その日、砂ぼこりが舞う紛争地の狭い路地を、俺は小隊の最後尾について歩いていた。初めての派兵ってわけじゃあなかったものの、M四カービンの重みが肩に食い込んで、ヘルメットの下では冷や汗が止まらなかった。そして辺りを漂う空気はとにかく熱くて埃っぽくて、それがまとわりついて離れず、耳には遠くで野良犬が吠えているのが繰り返し届いた。
――あぁ、さっきから遠吠えがうるさくてしょうがない。あんなふうに鳴いているんだ、きっと痩せぎすの、見すぼらしい犬なんだろう。誰にも相手をされない、放棄されたこんな場所に置いていかれるような犬。それにしてもうるさい。鳴くな、それ以上主人を探して遠吠えをするな、こっちの神経を逆撫でするな。俺は舌打ちこそしなかったものの、そんな哀れな犬をぶち殺したくてたまらなかった。
今回の作戦は、簡単なものだと聞いている。テロリストが潜んでいる可能性がある、放棄された村の外れを先発隊として偵察して、前線基地に戻るだけ。なのに心臓がうるさくて仕方ない。俺は初めての派兵じゃなかったものの、ここにいる中では素人も同然の経歴だった。この作戦で成果を上げなきゃならなかった。でも、どうしたらいいのかが分からない。射撃の腕は誰にも負けないと思っているが、そんなのこんな土埃の中での成績じゃなかった。敵に囲まれての成績じゃなかった。
「落ち着け、スナイダー」
そんな俺の動揺を見抜いたのか、前を歩いていた、黒人の先輩兵士が小声で言った。銃を構えたまんま、それを一ミリもずらさずに。
「恋人が国で待ってるんだろ? 羨ましいな。その女にいい顔見せろよ」
「
……イエッサー」
ゼノ。
その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥が勝手に熱くなる。紛争地への出発が決まった日の夜、ゼノは基地に向かう空港の駐車場に駆けつけ、俺の手を握っていた。NASAの仕事を投げ打ってまで俺を見送りに来てくれた彼は、銀色の髪を撫で付けた髪型を乱して、いつもの皮肉っぽい笑顔も少しばかり震えてた。
「帰りを待ってるよ、スタン」
「分かってんよ。心配すんなって。帰ってきたらいつもの店で乾杯しようぜ」
あんたが好きなチーズバーガーと、俺のお気に入りのブリトーでさ、ミルクシェイクもつけてやるよ、奢ってやっからさ。俺がそうおちゃらけると彼は頷いて、静まり返った、鈍色の駐車場でそっと唇を重ねて来た。あの柔らかい感触は忘れられない。幼い頃から変わらないシャンプーの匂いと、NASAに勤めるようになって付け始めたらしい香水が入り混じった匂いが今も思い出される。そして、わずかに涙が浮かんだ、夜の闇のような瞳も。アメリカの空の下で交わした最後のキス。それは今でも唇に残ってる気がする。
だが、その時だった。甘い思い出に浸かっていた時だった。頭の上で銃声が響いたのは。
「コンタクト!」
誰かの叫びが耳をつんざく。誰だ? 小隊長か? それとも、さっき俺を鼓舞してくれた先輩兵士か? 俺は臨戦体制に入る。大丈夫だ、ここまでは訓練通りだ。訓練通りすれば、俺は成果を上げられる。俺はそれくらいの腕を持っている。
なのに、路地の角からAKが火を噴いて、砂埃が爆発したみたいに舞い上がった。固まっていた小隊は一瞬で散開する。誰かの怒号が聞こえる。俺は壁に身を寄せて、トリガーを引く。心臓が痛い。敵がやって来たのか、耳元で弾が空気を裂く音が聞こえる。心臓が喉まで跳ね上がる。
「前進!」
さっき俺に声をかけてくれた先輩兵士が走り出す。俺もそれに続く。千切れた子供のぬいぐるみや、家屋から飛び出た花柄の家具を踏みつけ、俺は走る。足がもつれそうになるのを必死で抑える。
訓練通りだ、訓練通りって俺は自分に言い聞かせる。それに精密射撃で俺に勝る人間はいない、でもここは紛争地で敵側に利があり、俺はこの隊では素人も同然だった。出来るだろうか? 俺はちゃんと国に帰れるだろうか?
俺は銃を構え、はためくターバンのような、旗のようなものを狙う。でも突然、左肩に身を焼くような衝撃が走った。その次の瞬間、身体後ろに吹き飛ばされて、地面に叩きつけられる。嘘だろう、って俺は思う。
さっきまで舞っていた砂が、思わず大きく開いてしまった口に入る。プロテクターに覆われていない肩から、血が噴き出す感触がある。衝撃からか、勝手に視界が白くなる。
「スナイダーが撃たれたぞ!」
誰かの声が遠くで聞こえる。衝撃が去り、痛みが遅れてやって来る。まるで、溶けた鉄を直接神経に流し込まれたみたいに、肩が燃える。息が出来ない。指先が震えて、銃は手から滑り落ちる。
その瞬間、俺はゼノって、意識が薄れる中で彼の名前を呼ぶ。とっさに、愛しい男の名を呼ぶ。そこから先は、走馬灯みたいだった。死ぬ前に見る、今までの記憶みたいなものが勝手によみがえった。
夏の夜、天体観測のために行った湖畔で、飽きて寝転がってた俺に星空の解説をしてくれたゼノ。将来はあの月に君は行くんだって、俺の未来を予見していたゼノ。果たして本当にそうなるんだろうか? 俺は今は見えない月に行けるんだろうか? こんな紛争地で俺は終わらないのだろうか? 終わらないよな、だって、俺はあんたのロケットで月に行くんだから、俺はこんなところでは終わらないよな?
「ゼノ
……」
唇が勝手に動く。でも、それは声にはならない。
網膜に焼き付けられたゼノの笑顔が、痛みを少しだけ和らげてくれる。俺はひゅうひゅうと息をする。
ゼノの瞳は、いつも俺をまっすぐに見てくれていた。俺が迷った時にも、彼は側にいてくれた。まるで目じるしになる星のように、その場所から動かなかった。俺はその周りをくるくる回ってた。ただそれだけだった。
(もっとキスしときゃよかったな、好きって言っときゃよかったな
……あんたと、もっとファックしときゃよかった)
ゼノは今はきっと仕事中だろう。いや、もう仕事を終えて、家に帰っているだろうか? NASAの施設の近くに買ったクラフツマンスタイルの家。カバードポーチに並んだ、うちのお袋が送った花が植えられている花壇。派兵が決まるまで俺はそこに通い詰めて、毎朝コーヒーを淹れてもらっていた。そして散々キスをして、新品のベッドでファックして、それが終われば子供みたいに抱き合った。
俺を求める目がよみがえって来る。俺のキスをくすぐったがる声がよみがえって来る。
「しっかりしろ、スナイダー!」
どこからか、俺を呼ぶ声が近づく。誰かが肩を押さえる。痛みがまた爆発する。でも俺は目を閉じなかった。だって、ゼノの声が聞こえる気がしたんだ。スタン、愛してるよって、震える声で最後に俺に言ったあの言葉が聞こえる気がしたんだ。
生ぬるい血がヘルメットの下を伝う。視界は相変わらずぼやけている。でも頭はすっきりしていた。ここで死ぬわけにはいかない、ゼノにもう一度会いたい。ゼノともう一度キスをしたい。覚えたてのファックもしたい、チーズバーガーを頬張る頬も撫でたい。ダイナーで、一緒にくだらない時間を過ごしたい。
「ゼノ、愛してんよ
……」
先輩兵士がしきりに何かを言っている。それはうまく耳に届かなかったが、破裂音は続いたが、俺は歯を食いしばって、残りの力を振り絞って拳を握った。誰かの歓声が上がる。小隊のみんなが拳を上げる。敵は倒したのか? 俺達の作戦は成功したのか? いや、そもそもがただの偵察だったんだ、きっと俺達はそれ以上の成功を収めたに違いない。ただ、俺は外れくじを引いちまっただけで。
帯同していた衛生兵が近付いて来る。彼は俺の肩に、止血剤をぶっかける。耳はまだ完璧には音を拾わない。なのに、砂漠の風が、彼の名前を運んでくるみたいだった。ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールド。俺が焦がれ続けたその名前を、運んでくるみたいだった。
だったらまだ俺は終わらない。俺は帰んよ、ゼノ。あんたが待ってる国に帰んよ。俺はそううわ言のように考え、ぼんやりと空を見る。
次第に、耳に音が戻ってくる。野良犬はもう鳴いていなかった、吠えていなかった、悲しそうに主人を探してはいなかった。もしかして、犬は死んだんだろうか? それとも、突然始まった銃撃戦で逃げて行った? みすぼらしい犬、俺もきっと、今はあんな感じなんだろうな。そう思うと、何故か心は凪いで遠くから自分を見ているみたいだった。
国に帰ったら、そしたらゼノに好きだって、愛してるって言おう。そんでキスして、ファックして、絶対にあんたを忘れないんだ。今さっきしたみたいな、後悔はしないんだ。
俺は何度も目を閉じそうになりながら、砂の上で空を見つめる。晴れ渡ったそこには彼が俺がいつか行くと予言した月はなかったが、でも確かにあるのだった。それだけが、俺とゼノを結びつけていた。それだけが、俺と野良犬の違いだった。
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