溶けかけ。
2026-03-23 21:33:14
6850文字
Public ほぼ日刊
 

甘露の雫

ガタケ無配だったフリーナ味覚障害(甘味のみ健在)のお話です



 甘いものは好きだ。
 ──まだ失っていないと思えるから。



 ヌヴィレットに招待され、久々にパレ・メルモニアに足を踏み入れた僕が案内されたのは彼の執務室であった。時計の時間は午後三時を少しだけ過ぎた頃──、甘いものが恋しくなる時間だ。
「掛けてくれ」
ヌヴィレットが引いてくれた椅子に腰掛ける。濃紺色のクロスで化粧をしたテーブルの上には軽食のサンドイッチや色とりどりのスイーツがのせられたスリーティアーズがあった。
席に着き、ヌヴィレットが執務机の方へと向かう。飾り気のない机の上にはいつもの書類と仕事道具の代わりに白磁のティーセットが置かれていた。彼はたどたどしい手つきで茶葉と湯を入れると傍らに控えていた砂時計をひっくり返した。
 
 しばらくして、最後の砂がさらりと落ちる。フリーナの前にティーカップが置かれ、紅茶の香りが湯気を纏わせてふんわりと室内を満たしていく。
「ありがとう」
カップに口をつける。若々しい香りとほのかな甘味は春摘みの茶葉だからなのだろう。
「それで? どうやってこんな上質な茶葉を手に入れたんだい? キミがお茶に造詣が深いとも思えないしね」
 音も立てずにカップをソーサーに戻し、フリーナは興味津々な様子で尋ねた。青い色違いの双眸は愉快そうな色を宿している。
「君の言う通り、私は茶葉には疎い。故にリオセスリ殿に監修を頼んだのだ。彼ならば君の舌を唸らせるものが用意できると、そう判断をしたまでだ」
ヌヴィレットはフォークとナイフを器用に使い、一番下の段からサンドウィッチを取り出すと皿に盛り付けてフリーナに手渡した。サンドウィッチを一口大に切り口に運ぶ。スモークされた鴨肉は胡椒が利いていてピリリと辛く、シャキシャキのレタスとの相性がいい。
……味はどうだ?」
 ヌヴィレットの問いかけにフリーナはにっこりと笑顔で「美味しいよ」と答えた。
「そうか……、スコーンは如何かね?」
「いただくよ」
 今度はスコーンが載せられる。フリーナの来訪に合わせて焼かれたと思しきスコーンはまだ温かく、香ばしい小麦の香りがした。手で半分に割り、バブルオレンジのマーマレードジャムとクリームをたっぷりとのせる。大口を開けたところで我に返るも、無作法を咎める仲でもないかと思い直し、齧り付いた。
 甘さ控えめなクリームに、大きめに刻まれたバブルオレンジの皮が良いアクセントになっていて、いくらでも食べられそうだ。
 気が付けば、皿は空っぽになっていた。名残惜しく思いつつ紅茶を啜る。スコーンは二つ──つまり、残る一つはヌヴィレットの分だ。
「え?」 
 空っぽだった皿の上にスコーンがのせられる。思わず顔を上げれば朝焼け色の瞳が細められた。
「食べると良い。君のために用意したものだ」
「でも、悪いよ」 
フリーナが首を左右に振る。ヌヴィレットは小さくため息をつくと言い放つ。
「それに……スコーンは好みではない」
「あぁ……そういえばそうだったね……」 
そう、そうなのだ。水の龍という生まれのせいか、彼は水気の多い食物を好む。一番好きなものは水。次点でスープなどの汁気が多いものだ。
「本当に良いのかい? あとでやっぱり食べたかったなんて言われても返してやれないぞ」
「構わない。冷めないうちに食べるといい」
(ヌヴィレットもこう言ってるんだし、食べたっていいよね……?) 
スコーンを先ほどと同じように半分に割りクリームとジャムを塗る。
 きっと、これを食べたところで彼は怒りはしないだろう。それに語った理由も偽らざる本心であったことも明白だ。けれど、それでいいのかという疑問が渦巻く。フリーナはバターナイフを持つ手を止めて僅かに考えたあと、スコーンの半分を皿へと戻し、クリームもジャムも塗られていないもう一つのスコーンを取ると、ジャムを少しだけ塗ってヌヴィレットの皿に置いた。
「これはっ、美味しいものは分け合うほうがより美味しく感じると思った僕のエゴだ!」
早口でまくし立てたフリーナは自らの皿に残っていた半分を三口で平らげて紅茶で流し込む。ヌヴィレットが不安そうな表情で彼女の奇行を止めるべきか考えあぐねているうちに空になったカップがソーサーに戻される。こんな状況にも拘わらず、音を立てていなかったのは流石といえよう。ヌヴィレットは行き場のない手を膝の上に戻し、皿の上のスコーンに視線を落とした。半分に割られたスコーンの断面に塗られたジャムは鮮やかなオレンジ色で艶やかな光沢がある。
(水気の少ないものは好みではないのだが……)
 ヌヴィレットはこっそりとこちらの出方を窺うフリーナを一瞥し、スコーンに手を伸ばす。少しばかり食べごろを過ぎたとはいえ、まだ仄かに熱を帯びるスコーンを口に運び咀嚼する。
「ど、どうかな……?」
 怖々と尋ねるフリーナを待たせ、ヌヴィレットは最後の一かけらまで残さず食べ終わると紅茶で渇いた喉を潤した。やはり、スコーンは好きではない。だが──、 
「悪くなかった」
「へ?」 
 予想外の返答にフリーナは呆けた顔で聞き返した。
「悪くないと言ったのだ」
 ややあって、フリーナの顔が喜色が滲む。 
「そうだろう! この僕が認めたんだからね。美味しくて当然だろう!」
 自信満々に胸を張るフリーナ。用意をしたのは私なのだが、という言葉を飲み込んでヌヴィレットは微笑む。
「君の口に合ったようなら何よりだ」
それはヌヴィレットの嘘偽りのない本心だった。たとえ、今日のお茶会にまったく別の意図が含まれていようと、準備のために奔走したのは事実なのだから。この後のことを考えると憂鬱な気分にもなるが、ひと時の平穏を楽しんだところで罰は当たらないだろう。
……ペストリーなのだが」
 眼前の皿にグラスとパイが配られる。
「チョコレートムースと、レモンパイだね」
フリーナはグラスを持ち上げてしげしげと見つめる。赤色のラズベリーのムースとチョコレートの層が美しい。一口掬って食べればラズベリーの甘酸っぱい香りとチョコレートの濃厚な甘さが口いっぱいに広がった。
 さて、次は──
 スプーンをフォークに持ち替え、フリーナは扇形に切られたタルトに視線を移す。レモンイエローのクリームの上には白いメレンゲとカットされたレモンがバランスよく配置され、アクセントに砕いたナッツが散らされている。タルトにフォークを通せばサクッという小気味の良い音と感触がした。小さな欠片を口に含んで咀嚼する。先ほどのチョコレートムースの後ということもあり、タルトのサクサクの触感と甘酸っぱく爽やかな香りにフォークが進む。
「ゔっ……
 突如として聞こえてきたうめき声の方へと視線を向ける。視線の先では、ヌヴィレットが口を手で押さえて小さく震えていた。手には食べかけのムースの入ったグラスが握られている。
「ヌヴィレット、大丈夫かい!?」
 立ち上がろうとしたフリーナを手で制してヌヴィレットはわざとらしく咳をしながら姿勢を正した。
「ゴホッ……心配はいらない。ただの誤嚥だ」
「ごえん……
 とてもそうには見えなかったが、ひとまず彼の言葉を信じることにしてフリーナは残りのパイを片づけた。

***

「ふぅ~……美味しかった。今日は誘ってくれてありがとう、ヌヴィレット」
 満面の笑みで礼を言うフリーナに罪悪感が湧き上がる。
「ところで、話したいことってなんだい?」
ヌヴィレットが話題に上げるより早くフリーナが問いかける。
 この時が来てしまった──いや、本来ならば私が切り出さねばならなかったのだ。
「フリーナ殿……君は、甘味以外の味覚を感じにくくなっているのではないかね?」   
「──だったら、どうだっていうんだい?」
 色違いの瞳が細められる。光の差さない水底のような青色がこちらを見つめていた。ぱちり、フリーナがまばたきをする。
……なんて、冗談だよ。キミが何を根拠にそんな結論に至ったのかは知らないけど僕はいたって正常さ」  
 ごちそうさま──そう言って立ち上がった彼女の細腕を掴む。
「離してよ」
「すまないが、このまま君を返すわけにはいかない」
「僕には、話すことなんて、ない!」 
「私にはある」
 ヌヴィレットとて、悩まなかったわけではない。いくら元同僚とはいえ、所詮は赤の他人だ。放っておいてもヌヴィレットには何ら影響はない。
「もし、本当にキミの言うとおり味覚がなかったとして──」
わななく唇が、華奢な体が、握られた小さな拳が、ヌヴィレットを全身で拒絶する。それはまるで自らを守ろうと威嚇する子猫のようだった。言葉が不自然に途切れ、すぅ、とフリーナが息を吸い込む。
「──キミに、何の関係があるんだい?」
 いっそ清清しいほど美しく、フリーナは微笑んだ。
「それは……
 ──率直に言えば、ない。
 ヌヴィレットはフリーナの親類でもなければ、恋人でもない。口を出せる権利があるとすれば──いや、あったとすれば、彼女が神であった頃だろう。
……確かに、私には関係ないことだ」
「だろう? だったら──」 
 離れて行こうとする腕を逃すまいと引き留める。フリーナの完璧な微笑みが微かに痛みに歪んだ。
「あぁ、すまない」
 冷淡に、冷酷に、ヌヴィレットが謝罪の言葉を口にする。フリーナの瞼から雫が零れ、ターコイズブルーの絨毯に落ちては吸い込まれていく。
「いまさら……
 苛立ち交じりの声に驚く。拘束が僅かに緩んだ一瞬の隙をついてフリーナがヌヴィレットから距離をとった。今度は延ばしたくらいでは届かない。
「いまさら、どうしろっていうんだよ⁉ あぁ、そうさ! キミの言う通り、僕は甘味以外の味覚が分からない! だけど、それに何の関係がある? 誰にも迷惑なんてかけてないだろう⁉」
 一息でまくし立てたフリーナは、荒く息継ぎを繰り返す。それから糸の切れた人形のようにぺたりと床に座り込むと両手で顔を覆って俯いた。
「これ以上……僕を、見ないで…………
 懇願するかのような、弱弱しい声だった。少しでも触れれば消えてしまう一片の雪のような──そんな危うさがあった。
「もう、僕のことは……放っておいて……僕に、踏み込んで来ないで……
 嗚咽を噛み殺しながら、フリーナが言う。
 ──違う。
 ──こんなのは、フリーナではない。 
 彼女はこんなふうに儚い存在ではない。私の知るフリーナはもっと──……
「君は──……誰だ? 私の知る彼女はもっと──」
 ひくっとフリーナがしゃくりあげる。ゆっくりと上げられた顔には筆舌に尽くしがたい絶望が貼りついていた。
 ────私は、間違えたのだ。

 ***

「今日はありがとう」
 フリーナがパレ・メルモニアを去ってから、数日が経った。降り続く雨の喧騒に混ざって、数多の声がヌヴィレットの耳を打つ。そのほとんどは他愛のない日常を切りっとったような、交わしたことさえ忘れてしまうほど些細な言葉たちの集まりだ。
 もっと、深く──。
 声なき声に従うように人々の声が遠ざかる。途端に聞こえてくるのはけたたましいノックの音とよく知る者たちの声だ。ナヴィアにクロリンデ、それにパイモンと旅人。錚々たる顔触れにも拘わらず部屋の主であるフリーナは姿はおろか、息を殺して物音一つ立てることすらない。
 数日前──正確には茶会の翌日、休業の知らせを関係各所に通達したフリーナは以前のようにベッドの上で天井を眺める日々を送っているようだと秘密裏に派遣したマレ・ショーセファントムの構成員たちから聞き及んでいた。
 原因は言うまでもなくヌヴィレットである。フリーナの味覚障害を暴き出し、剰え、寸でのところで保たれていた柔い心を完膚なきまでに引き裂いたのだから。
「私はどうしたらよかったのだ?」
 いくら自問自答しようと答えは出ない。
 ──味覚障害を指摘して、適切な治療を受けさせたかった?
 ──彼女は望んですらいないのに?
 ″これはっ、美味しいものは分け合うほうがより美味しく感じると思った僕のエゴだ! 〟
 ──自嘲するヌヴィレットの脳裏にふと、彼女の言葉が蘇る。
 あぁ、そうか。私は──……
「君と分かち合いたかったのか」
 美味しい物を、喜びを、──悲しみも。
 龍の時代など過ぎ去って久しい時代に生まれ落ち、己の存在意義を見失っていたヌヴィレットに多くのものを与えてくれた彼女だからこそ。
「私は理解したいと思ったのだ。たとえ、それが私のエゴだとしても」

 ***

 ノックの音が鳴り響く。そのたびに心臓の鼓動が早くなる。背中には冷たい汗が流れ、体が恐怖に悲鳴を上げる。外へと続く扉の前までやっとの思いで辿りつくも、取っ手を握る勇気はどうしても出なかった。
 コン、コン、コン。
 扉を叩く音はまだ続いている。
「あ……
 へたり込み、大きな扉を見上げる。誰何しようにも、喉は物が詰まったように苦しげな吐息を吐き出すだけで役に立たない。
 大女優が聞いてあきれる。どんな時でさえ、発声の練習だけは欠かすことはなかったというのに。震えを毛布の下に隠して、迫りくる恐怖に耐える。秘密を知った顔も知らない者たちがフリーナを取り囲み「嘘つき」だと吐き捨てる──そんな馬鹿げた想像が頭を過ぎった。

 ***
 
 気が付けば、ノックの音は止んでいた。            毛布から顔を出して、扉の向こうを見やれば、人影はもうそこにはなかった。
「よ、よかった……
 安堵の息を吐く、と、ふわりと香ばしい香りが鼻を擽った。
「いいにおい……」                      くぅ、と腹が鳴き声を上げた。そこで初めて、フリーナは自身の空腹を自覚した。何か口に入れよう──そう考えて立ち上がったフリーナはすぐさま足を止める。
「でも……
 空っぽの食糧庫を思い出したフリーナは困ったように扉に視線を戻す。
「悩んでいても仕方ないか」
 どうせ、生きている限り腹は減るのだから。

 ***

 意気込んだフリーナだったが、その決意は水泡に帰すことになった。サングラスにマスク、帽子を被った不審者そのものの装いを脱ぎながら、扉の前に置かれていたスープに手を伸ばす。
 本来ならば、薬を盛られたりする可能性が否めない以上、送り主不明の料理に口をつけることはない。逆に言えば、送り主がよく知る人物であれば口にすることもあるということだ。
 フリーナはスープを口に運びながら、同封されていたカードを眺める。そこにはたった一言「すまなかった」と見慣れた文字で書かれていた。
 また一口、スープを啜る。
 相変わらず、味はわからないけれど。
「あったかいよ……ヌヴィレット」

 ***

 規則正しいノックの音が鳴り響く。「どちらさま?」と誰何する声は僅かに弾む。
 ややあって扉が開き、光を反射させる海面のように眩い光を放つ色違いの双眸と目があった。
「はいはーいって、またキミか」
 呆れたような声とは裏腹にその表情はどこまでも晴れやかで。
「今日のご飯はなんだい?」
「あぁ……今日は──」
 バスケットを携えたヌヴィレットがフリーナの後を追う。

 ***

「今日もありがとう。でも、毎日作ってこなくてもいいんだよ?」
 フリーナはマグカップを両手で包み込みながら、カフェオレ色の水面を見つめる。
「今のところ、負担を感じたことはないな。それに、他者に料理を振る舞うことも、喜んでもらおうと試行錯誤することも、嫌いではないらしい」
 ヌヴィレットの言葉にフリーナは強張っていた表情を緩めると「そうかい、それはよかったよ」と笑った。

「味覚はどうだろうか?」
 ヌヴィレットが首を傾げる。フリーナは目を伏せると「ごめん、まだ……」と消え入りそうな声で言った。ヌヴィレットは水で喉を潤すと眦を下げた。
「ゆっくりやっていけばいい。時間はたくさんあるのだから」
 フリーナはヌヴィレットの言葉にぽかんと口を開けると花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「ふふっ……そうだね。でも、僕がおばあちゃんになる前には治るといいなぁ」
 くすくすと笑うフリーナにヌヴィレットも釣られて笑みをこぼす。

 

 
 ヌヴィレットの献身により
     フリーナが味覚を取り戻すまであと──……