雲井青嵐の紙のように不健康そうな白い皮膚に、切り傷や擦り傷ができると何故だか、生というものが実感できてしまい、けれどもそれを拒絶する理性と心理が蔦のように絡まっている。ずっと。おそらく、故郷を出たときから。傷を成して生きていると感じるなど、自傷癖のある人間のようだった。安心したいのだろう、生きていると。死んではいないということは、一応、生きているということなのだ。そこに良し悪しは関係ない。――が、雲井青嵐は知っている。生きても、死んでもいない人間がいることを。
ガリガリと妖魔の爪でコンクリートが削れる音が轟く。暗闇のなか火花が散り、鋼鉄と鋼鉄がせめぎ合うような音が鋭く耳に届いた。
――着物で戦いにくくはないのですかと尋ねられたことがある。そのとき自分はどう答えたのだっただろう。面白みのないことばを返したのだと思う。覚えていないのだから。着物で戦うこと、それは一種の儀式に似ている。すくなくとも、自分の中では。重い正絹の、黒に染め抜いた生地。見ようによっては、鴉の濡羽色にも見える。特殊な染料というわけではない。ただ、男が若いころ、言霊――という名の呪いを蚕が吐きだした糸に織り込み、この着物を仕立てた。三日三晩、寝ずに呪いを織り込んだ着物は、今もこのとおり現役である。体型もほぼかわらないので、ずっと着続けている。もう十年以上はたつ。絹というものは丈夫なようで、戦闘で裂かれても繕ってしまえば分からない。というのも呪いに呪いを重ねているだけのことであって、怪我をすればするほど――あるいは年月が経てばたつほど、丈夫になってゆくようにも感じる。実際そのような〝祝福〟があるのかは自分にも分からないが、着物は次第に、呼吸をして酸素をふくむように重たく、かつしっとりと肌に沿いはじめていた。
草履が砂利を踏む。泥が跳ね、裾から僅かに外気に晒されるふくらはぎを汚した。
太刀の切っ先がずぶりとクロイヌの核を突く。黒い靄をその刃で切り裂き、その奥にいたみすぼらしいオチムシャの腕を落とした。腕を一本落としたところで、核を砕かねば妖魔は死なない。オチムシャはその衝撃で蹈鞴を踏み、憎々しげな目で男を見つめていた。
泥で汚れた足を胸まで上げ、オチムシャの腹のあたりを蹴り倒す。冷たい雨水の飛沫をあげながら倒れたそのからだを見下ろした。残りはこのオチムシャだけであったから、少々のんびりしていても緋鍔局に急かされるだけだろう。
ふいに太刀を下から振り上げ、足を飛ばす。男の足もとにそれは転がり、やがて靄になった。
「あなたがたに痛覚というものはあるのでしょうか。熱い、冷たいといった感覚はあるのでしょうか。気になるところです」
反対の腕と足を続けて薙ぎ払う。オチムシャはイモムシのような姿になり、それでも蠢いていた。
「そういえば、江戸川乱歩が書いていましたね。芋虫のようになってしまった男の話。それから、フランツ・カフカの変身……。どちらにせよ残酷な結末になりますが」
この状態でも生きようと藻掻いている。否生きようとするものなのだろうか。妖魔という存在は。人間を襲い、喰らう妖魔。けれども彼らを神のように祀るひとびとがいることも知っている。それを否定はしないが肯定もしない。妖魔という存在は敵であると考えている自分自身をも正しいとは思わない。雲井青嵐が信じる存在など、この世に存在しない。
「雲井参段、早く核を――」
参段に昇段したばかりであったから、返事が遅れる。インカムごしに急かされ、はい、と答える。
的確に核を貫くために、いまだ動こうとしている妖魔の胸を踏みつけ、太刀を振り下ろした。
土埃はそれほどでもないが、泥が裾や袖に跳ねている。昨日、雨が降ったからだろう。衣桁掛けに着物を干し、襦袢のまま眺める。ほころびはないけれど、薄れてきている、と感じた。明日、帰りにでも仕立屋へ洗い張りを依頼しようか。――着物をひと針ひと針ほどき、水で洗い、乾かし、また仕立て直す。それを洗い張りという。そういった手間のかかる作業をする店も少なくなってきた。が、これは特別製であるから、すっと捨てられはしない。
黒縦縞の大島を羽織り、適当に帯を締める。
ふと鏡を見るとほおに泥が跳ねていた。
薄暗いなか、鏡越しでみる自分は幽霊のようだった。生気のない顔。血色のない肌はおせじでもきれいだとは思わない。ぐっとくちびるを噛みしめると、ぬくい血が一筋、あごをつたった。
――生きていると感じた。
はたして妖魔とは、どちらのことだっただろう。私という存在は一体なんなのだろう。信じるものがない私は、人間だっただろうか。
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