お昼過ぎまでいた安室も、ランチタイムの客も帰り、気がつけばポアロには梓一人になっていた。人気のないポアロは心なしか薄暗い。シンクに積み重なっていた洗い物もとっくに片付いていた。
要はすることがない、かといって来月の試作に手をつける気にもなれなかった。
時間の流れがいつもより長く感じられるせいか、時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
誰かがポアロのドアを開けるまで。そう決めて、梓はぼんやりと外を眺めた。
窓の外で秋風が街路樹を揺らし、冬の足音を強調してる。家に帰る頃の寒さを想像して、少し嫌気がさした。
見慣れた制服の高校生たちが表を通り過ぎていく。中には安室目当てに度々来店している女子高生の姿もあり、梓は気まずさから目を逸らした。
「どうすればいいんだろう」
ため息と共に、壁を伝ってしゃがみ込んだ。ちょうどレジカウンターの背にすっぽりと隠れて、視界が区切られる。目の前にある物は何一つ動かず、独りぼっちになってしまった気さえする。
梓から外の様子が見えないということは、ポアロを訪れる客から梓が不在に見えることと同じ。立ち上がらないと、と思ったところで、寝不足のまま半日立ち続けた足は言うことを聞いてくれない。諦めて、しばらく隠れることにした。
立ち上がれないのも、寝不足なのも、ため息を吐くのも。原因は一つだった。昨日のちょうど今と同じ時間帯。安室にまかないをリクエストして、作ってもらっていた時だった。
フライパンに注がれた卵液が熱されて、ゆっくりと輪郭を得ていく。そうして宙を舞い、あのオムレツの形になる。その瞬間を見るのが好きだ。だからわざと隣でコーヒーを淹れ、横目に眺めている。
普段となんら変わりのない、ポアロのまかない――休憩タイム。それはきっと、安室が梓の名を呼んだ時点で、崩れ始めていた。
『梓さん』
『はーい?』
『僕、再来月でポアロを辞めるんです』
いつか言われるだろう。そう梓が想像していた言葉を、ついに安室が口にした。
いくら予想していたからといって、動揺しないわけではない。そんな気はしていたとか、そうなんですね、とか。何度も脳内でシミュレーションしていた言葉はどこかに消えていた。
梓の口から零れたのは、たったのひらがな一文字。
『……えっ?』
『色々と……探偵業の方でその、色々とあって』
そう安室は続けながら、黄色のオムレツをまた宙に飛ばした。トロトロに溶けたチーズは、卵に包み込まれてもう見えない。
湯気の立つケトルを持ったまま梓は隣の人に向き直った。よく見れば、普段よりも目元の隈が酷く、心なしか髪がパサつき、シャツの襟がよれている。そしてどこか、ほんの僅かに、何かを恐れているような目をしていた。
何かがこの人に起きている。
彼の言う色々の裏には、沢山のことが隠されている。尋ねたところで、きっと教えてもらえる日は来ないのだろう。どこか諦めにも似た感情を、梓は飲み込んだ。
ケチャップライスが盛りつけられた皿を安室が手に取った。その上に黄色いオムレツが被せられる。特製オムライスの完成を目の前にしているのに、梓は素直に喜べなかった。
『……梓さんが』
再びフライパンに油を敷きながら、安室は続けた。
『梓さんさえよければ、僕の最後の依頼を手伝って……いや、僕の依頼を受けてもらえませんか』
ぱちぱちと油の跳ねる音、無理やりいつも通りに笑おうとする少し疲れた様子の人。思い返せば今までに何回もあったような組み合わせなのに、梓は目を離せなかった。
依頼、の単語に違和感を覚えたのが原因だったのかもしれない。記憶をどれだけ掘り返しても、この人からのお願いはシフトの穴埋めをはじめとした、ポアロにかかわることだけだった。
安室が梓を探偵業にかかわらせることは一切なかった。梓に扮した人に気が付かなくても、梓本人を巻き込むことはなかった。
『その……依頼、って』
この時、梓には内容の想像が全くつかなかった。一介の喫茶店店員には、隠された真相を暴き、見事な推理をすることなど出来るわけがない。
それでも、引き受けてもいい……引き受けたい、と思ってしまった。辞めてしまうなら、依頼への協力だと口実をつけて一緒に過ごす時間を延ばせたらいいと思った。だから、邪な打算でこのよくわからない依頼を受けた。
承諾する前にちゃんと聞いておけばよかった、と思ったところで、今更遅い。
かといって、安室さんはオムレツと不釣り合いなぐらい真剣な目をしていて、迂闊に聞けそうになかった。
『難しいことではありません。もし危ない目に遭ったとしても……僕が守ります』
『……危ないことはしないって、言ってくれた方が安心できるんですけど』
『そう、ですよねえ』
卵液にチーズがゆっくりと溶けていく。薄く、広くがるそれの中に、二人分の言葉が沈んでいった。
カボチャの誤発注に始まり、ポアロで何度も助けてくれたこと。コナンと一緒に誘拐された際に居場所を推理して駆けつけてくれたこと。改めて言葉にされなくても、この人が優しいことは嫌になるぐらい梓は思い知らされてきた。
守るなんて言葉は、熱されたチーズに溶けるなと言うのと同じぐらい、きっと意味をなさない。
それでも足掻くように、梓は口を開く。
『私を守るとか、そういうことの前に、安室さんも怪我しないようにしてくれるならいいですよ』
一瞬きょとんとした後に、困ったように眉を下げて安室は笑って誤魔化した。
そんな会話を経て、梓は安室からの依頼を受けることになった。安室からの返事が気を付けますだったのか、善処しますだったのかは定かではない。
続けて依頼内容を思い出そうとしたところで、カランとドアベルが鳴った。ドアの向こうからは秋らしく乾燥した空気が流れ込んできた。
「あれ、今日休み?」
「オープンってかかってるけど……」
「あ、ごめんなさい。やってます!」
聞き慣れた声に、慌てて梓は立ち上がる。立ちくらみで少しゆがむ視界のまま、なんてことないように三人の女子高生たちをカウンター席へと促す。
「寒かったあ。今日は絶対ホット」
そうだね、と口々に言いながら三人はメニュー表を覗き込む。すっかり暗記していてもおかしくないのに、眺めるだけで楽しいらしい。
ああだこうだと言い合う様子を見て、梓は少し懐かしくなった。制服を着て友人たちとカフェで他愛もない話をしたのも、気がつけば五年以上も前。随分と時が経ったらしい。来週また集まる話が彼女たちの間で上がっているからこそ、余計にそう思った。
「梓さん、注文いーい?」
「もちろん」
三人の前に立ち、横着――ワンオペらしく、ホールへ向かわずにキッチンからオーダーを受ける。
「カフェオレ二つと、ホットコーヒー一つ」
「と、ハムサンド一つ!」
蘭の落ち着いたオーダーに世良の元気な声が被さる。
「え、世良ちゃんまた食べるの」
「仕方ないだろ、お腹空いたんだ」
そう言って頬を膨らませる世良の様子は、どこか幼さを感じさせた。今日はいないあの人へ向ける、探偵らしい鋭い視線は影も形もない。
「あはは、育ち盛りって感じ」
「……もしかして、梓さんもそうだった?」
「私は甘い物の方が多かったかなあ」
園子から疑うような声が梓に投げられる。
「梓さんっぽい」
「ね」
蘭と園子が顔を見合わせて笑う。食いしん坊仲間を見つけた世良は、少し嬉しそうな表情で頬杖をついた。
「ほら。蘭くんや園子くんが食べないだけだ」
「絶対、世良ちゃんが食べ過ぎだと思うんだけど。……なんで太らないんだか」
園子が椅子を後ろに揺らす。呆れたような目はカウンターの斜め上へじっと向けられていた。
「じゃあ、ホットのカフェオレ二つ、コーヒー一つ、ハムサンド一つ」
はあい、と明るい声に梓は頷いて、三杯分の水をケトルに注ぐ。カウンターの壁を越えないように、オーダーの作成に意識を傾けた。
コトコトと揺れていたケトルがついに湯気を吹き、火からおろす。ゆっくりと抽出されるコーヒーの香りがじんわりと、あたりを包み込むように漂った。
この瞬間が好きで、カウンター席を選んでいたのかもしれない。……まかないをカウンターで食べてしまいがちなのも、初めて行くカフェでカウンター席を選んでしまうのも、きっとこの瞬間のため。
「そういえば梓さんさ」
いつの間にか途切れたらしい会話の矛先が、突然梓に向けられた。園子の表情に、嫌な汗が梓の背を伝う。
「安室さんと付き合い始めたって本当?」
一瞬にして、静寂がポアロを支配した。一挙手一投足まで視線を向けられているような気さえして、少し息が苦しい。
ポアロを辞めるまでの二ヶ月間、恋人のふりをしてほしい。その依頼を受けた以上、肯定するのが正解だと理解している。
それでも即座に返事ができるほどの覚悟はなかった。
「あ、それボクも気になってたんだ」
「むしろ、まだ付き合ってなかったの……って」
梓が口を開こうとした時には、もう梓をそっちのけで、三人の間で噂は事実になっていた。
濃いめのコーヒーにホットミルクを注ぎながら、梓は眉尻を下げて笑った。誤魔化すには笑顔が一番だと誰かが言っていた。それにしても、どうしたものか。
悩む梓をよそに、またドアベルが鳴った。
「こんにちは」
「いらっしゃい、コナンくん」
「梓姉ちゃんどうしたの? 困った顔してるけど」
カウンターよりも低い所からの声は、梓の感情を見抜いているようだった。オレンジジュース一つと言いながら、コナンは当然のように蘭の隣の椅子を引き、会話に加わる。
「それがね、コナンくん。梓さんが安室さんと付き合い始めたって聞いて」
「えっ。……本当なの? 梓姉ちゃん」
メガネ越しの視線が梓に突き刺さる。それが隠し事を問い詰める時の安室によく似ていて、梓は内心両手を上げた。やはり、なあなあにして誤魔化すことは、許されそうになかった。
「……そうなの。つい昨日からなのに、よく知ってるね」
「ふふん、女子高生のネットワークをなめてもらっちゃ困るわよ。ねえ、蘭?」
「え? うん……もう、噂になってたし」
カフェオレを受け取りながら、蘭はそう言った。隣では園子が得意げな顔をしている。
「安室さんのあのアピールに負けたとか、梓さんが押し切ったとか……中には絶対嘘だってわかるようなのもあって」
「で、気になって確かめに来たってわけ」
安室さん本人の噂の尾びれ背びれはさておき、一日も経たないうちにすっかり噂になったらしい。噂の出元はどう考えても一人、安室さんしかいない。この三人どころか帝丹高校で広がっているなら、当然のように安室さんのファンにも知られている。安室さん本人に頼まれたとはいえ後が怖くなってくる。
ポアロにいることも忘れて、梓は頭を抱えそうになった。
「でもさあ」
ハムサンドの皿を受け取りながら、世良が口を開く。食べ始める前に話しておきたいといった風だった。
「昨日の夜、女とホテルに消えたって噂もあっただろ? その前だって、色々噂になってた」
「あー、あったあった。金髪の美女を助手席に乗せてたとか」
そんなことまで噂になるのか、と少し寒気がした。そんな梓をよそに、世良は三人の方へ向き直って続ける。
「変じゃないか? 恋人──好きな人がいるなら」
四人の視線がまた一気に梓に刺さる。
オーダーを作り終えてしまった手を、梓は手持ち無沙汰に開いては握り込む。きっとこれを誤魔化すことも依頼の一部……だろう。
この依頼を受けなければ、彼女たちの話題に上がることもなかった。こんなこと知りたくなかった、今後はしてほしくない、と安室さんに言うのは立場違いだ。あくまでふりを頼まれただけで、本当はただの同僚にすぎない。
「……探偵さんの依頼とかじゃないかなあ」
「探偵の依頼、ねえ」
慣れ親しんだコーヒーの香りも薄まったせいか、世良の視線の鋭さからか、梓は浅く息をするので精一杯だった。
「ほ、ほら、毛利さんだって浮気調査とかしてるし、そういうのじゃないかな。ね、蘭ちゃん」
「え? 確かにそう……かも」
世良とコナンはまだ鋭い視線を梓に投げている。何を言ったところで、この二人にはお見通しなんじゃないか、という気がした。
安室さんがいない時に限って、こうなるんだから。今度シフトが被ったらクレームの一つでも入れよう。梓はオーダーシートを一枚めくり、安室さんにクレーム、の九文字をさらさらと書き込んだ。
「ま、梓さんがいいならボクはいいけど。コナンくんもそう思うだろ?」
「……え、ボク? うーん、梓姉ちゃんがいいなら、いいんじゃないかな」
「なんでそこでガキンチョに振るのよ」
「え? あ、あはは、なんとなく?」
話が逸れていくことに少しホッとした。どういうところが好きだとか、どうして付き合い始めたのかだとか、遠慮のないガールズトークが始まったらそれこそお手上げ。恋人のふりを頼まれただけの、ただの同僚はかりそめの恋人のことを熱く語れない。
たとえ、はっきりと内心に恋心を抱えていたとしても。
行動で示していればいいとか、言葉が大事だとか、盛り上がる二人に時折、世良が口を挟む。その脇で、コナンは真剣そうな顔をしながら携帯をいじっていた。
「コナンくんは大丈夫?」
「え?」
梓の問いかけに、驚いた時の大尉と同じような丸いコナンの目が梓に向けられた。コナンは手元を一切見ないまま、指先だけが器用にスマホの上で踊る。
「眉間にぎゅっとしわがよってたから、どうかしたのかなって」
梓がカウンター越しにコナンへ尋ねた直後、車が音をたてて通りを走り去っていった。聞き慣れたエンジン音のような気がして、梓は慌てて窓の外を見た。
「今のはRX―7じゃないよ」
「そう、なんだ。さすがコナンくんだね」
照れくさそうに笑うコナンの様子は他の少年探偵団の子たちとなんら変わらない。梓は浮かび上がった名前もない違和感に気がつかなかったふりをした。
「今、安室さんから頼まれ……出された問題を解いてたんだけど、難しくって。それでうーんって考えてたんだ」
「そっか。どんな問題?」
「えっと、水に濡れても……やっぱり解けるまでは秘密」
「気になるなあ」
「梓姉ちゃんでもだめ」
「じゃあ解けたら教えてね」
「うん!」
やいのやいのと続く三人と、反対に一人考え込む少年。この場には五人もいるはずなのに、梓は一人ぼっちのような感覚がした。
明日のランチの仕込みをするか悩んでいると、梓を呼ぶ声がした。
「……梓姉ちゃん、耳貸して」
コナンの要望に従って、梓はカウンターから身を乗り出す。
「安室さんとのこと、本当は嘘なんでしょ」
真実を解き明かす声に梓の背筋が凍りつく。声が震えないよう布巾を握りしめて、口を開く。
「どうして?」
崖に追い詰められた犯人のように、足が一歩後ずさろうと宙を蹴る。
「そんな気がしたんだ。……あんなに炎上を嫌がってた梓さんが突然、なんでだろうなって」
心底不思議そうな表情に、梓は今更気づかされる。炎上するからそんなに近づくな、誤解されるような発言をするなと口酸っぱく言っていたのは梓だ。それが一転、付き合うなんてことになった日には、あれは全て照れ隠しだったことにされてしまう。
そこにまだ女子高生三人組が言及してこないのは、気がついていないのか、敢えて言ってこないのか。どちらにせよ改めて言われるのは少し都合が悪かった。
「……みんなには秘密にしてね」
「うん。……それでなんだけど、もしかして安室さん、変な依頼受けてる?」
「変な依頼?」
返事代わりにコナンがオレンジジュースを吸った。
「……変というか、難しい依頼って言ってたかな」
「ふうん」
コナンは目を細めた瞬間、げっと言って背筋を伸ばした。
「なあに一丁前にこそこそ話してんのよ」
「えっ!? し……新一兄ちゃんもおめでとうって言ってたよって。蘭姉ちゃんに連絡できてないからナイショでって」
ね、と同意を求められ、梓は慌てて頷く。どうやら本当に黙っていてくれるらしい。この機転の良さにきっと私も普段気がつかされ、騙されているのかもしれない。
「まーたアイツは……なんで知ってるんだか」
「な、なんでだろうね。安室さんも探偵で、仲間みたいだからじゃないかな。あ、あはははは……」
「蘭にも連絡しなさいっつーの。どうせまた、事件がオレを呼んでいる──とか言ってしばらく会ってないんでしょ」
園子が糾弾する声の陰で、また隠れるようにコナンが続けた。
「……もし、何かあったら教えてね。新一兄ちゃんも梓姉ちゃんに何かあったら心配すると思うから」
一瞬、眼鏡の奥が光の反射で見えなくなった。それに気がつかなかったフリをして、梓は曖昧に頷く。
どこまでこの少年は知っているのだろう。抜け目のない探偵、といつかあの人が評していたことを思い出す。疑われたくはない。そう心の底から思わされた。きっと何であろうと隠しきれない。
ポン、と聞き慣れたチャットアプリの通知音がポアロに響く。世良がハムサンドを慌てて口に放り込んでからスマホを開いた。目の動きと共に、咀嚼が早くなっていく。
「どうしたの? 世良ちゃん」
「んー……なんか、早く帰ってこいって」
「じゃあ今日はお開きかあ」
「そうだね。梓さん、お会計お願いします」
「はーい」
そうと決めた三人は、メニュー選びの時と違って動きが早かった。
一人ずつ――蘭とコナンはセットでレジを打ち、会計を終える。またね、の一言とともに賑やかな四人はポアロを出て行った。
また静かなポアロに一人、梓だけが取り残された。
上階の毛利探偵事務所は珍しく静かで、陶器の上で跳ねる水音と空調の音だけがポアロに響く。マグカップ四つにお皿が一枚、使った調理器具。洗い物の量は多くない。
泡と共に冷たい水へ体温が溶けて流れていく。無心で手を動かしていたはずが、段々と昨日のことに思考が傾いていった。
梓が安室の依頼を了承したあと、安室はなんて事のないように、まるで明日のランチメニューを読み上げるような声で、依頼内容が告げられた。
『恋人のふりをしてほしいんです。僕が辞めるまで』
出来立てのオムライスを食べている時だった。半熟トロトロのオムレツと、ホカホカのケチャップライスが口の中で混ざり合っていた時。
つい昨日のことなのに、なんと返したのかよく覚えていない。
『頼めそうな相手が、梓さんしかいなくて』
味のしなくなったオムライスを梓が食べる横で、安室は一人言い訳のように続けた。
『もちろん、ちゃんと報酬も支払います』
誠実そうな声が、不誠実な言葉を並べていく。
『今回のクライアントの恋人が、随分と嫉妬深いらしくて』
恋人のふり。頭の中で復唱する。口の中のケチャップライスと一緒に咀嚼しようにも、それ以上言葉を分解できない。
期間限定の、しかもふりだとしても、安室さんの恋人なんて絶対に炎上する。過去一番の大炎上だ。でも、一度引き受けると言ってしまったからには今更どうしようもない。でも、そんな内容なら先に言ってほしかった。ぐるぐると三つが頭の中を回る。
『すみません、先に言ってからだと断られると思って』
『そ……そりゃそうですよ。炎上待ったなしですし』
そう言いながら、安室はオムライス片手に梓の隣の席に着いた。申し訳なさそうな安室に、梓はとってつけたような冷たい視線しか投げられない。
ポアロでの梓の日々の様子から、梓へこの依頼を持ちかけてもさほど面倒なことにならないだろう、と安室は判断した。ポアロを訪れる客では嘘どころか本物を求めてしまうのは想像に難くない。過去の依頼主へ逆に依頼を持ちかけるのは、小五郎ならともかく、安室には考えにくかった。
それほどうまく恋心を隠せていることへの驚きと、探偵なら見破って欲しかったわがままが梓の中で入り混じる。
トロトロだったチーズは冷たく固まり始めていた。
言い訳をしたところで、引き受けると決めた時の感情はひっくり返らない。口実をつけて少しでも一緒にいられるなら……なんて子供みたいな淡い期待は依頼内容で消え去ってしまった。
考えないようにしている事実が、冷え固まったチーズの塊のように主張する。恋人のふりを頼めるぐらい、ただの同僚にすぎない。なんとも思われていないことぐらい知っている。それでも受け入れられないのが、また恋心というもの。
チーズの塊をスプーンで真っ二つにして、梓はまた口へ運んだ。
『梓さん、やっぱり、その』
申し訳なさそうな安室の表情を前に、咀嚼しかけの物を飲み込む。
『いいですよ。二ヶ月限定でしたっけ。……それで、終わりですよね』
『はい』
終わりの三文字に、安室の目が伏せられた。気がつかなかったふりをして梓は続ける。
『じゃあそれまで、よろしくお願いします』
『……ええ、僕のほうこそ、よろしくお願いします』
カウンター席に二人並んだまま、握手を交わした。大きな手が何を隠し込んでいるのか、梓には想像もつかなかった。
とうに残り半分を切った、オムライスの断面の黄色と赤のコントラストが目に刺さる。また崖を一つ崩すようにスプーンで掬い取った。
『そういえば、何かした方がいいとかありますか? 呼び方を変えるとか』
『基本は普段通りで、誰かに聞かれたら恋人だと言ってください』
あー、と間延びした声の後に、あっさりと告げられた。特別なことは不要、それこそ恋人のような甘さも何もかも。わかっていても、改めて引き直された線は越えられそうにないぐらい強烈に存在を主張していた。
『はあい』
『あとは、締めまでのシフトの時は家まで送らせてください』
『……あんまり今と変わらないですね』
『細かく設定を練ってボロが出ても困るので』
ぬるくなったコーヒーを一口飲んで、安室は続ける。
『それに、全てをウソで固めるよりも、真実を混ぜた方がそれらしく見えるんです』
探偵らしいの返答に、思わず梓は口に入れたばかりのオムライスをそのまま飲み込んだ。普段からそうなのかと問うには、その返答を耳にするには、梓には少しばかり勇気が足りなかった。
『なるほど』
『もしかしたら他にも追加するかもしれませんが、当分はこれで』
ケチャップの甘味とトマトソースの酸味を口いっぱいで味わいながら、梓は頷いた。
洗い物が終わるのと同時に、昨日あった会話の再生も終わった。恋人のような甘さもなければ、堅苦しい書面もない。子供のような口約束。それに、夢を見ている。
梓はすっかり冷え切った手にそっと息を吹きかけた。あの温かかったオムライスも、少し冷めたコーヒーもない。隣を見上げたところで張本人がいるわけもなく、意味もなくため息が漏れた。
窓の外をいくつもの光の線が通り過ぎていく。すっかり日が暮れていた。
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