぬ景色に飽きて、ふと横を向くと、潮風に髪をなびかせる峯の姿があった。
 ただ立っているだけなのに、映画のワンシーンのように画になる。思わず見惚れてしまうほど様になるその姿を写真に収めたくなって、スーツのポケットを探った。
 しかし、確かにあるはずの感触がない。
「あれ、俺の携帯知らねぇ?」
 大吾が全てを言い切るより先に、峯が当然のように口を開いた。
「あぁ。着信がうるさかったので、電源を切って車の中に置いてあります」
「は?」
 一瞬体が固まる。それから、あまりの無茶苦茶ぶりに膝の力が抜け、大吾はその場にしゃがみ込んだ。
「お前ってマジで、思い切ったことするよなぁ」
 スーツの尻が砂で汚れるのも構わず、大吾は座り込み、空を仰いだ。澄み渡る青空を見ていると、全てがどうでも良くなってくる。
「ま。俺とお前だけの秘密だもんな」
 大吾は悪戯っぽく、片方の頬を上げて笑った。視線だけで言葉を交わし、顔を見合わせて笑う。
 しばらくの間、他愛のない会話を交わしていると、静かな浜辺に、ぐぅと間抜けな音が響いた。
「腹、減ったな」
 立てた膝に顔を埋め、大吾がぼやく。
「そろそろ昼時ですからね。何を食べます?」
「そういえば、ここ、どこなんだ?」
「熱海です」
「熱海。静岡か……あ」
 大吾は何かを思い出したように顔を上げた。
「行きたい店があるんだ」
 ♢
 
 国道沿いにある、大きな駐車場を併設した平たい店の周りを取り囲むように行列ができていた。
 じわじわと押し上げるように進んでいく度に期待が重なっていく。
 ようやく店内に案内されると、肉の焼ける香ばしい匂いと、ソースが弾ける音が二人を迎えた。
「本当に、ここで良かったんですか?探せばもっと、落ち着いた店があるというのに」
 ガヤガヤとした庶民的な活気に、峯は終始眉を顰めている。彼は周囲の客がひそひそと噂話をするほどの殺気を放っていた。
「いいんだよ。ずっと来てみたかったんだ」
 メニューを開くが、頼むものはとっくに決まっていた。
 紙面に並ぶ魅力的な料理よりも、熱烈に自分を射抜く男に「昼間だけど、飲んじまおうかなぁ」と、答えの分かりきった問いを投げかけてみる。
 「ダメだと言ってもどうせ飲むんでしょう?」
 予想通りの文面が甘さを孕んで返ってきた。返事はひとつしかない。屈託のない笑顔を向け、黄金色と滑らかな白の比率が美しいジョッキの写真を指さした。
 「じゃあ、これで」
 注文を峯に任せ、大吾はじっくりとメニューを眺める。
 とりあえず定番のデミグラスソースを選んだが、やっぱりオニオンソースにすればよかったような気がしてきた。
 悶々としているうちに、ハンバーグが届く。よく熱された鉄板の上で、店員が手際よく切り分け、ソースをかけた。パチパチと跳ねる脂の音と香ばしい匂いが食欲をそそる。いただきます、と小さく呟いてから、二人はナイフとフォークを手に取った。
 切れ込みを入れる直前にハッとして、携帯を探る。大吾が携帯の不在を思い出すまでの間に、峯は自身のハンバーグをざっくりと半分に切り分けた。
「プレゼントです」
 迷いなくそれを大吾のプレートへ滑らせるように置く。ふわりと立ち上る甘酸っぱい香りは、大吾の心残りだったあのソースのものだった。
「いいのか?こんなに貰っちまって」
 積み重なった肉の塊を前にさっきまでの不満が一瞬にして霧散した。
「ええ。食べたそうにされていましたから」
「いや、食べたいとは思ってたけど、お前だって腹減ってるだろ?」
 遠慮する大吾に、峯は陶酔したような笑みを向けた。
「あなたが食べている姿を見るだけで、俺は満足なんです。だから、たくさん食べてください」
 「そこまで言うなら貰うけどさ……
 気恥ずかしさを隠すように、大吾はジョッキを掴んだ。半分ほど中身を煽り、峯を指さす。
「しかし、俺がこっちも気になってたって、よくわかったな」
「見てれば分かりますよ」
 その言葉に、胸の奥がむずむずと熱くなる。ムカつくほどにかっこいい男の、柔らかく緩んだ口元に、大吾は自身のハンバーグをねじ込んだ。
 
 ♢
 
 次に峯に連れてこられたのは豪華絢爛で見るからに金持ち向けのホテルではなく、どっしりと構えた威厳のある宿だった。
 中に入ると、磨き上げられた廊下と微かな白檀の香りが鼻腔をくすぐる。時代を感じさせる落ち着きと趣のある佇まいに、大吾は思わず背筋が伸びる思いがした。
「いらっしゃいませ、峯様。お待ちしておりました」
 出迎えた仲居は、峯の顔を見るなり親しげに微笑み、頭を下げた。迷いのない足取りで奥へ進む峯の背中を見ながら、何気なく問いかける。
「お前、ここ、誰かと来たことあんのか?」
 低く空気を揺らした大吾の声に峯が足を止めて振り返る。
「いえ。ないですが」
「嘘つけ。仲居さんとあんなに親しげじゃねぇか。女でも連れてきてたんじゃねぇの?」
 その言葉に、彼は一瞬驚いたように目を見開き、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
「大吾さん。俺にとって、あなたは初めての恋人ですよ」
 脈絡のない告白に理解が追いつかない。
 僅かな間を置いて心臓が大きく跳ね、口から驚愕の声が漏れた。
「はぁ?!」
 厳かな空気を震わせる必要以上の声量に慌てて口を押さえる。顔が燃えるように熱い。
「付き合ってもいない女と、わざわざ旅行に来るような趣味はありません。それに、俺には、あなた以外に友人と呼べる存在もいませんから。ここは時々、一人で来ていただけです」
「 ふぅん」
 顔を背け、なんでもないように鼻を鳴らす。しかし、峯はにやにやと揶揄うように大吾の顔を視線で追いかけた。
「妬きました?」
……ちょっとだけな」
 素直に認めると、今度は満足げに目を細めた。峯の口から饒舌に語られる宿の歴史に適当な相槌を打ちながら、長い廊下を歩いていく。
 案内されたのは、相模湾を一望できる広い和室だった。バルコニーには源泉掛け流しの露天風呂が設えられ、湯気が春の空に溶けていく。
「いい部屋だな」
「ええ。半年前から押さえておきましたから」
「そんな前から計画してくれてたなら、もっと早く言ってくれりゃ良かったのに」
 大吾が畳に腰を下ろしながら呟くと、峯の動きがぴたりと止まった。少し押し黙ったあと、普段以上に整った顔を作って大吾の手を取る。
「あなたを驚かせたかったので」
「嘘だな。その顔すれば、俺を騙せると思いやがって」
 じっとりとした視線を向け、その手を振りほどく。それから完璧にセットされた彼の髪を、わしゃわしゃとかき乱した。
「大吾さんっ……!」
 されるがままの峯を見て、少しだけ気分が良くなる。鼻歌でも歌いたいような気分で、大吾はそのままごろりと横になった。
「皺になっちまいますよ」
「いいよ、別に」
 硬い畳の上ではどうも落ち着かない。大吾はのそのそと這うようにして、背筋を伸ばして座っている峯の膝に、頭を乗せた。
「こっちの方が、寝心地いいな」
 仰向けになり、下から峯の顔を覗き込む。くっきりと線が刻まれた美しいアーモンド型の目から、すっと通った鼻筋へと視線を辿る。よく手入れのされた艶やかな赤い唇を見つめているうちに、口が寂しくなってきた。
 じっと穴があきそうなほど見つめてくる男と一瞬、視線を絡める。
 彼も今、同じことを思っているのだろうか。
 大吾は目を伏せ、うっすらと口を開けた。
……すみませんでした。こんなことをしてしまって」
「え?」
 目を見開いた瞬間、峯の声がわずかに震えた。
「やっぱり、強引すぎたと反省しているんです」
 また一人で考え込んでいる。
 大吾は苦笑し、峯の乱れた前髪に触れた。熱い頬を優しく撫でる。
「本当に嫌だったら、着いてきてねえよ。お前なんて、俺が本気を出せば一捻りなんだからな」
 冗談めかして言うも、峯の顔は一向に晴れない。それどころかどんどんと陰が差していく。
「本当に?本当ですか。俺のために無理をしてるんじゃないですか?」
「自信あんのか、ねえのかどっちなんだよ。俺が来たかったから、来たんだって」
 まだ納得いかない様子の峯の首筋を引き寄せ、大吾は自分から唇を重ねた。ちゅ、と小さな音が静かな部屋に響く。
「これでもまだ信じてくんないの?」
 鼻先を擦り合わせながら問いかければ、峯は見開いていた目を細めた。
「いえ。俺の杞憂でしたね」
 見つめ合う二人の間に、どこか気恥ずかしい空気が流れる。じわじわと熱を持っていく頬がますます羞恥を煽った。
 そのうち耐えきれなくなり、大吾は勢いよく起き上がった。
「あ!そうだ、風呂!風呂入ろうぜ。せっかくだしな!」
 誰かに言い訳するように早口で捲し立て、すたすたと風呂に向かう。
 後から追いかける峯の気配にまずいことをしてしまったかも、と思った時には既に遅かった。
 
 ♢
 
 結局、温泉よりも互いの体を堪能してしまい、上がる頃にはくらくらと目眩がするほどに火照っていた。
 身体中に散らばる赤い跡と体内に刻み込まれた余韻が情事の激しさを雄弁に語る。峯の背に浮かぶ麒麟にも引っ掻き傷が無数に浮かび、悪いことをしてしまった。心の中でそっと謝っておく。
 くだらないことを考えていると、自分よりもずっと肌ツヤのいい峯と目が合った。曖昧に笑いかけると、彼は不思議そうに首を傾げる。
 大吾は一人で部屋を抜け出し、喫煙所へと足を向かった。
 部屋で吸えたらいいのに、良い宿ほど禁煙が徹底されている。昔はもっと緩かったはずなのに、たった数年で随分と肩身が狭くなったものだ。はあ、と溜息をつきながらテラスへと向かう扉を開ける。
 吹き付ける風に身を縮め、視界を遮る髪をかき上げた。
 目の前には、夜の帳が下りた海が広がっている。昼間の快活な青は消え、今はただ、銀色の月光が波頭を優しく撫でる静謐な世界がそこにあった。規則正しく刻まれる波音に耳を傾ける。
 引き寄せられるようにふらふらと歩き、格子から身を乗り出した。一度沈んだら二度と這い上がれないような、底の見えない闇を見下ろす。不思議と恐怖は感じない。
 すぐに退屈になって、煙草に火を点けた。深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。紫煙は夜気に溶け込みながら、月明かりに照らされて、白く、儚げに揺らめいた。
 突飛で、無茶苦茶で、そしてあまりにも幸福だった時間が、煙と共に全身を駆け巡る。
 日頃の重責を忘れ、ただ無邪気に過ごした、奇跡のような一日。きっと今日のことは、死んでも忘れないだろう。
 ふと、背後に気配を感じた。振り返るまでもない。
 「近いな」
 「すみません」
 いつの間にか大吾の隣に立っていた男は大げさなまでに距離を取った。それがおかしくて、喉を鳴らす。
 「お前じゃねえよ。月だよ、月」
 揃いの浴衣に身を包み、セットされていない毛先と裾が潮風に煽られて揺れる。
 自分に向けられるあまりにまっすぐな視線から逃げるように空を見上げた。
「なんか、掴めそうじゃね?」
 いたずらっぽく首を傾げる。ロマンチストのくせに現実主義な男は少しだけ目を丸めてから、眉間の皺を深めた。それが面白くて、声を上げて笑えば、今度は不機嫌そうな表情に変わる。
 闇に浮かぶ満月は、驚くほど大きく、明るい。そして、手を伸ばせば触れられるのではないかと思えるほど、近くにあった。
 峯も釣られて空を見上げる。月光が彼の端正な横顔を照らし、彫刻のような美しさを際立たせていた。
「月は毎年数センチメートルずつ地球から遠ざかっているそうです」
「へぇ」
 突拍子のない雑学に耳を傾け、相槌を打つ。時々挟まれるこの時間が大吾は好きだった。
「数百年後、数千年後には、今俺たちが見ている月は、もう見られなくなっているかもしれません」
 峯の言葉は、近くにいるはずなのにどこか遠くで響く。それが無性に寂しくなり、大吾はゆっくりと空に手を伸ばした。親指と人差し指で、手のひらに収まる月を摘まんでみる。
「案外届かねえもんだな」
 自嘲気味に笑い、手を下ろす。それを見た峯が、ふっと慈しむような笑みを浮かべた。
「なら、来年は月をプレゼントします」
……月?」
 大吾は目を丸くして峯を見た。それから少し思案して、笑みを零す。
「お前なら本当にしそうで怖いな」
「あなたが望むなら、俺はなんだって持ってきます。月でも、金でも、休みでも」
 峯が一歩、大吾に近づいた。
 二人の距離が、急速に縮まる。触れそうで触れない微妙な距離感がもどかしい。
 峯の体温と、揃いの石鹸の匂いに混ざってタバコの煙が潮風に揺れる。溶け合う白煙はまるで自分たちのようだった。
 「来年は無理でもいつか月に行きましょう。今日みたいに二人きりで」
 「いいなぁ、それ。月ってなにが美味いんだろ」
 「結局それですか」
 呆れたように笑う峯に大吾は肩を竦めた。
 「旅行といえば飯だろ!で、なんだと思う?」
 「……団子ですかね。それか、うどんとか」
 「うどん?……ああ、そういうことか」
 他愛のない会話を交わす。
 大吾は最後の煙を吐き出し、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
 うん、と伸びをし、温かな光が差し込む室内へと足を進める。そのとき、暗がりから峯が呼び止めた。
 「大吾さん」
 「ん?」
 振り返り、首を傾げる。星に混ざって輝く瞳と目が合った。
 「どうぞ」
 手のひらに収まるほど小さな箱が差し出される。ベルベットのそれは一目で高級品だとわかった。
 「ありがとう。開けてもいいか?」
「もちろんです」
 箱を開けると、中には銀色のタイピンが収められていた。派手すぎず、けれど一目で質の良さがわかる彼らしい洗練されたセンスの一品だ。
「おお、いいな。合いそうだ」
 「ええ」
 峯が、大吾の左胸にそっと手を重ねる。触れ合った箇所が解けてしまいそうなほど熱い。
 大吾は、峯の手の上に、自分の手を重ねた。
「明日から毎日使うよ、死ぬまでな」
 語尾をわざとらしく跳ねさせ、冗談めかし、彼を呪い返す。すると峯は今までに見た事ないほど幸せそうに笑った。
 月明かりの中で、静かに見つめ合う。夜風が火照った頬を覚まし、段々と冷静になってくると途端に羞恥が込み上げてきた。別の熱が体の奥底からじわじわと湧き上がる。
「寒くなってきたな。戻ろうぜ」
 握っていた手と指先を絡め、大吾は踵を返した。
「はい」
 静かな声とは対照的に、痛いほどの力で強く握り返される。二人の跡には、微かな煙の匂いと、圧倒的な月の光だけが残った。
 
 部屋に戻ると、既に二組の布団が並んで敷かれていた。仲居の手によって整えられた清潔なシーツの白さが、消灯した室内の淡い闇に浮かび上がっている。
 それぞれ自分の布団に入ったものの、大吾はなかなか寝付けなかった。昼間の出来事や先ほど交わした会話の余韻が冷めない。
 横たわったまま、隣で静かに呼吸を繰り返す峯の気配を探る。
……寝たか?」
 小さな声で問いかけると、すぐさま「いえ」と短い返事が戻ってきた。
 その声に吸い寄せられるように峯の布団へと潜り込む。ぴくりと彼の肩が跳ねるのを無視して背中にしがみついた。薄い浴衣の布越しに、硬く引き締まった筋肉と体温が伝わってくる。
「今日は、ありがとう。すげぇ楽しかった。明日帰るのが嫌になるくらい」
 肩口に口を埋め、くぐもった声を漏らす。もっと言いたいことはあるけれど、言葉にするのは惜しい。
……大吾さん」
「呼び捨てにしてくれよ、今日くらいはさ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、峯が静かに寝返りを打った。闇に慣れた視界の中で、峯の瞳が濡れたように光る。
 「大吾」
 「うん」
 彼は迷うことなく、大吾の身体をその逞しい腕の中に閉じ込めた。
「楽しんでいただけたなら、何よりです。いつも俺ばかりが、あなたに縋ってますから」
 触れ合った箇所は溶けてしまいそうなほど熱く、それからはっきりと心音が伝わってくる。
「んなことねぇよ。俺も、お前のこと……好きだもん……
 峯の胸に顔を埋め、温もりと匂いを堪能する。
 次第に心地よい眠気が大吾を襲い始めた。まだ起きてたいのに、頭を優しく撫でる峯の手のひらが、それを許してくれない。
 明日起きたら文句のひとつでも言ってやろう。
 そんなことをぼんやりと考えながら、深い眠りへと落ちていった。
 
 ♢
 
 錆びついたトタン屋根が、強い海風に煽られて不機嫌な音を立てている。どこからか這い入る隙間風が、畳を撫で、部屋の温度を容赦なく奪っていく。
 月明かりだけが照らす部屋で、大吾は重い瞼を持ち上げた。
 また夢を見ていた。珍しく、いい夢だった。
 ふわりと浮いていた大吾の心を染みの浮いた天井と、隅に置かれた古びたストーブが現実に引き戻す。先程まで確かに感じていた温もりも、威光も、ここには何一つ残っていない。
 時計代わりに置かれたラジオの横で、二人の男──真島と冴島が、古い毛布を分け合うようにして深い眠りについていた。騒がしいいびきの二重奏がこのボロ小屋に漂う死んだような静寂を、辛うじて繋ぎ止めている。
 大吾は毛布に深く潜り込み、ぎゅうっと小さく縮こまった。それから一気に伸びて手探りで携帯を掴み、時間を確認する。起きるにはまだ少し早く、眠るにはもう遅い。癖づいてしまったため息を吐き、ふと日付を見遣る。
……ふっ」
 乾いた笑いが、喉の奥で震える。
 もう、誰からも祝いの言葉は届かない。札束で一日を買おうなどという狂った男も、もうこの世にはいない。
 大吾は静かに立ち上がり、二人の眠りを妨げないよう、音を立てずに家を出た。
 外は鈍色の空が低く垂れ込めている。春の気配など一ミリも感じさせない景色を一瞥し、防波堤へと歩いた。
 ポケットから、湿り気を帯びた箱を取り出す。安物のライターを何度も親指で弾き、ようやく灯った小さな火をタバコに移した。
 吐き出した煙は、潮風にさらわれて一瞬で消えていく。
 あの時の熱海の海は、もっと穏やかで、優しかった。それに隣にはあいつがいた。
 空気の重さとは真逆に、夜空は驚くほど澄んでいる。圧倒的な密度の星々と、不気味なほどに大きい月が目前まで迫っていた。
 手を伸ばせば、今度こそ掴めそうだ。
 大吾は、右手をゆっくりと空へ伸ばした。
 五本の指を大きく広げ、ゆっくりと握っていく。
 だが、光は手のひらをすり抜け、大吾の手を白く染めるだけだった。冷たい夜気が虚しく吹き付ける。
「くれるって言ったのに」
 白い息が頼りなく揺れる。呟いた言葉は、荒々しい波の音にかき消された。
 今の自分を、あいつが見たら、一体どんな顔をするんだろう。今度こそ本当に殺されるのかもしれない。
 ふと指先に熱さを感じて、タバコを地面に投げ捨てた。じりじりと踏み消し、ポケットの中に手を入れた。身を縮めても少しも寒さは和らがない。底冷えする寒さに身体が震える。
 重い足取りで家まで戻っていると、視界の隅で何かが揺れたような気がした。顔を上げても、周囲には人一人見えない。
 しかし、暗がりの中に、何かを見つけた。月明かりを薄く反射して微かに存在を主張しているそれは、建付けの悪い木製の引き戸のそばに、寄り添うようにそっと立てかけられている。
 警戒心がないわけではない。丁寧にラッピングされた包みは、ただのいたずらには見えなかった。
 破けないよう慎重に包みを開く。中身は新品のマフラーだった。灰色の世界で臙脂色が目を奪う。それはまさしくあの日のマフラーと同じものだった。
 縋るような思いで周囲を見渡す。
 だが、そこには寂れた村の影が伸びているだけで、人の気配など微塵もない。聞こえるのは、ただただ、激しい波の音だけ。
 それでも諦めきれず、大吾は宛もなく駆け出した。
 あいつが来るはずがない。自分が誰よりも分かっている。それでも足は勝手に進んだ。
 そのうち息が切れてきて、足がもつれる。膝に手をつき、大吾はマフラーを強く握りしめた。昔はもっと遠くまで走れたのに、どんどんと歳を取る。
 震える唇を引き結び、小さく呟いた。
「ありがとな」
 自分勝手な彼を今さら叱っても仕方ない。
 大吾はマフラーを首に深く巻きつけた。潮風の匂いが鼻腔をくすぐり、柔らかい毛足が頬を撫でる。そっと息を吸い込めば、真新しい生地の香りの奥に、あいつの匂いがした。