ふーこ
2026-03-25 22:41:14
20635文字
Public 小説
 

永久を与う

クラリュ(理事長と二世くん)です。
・リュートくんが初めてクラーリィに会った日
・リュートくんを失いたくないと思う理事長、リュート王子を思うリュートくん
・クンチク続き想定の同じ職場の二人が「ずっと一緒」を想う
・クラーリィが初めてリュートくんに会った日

××にはクラの神経を逆撫でするお好きなワードを当てはめてください。

 ボクが初めてクラーリィ理事長に会ったのは、たしかグレートがまだ会話もおぼつかないくらい小さい頃のことだった。
 母さんに手を引かれてうちにやって来た理事長は、どこか緊張したような、自分はここにいるべきではないと言いたそうな顔をしていた。長い金色の髪、足まで覆う黒い着衣。少しも揺らがないその立ち姿はうちの小さな玄関にあまり似合ってはいなかった。
 椅子に座ってと母さんが勧めても、理事長は断ってそこに立ったままでいた。父さんが「××が来たぞ」(意味を知らない言葉だったので頭に残っていない。何と言っていたかはもう忘れてしまった)と言うと、理事長は額に青筋を、手の平に閃光を浮かべて父さんに振りかぶっていた。そんな風に会話こそしていても、どうあっても長居するつもりはないようだった。後から知ったことだけれど、このとき理事長は魔法兵団を率いてうちの周辺の調査に来ていたらしい。撤収の準備をしている間、母さんは理事長に手土産の一つでも持たせようとしたようだ。
 
 母さんがキッチンに向かい、父さんがぐずったグレートの面倒を見にいっている間、理事長は窓の外を見て黙って立っていた。何も言わないから怒っているみたいだった。兄さんたちにくっついて挨拶をしようと近づいてみたけれど、どこまで見上げてもなかなか顔が見えなくて余計に気持ちが読み取れない。理事長は背が高かったのだ。
「こんにちは」
 思い切って声をかけてみると、理事長は片膝をついてボクたちに視線を合わせてくれた。その仕草には近所の人たちのような気さくさこそなかったものの、怖い人じゃないし怒ってもいないんだというのはすぐに分かった。
 村には日頃から装身具を付ける人が少なかったから、長い髪の奥できらっと揺れたイヤリングを珍しく思って見つめながら、ボクは魔法の閃光のことを思い出していた。そのイヤリングから似た力を感じたのだ。
 
「魔法つかえるの? すごいね。母さんとおんなじ」
 今にして思えばスフォルツェンドの司聖官に何を言っているのかと不興を買いそうな質問だったけれど、理事長は怒りもせず呆れてもいなかった。代わりに、一緒にいた兄さんたちの方が先にボクを窘めた。
「愚問だ、リュート。クラーリィさんはスフォルツェンドという魔法大国で一番の実力者だぞ」
「実力者っていうのはな、魔法で戦うのが強ェってことだ」
 理事長は少しだけ笑って兄さんたちの頭を撫でて、それからボクを見た。取るに足らない子供の言葉に、ボクの言葉に、誠意をもって答えようと考えてくださっていたのだ。
「そうだ、魔法が使える。使えるようになった。憧れていた人と、守りたい人がいたからだ」
 金色の髪の隙間から見えたその瞳を、なんてきれいなんだろうと思ったのを、よく覚えている。
 

 
 本人に魔法の実力があることと指導能力が高いことは必ずしも両立するものではないが、その点クラーリィはどちらにも長けていた。
 頭で理解する魔法理論はもちろんのこと、感覚に依るところの大きい法力の使用についても演習を通して叩き込むことにぬかりはない。人に教えることが出来るのは彼自身が学び方をよく理解しているからだ。
 とはいえ彼と同じだけの努力を継続して実践できる人間は稀であるが、魔法学校において直接クラーリィの指導を受けるのは指折りの優秀な生徒であるから、少なくとも基礎的な段階でつまづく心配は皆無である。筆記、実技両方の厳しい試験を通過して選ばれた生徒たちは向上心も強く、高等技術を学ぶことに真剣で貪欲だ。打てば響く生徒ばかりでクラーリィも教え甲斐があった。
 そんな精鋭揃いのクー・クルセイダースの中でも特に抜きんでた者というのがいつの時代も必ず一人は存在する。今の代で言うと、それはキャプテンを務めているリュートのことだ。
 キャプテンに選任された生徒には訓練計画の立案や新人教育の指揮といった業務が任ぜられることも多い。最終的な認可は責任者から下りるため、必然的にクラーリィとの関わりも他のメンバーよりも多くなる立場だ。
 厳しく冷静で国一番の法力と権威を持っている人間。携わる実務も数知れず、出来ないことは何もないと言われる彼との会話は多くの生徒にとって緊張の瞬間でしかなかった。理事長室の重厚な扉をノックするまでの心の準備にだって時間がかかる。身だしなみを整えて深呼吸をし、報告内容を頭の中で反芻して、ようやく扉を叩き入室の許しを請う。それもキャプテンに課せられた試練のひとつだ。
 
 しかし多くの生徒達を苛む緊張の試練も、リュートには無縁の話であった。その日、放課後になり日も傾いたころ、クラーリィがノックに応えると開いた扉の隙間から身軽な少年の姿が覗いた。
「失礼します。クラーリィ理事長、次回の飛行訓練の編成案を作ってきました。見ていただけますか?」
 机へ歩み寄る動作も軽やかなら、瞳にも明るい期待の色が窺える。きっちりと足を揃えてクラーリィの対面に立ち止まると、リュートは背筋を伸ばして書類を差し出した。
 リュートにとってクラーリィはひたすらに憧れの先生だった。そんな彼から指導を受けるとなれば、リュートの中には緊張を上回って期待と喜びが湧く。何かをひとつ習得する度に、好奇心が満たされていく。魔法が楽しい。法力が自分の外へ出て世界に作用していることが、だんだんと当然のようになっていく。自分がどこまでやれるのか知りたい。強さを、手に入れたい。
 クラーリィといるとリュートは自分の進むべき道が拓けていくような気がした。険しい道の進み方を示し、先に光をかざしてくれる先達のように思うのだ。尊敬の念に胸を高鳴らせながら、リュートはいつもクラーリィの歩んできた道はいったいどんなものだったろうかと想像してみては、果てのないことをしているような気分になった。
「ご苦労」
 クラーリィはリュートを一瞥して書類を受け取り、手袋をした指先で紙の端をゆっくりと撫でた。リュートはそれをなんとなく目に入れて、洗練された大人の仕草ってこんな感じなんだ、と思った。
「前回の訓練で指摘された点をふまえて作りました。今回の編成の根拠も一緒に記述してあります」
「よろしい、書式も問題ないな。近日中に確認しておく」
 クラーリィは受け取った書類を机の上にある束に紛れ込ませた。声色はいつも固く、必要以上のことをにこやかに語ったりなどしない。彼がそういう態度でいると多くの生徒は怯えと緊張を含んだ礼儀正しさを発露して踵を返すが、ここでもリュートは例外だった。
「ありがとうございます。それから、本をお借りしてもいいですか? 魔方陣学の論文課題で引用したいものがあって」
「ああ、構わん。好きに見ていけ」
 理事長室の本棚はもはや壁だ。図書館に劣らずびっしりと本が詰まっていて、許可が下りれば生徒もそれを閲覧することができる。高い所にある本を取るときはもっぱら魔法を使うのだが、それと狙いを定めずに本を探す時は梯子に上って目で見るのが手っ取り早い。
「たしか以前、この本棚からお借りしたはず……
 リュートは梯子にのぼり、ある程度の目星を付けた辺りで本の背を一通り見て、お目当てを見つけられずにもう一段のぼってを数度繰り返した。
 クラーリィはこうしてリュートが部屋にいることを邪魔だと思わなかった。種々の書類に目を通しながら、梯子の軋む音や、リュートが迷い気に「えーっと」と呟いている声を悪くないものとして耳にしている。リュートがそれを望むならずっとそうして本を探しては読んでいたっていいと思っていた。
 書類を注視している視界の端で、窓から差し込んだ西日がときおり塵に反射して空中が小さく輝いた。いつもは気になりもしないそれに気を取られて顔を上げると、向こうに真剣な子供の横顔が見えて肩の力が抜けてしまう。頬にかかる暗色の髪、知性と好奇心の輝く瞳、細身の体躯。彼には亡きリュート王子の面影を認めざるを得ない。
 クラーリィの思い出の中のリュート王子はよく笑っていた。抱き上げてくれた手の優しさと力強さ、子供を喜ばせる大ぶりな動き、春の陽射しのようにあたたかな日々のことをよく覚えている。リュートを見ているとどうしてもそれを思い出してしまい、胸が熱く痛むような、愛おしさが余って悲しいような、制御の埒外にまで感情が膨らんでいくのだが、その心地よさと心許なさは今この場で追い求めるべきものではないと分かっていた。それ以上の追憶を断ち切って、クラーリィは眉根を寄せた。
 そのとき、リュートが本の背を順番になぞっていた指を止めて短く喜びの声を上げた。目当ての本を見つけたのだ。にっこりと持ち上がった頬には髪がくすぐったそうに揺れていて、優しくまなじりの下がった顔はますます彼の伯父であるリュート王子に似て見えた。
「理事長、見つけました! こちらをお借りしたいのですが……
 理事長、と呼ばれてクラーリィははたと気を取り直した。示された本はクラーリィが若い頃からよく読んでいるものだった。教え子が参考文献として適切なものを選び取ったと認めて僅かに口の端を上げる。
「その本を読むなら、もう何冊か一緒に持って行くといい。同じ段に一冊と、ひとつ上の段に、たしかもう一冊……方陣の本があるはずだ」
……理事長って、ここにある本のことを全部覚えているんですか?」
「当然だ」
 少しも自慢気でない返事だった。この知識量と記憶力がなければ、そしてそれを誇って満足するような心を捨てなくては、この人のようにはなれないのだろうか。リュートは少し気が遠くなった。
「なんだ? 言っておくが、図書館の蔵書となるとさすがに全部は分からんからな。司書のように思ってアテにするなよ。ここにあるのは私物だから把握しているだけだ」
「それでも十分すごいと思いますけど……
 リュートは片腕に本を抱えて、再び本棚に向き直った。まずは同じ段にある本を抜き取り、次は上の段に顔を向ける。クラーリィの本棚はどこも変わらず整然としていて埃が少しも積もっていない。掃除は誰がどうやってしているのだろうと、そんなことを少しだけ不思議に思った。
 それでも、この辺りは下の方よりも構われることが少ないのだろうというのが窺えた。ぎっちりと詰まった本は最近開かれたという気配もなく、古くて書名もよく読み取れない。中身を見ないことにはこれが目当ての本なのかどうか、リュートには判断がつかなかった。
 とりあえず引き抜いた一冊を開いてみると、魔道書であることに違いはなさそうだったが、単語や言い回しが古い箇所が多く内容がはっきりと分からない。リュートの実家にあった魔道書と似ているが少し毛色が異なるようだ。クラーリィに尋ねてみようかと視線を向けたが、集中して書類を読んでいる様子だったので声をかけるのは遠慮することにした。
 少しだけこの梯子の上に滞在することを容赦してもらおう、とリュートはそのまま序文に目を通した。現在ではあまり聞かない言葉や古代語に近いニュアンスも多く見られる。まさかこんな課題に対面するとは思っていなかったから辞書は自室の机に置いたままだ。こうなったら頼れるのは自分の頭しかないと腹を決める。
「えっと……。本書は……に、おける……。詠唱……じゃなくて、魔法術者、かな。魔法術者をして、全き……を保証し……しからしめる……ものにあらず」
 とにかく正確に読める部分をつなげて呟いていると、その古めかしい本はリュートの手の中から忽然と消えてしまった。本の重さを失って持ち上がった両手をそのままに、リュートは慌てて辺りを見渡す。まさか落としてしまったのだろうか? けれど床を見てもそれらしいものを見つけることは出来ない。そもそも取り落とした感覚もなかった。突然、消えてしまったのだ。
「ここだ」
 固い声がした。リュートが目を向けると、椅子から立ち上がったクラーリィの手の中にその本は収まっていた。取り上げられたらしいと気が付くと同時に、その声が怒気を孕んでいたように感じてリュートは体を強ばらせた。
「中身を確かめようと思って。もしかして、見てはいけないものでしたか」
「そうだ。この本棚を見に来る生徒は少ないから油断していたな……今後は管理を改める」
 クラーリィはその本に封印の魔法を施すと机の引き出しに入れた。そこを暴こうという蛮勇は発揮させないにしても、リュートの興味は失せるはずもなかった。
「いったい何が書いてあるんですか?」
「知る必要はない。おまえの目当ての本は……それだ」
 クラーリィの言葉に合わせて一冊の本が並びの中から抜け出て、リュートの腕の中に着地した。疑う余地もないが確認としてページをめくってみると、魔方陣の構成要素について論じられていることが見て取れた。
 リュートは梯子を下りながら逡巡した。鼓動は好奇心と緊張に早まっていく。さっきの本のことをもう一度だけ尋ねてみようか。だけどそんなことをしたら、分をわきまえていないと怒られるだろうか。いよいよ最後の一段を下りてやわらかな絨毯に両足をつけたとき、リュートはやはり探究心に背くことが出来ずに口を開いた。
「ずいぶん高等な魔法について記されている感じでしたが……
 返事は鋭く冷たい視線だった。リュートは思わず唇を引き結んで、突き放すようなその威圧に耐える。
「禁術書だ、おまえが学ぶべきものではない。これ以上同じことを言わせるな」
 クラーリィは椅子に掛け直し、それきりリュートに視線すら寄越そうともしなかった。リュートは今度こそ他の数多の生徒と同じように、緊張と萎縮を抱えて理事長室を後にするしかなかった。
 
 扉が静かに閉まりきったのを感じ取ると、クラーリィは短く息を吐いた。
 むきになるつもりではなかった。のびのびと過ごしていた子供をあんなに落ち込ませて出て行かせるような振る舞いをする気などなかったのだ。けれどリュートが件の本を持っているのを見た瞬間、肝が冷えた。
「ずいぶんと過保護なことだ」
 ひとり言は、半ば自嘲だ。かつての自分はそこに記された禁忌の自己犠牲を選び取って行使しようとしたというのに、リュートには万が一にもそれを使って欲しくないと願った。
 あるいは、時代が変わったのだ。今の世にこれを身につけるべき子供はどこにもいない。いてはいけない。クラーリィは義手の指先で机を叩きそこで思考を打ち切った。封印を固くかけられた本はクラーリィの机の中で沈黙していた。


 大人ってそうなんだ。と、自分でも呆れてしまうような子供じみた思いにリュートは眉を寄せた。五日ぶりに会った師の態度についてである。
 クラーリィが冷たくリュートを追い出した日からしばらく顔を合わせる機会がなかったことに、はじめは少し安心していた。気まずい思いをしなくていいと思ったのだ。けれど一日、二日と間が空くにつれて「次に会ったとき余計にどんな顔をしていいか分からないじゃないか」と気が付いてからはそれにばかり気をとられていた。
 だからといってどうすることも出来ないまま、訓練の打ち合わせを行う日を迎えてしまった。後悔や気まずさをどれだけ自分の中でかき混ぜていたって意味がないと分かっているけれど。理事長室の前で黙って自分の爪先を見つめているのにも限界を感じてようやく意を決して入室したリュートに、クラーリィはいたって平生と変わらぬ態度で話し始めたのだった。
「遅かったな。また魔獣の面倒を見るのに夢中になっていたか? ……まあいい。飛行訓練はおまえの編成案で行うぞ。次回の日程は来月だったな」
「えっ……は、はい」
 肩透かしをくらって、リュートはやっと返事を一つ返した。
 先日、無遠慮な好奇心を咎められたと思ったのは間違いではないだろうが、今日まで尾を引くようなことではなかったのだろうか? あの時のクラーリィの剣幕を思い出すとなんとなく釈然としないが、大人ってそういうものなのかもしれないと妙に納得もした。そしてその納得は、リュートの気まずさを少しだけ和ませた。
「あの、その前に少しだけ……。この間はすみませんでした。もう怒っていませんか」
 クラーリィは少し意外そうに眉を上げた。歳を重ねると、抜き身の感情で渡り合うことは少なくなっていく。こうして改まった確認の言葉を投げかけられるのは新鮮だった。仲直りだなんて馴染まないが、なにもクラーリィは元々リュートに対して怒っていたのではないから張り合う材料は一つもない。
……そんな風に縮こまらせるつもりはなかった。だが、アレはどうにも、おまえには――
 リュートは言葉の続きを待った。焦りや怒りの裏には時に秘密が隠れているものだ。クラーリィが隠して遠ざけたものは何であるか、その答えが得られると気取って集中した。
 深い一呼吸分の沈黙があった。どう言おうとしても、翠の湖から掬った水が手の中で色を失うようなもので、変容している気がしてならなかった。やがて椅子から立ち上がったクラーリィに、リュートは少しの緊張を滲ませた真っ直ぐな視線を向けた。
「おまえは、魔法を学ぶのを楽しんでいる。花や動物……魔獣もそうだが、そういったものが好きだ」
「え、ええ。そうですね……?」
 答えた語尾が思わず上がる。クラーリィもいまだ、掬い上げた言葉の色を探ってよく確かめているようだった。
「多少抜けてるところもあるが、いつも懸命で……。両親や兄達のことを尊敬し、弟妹をかわいがって、愛している」
 褒め言葉だろうか。どう返事をしていいか分からなくて、リュートは曖昧に小さく俯いた。クラーリィは一歩距離を詰めてその顔を改める。
「おまえが、例えば命をかけるほどの使命感や苛烈さを抱いていたとして……。そのために、おまえが愛するものを永遠に失い、おまえに愛された者がおまえを失うのは……やるせないよ。あの本に記されているのは、命を代償にする自己犠牲の魔法だ」
 そう言ったクラーリィの瞳が見ているものをリュートは推し測ることができずにいた。手の届かないほど遠くを見つめているようにも思えたし、目の前にいる自分のことをひたすらに見つめているという気もした。
 この部屋にある本の内容をクラーリィは全て把握している。リュートはそのことを思い出して唇を噛んだ。固く握った拳の中で爪が手の平に食いこみ、ぎりりと痛む。好奇心で触れたことを咎められても何もおかしくないと思った。
 今度はリュートが言葉を探す番だった。再び少しの沈黙が二人の間に流れた後、ふとクラーリィは口の端で小さく笑ってみせて、リュートの頭を軽く叩くような調子で撫でた。
「なんて顔してる。まあ、序文もつっかえずに読めんうちは魔法の習得など夢のまた夢だな。取り上げたのは心配性が過ぎたか?」
「そ、それは……! その、言い訳のしようもないですけど」
 リュートはクラーリィが気遣ってくれたのだと分かった。師の前で自分はいつも未熟でいる気がして決まりが悪かったけれど、僅かに緩んだ空気のその隙間でリュートはクラーリィの言葉を反芻した。
 命をかけるような使命や苛烈さの種はずっと自分の中に眠っているように思われた。それが芽吹くも腐るも、どちらも同じくらい恐ろしいことのように感じる。同時に、クラーリィの真心もまたリュートの胸中に反響していた。リュートは今一度クラーリィの言葉の後ろにある彼の人生を想像してみようとしたが、やはり上手くいかなかった。
 強い信念があるからこそ誇り高く厳しい冷たさを持っている人だ。きっと多くのものを失って、それでも何から目を逸らすこともなく今を生きている人々を見守っている。いつかその眼差しの先から自分が抜け出していくことを考えると胸が痛んだ。もしかしてクラーリィも同じように痛みを感じるかと思うと、尚更だった。
「でも……もっと勉強を重ねたとしても、その本を読んでみたいとは言いません」
……そうだな」
 クラーリィの微笑はどこか寂しげだ。リュートはその瞳にずっと自分が映っていることを心の奥で夢想した。スフォルツェンドの平和が破られる、少し前の日のことだった。



 天駆ける馬車には、戦禍によって割れた石畳も未舗装の道も関係ない。
 魔法大国においてもそれの使用を許されるのは国の中枢近くにいる者だけだ。靄のかかる早朝、クラーリィの使いでゆっくりと魔法学校の敷地に降り立った馬車からは、布に巻き付けられた大きな荷物が下ろされた。魔法学校襲撃により明るみに出たグローリアーの悪しき企みから、スフォルツェンドがようやく平穏を取り戻した頃のことであった。
 その日、理事長室の壁に二つの肖像画が戻った。聖者の姿を描いたそれは神々しさを湛えながら、どこか親しみも感じさせる。壁材や土埃をかぶった絵画と額縁は丁寧に修繕され、同じく整え直されてなめらかな平面を取り戻した壁に飾られた。クラーリィはそれを朝の薄い陽射しの中で見上げていた。想っても想っても遠く、それでいて自分のすぐ近くにある力の源であるとも感じた。不思議な感覚だった。
 そうして心を遠くに飛ばしていたせいだ。ノックの音に気が付くのが遅れ、返事を待ちきれなかった来訪者が遠慮がちに扉を開いた。校舎の建て直しの協力を申し出た生徒有志だった。これから作業を進めるという報告を手短に終えると、彼らはすぐに理事長室を後にして持ち場へと向かった。
 その内の一人であったリュートは、扉が閉まりきる前にクラーリィの様子をもう一度窺った。恭しく退席の挨拶をするように肖像画から目を離して、机に向かっていく後ろ姿が見えた。

 魔法学校の本校舎をぐるりと囲む建物は、城壁のようでもあった。屋上を渡って歩くこともできるので通路として使われることもしばしばあったが、一度破壊の限りを尽くされたその場所を歩き回る影は、今は修繕に取りかかっている者の他にはいない。
 魔法学校の復旧は、大きなところではこの外周を残すのみとなっていた。積みかけの煉瓦の壁には小鳥が集い、一生懸命に首を動かしては周りを見回してなにごとか鳴き交わしている。遙か下方では、校舎の周りに大工や職人、教員や一部の生徒が集まって各々の仕事をしていた。太陽はすっかり高く上り、小さな影が彼らに付き纏っていた。
「そこにいると危ないよ」
 小鳥はその声の方に顔を向けたけれど、それ以上警戒もせずにそこらを小さく跳ねた。「困ったな」と笑いを溢したのは、魔法を使って煉瓦を積んでいた青年、リュートである。
「キミ達が飛んでいくまで、少し休憩……かな」
 リュートは浮かせていた煉瓦や鏝を足元に下ろして、小鳥たちの隣、作りかけの外壁の縁に腰掛けた。遮るものがない高所で風は容赦なくリュートの髪を乱し頬を冷やしたが、それが心地よかった。
 こうして作業の手を止めている間、リュートが思うのはクラーリィのことだった。深い傷を負った彼も今は以前の業務に戻ることができている。今日も校舎で理事長としての業務を執り行っているようだが、リュートはその姿を朝に一度見たっきりだ。もしかして外で作業をしている人の中にいないかと目を凝らしてみるが、流れるような金色の髪を持つ師の姿は見つけることが出来なかった。
 今、クラーリィ理事長は何をしているだろうか。手慰みに制服のポケットにしまっていたステッキを指先でくるくると回す度に、小さな祝砲や、花火や、星がその先端から次々に飛び出した。リュートが無意識に繰り出しているのは弟妹たちをあやす時によく使った魔法だ。もうこれで喜ぶほど小さな年頃の子供は彼の身近にいないが、すっかり身に馴染んでしまった。

 リュートは同じ名前の伯父の姿をぼんやりと思い浮かべた。肖像画でしか見たことがなかったので、額縁の柄まで一緒に思い出している。リュートにとって伯父は静止した絵の中にいる存在だった。
 クラーリィの言葉や瞳は、時に彼の中に蓄積している過去に向いていた。此度取り戻されたスフォルツェンドの平穏を、先代の女王や王子にもきっと語りかけたことだろう。そう思いやると、リュートはもやを掴むような手応えのない気分になる。
 ステッキの先から花びらが次々と現れ、空中で花の形になっては風に流されながら下に落ちていった。魔法を繰り出す手の中に強い力を感じる。リュート王子が使っていたという錫杖に埋め込まれていた石の一部がある場所だ。リュートは、動いている姿も声も知らない伯父のことを、それを通して想った。
「伯父さんも、こういう魔法が好きだった?」
 手の中が熱くなった気がした。リュートは母やクラーリィから聞いたリュート王子の姿を想像してみた。優しくて、強くて、子供好きで、笑うと人の心まで明るませるようなお兄さんだったという。そんなに立派じゃないけど、弟や妹がかわいい気持ちはボクも分かるな、と微笑む。返事はどこからもないけれど、想像でしかないけれど、リュート王子と話をしているような気になった。リュート王子の前では、母も、あの厳しいことで有名な理事長までもがかわいい子供だったというのだから、どこか嘘みたいな話だ。
 ステッキの先から星のくす玉がいくつも現れて、弾けながら下へと落ちていった。空中に足を遊ばせていると、爪先の向こうで星のひとつが弾けた。ちょっと足を伸ばせばそれに届きそうだった。最近リュートは背が伸びたのだ。
 そうはいっても昔より緩やかな成長だ。一番伸び盛りだった頃は兄のお下がりがどんどん舞いこんできたし、母からは「制服を仕立て直す魔法があれば便利なのにね」なんて言われたこともあったが、その頻度も減っている。身長が伸びるのもそろそろ打ち止めだろう。リュートは間もなく成年になろうとしていた。

 肖像画も、語られるリュート王子の思い出も、全部少年の姿だ。彼はそこで時を永久に止めてしまった。自己犠牲を選ぶことすら許されなかったという。
 やるせないよ、と言ったクラーリィの声がリュートの中に蘇ってこだました。リュート王子に愛された者たちも、降り注がれる愛を永久に失ってどうしようもない思いだっただろうか。
 リュートは膝を抱えて肩に頬を寄せた。クラーリィの言葉が湧き出した根源を思うとどこまでも寂しく、リュートもまた、やるせないと思った。クラーリィがスフォルツェンドの守護者となっているのは、彼自身が国を愛しているのはもちろん、彼の愛する者が守った命に溢れているからだ。クラーリィの誇り高さと深い愛情は連理の枝のようだった。
 ステッキを振るう。鳩が飛び立ち、色とりどりのリボンや紙吹雪が風に攫われて彼方へ流されて行った。何とはなしに目でそれを追いかけると遠くにスフォルツェンド城が見えた。距離が離れすぎていて子細は分からないが、城の周りには街が広がり、合間に樹木の緑も青々とたくましく復活している。いくつかの区画を過ぎると、やがて魔法学校を取り囲む学都にさしかかる。どこにだって人々の生活がある。生まれ育った故郷とは異なれど、この国を美しいなと思った。
 抱えていた足を解放して、腕の伸ばせる限り大きくステッキを振るった。ふーっとストローを吹いたようにシャボン玉が溢れて辺りがキラキラと光った。虹色の反射も、パッと消えてしまうことも、くっついて連なるのも、合体して大きな一つになるのも、全部魔法の力でも働いているかのようだ。ずっとその行方を見守っていたくて目が離せなくなるほどに綺麗だった。

「よほど休憩を楽しんでいるようだな」
 突然背後から聞こえた声にリュートは驚いて声を上げた。彼の隣で遊んでいた小鳥も、それでいよいよ飛び立っていった。
 振り返るとクラーリィが腕を組んで立っていた。瞬間移動の魔法は彼の得意とするところだ。現れる時には必ず予兆があるものなのに、リュートはそれに気が付かなかった。シャボン玉を見るのに夢中になっていたのだ。
「クラーリィ理事長! どうしてこちらに?」
 クラーリィは眉間に深い皺を刻んでいて、短いため息には「どうしても何もあるか」という感情がこれでもかと乗っていた。手袋に覆われた指先はリュートの足元、建設中の壁の下を示している。目を向けると、遙か下方の地面にはモグラにもナマズにも似た、とにかくのっぺりとした顔に似合わず鋭い牙と爪を持った魔界生物が徘徊していた。幸いにも周囲に人影はなく、襲う相手がいないそれはぐるぐるとその場で回っているばかりだった。すわ敵襲かとリュートが目をこらしてその姿をよく確かめると、どうも自分が召喚したらしい気配がして青ざめる。
……わーっ! 無意識に召喚してました! 花や鳩なんかと一緒に!」
「そんな危険極まりない無意識があるか! 早く還せ、アレが人を襲ったら今年の卒業を取り消すからな」
 リュートは慌てて下方に手を翳し送還を行った。そのとき魔界生物があげた断末魔の如き悲鳴はしばらくの間「魔法学校新校舎の怪談」として語り継がれることになる。
「まったく、オレがすぐに気づいたからよかったものの……。変なものを召喚するクセをなんとかしろ」
 頭をこづかれてリュートはぎゅっと肩を縮めた。それから、ふと疑問を浮かべる。周りに人もいなかったはずなのに、クラーリィはどうしてアレに気がついたのだろうか。
「すみませんでした。もしかして、理事長は結界を張っていたのですか? すぐに気が付くなんて」
 熟練した魔法使いは、侵入者を気取るために結界を使用することもあるという。尋ねられて、しかしクラーリィは答えにくそうに遠くへ視線を移した。その先にはスフォルツェンドの街並みがあり、リュートが飛ばしたシャボン玉も風と戯れている。
「窓から、シャボン玉が見えた……。その元を辿っていただけだ」
 それはクラーリィが生まれて初めて披露した“魔法”だった。ホルン女王とリュート王子の肖像画が戻った日、外にシャボン玉が見えたのはあまりにも出来過ぎていた。
 出所を確かめようと窓を開いたとき、吹き込んだ風に乗った一つがクラーリィの鼻先でぱっと静かに弾け、脳裏に幼いころの幸福な思い出が過った。王子の周りに集まっていた子供達の声、はしゃいだ足音、城のバルコニーに吹いていた風の穏やかさ。
 真っ白な神官服はしゃがむと優しくたわんで皺がつく。そうやって目線を合わせてくれたリュート王子の目はいつも嬉しそうに輝いていて、リュート王子が嬉しいと、クラーリィの心もまた嬉しくなった。

 ああ、いったい誰だ、こんな日にシャボン玉なんて飛ばしているのは。
 風上に目を凝らしてリュートの姿を見つけたとき、クラーリィは彼の顔を見たいと思った。顔を見てどうするというのか。その先を考える余裕もなく魔法を発動させていた。どうしてと問うなら自分の心よりもリュートに尋ねてみたかった。どうしておまえはオレに優しい過去の記憶を思い出させるのか。

 それでやって来てみれば化け物が召喚されていたのだから、気が抜けた。それがリュートらしいとも思ったし、衝動的にここにやって来てしまったことへのちょうどいい言い訳ができてどこか安心もしたけれど。
「昔、グレート達をあやすときに使ってた魔法をクセで出しちゃってたみたいです」
……彼らは喜んだことだろうな。おまえのシャボン玉はずいぶん長持ちだから、ずっと眺めていられる」
 視線の先にはいまだ大小のシャボン玉が流れ、七色に景色を彩りながら映していた。目を輝かせてそれを追いかける子供たちの姿が自然と思われる。スタカット村の豊かな緑を踏む子供の靴が、短い草や乾いた土を跳ね上げたことだろう。
 リュートはとびきりの笑顔で頷いて応えた。ただ、この顔が見たかったのかもしれない、とクラーリィの胸は愛おしさに溢れ、笑おうとも思っていないのに勝手に頬が緩む。
「さて、休憩の邪魔をしたな。修繕は職人が中心の作業だが、魔法を専門に使える者がいると何かと助かる。引き続きよろしく頼むぞ」
 訪れた時よりも随分と和らいだ雰囲気を纏ってクラーリィはその場から消えた。リュートは師の立っていた場所を名残惜しく見つめていたが、小さく頭を振って気持ちを入れ替え、両手で頬を叩いた。頼むぞと任されたのなら、頑張らなくてはいけない。
 ふたたび鏝を浮かせて自在に動かしながら、リュートは校舎の周りの様子を見ていた。各所への伝達や魔法を使った作業の補助など、魔法学校の関係者も忙しなく走り回っている。教師、生徒にかかわらず、ここしばらくの混乱した状況の中で故郷や周辺諸国へ離れた者も多かった。人手は以前よりも少なくなっているのだ。
 ボクにできることはないだろうか? リュートはそわそわとした気持ちで唇をきゅっと引き結んだ。
 この作業が終わったら応援に向かうことを決めて、まずは目の前の自分の仕事に向き直った。話し声がときおり風に乗って微かに耳に届くのが心地よかった。遠く遠く、スフォルツェンドのどこかで鐘が鳴っていた。



 魔法学校を卒業した者はそこで得た叡智と実力を携えて故郷に帰還するか、あるいは魔法兵団に入隊する場合がほとんどだ。つまりはこの学都を離れていくのが多数派なのだが、リュートの居場所は変わらなかった。
 卒業した次の季節も彼はスフォルツェンド魔法学校の門の先にいた。変わったのは肩書きだけだ。リュートは生徒としてではなく教師としてそこに立っているのである。
 十分に見慣れた光景も立場が変われば多少違って見えるから不思議なものだ。もう学生達が連れだって歩いている中に交わることもなく、師に付き従い教えを請う時間もない。これからはリュートがかつてそうされたように、彼自身が子供達を見守り導くのである。道を照らして示し、望む先へ向かっていける力を授ける立場だ。
 
 初めの一か月は怒濤だった。授業の準備や職員会議、テスト作成や成績付けなど、授業以外の時間も慌ただしく過ごし、本来は休日である今日も教員執務室へと出向いていた。教師の仕事は、魔道書から魔法を学ぶときのような明確な道筋を求めるのが難しい。長い歴史の中である程度のセオリーはあるといっても、人を、子供を相手にするのは簡単なことではなかった。
 日が傾くまであれこれと悩みながら仕事をこなし、区切りがついたところでリュートはうんと伸びをした。合わせて深く呼吸をすると、体に血が巡っていくのを感じた。集中が途切れると一気に疲れがのしかかってきた心地がする。
 今日はここまでにしようと決めて書類の束を片付け始めると、その中に一枚、理事長の決裁を残している書類が紛れていることに気が付いた。
「理事長……
 リュートは人気のない執務室で小さく呟いた。しばらくゆっくりと話す機会もなかったけれど、もしかして今日も学校にいらっしゃるのではないだろうか。リュートの胸に淡い期待が灯った。いつ見ても仕事をしているクラーリィのことを心配に思う気持ちはあるが、顔を見られたらいいなと今日ばかりは自分勝手を思ってしまう。
 そうと決まれば、生徒のいない廊下を歩いて足取りも軽く理事長室へと向かう。なんだか学生の頃を懐かしく思った。こうして何度も理事長室へ向かったものだが、それはもう戻らない過去の中にしかないのがどこか寂しく奇妙な感覚だ。窓から差し込む西日は校舎とリュートをまとめてやわらかなオレンジ色に染めあげて、懐旧を誘った。

 ノックをするとすぐに返事があった。重い扉を開いて覗き込むと、机に向かって今日も相変わらず仕事をしていたらしいクラーリィの姿が目に入った。
……誰かと思えば、リュートか」
「失礼します。ボクも仕事をしていたんですが、もしかして理事長がいらっしゃるかと思って……。決裁をいただきたい書類があったので持ってきちゃいました」
 クラーリィはリュートから書類を受け取って、指先で紙の端を伸ばした。それからふっと緊張を緩めて背もたれに体を預ける。
「そういえば、おまえが就職してからなかなか話す機会がなかったな。新任教師は大変だろう」
「まだ慣れないことも多くて大変ですけど、楽しいです。ボクはこういうの、好きなんだなーって」
「意外だとは言わんが、おまえが教師とは。ともあれここに就任したのはめでたいことだな」
 生徒だったころから少しも変わらない空気の流れるこの理事長室で祝いの言葉をもらったのは、リュートにとっては思いがけない喜びだった。まだ子供だった自分がクラーリィから厳しくもあたたかく見守られていたことを思い出すと、もどかしいくらいの照れくささと嬉しさを感じる。
 師の表情と声音には穏やかな思いやりと喜びが滲んでいた。憧れた背中を追うように新たな道を歩き出す、そのはなむけとしてこれ以上のものはないと思えた。
 きっと耳が赤くなっているだろうと思ってリュートは軽く俯いた。もしも西日が全部隠していたならいいけれど。
「おまえももう立派な大人になって、ましてや教師という立場にあるのだから……向こう見ずな行動は慎むようにな」
「ええ、分かってます」
「オレはおまえにずいぶん肝を冷やされたよ。おまえにも同じくらい手を焼く生徒が現れるかもしれんぞ」
「そのときは……。クラーリィ理事長のようにやってみようって、勇気を出します」
 クラーリィは小さく笑うと、そこで冗談めかした心配を打ち切った。
 卒業から幾分も月日の経っていない今、見た目はほとんど学生の頃と変わらないリュートが理事長室に立っている。けれど、ほんの少しのことで以前とは違う。職務を果たしてみせるという使命感と希望、それに付随する緊張が彼の全身から感じられた。
 それがどうにもまばゆくて、ずっとこの青年の姿を見ていられたらいい、と思った。この世界からどうか失われて欲しくないと願わずにはいられないのだ。

……オレはおまえの好奇心や頑固な正義感が、喜ばしくも、少し恐ろしかったよ」
 クラーリィは膝の上で手を組んだ。ゆったりと息を吐き姿勢をくつろがせてそう言うのは、裂けそうなほどの思いが本当に張り裂けることがないようにだ。
「おまえが失われるかと思うと恐ろしかった。さすがにこれからは、もう少し安心できるといいのだが。こういった心配は年長者に付き纏うものかもしれんな」
 それに、なるべく明るく返事をしようと思った。リュートは耳元の髪を撫でて平静を取り戻そうとしたが、やがてそれを諦めてしまった。クラーリィの言葉の意味を何度考えてもたどり着く結論は同じところで参ってしまう。
 クラーリィ理事長は、ボクを失いたくないと言ったのだ。
 背中ばかり見ていたと思っていた敬愛する師が、ふと立ち止まってこちらを振り返ったという気がした。リュートの心が途端に綻ぶ。失うかもしれないなんて不安に思わないでと、その手を取って訴えたい。
「あなたを安心させてあげられる、なんて偉そうなことは言えませんけど……。ボクは、ずっと側にいたいと思ってますよ」
 思いを言葉にしているうちに、どんどんと鼓動が早くなっていく。声が上ずって変に思われたらどうしよう、と思ったけれど口を開くのを止められなかった。息を深いところまで吸えない。長い言葉を上手にしゃべれなくて、顔が熱くなる。
「だってボクは、理事長のことをずっと……お慕いしていますから」
 全身がじわりと汗ばんでいる。クラーリィの反応を窺うのが怖くもあり、けれどいち早く答えが知りたいとも思った。結局目を逸らして逃げ出すこともできないままリュートはクラーリィをじっと見つめた。その表情は驚いているとも怒っているとも見えない。不明瞭なたった一瞬の沈黙が一生続くもののように思えた。
「そうか」
 永遠に思われた一瞬の後、クラーリィは口元に手をあてて相づちを返した。とても静かな声だった。
 リュートは崖にぶら下がっているような気持ちだった。手を取って引き上げてもらえるのか、それとも落ちていくしかないのか。どちらの可能性が高いとも全く判断がつかなかった。恋い慕う心の前に全ての計算や理性は調子を外していく。
「では、そうしろ。おまえの心のままに」
 クラーリィはふいと顔を背けて机に肘をついた。普段は見せない砕けた態度にリュートは戸惑ったが、今の彼にとっては言葉の意味をかみ砕くことの方が重要な仕事だった。
「それは……ずっと、一緒にいていいということですか?」
 リュートは喜びよりも先に、にわかには信じられない思いでクラーリィに詰め寄った。あまりにもあっさりとしすぎではないか。机を回り込んで隣にまで駆け寄ると、クラーリィは椅子に座ったままそちらへ体を向けた。
「あのっ! お慕いしているというのは、先生としてではなく……知り合いとしてでもなく……。わ、分かりますか?」
「分かっている」
「分かって……。そ、それじゃ、理事長もボクのことを好きでいてくれてるんですか……?」
 瞬間、その言葉にクラーリィは息を吸い込んで、そのまましばし考え込んだ。これを愛の告白と言うべきか、クラーリィには判断できない。何もかもをなげうってしまう烈しさを伴うものだけがそうだと言うなら、きっと違う。寄り添われることを受け入れようとするこの心は何であるか。
「好き、という言葉が正しいかは分からない。……だが、いつも想っている。おまえが健やかで、この世界から失われないことを祈る。心が傷つくことのないようにと願う。おまえの笑顔が絶えなければいいと……いつも、想う」
 リュートはクラーリィを見つめて、じっとそのままでいた。言葉が上手く出てくる気配もなくて、そうするしか出来なかった。クラーリィの眼差しは静かにリュートを見つめ返している。
 心臓がどきどきしていた。緊張や不安でそうなっているのではないらしいと分かったけれど、ではどうしてこんな風になっているのか、初めてのことで良く分からなかった。
 いてもたってもいられないのだ。頭の中にある意味のない戸惑いの声を手当たり次第に口に出してしまいたいような、そこらをぐるぐると歩き回りたいような、どうにもならない感情が溢れて抑えきれない。頭の中にはクラーリィの言葉が満ちているが、うまく片付けきれずにいる。
 クラーリィは立ち上がり、リュートの顔を覗いた。あまりに目を白黒させているから心配になったのだ。そこでやっとリュートは一応の思考を取り戻した。
「あの、ありがとうございます」
「何がだ」
「ボクのことを……そんな風に思ってくださって」
 ふう、と息を吐いてリュートは鼓動を落ち着けようと努めた。それにどれほども効果があったとは言えないが、とにかくリュートは自分を奮い立たせてクラーリィを見上げた。もう一度、言葉をねだろうと思った。
 
「クラーリィ理事長。ボクとずっと一緒にいてくれますか?」
……おまえがそれを望む限り」
 リュートは眉を下げて、曖昧な、吐息のような笑みをこぼした。心の中には嬉しさが半分、クラーリィからも同じように強く求められたいという熱が半分だ。
「嬉しいですけど、どうしてそんな風におっしゃるんですか?」
 その問いに強い非難の色は乗っていない。子供が甘えて袖を引くようなものだ。言い分を聞く構えで、クラーリィは穏やかな視線を寄越して続きの言葉を待っている。
「ボクが望む限りだなんて言わないで、もちろんずっと一緒にいるって、一緒にいようって、言ってくださったらいいのに」
「何か違うか? おまえの思いもなければ一緒にはいられないだろう」
「そ、それはそうですけど」
 声のトーンと一緒にリュートの視線もしゅんと落ちていく。
 言い方を変えればいいだけのことだと、クラーリィも分かっている。リュートは強い感情の言葉が欲しいとねだっているのだ。クラーリィがリュートの愛情を信じていて、そして自分自身の愛情も変わらないことを確信していると、誓うように即答することを期待していた。
 けれど、とクラーリィは少しばかり考えてみた。相手の心を奪って囲いこんでしまいたいと願うような、その心が自分に向いて変わらないでいることを強く望むような、そういった感情が果たして自分に生じるかということについてだ。
 実のところ考えるまでもない。クラーリィの愛情はひたすらに献身的で、揺らぎもせずにずっと彼の中に在るものだ。慎重に秘められていて、色褪せることなく熱を失うこともなく、いつまでも大切に抱えているもの。
 ましてや、相手はリュートだ。望まれる限り永久に応える気持ちでいると言うほうが正確だと、クラーリィはやはりそのように思った。自分の心はずっと変わらない。許されるのならば、自分のそばでリュートが羽を寄せて憩うあいだは、それを受け入れて見守っていたかった。
 クラーリィにじっと見つめられていることに気が付いて、リュートは顔を上げた。今はクラーリィの瞳に厳しさや鋭さはなく、どこまでも深い穏やかさが湛えられている。
 リュートはいつかのことを思い出した。こんな風にクラーリィの瞳を見つめて、とてもきれいだと思ったことがある。不器用で、誇り高く、寂しげだけれど強い愛情を隠している。その気高さが好きだった。今も変わらない性質がクラーリィの中にあることがあまりにも愛おしい。
 いつか彼が隠し持っている深い愛情と寂しさに触れることを許されたなら、どんなにか。想像すると心がほどけて涙が溢れ出しそうだった。
……では、ボクはずっとあなたに側にいて欲しいと願い続けます。これから先、一度だって確かめる必要がないくらい……ずっとそう願い続けます」
「それは……気の長い話だな」
「本気で言ってます」
「分かっている」
 声があまりにも優しかったので、リュートはそれ以上念押しするのはやめることにした。けれど、今すぐに永遠を証明できたらいいのに、という歯がゆい思いは胸中を巡っている。たとえば抱きしめて、抱きしめ返されて、そうして愛していることの全部が伝わり合えばいいのに。
「あの、クラーリィ理事長」
 リュートはクラーリィの手を取ってやわらかく指先を包んだ。その体温が分からないことをクラーリィは少しもどかしく思う。繋がった指先を見つめているリュートの睫毛が、ゆっくりとしたまばたきの度に蝶の羽にも似て揺れている。言いかけた言葉をそのままに、リュートはしばらくそうしていた。クラーリィも黙ってそれを受け入れていた。どうしてか、それだけで慈しまれていることがよく分かる気がしてリュートの歯痒さがじわりと溶けていく。
 黙っていても心地がいい時間だった。口に出す言葉を焦って探す必要がないと感じる。けれど思いは胸の内から溢れるばかりで、込み上げたものは言葉になろうとした。
 やがてリュートは眩しそうに目を細めて、抱えきれない幸福を溢すまいと気を逸らせて、どうにもならなくて息を漏らすように笑った。
「頬に触れてもいいですか」
……ああ」
 この確認は本題ではない。クラーリィもそれを分かっていて受け入れた。リュートは繋いでいた手をそっと離すと、許しを得た頬に恐る恐る触れた。はじめに指先で輪郭を確かめるようにクラーリィの肌をなぞり、ゆっくりと手のひら全体で頬を包んだ。薬指から向こうは金色の髪の下をくぐって耳に触れている。
 
 今度はリュートの手のぬくもりが分かる。クラーリィは目を伏せてそれを受け入れた。怖々と触れるものだからくすぐったくて笑いそうになる。
 こうしたことを望まれるのは不思議な気分でもあった。慈しむように、願うように、愛するように、リュートはクラーリィの肌に触れた。その心が偽りなく真っ直ぐであることが指先の注意深さから伝わってくる。
 体温が溶け合って境目が曖昧になっていく感覚を覚えはじめたころ、リュートが深く息を吸い込んだ。
「ボクはずっとあなたが好きです。前からずっと。これからも、ずっとです」
 クラーリィは薄く目を開いた。すぐにリュートと視線がぶつかって、思わず瞬く。
 ざわざわとした春の生命の気配に似た感覚が胸の奥から吹き上がって、戸惑っている間もなくすっかり支配されていく。それは、雪解け水が土をぬかるませるのに似ている。蕾がほころんで花になるのに似ている。新芽が土を破って頭を出すのに似ている。そんな喜びが自分を満たしているのが恐ろしいほどだった。
「いつまでもあなたがボクに応えてくれるのならば……それ以上のことはありませんね」
 今度は返事を求めていない声色だった。リュートはクラーリィの愛情を信じてそれを望み、クラーリィがそれを裏切ることはない。
 日が沈みきっても、あたたかくやわらかな西日がずっと残っているような心地だった。窓の外には一番星が現れている。そこには、ずっと遠い昔の光がいまだ輝いているのだった。



 リュートに初めて会ったのは、新たに生まれたその命が『リュート』と名付けられた頃のことだ。
 サイやケストが生まれた時にも報せを受けてスタカット村へ赴いたが、ここまで生まれて間もない赤子を目の当たりにするのは、そしてその命を腕の中に抱くのは初めてのことだった。
 赤子とは、もう少し大きいものだと思っていた。本当にしっかりと抱けているのか、どこか心許ない重みが腕の中に大人しく収まっている。激しく動くような活発さはまだないが確かに呼吸をしてそこにいる。
 この世界の空気を吸って吐いている、そんな一つの動作がとてつもない偉業のようだった。世界がこの命を祝福しているのか、この命が世界を喜んでいるのか。とにかく言葉にしがたい力強い感覚が、その子供から広がっているように思えた。
「名前は、リュート……。お兄ちゃんからもらうことにしたの。背中に十字架のアザがあるのよ」
 ベッドで産後の養生をしている女王が語りかけた。その声には深い慈愛が溶け込んでいて、祈りの言葉を聞いているかのような心地がした。
「そう、ですか……。あなたや、リュート王子と……スフォルツェンド王家の方々と同じ……
「うん。きっとこの子も優しくて、強い子になるって……そう思うの」
 微笑んだ顔はとても美しかった。母君、兄君の遺志を胸に前向きに歩み続けていらっしゃる、尊くまばゆい心を持っている方だ。焦がれて眩みそうな気持ちを瞼の裏の暗闇で退散させて、健やかに眠っているリュートの顔をもう一度覗き込んだ。相変わらずしっかりと呼吸をし、たしかな生命の力強さをその小さな体にみなぎらせていた。
 この子供の人生を祝福し、幸福を心から祈ったその日のことを、よく覚えている。