千代里
2026-03-23 08:17:42
9971文字
Public 君ふれ短編
 

君ふれ・クガネ編・12話


 ユキハネ・ハタオリ。出会った時から、その少女は、ヒョウセツにとって目が離せない不思議な存在だった。
 女性らしい華奢な体に、体格に不釣り合いな大きな杖。嫋やかな所作と優雅に微笑む横顔。物腰穏やかで、見るものを安心させる丁寧な所作。それだけを見れば、魔法に興味を持つ深窓の才女とすら勘違いしただろう。
 ヒョウセツが手を伸ばして、力を込めたらあっという間に折れてしまいそうな、か細い存在。彼から見たユキハネという娘は、外見だけなら知り合いのアウラ族の女性たちとさして変わらないように見えた。
 ヒョウセツにとって、女性とはひどく脆く、か弱い存在だ。
 彼は、成長と共に自然とそう思ったのではない。誰かにそう教え込まれたわけでもない。そう思わねばならないと己に強く命じなければならないことがあったのだ。
 アウラ族は、男女で極端な体格差のある種族である。ヒューラン族やミコッテ族のように、女性が一回り小さいだけでは済まない。そもそも異なる種族ではないかと疑われるほどに、背丈や体つきが大きく異なるのだ。
 身長差は、どれだけ小さく見積もっても、頭三つ分以上の差が生じてしまう。
 だが、成人したアウラ族の体格差とは裏腹に、幼少の頃は男女に大きな差は見られない。男も女も、子供相応の小さな体躯と角を持っているだけで、まさかこの子供が背丈二ヤルムを優に超えるほど成長するとは、他種族には想像もつくまい。
 ヒョウセツも子供の頃は、自分が父や同胞の男のように大きくなるのだろうかと半信半疑だった。男も女も関係なく、子供たちは一緒になって無邪気に遊び回っていた。
 成長に疑いを持っていても、やがてはヒョウセツも成長期を経て、今のような立派な体格を得た。だが、背が伸びたばかりの彼は、体こそ大きくなったものの、子供の頃と変わらない心を持ったままでいた。
 だから、彼は小さな頃と常と変わらない態度で仲間たちに接していた。いつものようにふざけ合い、小突きあい、そんな日々をずっと過ごしていけると当然のように思っていた。
 ――そんなふうに楽観的に考えていたことが、事件のきっかけになってしまった。
 あれは、まだ母が生きていた頃のことだ。いつものように仲間の男児とチャンバラをして遊んだ後、ふと振り返った時に、ヒョウセツは最近は疎遠になっていた幼馴染を偶然見つけた。
「おーい、アカネー! 何やってんだよー!!」
 昔馴染みの少女に駆け寄ったヒョウセツは、子供の頃と同じように、挨拶がわりに彼女の背中を軽く叩いた。
 単なる戯れとしての平手打ちのつもりだった。昔なら、「何すんのよ、この悪ガキ!」と叱られながらも、アカネも笑いながらヒョウセツをこづき回して、そのまま転がり合いながら遊んだだろう。
 だけど、その時は違った。幼馴染は苦悶のうめき声をあげながら、地面に座り込んでしまったのだ。
 幸い、すぐに立ち上がったものの、彼女は気まずげに口を引き結んだまま何も言わない。代わりに声を張り上げたのは、アカネの周りにいた彼女の友人たちだった。
「ちょっと、いきなり何するのよ!」
「しんっじられない。アカネはあんたみたいなデカブツじゃないのに、そんな風に叩くなんて」
「そうよ、怪我したらどうすんのよ!」
 少女たちは、次々にヒョウセツを非難した。
 だが、ヒョウセツとてアカネを傷つけたかったわけじゃない。ちょっとした戯れだ。少し前まで、アカネだって同じことを自分にしていたのに。
 気がつけば、ヒョウセツはその場から逃げるようにして、家に駆け込んでいた。真っ青になって戻ってきたヒョウセツは、体が弱くて家にいがちだった母を前にして、なんと言うべきかわからなくなってしまった。
 言葉をなくしたヒョウセツを前にして、母はいつものように静かに息子を出迎えてくれた。
 だが、程なくして事件は母の角に届いた。数日後、厳しい顔の母に呼び出されたヒョウセツは、自分が乱暴な真似をしたことを叱られると思っていた。
 だが、困ったような顔をした母は、ヒョウセツを見つめてしみじみと、
……あんた、随分と大きくなったんだねえ」
 そう言われて、ヒョウセツも遅まきながら気がついた。
 少し前まで、母の腰に飛びついて彼女の尻尾にじゃれていたのに。気がつけば、ヒョウセツはいつの間にか母を見下ろすほどに立派な体を得ていた。
「アカネちゃんのこと、あそこのお母さんから聞いたよ」
 どきりとしたヒョウセツの不安とは裏腹に、母はゆったりした声音で続けた。
「ヒョウセツ、あんたは男だ。それでもってアカネちゃんやあたしは女だ。あたしたち角と鱗を持つ一族は、男と女で随分と体の大きさが違う。なんでかってあんたは聞くかもしれないけれど、そういうものだからとしか、あたしにも言えない」
 体が弱くていつも細い声で話す母の声が、その日ばかりはよく角に響いた。
「あんたは男だから、女よりもずっと大きい。力も強い。だから、あんたは男たちと接するのと同じやり方で、女に接しちゃいけないよ」
 昔のように、取っ組み合いをしたり戯れあったりすることは、危険なのだと母は諭した。
「アカネちゃんに、怪我をさせたかったわけじゃなかったんだろう?」
 その確認には、すぐにヒョウセツも首を縦に振った。
 誰かを傷つけたかったわけじゃない。怖がらせたかったわけでもない。だけど、そう思うだけでは駄目なのだと、この時の母の声を聞いて子供心ながらも察していた。
「あんたはちょっと向こう見ずで考えなしのところがある。だけども、決して間違った方向に向こう見ずなわけじゃないし、反省もできる子だ。お父さんと相談して、あんたのやんちゃな体力を存分に使えるところを探してみるとするよ」
……それなら、オレ、親父みたいに刀が使えるようになりてえよ」
 自分にとって良かれと思った触れ合いですら、時に傷ついてしまうほどに脆い者がいる。ならば、要人の護衛をしている父のように、どんな者も護れる人になったら良いのではないか。
 その時のヒョウセツが、そこまで深い考えを持っていたかというと、もはや本人にもわからぬことだ。
 ともあれ、両親の勧めで通わせてもらえるようになった道場には、自分と同じ体格の男ばかりがいた。ここでなら、自分は存分に自分の力を振るえる。誰かを怖がらせたり、傷つけたりすることはない。
 時を経るにつれ、ヒョウセツは同族の女たちの細さや嫋やかさを、感覚だけでなく知識としても知るようになった。彼女らを守る為に、アウラ族の男は大きく逞しく育つのだろうと思った。
 だが、そうしてヒョウセツなりに行き着いた答えを、ユキハネは木っ端微塵に砕いていった。
 ヒョウセツすら腰を抜かす魔物に臆することなく、彼よりも機敏に冷静に対処し、見事に彼を守り切ってみせた。
 その時から、ヒョウセツはユキハネという少女が気になっていた。
 彼女のようになりたいと口では言いつつも、それだけではない何かが彼の中で芽生えつつあったのだ。
 
 ◇◇◇
 
「ユキハネ。あまりキョロキョロしていると、人にぶつかるぞ」
「あ……すみません、ヒョウセツさん。どうしても、色んなものが気になってしまって」
 ヒョウセツに頭を下げたものの、すぐにユキハネはあっちにふらふら、こっちにふらふらと視線を彷徨わせていた。
 通りの両側に並ぶ店を一つずつ見ようとするせいで、彼女の進路はジグザグになってしまっていたが、それも致し方なし。ユキハネにとって、ここは久しぶりの故郷であると同時に、異国の地でもあるのだ。
 懐かしさと目新しさが混在した店先は、ムヒョウたちの家を出たときからずっと、ユキハネを魅了し続けていた。
「どうせなら、向こうの通りも行ってみるか? ここは一般家庭向けの食い物ばっかだけど、あっちなら観光客向けの買い食いできるものを売ってる店があったはずだ」
「いいのですか? それなら――
「良いわけねえだろ、ユキハネ。てめえ、自分の目的を忘れてねえか」
 ヒョウセツからの新たな誘いに目を輝かせかけていたユキハネは、後ろからやってきたフェリキシーにごつんと拳を落とされて、たちまち小さくなる。
 さして痛い思いをしたわけではないが、至極もっともな指摘を受けて居た堪れなくなってしまったのだ。
「ヒョウセツ。おめえもどういう腹づもりか知らねえが、こいつを惑わせてんじゃねえ。遊びてえなら、最初に用事済ませてからだろ」
「オレは別に、そんな、腹づもりとかがあるわけじゃ」
 口をもごもごさせるヒョウセツを、フェリキシーは剣呑さを隠そうともしない視線で睨んでいる。フェリキシーがヒョウセツとユキハネの間に割って入っているせいで、背が低いユキハネからは、ヒョウセツが見えなくなってしまっていた。
「お師様、すみません。約束の時間まで少し余裕があるからと言われたからといって、こんなにもフラフラしてはいけませんよね……
「別にいいじゃねえか、少しくらい。ほら、走っていけば十五分もかからずに着くんだからよ。それに、ユキハネたちはケイたちみたいに仕事があるわけでもないし」
 ケイとミィハは、昨晩助けた商人に請われて、クガネ滞在中は彼の護衛をすることに決めていた。
 ユキハネに何かあったらすぐに駆けつけると言ってくれたが、護衛の任務に比べればユキハネの目的は随分と気楽なものだ。何せ、実家に帰るだけなのだから。
「焦って走り込んで、髪やら服やらが乱れた情けねえ姿で、何年ぶりかに会う親戚の前に登場してもいいってお前が思うなら、それでもいいんじゃねえか」
 フェリキシーに見下ろされ、ユキハネはふるふると首を横に振る。
 親戚に対して見栄を張るというのもどうかとは思うが、やはり久しぶりに会うのだから、きちんとした身なりで再会したい。はしゃいだ弾みで少し乱れた髪の毛を整え、ローブに着いた埃をぱっぱっと払う。ケイが今朝結ってくれた髪の毛は崩れてはいないだろうか。
 身だしなみを整えながらも、ユキハネはそっとフェリキシーの様子を伺う。
(お師様には、私の気持ちなど、全部お見通しなのでしょうか)
 異国の地で心が弾んだのは、嘘ではない。しかし、同時に、浮かれた観光客の一人に紛れることで、自分の中に生まれた変化から逃げたかった側面が無かったとは言えない。
 フェリキシーのそばにいれば、まだユキハネは自分の知る『冒険者のユキハネ』でいられる。けれども、親戚に再会した後はどうなるかまではわからない。
 知らず知らず、杖をギュッと握りしめる。高鳴る心臓の音は、周りに聞こえるのではないかと思うほどにうるさい。
「じゃあ、ちょっと早いけどもう向かっちまうか。職人の家なら、店が客でごった返していて相手できないってこともないだろうし」
 ヒョウセツに促され、ユキハネは小さく頷く。顔中に漲る緊張は、そう簡単に消えやしない。
 自分の半歩後ろを歩くユキハネを、ヒョウセツはチラリと見やる。出会った時の頼もしい背中は、今のユキハネからはまるで想像ができない。今の彼女は、街中を行く普通の娘とさして変わらない、嫋やかで繊細な少女に見えた。
(いや、ユキハネはオレより年下なんだし、男でもないんだから、これが当たり前なんだろうけど)
 それでも、不思議とユキハネに幻滅することはない。ただ、彼女と親戚の再会が良いものであったらいいなと思うだけだ。前にミィハが話していたように、悪い家族が彼女を待っているなどという展開は考えたくもない。
 そう思っていると、ふと視線を感じ、ヒョウセツはぎくりとした。
……なんか、あいつ、昨日からやたらガン飛ばしてないか?)
 少し離れた先で二人についてきていた灰肌の男――フェリキシーが、片時も目を離さず、ヒョウセツとユキハネの様子を見ている。気のせいでなければ、店を出た頃からずっとだ。
 ユキハネとヒョウセツの関係をを案じたク・ハナから、彼女のことを見ていてあげてと頼まれたらフェリキシーは、これを機にヒョウセツを見極めることにしていた。そのような話し合いがあったなどとは知れないヒョウセツは、哀れ言葉にできない寒気に襲われながら案内をする羽目になったのだった。
 
 ***
 
 商談の場は、商人にとって戦さ場と似ている。仮にもウルダハで商家の小間使いをしていたケイは、そのように感じていた。
 そして、自身が仕えていたお嬢様の商談に相席することもあった彼は、良い商人とは何かという、彼なりの基準を薄らとではあったが持っていた。
 良い商人――それは、相手の懐に入り、相手の要望を叶えながら、それとなくこちらの要望も受け入れてもらう者を指す。相手の言い値で買っているようでは、まだまだ半人前だ。
 こちらも満足して、相手も納得する落とし所を、不満を感じさせずに与えること。
 あるいは、取引先に譲歩をさせるときも、相手の方から言い出したように思わせること。
 やり方は様々だが、ウルダハでは職人も商人も仲介者もそれぞれ海千山千の強者だった。慈善事業のような商売をしていては、あっという間に食い潰されてしまうのがウルダハ流の商談だ。
(ザックさんは、話した感じは良い人みたいだったけど……仕事の方ではどうなんだろう)
 とある織物職人の家に訪れたザックの後ろで、ケイとミィハは護衛として静かに商談を見守っていた。
 ザックは織物を主として扱う商人のようで、これまで訪れた取引先は揃って布織物を扱っていた。仲介業者を通さず、職人から直接購入する場面がほとんどで、そこに彼なりの拘りがうかがえる。
「じゃあ、今回はこちらの織物をいつものように一巻き分いただきましょうかね。それで、値段の方なんですが」
「あのぉ……やはり、以前より下げなければ買ってもらえませんかね」
 おずおずと切り出したのは、ザックの向かいに座っている商談相手のクガネ人だ。
 腰を低くして、媚びるような態度を見せつつも、その瞳は取引相手の様子を慎重に伺っている。
 ザックは「いやいや」と軽く手を振ってから、さっぱりとした笑顔を向け、
「他の者は何と言っているかは存じませんが、うちはこれまで通りの額でやり取りさせてもらおうかなって思ってます。そりゃあ、値下げしてもらえるなら、それに越したことはないですが、そちらも今の値段じゃなきゃ困るのでしょう?」
 ザックの言葉が十割善意から生まれたものであることは、ケイにもすぐわかった。
 だが、だからこそケイは眉を寄せ、唇を引き結ぶ。
 ザックの善意からの言葉を受け取った取引先の男に、単なる安堵だけとは思えない、嫌な笑みが一瞬過ぎった。それを、彼は見逃さなかった。
 そのようなわずかな表情の変化を、ケイはこれまで何度も見てきた。せいぜい商人のお嬢様の付き人に過ぎなかったとしても、彼がそばにいたのはただのお嬢様ではない。
 彼女は、相手の心の底に潜む欲望を見逃さない。そして、それを自分の利益とするために躊躇なく行動できる人物だった。
(お嬢様なら……さっきのは、見逃さなかっただろうな)
 ごくりと唾を飲み、ザックと男を交互に見やる。
 このまま黙っているか。それとも、口を挟むべきか。
 しばし悩んでから、ケイはゆっくりと腰を上げて、ザックの隣に座り直す。
「ケイ?」
……あの、おじさん。その織物って、クガネで作ったやつなんだよね?」
 ケイが指さした先にあるのは、深い藍色に染められた布だ。ちょうど、ザックが一巻き分購入すると言っていたものである。
「あ、ああ。もちろん。染めた素材も織った職人も一級品の高級な藍染の布だ。西のお偉方も喜んで着てくれるだろうさ」
 男は胸を逸らして自慢げに言う。どうやら、この布は高級品として扱われているらしい。ケイは木製の芯に巻かれた布の表面を、さらりと撫でる。
「さらさらしてて、綺麗な織り目だね。肌触りもいいから、気温が高いウルダハで暮らす人でも着やすいんじゃないかな」
「ケイもそう思うだろ! 前回は予算が足りなかったから、今回はちゃんと準備してきたんだ。ちょっと値が張るから、沢山は買えないんだけどな」
 ザックが嬉しそうに語るのを横目に、ケイは布を少しずつ広げていく。その合間に、目の前に座っている商談相手の様子を伺うのも忘れない。彼の頬がわずかに強張りを見せたのを確かめてから、ケイはどんどん布を広げていく。
「あ、あの、そちらの方……一体、何をしているのですか? あまり広げると、せっかくの品が傷んでしまいますよ」
「なあ、ケイ。何か気になることでもあるのか?」
 ザックに問いかけられても構わず、布を広げ続けたケイは、ある所でぴたりと手を止めた。
「ねえ、おじさん。この辺りから、布の織り目が急に乱れてきてるよね。作業する人、変わったの?」
 布を巻きつけていた芯から半分以上を出したところ。そこには、ケイの言う通り、織り目に乱れが生じ始めてる。
「おまけに、途中から全体的に糸の染めにムラがある。最初の方は綺麗だったけれど、途中から薄いところと濃いところが極端に分かれてるね。そういう模様ってわけでもなさそうだけど、これでウルダハの偉い人たちは喜んでくれるかな?」
 くるくると布を巻き直し、ケイは男をじっと見つめる。
 この手の詐称は、布を巻いて売るときの、初歩的なやり方だ。織っている最中に、半人前の賃金の安い職人に織り手を変えてしまう。そして、染めた糸に生じてしまった染めムラを気づかれないように誤魔化せば、傷物の糸として安く買い取り、織物は高値で売ることができる。
 一巻きの布を全て解かなければわからないが、今回のような狭い場所で布を全て広げるものは少ない。おまけに、そのような真似を頻繁にするのは相手を信頼していないと言っているようなもので、あまり褒められたことではない。
 だが、相手の信頼など鼻にもかけない令嬢のそばにいたケイは、彼女がこのようなやり方をしていたのを何度も目にしていた。そして、数度は本当に相手が騙そうとしていたこともあったのだ。
 商談相手の顔が、さーっと青くなる。ザックは布と男を交互に見てから、
「うーん……この仕上がりなら、さっきの値段はちょっと高すぎるって言わないといけなくなっちまうなあ」
 流石に、言い値で良いとは言えないと判断したのだろう。苦笑いをこぼしているが、すんなり引き下がらないところに、彼の商人としての矜持が見える。
 このまま値を下げるか。あるいは、騙したと言って怒り出すのか。
 ケイが慎重に様子を見守ってると、
「それじゃ、こうしよう。これと同じようなやつ、他にもないか? 三巻きか四巻きをまとめて買えるならば、さっきと同じ値段で買おうと思う」
「い、いいのか……?」
 どうやら、騙すための品はまだ用意していたらしい。男は冷や汗をかきながらおずおずと確認する。
「ああ。それなら、ウルダハで一般層向けに仕立てても俺は損をしない。あんたは粗悪品を抱えずに済む。これで万事よし、だろ?」
 そうは言っても、お互いに利益がそこまで出ないのは目に見えている。どちらかが大損をするくらいならまだマシな選択をしたというだけだ。
 それを愚かと判断するか、慈悲深いと思うかは本人次第である。
……助かったよ、ありがとう。最近はずっとこの値段じゃ買えないって言われるばっかりで、糸の出来が悪いやつでも何とか利益が出る売り方をしなきゃ……って」
「そういうこともあるだろうさ。だけど、次は一番綺麗なやつを見せてくれよ。ちゃんとしたやつなら、あんたの言う値段で買うからさ」
「ああ、任せてくれ!」
 そうして、取引相手の男は、ザックと固い握手を交わしていた。二人の様子を眺めていたケイの肩を、ミィハがちょんちょんとつつく。
「お手柄だな。君が目利きもできるとは知らなかったぞ」
「目利きなんて大したことじゃないよ。ただ、商談の場にいることが他の人より多かったからさ。それに、ザックさんに頼まれたからもあるし」
 ケイのいう通り、ザックは今日の商談が始まる前に、自分が何か騙されたり仕掛けられそうになったら教えてくれと頼んでいたのだ。
 ――クガネの人たちから仕入れる品を、無理矢理安く買うのは反対なんだけどな。とはいえ、この時勢でクガネの人も良からぬことを考えちまうかもしれないし。
 ザックとしては、第三者からの目が入ることで相手が警戒してくれることを期待していたようだが、結果としては悪くないだろう。
「でしゃばった真似、しないほうが良かったかな」
「ザックも商談相手も喜んでいるようだ。なら、君が気に病む必要がどこにある?」
 ミィハに言われて、ケイは照れくさそうに頬を掻いた。落ち着きなく、濃紫の尻尾が揺れている。
 ミィハの言う通り、商人と取引先の間柄だけであったはずの二人は、すっかり意気投合して、お茶と茶請けを挟んで世間話に興じている。商談前とはまた打って変わった気安いやり取りは、ザックが気前の良さと懐の広さを見せたからだろう。
「良い人だよね、ザックさん。俺、クガネに来て良かったと思うよ」
「ああ。護衛の仕事が急に入った時はどうしたものかと思ったが、彼のような人物の仕事を守るためならば悪くない」
 ミィハはケイの背中を軽く叩いてやってから、こちらを誘うザックの元へと駆け寄り、腰を下ろした。
「それで、ザックさん。そっちの元締めさんが昔、王室御用達だったってのは?」
 どうやら、商談の延長で同業者の話をしていたらしい。ことのついでに渡された茶請けを頬張りながら、ケイたちも耳を傾ける。
「そのままの通りさ。ウルダハにはナナモ陛下っていう女王様がいるんだ。でもって、王家が扱う絢爛豪華な品々を用意するのも、俺たち商人の役割。織物組合の偉いさんは、昔は王室御用達の布を卸していたんだよ」
「昔は、というのは今は違うのか」
 ミィハの質問に、ザックは頷き返す。
「なんでも、布の質が落ちたとかで、他の商人にお墨付きをとられちまったらしい。そうなると信頼自体も下がっちまうだろ。だから、クガネの布を沢山安くで仕入れて、見返してやろうとしてんだろうな。できれば、こっちのいい布も手に入れられないかって、あれこれ画策してるらしい」
「実力不足で御用達を外されたのなら、仕方ないと諦めるものなんじゃないのか」
 商人に授けられる王室御用達は職人のものとは違う。それは、どれだけ素晴らしい品を用意できるかにかかっており、それは他国からの輸入の手腕を問うものでもあるのだ。商談の上手い下手が大きく関わっているため、職人とは違う尺度で手腕を問われるのだろう。
「いやあ、ミィハの言うことはごもっともなんだが、そこで『はいそうですか』ってなれないプライドもあるもんでな」
「いやはや、所変わってもその辺りは変わりませんな。ひんがしの国の中でもとびきり偉い方々に、献上する栄誉というものがあるのですが、日々職人たちはこの栄誉を与えられんと必死に切磋琢磨しております。ですが、ひとたびその栄誉を与えられたとなると、今度は失うことを恐れて、人の道を外れるものもいたとか」
「それは……何だか、悲しい話だね。せっかく褒めてもらえたのに」
 ケイの言葉に、その場にいる皆が神妙な顔つきで頷く。目的と手段が逆転してしまうことこそ、空虚で悲しいものはない。だが、当事者だけは、そのことに気づけないのだろう。
「だが、そうなると、ザックの元締めである者は、ただ安値で仕入れをするだけではなく、クガネでも価値のある品を手に入れて、何とか返り咲こうとするんじゃないか」
「たとえば、おじさんが言っているみたいに献上品になりそうなものとか?」
 そのような高級品が扱われているのかと、三人が揃って商談相手を見やる。
 すると、男は苦笑と共に、
「いやあ……他はともかく、布織物に関しちゃ、クガネの職人で献上品のようなものを扱っているのは、もういないでしょうよ」
「もう? ということは、昔はいたの?」
「かなり前の話ですけどね。クガネに移住する前の、とある職人一家は、一度だけとてつもなく美しい白絹を織って、上様に献上したことがあるとか」
 昔話を語るかのように、男は目を細めて言う。
「その時の職人は、まるで雪のように白い髪をした、ぞっとするほど美しいアウラ族の娘だったそうですよ」