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ぱり
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クリテメ
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【サンプル】天籟【クリテメ】
新刊/小説/文庫/80p/クリテメ/会場予価700円/2026年3月29日
「天籟」
クリ君がいるテメさんが教皇に推薦されるはなしです。互いの気持ちに気付いていながら関係性をうやむやにしているタイプのクリテメです。
* * *
二十歳の頃だった。
ロイと共に神官として教会に勤めるようになって二年。テメノスは役職も無く、いわゆる新米の神官だった。先輩方の補佐を通じ、礼拝や祭事の意味や執り行い方を学ぶ。それが終われば治癒や加護の魔法を習い、暇ができれば教義の本を読んでいた。
大聖堂の修練場で魔法の手解きを受けた後、テメノスは廊下に見知らぬ人間が立っていることに気がついた。鮮やかな赤いストラ。法衣も高貴な深紅。顔を知らないというだけで、その存在についてはよく知っている。教会の最高顧問にあたる、枢機卿団だ。
視察だろうか。こんなところ《修練場》まで来てくださるとは、熱心な方だ。
そう思い、修練場の扉を出たところで深く頭を下げた。テメノスは大聖堂から教会へ戻り、今日の勤めを終えるつもりだった。自分と枢機卿が話をする関係にも立場にも無いことは、よくわかっている。
「其方《そなた》が」
顔を上げ、片足を踏み出したテメノスを、赤い法衣の男が止めた。年嵩で渋い声の男性だ。白い髭は清潔に整えられており、皺のいった顔は厳しすぎず、表情は至極穏やか。そんな人物だった。
「其方が、テメノス・ミストラルであろうか」
「左様でございます」
少し驚いた。数多くいる神官たちの名前を覚えているのだろうか。こんな新人まで?
「そうであったか。なるほど、噂に違わぬ。其方の祈りは清らかであるな」
「
……
お褒めに預かり、光栄です」
噂
……
?
自分の知らないところで自分の話がされているということか。正直な気持ちを言ってしまえば、あまりいい気分ではなかった。が、そんなことを顔に出すほど、テメノスは馬鹿ではなかった。恐らく、今後そう関わり合う人物ではない。丁重に扱って、事なきを得られればそれでいい。ここで粗相をすれば、お咎めはきっと、親愛なる教皇イェルクに向くことになるだろうから。
「今後とも、民のしるべとなるべく、励みなさい」
「はい。その所存でございます」
胸の前で緩く指を組み、聖火の加護を祈る。目を伏せ、開く。枢機卿は何も言わなかった。ただ、満足げに頷かれただけだった。
「失礼致します」
辞去を表明し、微笑んだ。今日、大聖堂で枢機卿にお目見えしたことは、近日中に教皇へ報告しておこう。こういったことは、いつあちらから話題にされるかわからないから。
そうして、テメノスは枢機卿の前を去ったのだった。
「拾い子、か
……
とてもそのようには見えぬ。大したものだ」
1
「やっ
……
と、終わりましたね、テメノスさん
……
」
「荷車一台分とは、思ったより隠し持っていましたね。やれやれ」
「はい
……
あんなにたくさんの扇動文書
……
作るのも大変だっただろうに
……
」
「同情しているの?」
「い、いえ
……
何が彼らをそこまでさせるのかな、と」
同感だ、と率直に思う。テメノスは夜のモンテワイズを歩いていた。事件の調査を共にしてくれた聖堂騎士クリック・ウェルズリーを隣に連れて。
「それは改めて審問に伺います。それまで手厚く勾留しておいてね」
「はい
……
! 日程が決まりましたら、また書簡をお願いします」
「ええ。まあ、遠くないうちに行きますよ」
聖火教会に裁きを──
そんな煽り文句で始まる多種多様な暴動の煽りが、ここ、モンテワイズの古書市で見つかった。それは書物に挟まれ、次々に増え、不特定多数の人間の手に渡る。しまいには大図書館の蔵書の間でも発見され始め、大きな問題へと発展していった。
飛躍した扇動であっても、見るものによっては心を動かされる。聖火教会への不審を抱く。幸いにも暴動には至っていないが、聖火教会がこれを放置するわけにもいかない。
そこで、テメノスが解決に乗り出したというわけだった。
テメノスが旅を終えて一年と少し。落ち着いたかのように見えた世界での、一番大きな事件となった。
その事件の真相を今、突き止めてきた。首謀者、協力者の捕縛と連行、それから、彼らの拠点に残った扇動文書の押収。これらを片付け、今夜のところは宿に帰ろう、という具合だった。
テメノスの護衛として抜擢されたのは、隣を歩いているクリック・ウェルズリー。およそ二年近く前になる、教皇殺害から始まった連続殺人事件を共に解き明かした
……
良きパートナーだ。
「連日調査で、お疲れですよね。ゆっくり休んでください」
「君もね。明日は早くに出立するんでしょう?」
「はい。ここに配属中の騎士が数名同行してくれることになっていますので、彼らに合わせます」
連泊中の宿に戻り、すっかり夜に沈んだ廊下を歩く。一週間を超える調査だったせいで、宿の構造も部屋の位置も、足が記憶してしまった。それはたぶん、隣の彼も同じ。
階段を登り、角を曲がって数歩。どちらともなく足を止める。
「
……
本当は、フレイムチャーチまでお送りしたかったのですが」
じわ、と胸に熱が広がる。横目に見上げたクリックの顔は、頬にほんのり朱がさし、実年齢よりほんの少し子どもっぽく見えた。
「また、すぐに会えますよ」
「それでも、ですよ」
瞳を交わす。あどけなく見えていた顔が急に大人びて、夜の色を纏う。彼がこういう顔をするようになったのは、テメノスが旅を終え、聖火の郷に戻ってからあとのことだった。大聖堂警護の臨時増員の時、事件の後始末のため聖堂機関を訪れた時、今日のように、調査に同行してくれた時
……
。
視界が翳る。自分よりも少し背が高く、鎧を着込んだ騎士が距離を詰めてきたからだ。少しばかり鼓動が高鳴る。これから起こることを、テメノスは知っていた。
まるで壊れやすいものに触れるかのように丁寧に顎を掬われ、肩を抱かれる。ゆっくりと、しかし、ためらうことなく唇に唇を寄せられ、自然と瞼が下りる。温度と感触だけを伝え合い、彼の唇は名残惜しそうに離れていった。
「おやすみなさい、テメノスさん」
「おやすみ。明日、見送りには行きますから」
そう言って微笑めば、彼はやっぱり子どものように顔をくしゃりと歪めて笑ってくれた。笑って、今度は強く抱きしめてくれる。もう少し長く、この腕の中に居たい。そう思ってしまうほど、硬い鎧に覆われた胸が好きだった。
彼は聖堂騎士で、自分は神官。性別は同じ。恋をするには、あまりにも不向きだった。だから、気持ちは確かだと認め合っているけれど、互いにそれ以上踏み込まない。言葉にしてしまえば、彼も私も否定するのが正解だと、知っていたから。
二つ並んだ同じ扉に、それぞれ入っていく。ぱたんと閉まる扉の軽い音が、有耶無耶にした短い逢瀬の終わりを告げた。
2
テメノスが聖火の郷へ帰還したのは、クリックと別れ、モンテワイズを経った二日後のことだった。寄り道はしていない。野営を挟み、帰りがてら調書の下書きを作り、真っ直ぐフレイムチャーチへ向かった。
およそ二週間の遠征だったが、それでも子どもたちにとっては長い時間だったらしい。家に帰るよりも先に教会へ顔を出せば、遊びに来ていた子どもたちにすぐ足元を埋められてしまった。その状況に笑う他の神官たちも、テメノスに「お帰りなさい」とあたたかい言葉をかけてくれる。彼らの笑顔や言葉が旅路の疲れを軽くしてくれることが、治癒魔法などよりよっぽど偉大だとテメノスは考えていた。
教会で疲れを癒し、その足で大聖堂へ向かう。ここからは仕事だ。調書は後日きちんと形にするとして、まずは帰還したことを報告せねばならない。教皇亡きあとは、大聖堂に仕える神官長がその代理を務めていた。つまり、彼が今はテメノス直属の上官ということになる。
昼を過ぎたばかりで、まだ日は高く眩しかった。その間にと巡礼路を登り、聖火台の広場を抜ける。大聖堂の入り口を番している聖堂騎士と軽く挨拶を交わし、迷いなく中央の礼拝堂を目指した。神官長は日中ずっと礼拝堂にいる。すれ違う参拝者の顔を見れば、皆清々しそうな明るい顔をしている。神官長の慈悲深い祈りに触れてきたからであろう。
「戻りました」
「ああ、テメノス。お帰りなさい」
聖窓を見上げていた神官長に声をかける。礼拝堂の空気を壊さぬよう穏やかに発音すると、彼はゆっくり振り向き、小さく祈りを捧げてくれた。
「調査はどうでしたか」
「ほぼ解決です。今日は取り急ぎ結果のご報告のみですが、書類は明日以降、できる限り早くまとめますので」
「できる限り早くなくても、良いのですよ。長旅で疲れたでしょう。しっかり休養をとってから
……
」
「フフ
……
」
テメノスが含み笑いを漏らすと、神官長は眉尻を下げ、首を傾げた。この人は本当に上官らしくない。仕事のことはもっとシビアに話してくれても良いのだけど。
「おかしかったですか」
「いいえ。あなたのような人が上にいてくださり、心穏やかでいられますよ」
テメノスがそう告げると、神官長は少し唇を開き、一呼吸おき、また口を閉じた。何か言い淀む仕草だった。
「
……
何か?」
「ああ、いえ
……
。テメノス、そのことなのですが」
そのこと?
どのことだろう。神官長の瞳をのぞき、首を傾げる。
「枢機卿団から、君を教皇に推薦するご意向を賜っている。私も、君ならば」
「ま
……
待ってください」
そのこと、とは、上にいるもののことだったか。
テメノスは慌てて神官長の声を遮り、手を胸の前で小さく振った。
自分のことは自分が一番良くわかっている。教皇になど、向いているわけがない。
「私では経験が浅すぎます。仮にフレイムチャーチの民が認めても、他ではそうはいかないでしょう」
「そんなことがあるものかね。君は誰より世界を歩き、民にふれ、長き夜からソリスティアを救った」
「私だけの力ではありません」
「それだからこそ
……
神話のエルフリック様のお姿を思い起こさせます。君は世を導く者として、相応しい」
「そんな話、誰も信じやしませんよ」
「私たちは信じています。君は嘘の報告を書かない」
「
……
しかし」
次の言葉が見つからなかった。誰かが空位を埋めなければならない。聖火教会と信徒を正しく導き、灯火となれる人物が必要だ。枢機卿団のお考えは理解できる。聖火教会に根付いていた夜の芽を摘み、邪神の降臨を阻止したという報告をまっすぐに捉えてくれている。神話の再現とみなすのは誰にとっても容易いことだ。わかりやすい偶像がまさにここにある。教皇に仕立てるにはもってこいだろう。
「これが、枢機卿団のご意向です。私も君が教皇となってくれたら嬉しいと思います」
「
……
考えさせていただけますか」
即座に決断できなかった。頭の中に、かつての仲間たちの姿と、金髪の聖堂騎士の笑顔が目まぐるしく浮かび上がっては消える。彼らに会えなくなるわけではない。仕事の内容が変わるだけだ。私が頷けば、聖火教会は以前のように安定した体制を保てる。
なのに、頷けなかった。
神官長が優しく瞼を伏せ、ゆっくりおやすみなさい、と言ってくれた。
大聖堂をあとにする。外に出れば、広場の聖火が穏やかに燃えていた。
私はどうすべきだ。どうしたい?
* * *
二十八になって間も無く、異端審問官の叙任を授かった。
ロイが消息を絶ち、三年が過ぎていた。
「着任おめでとうございます! 心境や意気込みをお聞かせいただけますか?」
「異端審問官という役職にどのようなお気持ちで臨まれますか?」
「就任を伝えたい方がいらっしゃいますか?」
叙任式が終わり、日暮に家へ戻った後のことだった。扉を叩かれた時は静かだった。たった一人の誰かが、何かの用事で訪ねてきたのだろうとあっさり信じてしまうほど。
だが、扉を開けてみればこうだった。手帳とペンを構えた数名の男女。年恰好は皆ばらばらだが、ぎらぎらとした熱い目で、口々に質問をぶつけてくる。新聞記者、という集団だとわかったのは、一番扉に近い者が「申し遅れました」と社名と名前の書かれた紙を渡してきた時だった。
答えなければならないのだろうか。異端審問官とは、教皇直下の特殊な役職だ。彼らが騒ぎ立て、新任の異端審問官を記事にしたい気持ちもわからなくはない。けれども、突然押しかけ一方的に話し始めるのはいかがなものか。
テメノスが黙っていると、他の記者たちの陰からすっと手を挙げた者がいた。着古したシャツとベストの、中年男性だった。
「前任の方が就任されてからわずか四年。我々の調査では、前任者は失踪されていることがわかっております」
「
……
ええ」
テメノスはそこで初めて返事をした。男は感情を殺した平らな声でそう告げてきた。ロイの失踪は、公表していない。が、秘匿もしていない。この男、何が言いたい。何か知っているのか。
「あなたが前任者の失踪に関わっているのではないですか」
「
……
は?」
「あなたが殺したのではないかと言っているんです」
「
……
」
唇が震えた。暴れ出しそうだった喉に力を込め、細く開けた唇で息を吸う。ゆっくり吐き出す。腹の底が煮えたぎるような心地がしていた。そんなわけがあるか。カマをかけるつもりなら、もう少し調べてから言え。
男とテメノスの冷たい睨み合いに、周囲の記者たちが固唾を飲む。張り詰めた空気が流れる。しばしの静寂を破ったのは、テメノスの方だった。
「あなた方にお話しすることはありません。お引き取り願います」
極力優しく、扉を閉める。鍵をおろし、彼らと自分を隔てる木の板に背を向けた。向こう側で記者たちのざわめく声が聞こえる。「おい、なんて事してくれるんだあんた」「怒らせに来たのか?」「あーあ、商売あがったりだわ」そんな言葉の断片が、扉を貫通して聞こえていた。誰もいない部屋の宙空をぼんやり眺め、小さなため息をつく。
──役職欲しさに私がロイを殺した? それは飛んだ間違いだ。それどころか私は
諦めていない。私だけではない。教皇イェルクも、まだ諦めていない。諦めていないが、絶望的であることはわかっている、それだけだ。
言葉は容易く人の心を傷つける。己も他人に物事を問う立場になった。罷り間違っても、この記者どものようになりたくはない。
「私が、ロイを」
けれども、幾度もあの夜を思い出させる記憶の入れ物が、記者の言葉を受け入れてしまう。あの時、どうしてロイを止めなかった。詳しく聞かせろと問い正し、彼の負ったものの少しでも引き受けてやっていたら
……
。追いかけていたら、腕を掴んでいたら、彼はいなくならなかったかもしれない。
あの時そうできたのは私ひとりだった。なのに、しなかった。心の奥底に、事態を軽んじる甘さがあったからだ。ロイならば、戻ってくるだろうと。
部屋の壁と家具の境目がじわりとぼやける。焦点を正すこともせず、目を閉じ、首を振った。
今日、私は異端審問官になった。この勤め、必ずや果たしてみせる。
水面の凪のように、冷静でしたたかでいなければ。いつかロイの言葉を解き明かし、真実と向き合うためにも。
3
モンテワイズの扇動文書事件を解決し、二週間が過ぎた。クリックは勤めを終え、聖堂機関本部の門前で空を見上げていた。雪の降りやまぬこの街では、夕暮れの時間を短く感じる。空は大体厚い雪雲に覆われていて、夕焼けの熱を奪ってしまうのだ。薄暗くなり始め、霞む橙色の空と街灯の明かりが溶け合う。
「お待たせ、クリック君」
「お疲れ様です。審問は
……
いかがでした?」
後ろから、柔らかな声音に呼ばれた。振り返ればすぐに、外套のフードを被ろうとしている異端審問官が目に入る。クリックが労いの言葉をかけると、彼は少しだけ目を細めた。
「ええ
……
。首謀者、協力者、それぞれ個別に話をしましたが、彼らのみで画策したことで、文書も残っていないし他の仲間もいない、と。この点に嘘はなさそうです」
「そうですか
……
! では、これで本当に解決
……
」
そこまで口にし、クリックはふと思い出した。事件は解決したのだけれど、その日の晩も浮かび上がってきた疑問だ。
「彼らは
……
なぜこのようなことを?」
「聖火も神も人を救わぬ、と。そのような幻想で心を縋らせ民意を籠絡するような真似は許せない、そのご意見は、今も変わらないようです」
「そう
……
ですか
……
」
聖火教会は、そんなつもりで聖火を崇めているのではないのだけどな、と胸の中を重くさせる。というのも、クリック自身もかつては、聖火教の伝える聖火や神を心の底から信じていた。それがしるべ以上の意味を持たないことや、神の奇跡が人を救わないことは、この目の前の彼との出会い、そして機関長の事件で思い知った。
だからこそ、神の導きを正しく理解し、悪から人を救い守れる人間でいたい。クリックはあの事件を経て、より一層強く、そう思うのだ。
「ま、彼らの言うことも全てが間違いではない。誰が何を信じるかを統制する権利も聖火教会にはありません。彼らは人を傷つけてはいませんし、古書市や大図書館への迷惑行為を償ったら釈放されるでしょう」
「はい
……
」
「
……
何か?」
「ああ、いえ
……
」
テメノスは言葉を白い息に変えながら、淡々と語った。その言葉を聞きながら、ぼんやりと彼の思いを想像していた。それで返事が気の抜けた様になってしまい、察しの良い審問官に指摘を受ける。
「テメノスさんは、彼らの意志自体に罪はないと、そうお考えですよね」
「ええ。ただそのご意見の出し方次第では対処しなければなりませんから、厄介なことですよ」
「ですね
……
」
クリックが頷くのを見届け、テメノスも小さく頷いた。それが話の終わりの合図になる。世の中は理不尽なことだらけだ。理不尽の中に溺れるしか術のない人が数多くいる。神が彼らを皆救えるのかと言ったら、そうじゃない。では聖火教会なら救えるのかと言ったら、そうでもない。そうでもないから、人々は助け合って生きていかなきゃいけないし、もしそんな理想が叶うなら、その時
……
聖火教も神の教えも、不要なのかもしれない。
けど、少なくとも今は僕らを頼りにしてくれている人たちがいる。悪意を持って他人を害したり生活を奪うものが、まだたくさんいるのだ。だから、僕らは立ち続ける。件の扇動事件は迷惑行為自体は良くないが、その原動力は悪意ではなかった、という話。
「さて、行きますか」
「はい。今日もいつもの宿ですか?」
「ええ。宿の人にもすっかり覚えられてしまいました」
革靴の足が、新しい雪を被った道を踏む。クリックはその隣に並び、歩き出した。テメノスは異端審問官としてだけでなく、その前
……
個性豊かな仲間たちと旅をしていた頃からストームヘイルへ来ている。その度に同じ宿を使っていたし、旅を終え、今日のように異端審問官としての要件で来た時も毎度同じところだ。それは覚えられてしまうよな、とクリックはこっそり笑顔をこぼす。
「明日にはこちらを発たれますか?」
「そうですね。あまり遅いとモンテワイズに着く前に夜中になってしまいますから、午前のうちには」
「巡回の都合がつけば、お見送りに
……
」
「いいですよ、気を遣わなくて」
そんな会話をしながら、宿の軒先をくぐる。カウンターにかけていた店主は、審問官の顔を見ると「お帰りなさいませ」と笑い、そのまま二人を客室への廊下へ通してくれた。
そう、せっかくテメノスと会えても、クリックにはさほど許された時間がなかった。自分は彼に、親愛を超えた感情を抱いている。もっとそばに居たい、もっと彼のことを知りたい。こういう機会なら食事の一つでも誘ってみればいいのに、抱きしめて口づけた後の彼を見てしまうと、それ以上求められなくなってしまう。
板張りの廊下に、足音が響く。彼の革靴が響かせる優しい音と、自身の鎧が奏でる小さな金属音。廊下を歩き始めると、かけるべき言葉が見つからなくなる。あなたのことを今日も、明日も、変わらず愛していると口付けることだけが、クリックに許された手段だった。
半歩先を歩く彼の足が、いくつか並んだ扉の四つ目で止まった。左右には同じ扉が同じ間隔で連なっており、頼りになるのは扉にかかっている部屋番号の札だけ。ここが今日の彼の部屋だ。
「では、テメノスさん。お疲れ様でした。帰りの道中も寒さが厳しいですから、よく、お休みになって
……
」
明日は会う時間がないかもしれない。別れの言葉を伝えようと、クリックは言葉を選びながらゆっくり声を出した。雪の染みた外套の背が、彼の動きに合わせて細やかに揺れる。彼の手が法衣の何処かから鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込んだ。
「また、お会いできる日まで、どうかお元気
……
で」
「クリック君」
かたん、と錠の回る音が聞こえた。それとほとんど同時に名を呼ばれる。白い顔の人が振り返り、翠の眼差しをクリックに向けた。
「
……
っ」
その瞳の熱さにどきんと心臓が鳴る。口付けの直前のような、切なげで色香の漂う瞳だ。まだ挨拶が終わっていない。でも、もう抱き締めたい。そうしたら、この逢瀬は終わりになってしまうのだけど、この瞳は今、僕を求めてくれているから。
廊下に他に誰かいないかなんて、確かめることすら忘れていた。見つめられるまま吸い寄せられ、雪みたいに白い頬に触れる。手袋と籠手をはめた手では冷たいかもしれない。だから、指先からゆっくり、表面を撫でるくらいの強さで触れた。
「
……
ん」
唇を重ねる。こうすると、サーコートの胸元を両手で握ってくれる彼が好きだ。少し角度を深くし、冷えた外套の背を抱く。彼は腕の中にすっぽりおさまって、クリックを食むように唇を動かす。
「テメノスさん
……
」
息をついで唇を離す。少し赤く色づいた頬と、まだ閉じられている瞼がすぐそこにあった。美しいひとだ。男とか女とか、関係ないじゃないか。この人は世界一美しい、僕の青い炎。彼自身の気高い正義が、彼の立ち振る舞いを悉く美しく見せる。言ってしまいたい。愛している、僕はあなたに恋をしている。どうか、あなたの気持ちを聞かせてください、と。
「私
……
」
口付けた唇が、しっとりと声を漏らす。薄く開かれた瞼の下で、翠玉がかすかに惑う。もう一度唇を奪ってしまおうか、と魔が差した瞬間に、そっと鎧の胸を押された。
「
……
私ね
……
」
「はい
……
?」
何かを伝えようと躊躇う唇に白い指が触れ、止めた。少し離れた体の間、翠の瞳はじっとそこに視線を落としている。纏う雰囲気がいつもとは違うな、そう察し、クリックは背を抱いた腕の力を緩めた。
「
……
」
ちら、と翠玉が上向く。一瞬視線が交錯した。が、すぐに翠色が見えなくなる。テメノスはするりとクリックの腕を抜け、背後の扉を引いたのだ。
「あ
……
その、」
逢瀬はおしまいなのだ。帰路の無事を祈り、おやすみなさいを言わなければ。危うく深追いしてしまいそうだった。それを恥じ、クリックは頬が熱くなるのを感じた。次にかけるべき言葉を探し、浮かんでこず、息を吸って開いた唇だけがひんやりする。
「
……
部屋に入って」
「
……
⁉︎」
思いがけない言葉が、後ろを向いたままの彼からぽろりとこぼれた。目が丸くなってしまう。一度も踏み込んでいない領域に、招かれている。
心臓が高鳴り、手が震えた。彼が開いてくれた扉を、その手で押さえる。いいのだろうか。本当に?
部屋の中は暖炉も灯りも消されており、暗い。窓の外の街灯の明かりが、ほんのり優しく窓枠を浮かび上がらせている。テメノスは、その小部屋に静かに入っていった。
「クリック君」
「
……
っはい」
ふわりと法衣の裾を広げ、彼が振り返る。柔らかく下がった眉尻と、甘く緩んだまなじり。口付けたばかりの唇はふっくら艶めき、言葉を紡いだ。
「入ってきて、欲しいです」
「
……
テメノス、さんッ」
そこから、衝動で体が動いていた。迎えてくれた愛しい体を抱き締め、唇をつなげる。背後で扉が閉まる音がした。が、それより、自分と彼の息遣いの方が大きい。鼓動も。
夢中で掻き抱き、互いの外套に爪を立て合う。口付けよりもっと熱く深く、舌を絡ませ、呼吸を食い合った。
雪の中を歩き、冷えていた肌が血の熱さで色づく。彼の指先が頬を撫でてくれて、その手に自分の手を重ねた。手袋も籠手もなかったらよかったのに。指の谷間に自身の指を割り込ませ、痛くしないようにゆっくり力を込めて握る。
そうして幾度となく深い口付けを交わした。法衣の足と鎧の足がもつれ合う。その足が狭い部屋の小さな寝台にぶつかり、彼の背を支えた。
「クリック君
……
私
……
」
熱にとろける翠色が、まばたいたら雫をこぼしてしまいそうなほど、潤んでいた。ずきんと胸が痛む。これは彼が始めたことで、彼が己を望んでくれただろうことはわかる。それこそ、痛いほどわかってしまう。口付けも、抱擁も、髪や頬に触れ合うのも、自分だってとても興奮してしまうから。
「テメノス
……
さん
……
」
唇を結び、一度硬く瞼を閉じる。彼は許してくれている。いや、このまま、うやむやなまま寝台に転がり落ちるのを望んでさえいるかもしれない。
でも
……
でも、まだ、何も言ってない。言ってしまっていいのだろうか。これまで頑なに守ってきた関係を、変えていいのだろうか。
彼は神官で、自分は聖堂騎士だ。
胸がまだどきどきする。愛している、好きだ、と言ってしまいたかった。抱き合う最中に乱してしまった彼の白銀を指先でそっと撫でる。
「おやすみなさい、テメノスさん。あなたの旅路に聖火のご加護があらんことを」
「
……
おやすみ」
薄い唇が細い息を吐く。サーコートを握り締めてくれた指がはらりと離れていく。その唇が「聖火の加護があらんことを」と同じ祝福をうたい、白い指が胸の前で組まれた。
窓の外は、すっかり夜になっていた。窓から差す街灯の橙が、祈る彼を美しく彩る。瞼を伏せたその人は、これまでに見たどんな神官より美しく神聖に見えた。
彼に敬礼をし、部屋を出る。廊下の空気は外よりいくらかマシという程度で、震えが走るくらいには冷え込んでいた。
それが、衝動に沸いた頭の中を急速に冷やしていく。このまま感情に任せても、きっと許されただろう。でも、その前に伝えなければ。この思いが別れ際という刹那の情動ではないこと、長い間考え抜き、あなたのそばにいることが僕の幸せであると気づいたこと、きちんと、伝える機会を持とう。
ですから、もう少し待っていてください、テメノスさん。今夜は、よくお休みになって
……
。
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