ねぶくろ
2026-03-22 20:13:13
4379文字
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火に油

仲間の目に映る「自分の虚像」に戸惑っている話

「俺はいつもお前の財布から金を抜いてるんだが、気づいてるか?」
 戯れに問いかければ、隣でグラスを傾けていた彼が目を瞬いてこちらを向いた。その顔を見返すことはせず、つまみの唐揚げを頬張る。烏戸からすど良長よしながは、カウンター席に並んで座る仲間の男を無視したまま、自身のグラスを手に取った。
 そろそろ年度が替わる時期だからか、居酒屋の店内は混み合っていた。座敷の方からは賑やかな話し声と笑い声が響いている。店全体が笑いと雑談に包まれており、弛緩した空気が心地よい。
 良長が横目で見れば、相手は普段よりも赤くなった顔で、「嘘だ」とこちらの言葉を一蹴した。大して強くもないくせに酒を飲み続けているせいか、発音が普段よりも幼い。彼は半分ほど中身の減ったグラスを揺らして、「良長さんはそんなことしない」と言葉を重ねた。
……なんでそう思うんだ?」
 問いかければ、彼は「なんで?」と呆けた顔で良長の言葉を繰り返した。どうやら、意味が脳みそまで伝達されていないらしい。こちらを見つめる顔はやはり赤く、思考が緩慢なのか返答までに間が空く。彼はグラスを手にしたまま黙り込み、「だって良長さんは、そんなことしないじゃん」と意味のない言葉を重ねた。
「それは、お前がそう思ってるだけだろ。財布にいくら入ってるかなんて、正確に把握してるのか?」
 根拠もなく人を信じるな、と頭を小突く。彼は「いて」と不満げに声を零して、グラスを傾けた。反論をしてこないのは、財布の中身を把握していないからだろう。しかし、それでも自分の考えに自信があるのか、財布を確かめようとはしない。──こちらの自供を嘘だと信じ、疑っていない。
 実際、良長が彼の財布から中身を抜いたことはない。しかし、彼がサシ飲みの度に寝落ちするまで酒を飲むのはいただけないと思っている。少しはこちらのことを警戒するべきだと思うし、それに、中身を抜いたことはなくとも、何度か所持金の少なさを確認してそっとそれを彼のポケット戻したことはあるのだ。
 反省したらどうだ、という気持ちで彼を眺める。彼は漠然とした眼差しをグラスの中身へと注いでから、こちらへ視線を寄越した。
……なぜなぜ期?」
 皮肉のつもりか、それとも単純な疑問か。彼の声はかすかに笑いを含んでいた。問いかける言葉に、開き直って頷く。
「お前が普段やってることをやり返して何が悪い?」
 良長が問い返せば、彼は弱ったように眉根を寄せて、「悪いとは言わないけど……」と尻すぼみに呟いた。ほとんど氷だけになったグラスの中身を飲み干して、カウンターにそれを置く。追加注文のためにかメニューに手を伸ばしながら、彼は「信用されてるんだから良くない?」と他人事のように言葉を重ねた。聞かせるために大きなため息を吐いて、グラスを傾ける。
「良くないから訊いてるんだろ。ほら、なんでそう思ったのか答えてみろ。それともなんだ、人には普段から散々理由を訊くくせに、自分は何も答えられないのか?」
 煽るように尋ねかける。彼はメニューに向けていた視線を持ち上げると、訝しむようにこちらを睨んだ。黙って見返せば、圧力に耐えかねたのか、目を逸らす。カウンターの内側で立ち働く店員に、「レモンサワーひとつ」と注文して、彼が腕を組んだ。大波が岩にぶつかるように、座敷の奥で弾けた笑いが鼓膜を震わせる。
 薄いハイボールを喉の奥に流し込み、根拠なんて思いつくはずがないと慢心しながら息を吐く。
 良長が彼の金を盗んでいない根拠など、彼に見つけられるはずはないだろう。事実として、良長は悪事を働く犯罪者なのだ。警察官という身分にありながら、趣味として窃盗や放火を繰り返している。──そこに、良長の善性を信用するに足る根拠など存在するはずがない。
 仮にこいつが何かを言ってきても、どうせ薄弱な根拠だ。それに、「やったこと」の証明は容易でも、「やっていないこと」を立証するのは難しい。どんな理由を示されようとも、それを否定することは容易いはずだ。
 彼はいい加減、俺を信じるに足る根拠などないことを理解し、認識を改めるべきだ。
 回答を待ちながら、皿の上に残っていた最後の刺身を摘まみ上げる。空になった皿を回収しやすい位置に移動させたところで、ようやく彼が組んでいた腕をほどいた。
 根拠は見つかったか? と、視線を向けて問いかける。彼は頷いて、ちょうど届いた追加のレモンサワーを受けとると共に、口を開いた。
「良長さん、前に『裏切られたら悲しい思いをするのはお前だぞ』って言ってたじゃん」
 彼は、なみなみと注がれたサワーで喉を湿して、言葉を重ねた。
「自分が悲しいことは、しないだろ」
 断じる言葉に、目を瞬く。良長は呼吸を重ねて、グラスを手に取った。照明の下で透明に揺れるハイボールを眺め、中身を呷る。一口分のアルコールで勢いをつけ、良長は「馬鹿か?」と彼をなじった。
「それはお前の願望だろ。俺は自分の家に放火されたら悲しい思いをするが、人の家は焼く」
 平坦な声で続ければ、彼は不本意そうに押し黙った。沈黙の隙間を縫うように店員を捕まえて、追加のハイボールを注文する。
 グラスはこのままでいいです、と空になったそれを渡したところで、彼は「それこそ、良長さんの願望じゃない?」と口を開いた。光を受け、赤っぽく照らし出された双眸がこちらを見ている。彼は挑むような、それでいていたわるような、不可思議な眼差しと共に言葉を重ねた。
「良長さんは自分が裏切られた時も悲しいんだろうけど、たぶん同じくらい、自分が誰かを裏切る時にも悲しい思いをするタイプだと思うよ」
 意表を突かれて目を瞬く。思わず黙り込んで彼を見返せば、先を促されていると勘違いしたのか、彼は悩ましげに眉根を寄せて、「多分だけど、」と自信なさげな声を発した。考えをまとめているのか、言葉を探しているのか、単に酔いが思考を停滞させているのか、たっぷりと時間をかけて、彼が言う。
「良長さんは、俺よりずっと繊細っていうか……、人のこと、好きじゃん。俺はそんなに人のこと好きじゃないから、たぶん良長さんほどは悲しくならない。……それに、知ってる誰かが悲しい思いをするかもしれないとか、そういうこともあんまり考えない。俺は良長さんと違って、自分のことしか考えてないから」
 良長さんは優しいじゃん、と彼が言葉を結ぶ。その結論に思わず頬を緩めて、良長は「俺が?」と問い返した。人を殺めることに何の抵抗もなく、たわむれに他者の自宅に火を放つ男が、〝優しい〟?
 どれだけ強固な思い込みなんだ。見当違いもはなはだしい。
 馬鹿もここまでくると芸術的だな、と彼を見返す。自身の主張が一笑に付されたことを不服に思ってか、彼の眼差しが尖った。浮かべた笑みを崩すことなく、その目を見返す。拗ねたようにグラスへ視線を向けて、彼はつっけんどんに呟いた。
「無駄な飲み会に行ったり、雑談したりするのって、そういうことなんじゃないの?」
 問い返されて、良長は口元に笑みを残したまま「お前はそう思うのか」と言葉を返した。
 火に油だ。思い込みの強い人間に、不用意に根拠など与えてはいけない。──彼はもう、自分の信じる『誤った認識』を改めようとはしないだろう。
 どうしようもないな、と届いたおかわりのハイボールを傾ける。彼は不服そうな面持ちのまま頷いて、良長の手元にあった唐揚げを摘まんだ。遠慮も警戒も何もないその仕草を眺めて、カウンターに頬杖をつく。
 彼は普段、酒を飲むことがないらしい。人に誘われた時、主には良長が声をかけた時には遠慮会釈なく飲むので、飲酒自体に忌避感があるとは思えない。単に、嗜好品に金をかける余裕がないから、人の奢りでなければ飲まないのだろう。
 彼は相変わらず無警戒に、酔いつぶれても何とかしてもらえるだろうと高をくくって杯をあけている。その振る舞いは傲慢であり、同時に、少しの潔さを感じさせるものだった。彼の言う通り、彼はきっと良長に裏切られても大した悲しみを感じないのだろう。だから、こんなにも無警戒に、良長に身を預けている。
 自分に自信のある馬鹿は厄介だな、とグラスを傾ける。
 座敷の方から聞こえる、細部のぼやけた歓談。後ろのテーブル席では、カップルが今日のデートで観て来たらしい映画の感想を語り合っている。隣の席のサラリーマンは黙って文庫本を開きながら、ビールを飲んでいた。時折、店員が威勢よく厨房に向けて注文を伝達し、あるいは「いらっしゃいませ」や「ありがとうございました」の掛け声を発する。
 賑やかだ。漠然とそんなことを思い、何気なく隣の彼に目をやる。黙ってキュウリの浅漬けを齧っていた彼は、視線に気づくと小首を傾げて、「まだ足りなかった?」と口を開いた。
「俺としては結構十分な根拠だと思うんだけど」
 続いた言葉に、発言の意味を理解する。良長は「俺はそうは思わないけどな」と笑って、彼の頬を指でつまんだ。「なに?」と、顔に触れられてなお何の警戒も見せない彼を眺めながら、軽い力でその頬をつねる。彼は顔をしかめると、良長の手から逃れるように顔を背けた。
「マジでなに?」
 なんでつねったの、と彼が不可解そうにこちらを見る。良長は軽く笑って、それを無視した。不本意そうな気配を滲ませて、彼が言葉を重ねる。
「ってか、俺が良長さんを信用してて、何か不都合ってあんの? 警戒してるより良くない?」
 問われて、グラスへ向けていた視線を持ち上げる。
 確かに、彼から信用されていることに不都合はない。彼の言う通りだ。何も疑うことなくこちらの言うことを聞くのならば、それは警戒されているよりもはるかに都合がいい。それならば、なぜ、自分は彼に警戒されたいのだろう。
 戸惑いを自覚して、心情を見透かされないようにと目を伏せる。透明な液体の上に視線を逃がして、良長は思案した。グラスの中に溶け残った氷と、暖色の光に照らされた水面みなも。そこに映った男の顔を眺めながら、「悲しい思いを、してほしくないんだろ」と呟く。──声に出して、口元に苦い笑みが浮かんだ。
「たとえ悲しい思いをするとしても、必要とあらば俺はお前を裏切る」
 忠告のつもりで彼を見れば、当の本人は「大丈夫でしょ」と安穏に笑った。何一つ不安がることもなく、何一つ警戒する素振りを見せず、彼は真っすぐに良長を見つめて、普段よりも数段ゆるんだ表情で微笑んだ。
「良長さんは優しいから、大丈夫」
 あぁ、やっぱりお前はそう思うんだな。
 分かり切っていた返答に、笑みを深める。烏戸良長は、水位をあげた悲しみに蓋をして、手にしたグラスを空にした。