ひじり
2026-03-23 18:15:05
2542文字
Public 大新 小説
 

一葉知秋

大新。

あらすじ:
一葉の落葉に秋を知るように、人は兆しから物事を知るという。だがもし、その兆しを見落としたとしたら。

一葉落、知天下秋  いちようおちて、てんかのあきをしる
桐の一葉の落葉で秋の到来が知れるように、物事を、そのきざしによって事前にうかがい知るたとえ。〈淮南子・説山訓〉

小林信明編 二〇一一『新選漢和辞典第八版/ワイド版〈2色刷〉』小学館 三頁




 秋。銀杏が黄色くおめかしをして、地面も木々も一色に染まっていた。青い空はさらにさらに縦に伸び、雲の筋が不規則に模様を描いている。一歩前に踏み出す度に、足元でわさわさと音が鳴った。
 国会議事堂――国権の最高機関である国会のための建物をぐるりと囲む道路には、銀杏が植えられている。自動車の排気の臭いが鼻につく。しかし、そんな臭いや喧騒そのものの自動車道を気にすることもなく、人々は街路樹の色めきに足を止めている。そうして各々一番綺麗だと思う一葉を手にして、手帳に挟むなり指の間でくるくる回すなり、思い思いの楽しみ方をしていた。
 懐中時計は十六時四十分を指している。もう少し早めに着く予定だったが、乗り換えがわからないという老婆の道案内をしていたらこんな時間になってしまった。待ち合わせ時刻は十七時。まだあの方の姿は見えない。老婆との別れ際、御礼にと押し付けられた未開封のドロップスを開ける。カラカラと軽快な音を立て、赤のドロップが手に落ちた。
 ――赤は好きな色だ。伴侶の名の色だから。
 口に放り込んで舌で転がせば、あの方の言葉のような甘さが口いっぱいに広がる。


『紅葉が見頃ですから、明日の待ち合わせ場所を変えたいと思うのです』
 昨夜、急遽入れた一報にあの方は快く承諾の返事をくれた。午前中は大家の手伝いがあるからと、集合は開演の一時間前、昼は各自で済ませることとなった。


 ここから会場までは徒歩ニ十分程かかる。四十路も近付いてきているが、まだ俺も彼も体力には自信があるから、問題はないだろう。ポケットからチケットを取り出す。きちんと二枚あることを確認して、日時は正しいか、会場は正しいかをもう一度確認する。
 九日間に渡って上演される本演目は、一九五八年――今から丁度十年前に亡くなったとある劇作家兼小説家の作品を原作としている。だが、俺が興味をもっているのは演出家の方だ。もう二十年近く前になるが、日本の演劇界では海外に端を発した俳優の教育法が大いに流行っていた。今回の演出家はこの教育法を痛く気に入っているが、どうにも自己解釈を多分に織り込んでいるようで、もはや同一のものとは言えないような独自のシステムを創っているようだった。
 『美しい方』と書かれた文字をなぞる。あの方と観劇するのは足の指を足しても足りないくらいである。もう何度もこうして待ち合わせて、隣同士で座って、同じ家に帰った。この原作は明るい話ではないし、あの方は苦い顔をするかもしれない。それでも一緒に観劇するのは、週二回に増えた逢瀬――もう増えてからだいぶ経つが――を少しでも一緒にいたいからだった。それに、俺一人で行ってしまうとあの方は拗ねるし、他の人間を誘おうものなら凄い形相で睨み付けてくるものだから、こうして一緒に行くのが習慣となってしまった。カラリと口の中で飴が転がる。これが舐め終わるまでには来るだろうか。懐中時計は十六時四十七分を指していた。


 それにしても、遅い。いつもならば俺と同じか待ち合わせのニ十分前には着いているような方なのに。もう一度懐中時計を見る。四十八分。次の電車は何分着だったか。どうにも暇で欠伸をかみ殺した。
 通りにはまばらに人影が残っている。その視線は上方へと向けられている。いつもは気にも留めない街路樹を、この時ばかりは足を止めてまで見ているのだろうと思うとおかしく感じられた。普段、その青々とした葉たちが風に揺れる姿も、木の幹に這う蟻や名も知らぬ虫たちの懸命なる姿も、そのどれもこれもをまじまじと見ないというのに。そこにあるのに、無きもののようにちらとも見られることのないもの。――どこか、演劇に似ている気がする。スポットライトを受けた姿しか知らない観客たち。その舞台裏、常がどうであるかなど微塵も気にせず、一時のみの芸術に身を委ねて。
 人々の視線の先を辿る。青空に映えてた銀杏は、夕陽の赤を受けて大紅葉のように橙に染まっていた。自動車道に沿って並ぶ木々は額縁の如く、沈まんとする太陽を収めている。吸い込まれそうな日の丸。その日の丸の麓に、ふと、人影が見えた。曲がり角の手前に誰か立っている。別に珍しくも何ともない。現に、今だって周りには通行人がいる。それなのに、何故だろう。あれはあの方ではないかと、ほぼ確信に近い直感を持っていた。やっとこ来ましたか。またスーツでいらして寒いのではないですか。第一声に悩んでいれば、逆行で黒く塗りつぶされた”誰か”がふいに笑った気がした。
 ――その時、何かが頬をなぞった。横から順繰りと銀杏が舞い上がり、一瞬にして視界を覆った。渦巻く黄色に倣って、自身の前髪も視界で忙しなく動いている。片手でどうにか髪を抑え付けながらも、どこまでも高く天を目指すような銀杏から目が離せなかった。次に視界が晴れた時、そこに広がるのはしんとした夜だった。
 口内に薄荷が広がる。……先程まで、こんな味だっただろうか。吐き出すために慌てポケットをまさぐるとハンカチとともに紙切れが二枚、ひらと地面に落ちた。今日この後行く予定の劇のチケット。はて、何故二枚もあるのか。誰かと行く予定だったからに相違ないが、相手が誰だったのかてんで思い出せない。……烏森、だろうか。あの男は約束をすっぽかすことはままあるが、観劇をすっぽかすような男だったろうか。それに、上手く言い表せないが、もっと別の人物であったと思う。誰か、誰だったか、輪郭すらも思い出せない。
 懐中時計は十七時三十五分を指していた。開演は十八時半だったか。徒歩でニ十分はかかるからそろそろ歩き出した方がいいだろう。
 ……何かを忘れている気がするのに、思い出せない。今日、俺は一体誰と待ち合わせていたのだろう。物忘れをするにはまだ若いと思っていたのだが。急に木枯らしが体に凍みた。――どうやら、冬はもうすぐらしい。