アザレアとサシャさん

並べて世はこともなし。

「おやまあ、良い天気だこと」
 回廊の中庭、降り注ぐ陽気にアザレアは目を細めると「そう思いませんか」と隣に立つサシャへ視線を落とす。華やかに整った面立ちをきょとんと一瞬幼くさせた彼は中庭へ視線を向けて頷くと、まるで隣に立っているのが気の良い友人であるかのような笑みを浮かべた。
「ええ。最近は曇りがちでしたから洗濯物もすっきり片付きそうです」
「いいですねえ。青空の下に真っ白な洗濯物。平和な光景で私も好きですよ」
 アザレアの言葉にうんうんと頷くサシャの顔には疑問や不思議そうな様子はない。悪魔が平和を唱えているのを聞けば、胡乱なものを見る顔をする聖職者は幾らでもいるだろうに。
 サシャは悪魔の脅威に晒されたことがないのかもしれないと思えば、それは良いことだ。この善良な青年の心に疵がないことをアザレアは好ましく感じている。
「あとで散歩するのもいいかもしれませんね」などと忙しい聖職者であるサシャに言いながら、アザレアは歩を再開させる。
 アザレアはサシャに付いて図書館へと向かっていた。向かっているからといってアザレアが特別なにかするであるとか、用があるわけではない。あったとしても精々が本を選ぶサシャの手伝いをするくらいだろう。大聖堂に於いて悪魔に役目や仕事はないのだ。
 図書館へ向かうと言ったら「いいですねえ」などと頷きながら隣に並んだアザレアをサシャは困った顔で見ていたけれど、アザレアが三回ほど「まあまあ」と繰り返せばなんとか押し通すことができた。アザレアとしてはあと六回は繰り返すつもりだったので、早々に頷いていただけて結構なことである。悪魔はしつこいのだ。
「今日はなんでしたっけ? 元々いらっしゃった教会の……
「そちらで面倒を見ていた子たちから手紙が届いたんです。そのなかに質問があったのでちゃんと答えないと」
 面倒を見ていた子たちとは、孤児かなにかだろう。大聖堂でも孤児であった聖職者が幾人かいる。サシャは家名があるので家があるのだとアザレアは想像しているがどうだろうか。アザレアはサシャに彼の周囲に関する話をしたことも、聞いたこともあまりない。
「サシャさんは先生役なんですねえ」
「そんな大層なものじゃないですよ」
 軽やかに笑うサシャがそういえば、というように「アザレアさんはどんな本がお好きですか?」と訊いてくる。共に図書館へ行くことは何度かあるが、アザレアがサシャへ構うばかりなのを思い出したのかもしれない。本を読む人間に対して随分と鬱陶しいことをしているなあ、と我ながら思いつつ、アザレアは態とらしく腕を組んで「ううん」と唸って見せた。
「童話が好きです」
「へえ! 特にお好きな話はありますか?」
 親しみやすさを装ったアザレアに対して、サシャが不審に思った様子はない。悪魔が人間の文化に馴染みがあることを恐ろしいとも不気味だとも思っていないのだろう。それとも、アザレアが脅威である悪魔だと認識されていないのか。サシャは信仰心によって悪魔を退けられると信じているようだから。
「人間は沢山の物語を生み出していますからねえ……お姫様が幸せになる話も、勇者が冒険する話も好きですよ。サシャさんは?」
「私は……
 考えながらサシャが挙げる本にはアザレアも覚えがある。サシャの部屋の本棚にあった本だ。お清めのあと、寝入るサシャの呼吸を聞きながらてきとうに選んで読んだ本だった。神様を信じる人間が救われて、邪悪な悪魔が滅びる清らかな話。以前であれば寝顔を見ることもなく部屋を出たのに、あのときはどうして部屋に留まったのだったか。次のお清めの日、アザレアは「抜かずに朝を迎えるのが作法なんですよ」などとサシャに吹き込んだ。
「大聖堂にいるサシャさんに質問となると、こどもたちも信仰に興味が?」
「そのようです。自分も聖職者になるのだと意気込んでいて……
「ふふ。先達としてしっかりと導いて差し上げなければいけませんね」
「そんな……私より立派な方は沢山いますから」
……悪魔の目から見ても魅力的なほど、あなたの魂は善良ですよ」
 経験を積んだ聖職者であれば、この瞬間にアザレアはメイスやクロージャーで袋叩きにあっていただろう。悪魔が欲を見せたということは、つまりそれを狙っていると言ったも同然だからである。この場合は、サシャの魂だ。
 流石に戸惑った顔をするサシャの背中を、アザレアはぱんっと軽やかに叩く。
「胸を張ってくださいな、若人よ。あなたに続くものがあなたのように清廉であれますように」
 斯くあれかしとは聖職者の専売特許であるけれど。
「それは……私は……いえ」
 被りを振るサシャの隣から数歩先へアザレアは進む。
「さ、行きましょう」
 にこりと微笑んで、まるで害などなように。
 笑い返すサシャはなんの疑いもないようにアザレアへ続いてくれた。
 アザレアは指をくるりと回し、サシャが歩くのに合わせて足元へ花を咲かせる。赤、青、黄色。鮮やかな色。
「わ……アザレアさんですよね?」
「どうでしょうね」
「もう。回廊に悪戯はだめですよ」
「でも、きれいでしょう?」
「きれいですけど、ここに咲かせては踏まれてしまいますし」
 踏めばいいのに。
 踏んで、散らして、靴底にべたりと張り付いた残骸を知らないまま進めばいいのに。
「ふうん。では、片付けましょうか」
 指をくるりと回す。先程とは逆回転。花は萎れ、茶色く朽ちて砂になる。その砂もさらりと何処かへ消えていく。なにもなかったように、大聖堂の回廊は美しいままだ。
……アザレアさん、今日はなんだか」
 違和感を抱いたように眉を下げるサシャ。続く言葉を聞く前に、アザレアはサシャの唇に自身の唇で触れる。体のどこか、内側がびり、と痛む感覚。
「っあ、アザレアさん……!!」
「ふふ、大声を出していいんですか?」
「それは……もう、悪戯ばかりして」
「私はいつだって大真面目です」
 疑わしそうに見てくるサシャ。そのうち、アザレアのこんな戯れを「はいはい」と流すようになるだろうか。人間は環境に順応する生き物だから。
(私はそれまで生きているかな)
 アザレアは口のなかへじんわりと感じる血の味を飲み下す。聖職者との口付けなど、悪魔にとっては毒でしかない。
 朝まで抜くな? 馬鹿を言ったものだ。聖職者の体液を体に留めて良いことなどなにもない。
 アザレアは確実に弱体化している。そのうち戯れに花を咲かせるなんて真似も出来なくなるだろう。
 でも、それでいい。そのつもりで大聖堂へやって来た。サシャに連れられて。
……今日はいい天気ですねえ」
「ふふふ、そればっかりですね?」
「そうですねえ。歳だからかな」
「アザレアさんはまだお若く見えますよ」
「いやあ、悪魔なのでね。見てくれよりはね」
 あはは、とサシャが冗句を聞いたように笑う。
 善良で、信仰心が深くて一所懸命で。毎日を真面目に生きるサシャの曇りのない笑顔。
 アザレアは悪魔だけれど、愛することも慈しむことも知っている。
 サシャの笑顔を翳らせたくないと思うし、悪魔としてその清らかな魂に疵を残したいとも思う。
「困っちゃいますよね」
「ええ……? どこかお加減が悪いんですか?」
「サシャさんのお清めが激しいので足腰がちょっと」
「え……!! そ、そん……えッ?」
「うふふ。冗談です」
 もう!! とサシャが怒るのでアザレアはふわりと彼の手が届かない位置にまで飛ぶ。
 一度はアザレアを捕まえようと伸ばしてくれるサシャの手が、どうしてか嬉しかった。
「ねえ、サシャさん」
……なんですか」
……なんでもありません」
……アザレアさん、今日は変じゃないですか?」
「私はいつでもこうですよ」
「ええ……?」
 そうかなあ、と首を捻るサシャの頭を、アザレアは上からぽむぽむと撫でる。「こどもじゃないんですから」と抗議されるので少しだけ。
 天気が良かった。
 回廊の床は日差しによって白くなるほど眩しくて、風には花の香りが乗っていた。
 なにか言葉を発すれば返る声があって、遠くではお祈りと聖歌が聞こえた。
 ──そんな、たったそれだけの日々を、アザレアは多分消滅する日まで覚えている。