Ca(か)
2026-03-23 17:49:00
6129文字
Public haikaveh SS
 

春風のエール

卒業式の日、後輩たちにそっとエールを送る先輩の話


「カーヴェ先輩、ほんとうにありがとうございました。先輩の特別講義を受けられて光栄でした」
「ありがとう。君たちもどうか元気で、頑張って」

 胸元に花を挿した学生は、僕の言葉に「はい」とはにかんで返した。
 喜色満面――そんな言葉がまさにぴたりと当てはまる笑顔がまぶしくて、僕もつられて綻ぶ。
 肌寒さが和らいで、日差しがぽかぽかと暖かくなる頃、無事に論文を通すことができた教令院の学生たちは卒業の日を迎える。
 卒業式が執り行われるのは教令院の敷地内でも奥まったところにある大講堂だけれど、当日はメインエントランスや知恵の殿堂すら、そわそわと落ち着かない雰囲気だ。
 無理もない。
 教令院を卒業するのは多くの人にとってほんとうに大変なことで、それは親の世代や自分たちの頃からずっと変わらない。過去にはたった二年ですべての過程を修了して巣立っていった人もいたようだが、そんなのはごくまれで、十歳前後で入学した人が卒業する頃には三十代になっていた……なんてことも珍しくない。暗がりで針に糸を通すようだとも言われる困難さも相まって、旅立つ本人はもちろんのこと、見送る側もなんとなく落ち着かない心地になるのは当然のことだった。
 胸元の花を誇らしげに咲かせて歩く卒業生は誰もがそんな苦労を乗り越えている。そんな人を見るにつけ、たとえ自分と関係がない学生であっても、よく頑張ったな、となんだか感じ入ってしまう。
 本来ならこういう大きな催しがあるときにはわざわざ教令院に顔を出したりしないのだけれど、仕事の都合上、どうしても今日出してしまいたい地質調査の申請書があった。教令院は学び舎であるとともにスメールの行政の一角を担う公的機関でもあるから、たとえ卒業式などの式典が開かれるときでも、申請の受付や必要書類の発行などの一般業務は平時と変わらず行われている。
 とはいえさすがに一大行事だということで、迷惑にならないようサッと出してサッと帰る……はずだったのだが卒業生の一人に見つかってしまい、あれよあれよと言う間に人が集まってきて僕はすっかり埋もれてしまったのだった。

「あれ、カーヴェ先輩?」
「カーヴェ先輩だ! もしかして僕らの顔を見に来てくださったんですか?」
「先輩! ご無沙汰してます。私たち、無事卒業しました!」

 集まってきてくれたのは自分の特別講義を受講してくれた妙論派の学生で、中には僕がいると知るやトレジャーストリートまで駆け下りて、花屋で一輪包んでもらったものを手に戻って来る子もいた。
 今日の主役は彼らなのだから贈り物の類は遠慮しなければ――とも思いつつ、しかしハレの日にNOを繰り返すのも無粋かと思い直して、心のこもったプレゼントを受け取りながら僕からもひとりひとりに言葉を贈った。
 
 そろそろ正午に差し掛かる頃、最後の一団が名残惜しそうに手を振りながら帰っていった。僕の腕の中は花や手紙などですっかりいっぱいで、手を振り返すのもやっとだ。指導教員でもない、ただの客員教授の自分がこんなに貰ってもよかったのだろうかと思いながら、学生たちの贈り物を抱え直す。
 この格好のまま帰るのはさすがに考え物だ。
 さてどうしよう――と思案していると、ふいに後ろから聞きなれた声が飛んできた。

「見送る側とは思えない手荷物の多さだな」

 振り返ると、果たしてそこにはアルハイゼンがいた。

「あれ? 君、こんなとこにいたのか。執務室にいなかったから、申請書を机の上に置いといたぞ。君も卒業式に駆り出されたのか?」
「書記官の業務に式典への出席はないよ。席を外していたのは、ただのだ」

 アルハイゼンは抱えていた段ボールをこちらへ掲げてみせた。うっすらと埃っぽいその箱の中身は空っぽで、蓋の部分がぺわぺわと頼りなく揺れている。

「君のほうこそ、そうしているとまるでたったいま式に出席してきたように見えるよ」
「ふふ……みんな母校が名残惜しいのさ。ただの客員教授にこんなによくしてくれるほどにね。ところで、空箱なんか持ってどうしたんだ」
「これは粗品だ。――いや、その残骸と言ったところか」

 君と逆だな、とアルハイゼンはおもむろに空箱を回して、なにか書き込みがされている側面を見せてきた。
 そこには一昨年の刻印がされていて、その下に、ついさっき適当に書き加えたふうに「卒業記念品、ご自由に」とあった。半分掠れたサインペンのその字は、まぎれもないアルハイゼンのものだ。

「今日で卒業だから、最後にがほしいと言ってきた学生がいてな。それなら粗品のボールペンが余り散らかしているから持っていくといいと言って、執務室の外に追い返すついでに扉の前に置いておいたんだ。ほかの者も面白がって取っていったようで、案外売れた」

 わお。

「悪い大人め」

 僕がにやけまじりにそう言うと、アルハイゼンがわざとらしく眉を上げた。婉曲的な表現には婉曲的に返す。一見意地が悪いようにも見えるが、アルハイゼンなりの優しさなのだ。
 卒業とは旅立ちであり、別れだ。親しい友人ならこれからも縁が続くかもしれないが、そうでなければ年月を経るごとに繋がりはだんだんと薄らいでしまう――国を越えて学生が集まる教令院であればなおのことだ。だからこの日は勇気を出して片想いの相手に告白する者もいて、学内の告白スポットへと歩いていく学生もそれなりに見受けられた。まさかアルハイゼンに告白しようとする……だけでなく、迫る人がいたとは思わなかったが、アルハイゼンがさらっと躱していたのにも驚いた。
 まさかこういう場合の対処に慣れているのか。慣れているとしたら、近頃の学生の人を見る目に若干の不安を覚える。恋人にも結構容赦がない人間だぞ、こいつは。そんなことは実際に口に出しはしないけれど。

「まあでも、なんていうか若気の至りってやつだな」
「君にも覚えが?」
「はは! 他人事みたいに言うなよ。たいていは君も共犯だろ」
「悪い先輩にそそのかされたからな」
「うん? そうは言うけど、あの頃、知恵の殿堂にこっそり泊まり込もうって最初に言い出したのは君のはずだぞ。閉館時間を無視するだなんて、清廉潔白な僕ひとりではとうてい出せっこない悪知恵だ」
「清廉潔白な人間はいたいけな後輩をカーテンの裏に引き込んだりしないよ」
「いたいけな後輩は尊敬すべき先輩を壁際に追い詰めてキスしたりしないさ」

 青い記憶をひっくり返せばいくらでも出てくるは、いまでもありありと思い出せる。挑発するようにアルハイゼンを見れば、アルハイゼンはむいとくちびるを歪ませて首を傾げてみせた。あれを言われればこれを言ってやろうという用意があるのがわかる。どこまでいってもおあいこだな、と僕は軽く笑って、ふたたび大講堂の昇降口に目を向けた。
 式典の熱が冷めやらぬ様子で、卒業生とその友人とが、抱き合って涙を流しているのが見えた。別のほうでは在学生と卒業生が背中をばしばし叩き合いながら、今日の別れを惜しんでいる。毎日顔を合わせていられたのはここに通っていたからこそで、明日からはもう別々の道を歩む。今生の別れになる人もいるだろうな、と思うなかで、ふと、あることに思い至った。
 ――そういえば、僕、アルハイゼンがどんなふうに卒業したのか知らないな。
 あの蜜月が最後まで続いていれば(というのは無意味な仮定だけれど)、僕はきっと後輩の晴れ舞台にも駆けつけて、その卒業を祝っただろう。けれど現実はそうではなかったし、逆にアルハイゼンもまた僕の卒業の日に顔を出すことはなかった。学内を歩けばどこかしらで会うような気はしたけれど、会ったところでどうするのだということもあり、結局、あの日の僕はまっすぐ家に帰ったのだった。

「なあ。君は卒業するとき、寂しかったか?」

 アルハイゼンは一瞬、きょとんとした様子で僕を見たが、すぐにいいや、と首を振った。

「とくになにも思わなかった。なにせ、就職先も教令院ここだからな。実際のところ、生活もさほど変わらなかった」

 まあそうか、と僕は納得した。通学がそのまま通勤になり、就業時間もそう変わらない――本人の働き方によるところもあるけれど。
 ふうん、とのんきな相槌を打った僕に、今度はアルハイゼンが訊いた。

「君は?」
「僕? うーん……まあ、ちょっとは寂しかったかな。でもできれば、いつかここに戻ってこれたらって思ってたよ。講師としてね」

 いまにして思えば、それは存外早く叶った夢だ。けれど当時は、その機会がやってくるとしてもまだまだ先の、歳を重ねた頃になるかもしれないと思っていた。

「とはいえ、言うまでもなくいちばんの目標は、建築デザイナーになることだったからさ。卒業してすぐの頃は、新しく始まる仕事への期待とか不安が大きかったよ。どんなことが待ってるんだろうとか、僕にやれるのかとか……。実際は、やれるのかじゃなくてやるしかなかったんだけど」

 長い下積み時代に経験したのは、過労死ぎりぎりの仕事に次ぐ仕事、そして仕事だった。ワークライフバランスが大事だとか、週末は仕事を忘れてリフレッシュ……だなんてのは夢のまた夢で、食事や睡眠もそこそこに、費やしうるすべてのリソースを目の前の作業のために捧げていた。ぎちぎちに締め上げられた脳みそや充血しっぱなしの目からほんとうに血が滲み出るんじゃないか、というあの経験があってこそのいまがあるとは思っているけれど、それでも後進に「君もあれくらい仕事をやるべきだ」とは言えない。自分はどうにか持ちこたえたが、人によってはほんとうに潰れてしまいかねないからだ。

 「失敗もたくさんした。驕っていたつもりはなかったけど、もうちょっとやれると思ってたのに実際の現場じゃぜんぜん力が及ばなくて、悔しい思いをしたりもしたよ。……君は?」
 「ここの仕事は簡単だからな」アルハイゼンは空の段ボールを脇に避けながら答えた。「すくなくとも上を望まない限りは、規則に従って粛々と業務をこなすだけだ」

 そんなことを言いながら、いまでは賢者と同等の給料をもらっているのだから運命というものはほんとうによくわからない。とはいえ、一年単位の波の中で業務を行う書記官の仕事だってけして本人が言うように楽なだけではない。折衝だってつきものだし、各学派のぶつかり合いが仕事に影響を及ぼすことだってある――主に、予算の分配などで。

 「君は生きるのがうまいな」
 「そう思うか? なら仮に、君は俺が代わるかと言ったところで頷くのか」

 思いがけない質問に、今度は僕が目を見開いた。
 だがすぐに気を取り直し、にやりと笑って答えた。

 「まさか」

 聖樹に支えられ、うつくしくそびえる象牙の塔を名残惜しそうに見上げる後輩たちの横顔に、かつての自分の面影を見た気がした。


 卒業してからずっと、いまなお実力を試され続けている。
 鳴り物入りで業界デビューを果たした若造がいったいどれだけやれるのか、という値踏みの視線はいやというほど浴びてきた。逆に「さぞすごいものを見せてくれることだろう」と期待のこもった視線も向けられてきた。しかし実際のところ、感情のベクトルが異なるだけでそのふたつは案外同じようなものだ。どちらにせよこちらの差し出したものが及第点に届かなければ待っているのは失望の二文字のみで、そんなことになってたまるかと歯を食いしばって、これまで絶えず努力してきたのだ。
 目標をひとつ乗り越えれば次のひとつはさらに高く。その次はまたさらに、そしてその次も――
 挑戦は際限なく続く。リテイクを重ねるごとに脳みそはまたぎゅうぎゅう締め上げられて、どうにか絞り出したアイデアも顧客に頷いてもらえるかはわからない。けれど、顧客とイメージを擦り合わせるうちに見えてくる、本人すら無自覚だった本音の部分を前にすると血が沸き立つ自分がいる。やってやる、これを現実にできるのは僕しかいない、と心の奥で負けん気がごうごう燃えさかり、体じゅうを酸素が猛烈な勢いで駆けめぐる。
 そうしていくつもの夜を明かし、朝を見送り、理想と妥協をくり返した末に迎える竣工の日には万感の思いが胸に迫る。大海原に風が吹き渡るような清々しさと、胸の隅によぎるすこしの寂しさと悔しさ、そしてなににも勝る大きな喜びがある。
 それを味わってしまった自分はもう、ほかの仕事ではきっと満足できない。
 仕事を始めた頃には想像しえなかったことがいくつもあった。なにが起きるかわからないから、未来へ踏み出すはじめの一歩はいつだって心細い。
 けれどなにが起きるかわからないからこそ、思いがけない幸いに出くわすこともあるのだ。
 たとえば――思ってもみない、わだかまりの雪解けとか。

 社会に出ればたくさんの理不尽が待っている。
 理屈が通らないことも、他人の感情に振り回されることもある。
 これから出会う人たちは、そんな社会を生き抜いてきている大人であり、その仲間入りをしたばかりの若者はこれから、多くの挫折を経験する。
 けれど、誰にも「初めて」はあるのだ。
 いまでは立派な大人に見える人たちもかつては子どもであり、自分たちと同じように、社会に出たばかりの頃があった。最初からうまくやる人なんてほんの一握りで、ほとんどの人はどこかで一度はつまずいて転んでいたりする。
 多くの人が挫折しながら社会の泳ぎ方を覚えていく。それはちょうど、教令院で学び始めた子どもらの頑張りに似ている。
 
 ――だから、大丈夫だよ。
 口には出さずに、視線の先の後輩たちへそっとエールを送る。
 失敗したって大丈夫、だなんて他人が口にするとこんなに無責任な言葉はないかもしれない。けれど、一度も失敗がない人生よりも息はしやすくなるし、歩む道幅だって広くなる。道草を食う余裕のようなものが生まれて、ちょっとやそっとの失敗じゃ揺らがなくなる。破産した人間が言うのもおかしな話かもしれないが、そんな僕だからこそ言えることもある。

「先輩風はほどほどにしておけ」

 僕の頭の中を見透かしたようにアルハイゼンが嘆息する。

「なに言ってるんだ。春は風が強いもんだろ……おっと」

 僕が言い終わるよりも早く、びゅう、と春風が吹き抜けた。あまりにもちょうどいいタイミングだったので僕がほらな、と笑うと、アルハイゼンが呆れるように肩をすくめた。
 

 大丈夫。大丈夫だよ。
 かつての友人との繋がりが途切れても、ひょんなことからまた繋がることもある。鳥籠の中からでは見えなかったものが見えて、世界の彩度がぐんと引き上がることだってある。
 不安を語ればきりがないだろう。
 けれど僕たち先輩は、今日ここを羽ばたいていく君たちのことをずっと待っていたんだよ。
 
 ようこそ後輩。新しい世界へ。
 大人って、案外悪くないよ。