指先に冷たい感覚が走って、途切れかけていた意識が無理やりに戻された。薄暗い路地裏、冷たい壁に寄りかかって、私は一人で地べたに座ってる。
車が水を跳ねる音と、街頭の広告が混ざり合って、波打つような騒音が遠鳴りしている。雨に濡れ、薄汚れた洋服が張り付く感覚が、気持ち悪い。けれど、この身体が感じる情報の、何のひとつも、今は役立たない。
「……」
それでも呼吸は続く。瞼から滴るしずくが、鎖骨を伝って胸元へ流れた。
次に目を開けた時、ついにすべてが終わったのだと、勘違いしてしまった。どこにも足がついていないのに、私の目の前の色は、音は、ゆっくりと移り変わってゆく。やがて、誰かに背負われているのだと分かった。大きな背中のぬくもりが、ほんの少し私を溶かしたから。
「……」
何か問われたような気がする。答えるのは面倒だった。今はこのぬくもりを感じていたい。目をつぶると、その温度が、より鮮明になるようだった。心地の良い揺れの中で、また意識を手放しかけた時、ふわりと懐かしい香りがした。焦げたような、少し呼吸が苦しくなるような香り。
涙の香りだ、と思った。
***
「……っは……」
目が覚めた。私は自宅のベッドの上にいた。無意識に頬をぬぐうと、ぬるい水滴に触れる。どうやら眠ったまま泣いていたらしい。まだあの香りが残っている気がして、けれどすぐに、それは珈琲の香りに変わってしまった。
「ヒューゴ」
「なんだね、文句なら受け付けないが」
「ちがいます」
上に乗った半熟の目玉焼きとは対照的に、トーストは若干焦げている。ビビアンは食卓に座り、それを両手でもって一口かじった。反対側の席についたヒューゴは、スマホを片手に珈琲をすすっている。
「…夢を、見ました」
「起きてこなかったのは、それが原因かね?」
「いえ。いや、そうかも……」
「昨日はこの時期にしては冷えたからな」
「…その、懐かしい香りが、して」ビビアンの食べる手は、いつのまにか止まっていた。
「懐かしい香り?」話半分に聞くヒューゴは、スマホから目線を離さない。
「誰かの背中で、揺られていたのです。とても安心して、幸せで…」
「良い夢じゃないか」
「父親、かもしれないと」
それを聞いて、画面をスクロールしていた指先が、初めて止まった。
「ヒューゴ、協力してくれませんか。彼を探したいのです」
「……ビビアン、いささか早計ではないか。そもそも夢だろう」
「構いません。時間がないのです」
「どういうことだ」
「目覚めた時、私は泣いていたのです。それが何を意味するかなんて、言わなくてもわかるでしょう」自分の声に苛立ちが混じるのを感じた。
「夢の中に出てきた男を探す、か。砂漠の中で針を探すようなものだな」
「そうであっても、これが最後のチャンスになるのなら、私は……」
「落ち着け」
強い声を被せられて、思わず身体をこわばらせる。声と共に向こうから出された手を、反射的に避けてしまった。
「ああ、ほら、垂れる……」
続いた言葉の悪意のなさに、拍子抜けした。見れば、かじられた目玉焼きから、黄身が垂れて、自分の指を伝っている。まったく気づいていなかった。
「……。分かりました。貴方のことは頼りません。私ひとりで探すのです」
嫌な気分だった。奇妙な緊張と焦燥が、まとわりついて離れない。
「協力しないとは言っていないだろ」
「いいのです、これは私の問題ですから」
「……」彼は少し考えるように息をついて、そして曖昧に笑った。それに無性に腹が立って、私は足早に部屋を出た。
珈琲の香りが背中を追ってきて、鬱陶しかった。
***
それから数日間、ビビアンはひたすら街を歩いていた。自分が幼いころに、それなりに栄えていた街と考えれば、場所は限られる。あとは、あの香りを探すだけ。
とはいえ、あからさまに首元の匂いを嗅ぐわけにもいかず、それらしい年齢の男性が通るたびに、それとなく近くを歩いてみたが、当然分からなった。されど、他に何も情報は無い。
悶々と歩いていると、珈琲の香りがして、思わず立ち止まった。あの朝のことを思い出して、また腹が立つ。そもそもあれは紅茶党なのだ。私は珈琲が好きだが、体質なのかむしろ飲むと眠くなってしまい、眠気覚ましにはならない。…中途半端にしか私のことを理解していない癖に、いつもどうして私のことを分かったように、自分の方がなんでも理解しているかのように、ふるまうのか。
夜遅く、家に戻ると、リビングの明かりがついていた。覗くと、PCを前に目を瞬いているヒューゴがいた。
「おかえり。沸かしてあるから、今日は風呂に浸かったらどうだ」
「どうも」そっけなく答えて、踵を返そうとした。
「……俺の方でも調べているんだが、有力な情報は無いな」そんな一言を聞いて、足を止める。
「は?貴方は別に協力しなくても良いと言ったでしょう。そもそも何を調べるというのですか」
「君の過去の足取りだ。讃頌会周りを、改めて洗っている」
「な……」
「父親、なんだろう。まさかランドンの背中だったわけでもあるまい、であればそれより前の記憶と考えるのが自然だ」
「……そう、ですね」
「だがまあ、流石に情報が少なすぎるな。他に何か覚えていないのか」
「分かりません。というか、貴方は気にしなくていいのです。関係ないでしょう」協力してほしい、と言った口で何を言っているのか。自分でも分かっていた。けれど、一日中歩き回って疲労と焦りに蝕まれた頭は、上手く回らない。
「勝手に人の過去を覗こうとしないでください。自分のことは何も教えない癖に」
「ああ、疲れているところにすまなかった。今日はゆっくり休んでくれ」
「話を逸らさないで」
「……」彼は困ったように笑って、黙っていた。
「そうやっていつも隠し事ばかりで、勝手に怪我して、勝手に死にかけて、勝手にほかの人を頼って」
「ビビアン」
「貴方には…どうせ分からないのです。家族を思う気持ちなんて。どうせ私は……。……私は、妹の代わりでしかないのでしょう!」
しばらくの沈黙があった。泣きたいのか怒りたいのか分からなかった。自分の荒い呼吸だけが、部屋に響いている。ヒューゴは、立ち上がって、ビビアンの目の前まで歩いてきた。
「な、なんですか」
「何処で聞いた」
「は」
「何処で聞いた」全く同じトーンで、全く同じことを聞かれた。感情が見えない。怖い。
「……。パエトーン様から。当然聞かされていると、思っていたそうで」
「……」ため息が降ってきた。
「パエトーン様のことを悪く言わないでください。彼は関係ありません。悪いのは貴方なのです」
「ああそうだな、悪いのは俺だ。そして君はもう父親を捜すな」
「は?どうしてそうなるんです」
「早く寝て、悪い夢だったと思って忘れろ」
「意味が分かりません」
「良いから言うことを聞け」
「黙って!!」
空気が酷く冷えていた。私は泣いていた。彼は黙って、無表情のまま私を見つめている。何を考えているのかさっぱり分からない。
「……。しばらく帰りません」
耐えられなくなって、私は逃げた。ヒールのない靴を選んで、玄関の扉を開け放って、駆けだした。彼はやはり追ってこなかった。
***
「夜分に申し訳ないのです。一番初めに思いついたのが、ここだったので……」
「とんでもございません。貴方様に覚えていただいていたこと、大変光栄でございます」
優雅な給仕を前に、ビビアンは深く沈むソファに座っていた。目の前にいるのは、狼のシリオンの執事だ。一番初めに思いついた、というのは、半分本当で半分嘘だった。……彼が一番嫌がりそうだと思ったから。
「ごゆっくりお過ごしください」カップにつがれたハーブティーの香りが優しい。ささくれた心をあたためてくれるようだった。
「本当にありがとうございます。……あの、ライカンさん。重ねてお願いがあるのですが」
「なんなりとお申し付けを」
「私をここで働かせてくれませんか」
「……それは、どういった意味で……?」ライカンは、不思議そうに目を丸くした。
「報酬はいりませんので、住み込みで働かせてほしいのです。ある程度のスキルはあると自負していますし、特にお掃除は得意なのです」
自信満々に答えるが、ライカンは対応に困っているようだった。それも当然だ。
「あれのところにはしばらく戻れそうにないですから。なんならこのまま、ヴィクトリア家政に就職するのもありかもしれないのです」
「……。詳しいことは、分かりかねますが。対価は必要ございませんので……」
「違うのです、私が何かしていないと、落ち着かなくて」
「いーじゃん、ボス。ちょうど人手足りてないしさ」
突然割って入ってきた、気だるげな声。振り返ると、いつのまにか部屋の入口の戸に寄りかかるように、エレンが立っていた。
「リナはお得意さんのとこでしばらく泊まり込み、カリンちゃんはリナの置き土産のまかないを間違えて食べちゃってダウン中…。今ほとんどの雑用があたしんとこに来ちゃってるんだよね」
「エレン。客人に仕事をさせるわけには……」
「その『客人』が目を輝かせてるけど。何も言わなくても勝手にやってくれちゃいそう」
「勝手にやっちゃうのです」
「ほら。正式に報酬を払って雇います、って言った方がいいと思う」
「……」ライカンは、難しい顔をして考え込み、そしてしぶしぶ頷いた。
「では、ビビアン様。申し訳ございませんが、ヴィクトリア家政にご助力いただけますか。報酬は必ずお支払いいたしますので」
「もちろんです!ありがとうございます」こんなに上手い拍子に話が進むとは思わなかった。ビビアンは謎の感動に浸る。
「おめでと。これでめでたくあたしの同僚だね。メイド服、どんなのが良い?」
「着られるのですか!?」
「最初は私の貸したげる。そのうち専用のを仕立てに行くと思うよ」
「専用のメイド服…!!」
様々な形のメイド服を妄想していると、ライカンが気まずそうに咳ばらいをした。
「ビビアン様。ともかく、本日はもうお休みになられては」
「……そ、そうですね」興奮で忘れていたが、一日中歩き回った身体では、まともに仕事はできない。
「お客さん用の寝室、こっち」
エレンの声に導かれて、ビビアンはそそくさと部屋を出た。
「また喧嘩?」
寝室までの廊下で、唐突にそう問われた。ビビアンはびくりと肩を震わせる。
「……そんな感じなのです」
「まあ、たまには喧嘩もするか。長く一緒にいるとね」
「長く……。きっと、そこまで長くはないのです」
「まあどっちでもいいけどさ。あたしはボンプの手も借りたいとこだったから、大助かり。おじさんには悪いけど、しばらく返したくないな」
「しばらく帰るつもりはないので、任せてほしいのです!」
「でもやっぱ帰る気はあるんだ」エレンはさらりと言った。
「……」
「ええっと……。あ、部屋ここね。じゃ、明日からよろしく。お休み」
ごまかしきれていない唐突な挨拶を聞きながら、ビビアンは無理やり笑って挨拶をかえした。帰りたいと思う。けれど、どうしたら帰れるのか、今のビビアンには分からなかった。
***
風のあたたかな夜だ。海が見える裏路地の柵に寄りかかって、染み付いた動作でオイルライターの火をつける。遠い昔に置いてきたはずの手癖は、孤独のそばにあった煙は、快く俺を迎え入れた。
「ヒューゴ?」煙に連れられて、あまり会いたくない人物が引き寄せられてしまったようだ。
「……店長君」わざとらしくゆったりと振り向く。
「意外だな。吸う人だったのか」
「まあな」また始めたのは、ほんの数週間からだ。
彼女が居なくなってから、数年開けていなかった戸棚に自然と手が伸びていた。指の上で遊ばせるものは、コインからライターに違和感なく置き換わった。初めては、思い出したくもないほど昔で、長く吸っていた時期は、あれと別れて、ビビアンと出会うまでの期間だけ。耳に傷が増えたのと同じ頃だ。
「……ビビアンがヴィクトリア家政にいる」
「知っている」
「そんな風にやさぐれているのは、それが原因かい?」
「……。店長君は良い趣味をお持ちのようだ」
「この前ビビアンが、うちに来たんだ。メイド服姿で」アキラは、皮肉をさらりと受け流して、言葉を続けた。
「……」
「個人的に、ある人物を探していると言っていた。それと、君がうちに来ていないか、とも」
「だから何だ」
「困っていたよ」
「そうか。未だ目当ての人物が見つかっていないなら、さぞ焦っていることだろうな」
「僕に八つ当たりしてる場合じゃないんじゃないか」
「……。君も言うな」素直に驚いた。
「ヒューゴもビビアンも、大事な友人だからね」
「お優しい店長君には申し訳ないが、これは、なるべくして分かたれた道だ。以前も言ったが、彼女は元々俺と長く居る必要は無かったんだ」言った舌が、苦かった。
「……へえ。じゃあ君がもたもたしている間に、約束通り僕がもらってしまおうかな」
「……」
「リンとも歳が近いし、きっと仲良くやってくれるだろう。どちらの仕事も、元々僕とリンだけじゃ手が回らなかったし……」
平然と語るアキラの声を聞いて、掴みかかりたいような、消え去りたいような気がした。……どれも出来なかった。今の自分はどんな顔をしているのだろう。ただ苛々と、手の中のライターを爪で叩く。
「なんてね。僕ができるのはここまでかな。故意ではないとはいえ、悪かったと思っているんだ」
「何が……」
「おやすみ。今度は二人で店に来てくれ」
アキラはひらひらと手を振って行ってしまった。
生ぬるい夜風が不快で、吐き捨てた吸い殻を、雑に踏みつけた。
***
「はあ、やっと終わった……」
「お疲れ様なのです、エレン」
「ありがと、ビビアンもお疲れ」
エレンとビビアンは、一日の仕事を終えて、二人でソファに座っていた。今日は朝からホロウでの清掃、昼は買い出しと掃除、夜は来客の対応、と一日大忙しだった。仕事に追われ、父親探しの方はなかなか進んでいない。けれど、それを忘れていられる時間が長いのは、ありがたいような気もした。
「うわ、嘘」
「どうしました?」
「忙しすぎて飴買い足すの忘れてた。やばい。充電切れる」
エレンは目をつぶって、ソファにぐたりともたれかかった。そのまま眠ってしまいそうだ。
「エレン!まだ報告が……」
「お二人とも、ここにいらっしゃったのですね」
ビビアンが慌てているところ、ライカンがすっと部屋に入ってきた。
「ライカンさん。本日の報告を……」
「それは後ほど。急ぎ確認したい要件があるのですが」目線の先には、眠りかけのエレンがいる。
「エレン、起きてください!」ビビアンがゆすっても、エレンはんー。とかうー。とか言いながら、起きる気配がない。ビビアンは咄嗟に、自分のポケットを探った。彼女の口元に、銀紙を半分はがしたそれを押し付ける。
「む」
「それあげますから、もう少し頑張ってください」
「おいひい」
エレンはもぐもぐと口を動かしながら、ようやく起き上がった。
「コインチョコ、久しぶりに食べた。思ったより甘いね」
「そうなのですか?」
「ん。ああ、なるほど。自分用じゃないんだ」
勝手に納得した風のエレンを横目に、ビビアンは、自身がそれを持ち歩く癖が抜けていないことに気づき、表情を固くした。メイド服は大分馴染んできたと思っていたのに。
「エレン、本題に入ってもよろしいですか」
「拒否権ないんでしょ」エレンは面倒そうに答えた。
「……。明日、重要な仕事が入りました。お二人にも出ていただきたいのですが」
「なるほど。私たちは、その『赤い瞳』輸送の護衛を行えば良いということですね」
「さようでございます」
ライカンの話をまとめるとこうだ。市長の古くからの友人が、妻が亡くなったことをきっかけに、息子家族の住む地域へ引っ越すことになった。そこで、自宅にある数々の金品を移動させる必要が出てきた。その中でも一番大切にしている、大きな赤い宝石の埋め込まれた指輪…通称『赤い瞳』を、ホロウ内を通して輸送する。その移動日が、急遽明日に決まったらしい。
「それにしても、なぜそんなに急に?」
「わざわざホロウ内を通すってのも変だよね。エーテルが干渉しないように専用の輸送機材で運ばないとだし」
「それが……。さる怪盗から、『赤い瞳を頂戴する』と予告があったそうで」
「なっ…。それなら、ホロウ内はなおさら悪手なのです。あれのやり方は、ライカンさんもよくご存じでしょう!?」
「そう依頼された以上、私たちは無事にホロウを通して運ぶほかございません。ビビアン様は、後方支援に回っていただいても……」
「いえ、前線で守り抜きます。任せてください。あれの好きにはさせないのです」ビビアンは興奮気味にそう言った。今更になって何かしかけてこようとするなんて、信じられない。しかし、あの男は間違いなくこうなることを読んで行動している。ビビアンには確信があった。どこまで私をおちょくれば気が済むのか。
「心強いご返答を、ありがとうございます。エレン、ビビアン様を援護していただけますか」
「りょうかい。……まあでも、ボスと互角の相手に、私たちだけで太刀打ちできるとは思えないからさ。なんかしら、他の手も打っておいた方がいいんじゃない。ダミーとか」
「……その必要は無いかと。ただ、私も別件が済みましたら合流いたします」
妙に含みのある言い方をするライカンに、ビビアンは気づいていなかった。エレンは少し考えるように、銀紙を丸めて遊んでいた。
***
そして、翌日の夜。あまり準備をする時間も取れないまま、ビビアンは輸送用のトラックのそばで、運転手との打ち合わせを進めていた。とりあえず一度つねってみたり、会話の中で鎌をかけてみたりしたが、特に問題はなさそうだ。
「ビビアン、流石に殺気立ちすぎじゃない?」
「そんなことは」
「運転手の頬、真っ赤んなってたけど」
「あれは骨格丸ごと別人になれますからね。一応、疑っておかないと」
「顔怖いよ。ヒューゴもそうだけど、エーテリアスからも守らないとだから。体力温存」
「……分かってます。すみません」
「真面目すぎ」エレンは珍しく、少し笑った。
トラックが動き出してから数分は、何の障害もなく、寄ってくるエーテリアスも強くないものばかりで、二人は安心して護衛を続けていた。しかし、路地を曲がったところで、大きな裂け目に出くわしてしまった。本来ならここを通って進むはずだったが、裂け目はどこに繋がっているか分からない。しかたなく迂回をしようと、新しいルートを検索している間に、ぽつぽつと雨が降り出した。
「……嫌な雨」
「強くならないといいけど」
ようやくトラックを動かし始めたころには、雨は本降りになってしまっていた。それに、新しいルートは先ほどより強いエーテリアスが多い。視界の悪い中の戦闘に、体力を消耗していく。けれど、ビビアンは多少安心していた。予定とは違う道を選んでいることは、確実に攪乱にはなっているはずだ。……そう思った矢先、聞きなれた金属音――コインが跳ねる音――がした気がして、思わず振り返った。音がしたと思った方向には、特に人影があるようには見えない。雨音がうるさく、目を開けていても、睫毛にしたたるしずくが視界を邪魔する。顔を拭って、改めて目を凝らした。
「……ッ、ビビアン!!」
エレンの声がして、完全によそを見ていたビビアンは、反応が一歩遅れた。向こうからタナトスが瞬間移動するように攻撃をしかけてきている。認識した瞬間には、一撃を食らって、ビビアンは地に倒れこんでいた。
「大丈夫!?」
「大丈夫、です……」
エレンは、必死でタナトスの攻撃を受け流しながら、横目でビビアンの状態を確認しようとする。
「一旦こいつらはあたしが引き付ける!ビビアンはトラックに乗って!」
よく見れば、タナトスは3体もいるようだ。あの素早い動きで首を刈ろうとしてくる強敵を、1人で引き付けようとするなど、どう考えても無茶だ。早く助けを呼ばないと。ビビアンは傘に体重をかけ、必死に立ち上がろうとするが、変にひねってしまったのか、足は上手く動かない。アドレナリンで痛みは感じないが、とても歩ける状態ではなかった。
ライカンを呼ぼうと、スマホを探そうとして、数メートル先に落ちているのを見つけた。はっていけば、どうにか手が届きそうだ。腕の力で身体を引きずる。せっかく仕立ててもらったメイド服が泥だらけだ。申し訳なさと情けなさで、どうにかなりそうだった。やっとのことで、スマホに届く距離まで移動し、手を伸ばした。が、その瞬間、スマホは拾い上げられてしまった。
「……」
見慣れた帽子に、金髪の男が立っていた。
「返してください」
最悪なタイミングでの再会に、ビビアンは唇をかんだ。この様子では、もう『赤い瞳』は奪われた後かもしれない。結局、成し遂げられなかった。
「用が済んだのなら帰って。貴方の追跡はしません、エレンを助けるためにライカンさんを呼びたいのです。だから……」
「……ビビアン」
「そんな風に呼ばないで!!」
呼び方が、信じられないぐらい優しくて。雨音にまぎれた、かすれた声は、懇願しているようでも、苦しんでいるようでもあって。思わず大きな声で遮った。……どうして。被害者のような顔で、今更何を。
「……ッ」
声にならない声が出た。私は彼に抱きしめられていた。意味が分からなかった。体温も、呼吸も、伝わってくるのが気持ち悪い。
「やめて、離して」
「もう喋るな。出血が酷い」
「…は、何……」
抵抗しようとして、身体の力がふっと抜けた。険しい顔で私を見つめる彼の手は、血に濡れて真っ赤だった、ように、みえた……
***
ゆらゆらと、身体がゆれている。足がちゅうに浮いていて、お腹のあたりがあたたかい。多分、誰かの背に乗っている。
「……」
懐かしい感覚だった。これは、夢?それとも、走馬灯?
「……ゅ、ご」
否、すべて分かっていた。
揺れが止まって、後ろを気にするように、目の前の頭が動いた。首元から、懐かしい香りがした。あの日も貴方は、泣いていた。
「喋らなくて良い。眠っていろ」
「……。ごめ、なさ……」
「君は何も悪くない」
「わるい」
「悪くない。俺は、君の傷つくところが見たくなかったんだ。父親がどんな人であれ、君が孤児になったのは事実だ。そんな相手に会って、君がかき乱されるところを見たくなかった。だがそのエゴで、結局また、俺は君を傷つけた」
「ちがう……。そうじゃない。父親なんて、いなかった」
「……。どういうことだ」
「父親でなく、あなた、だったのです。ヒューゴ」
明確に思い出した。あれは、自分が彼と初めて会った日の記憶だ。遠い記憶すぎて、完全に忘れてしまっていたが、あの夜、背負われて運ばれた日。苦い煙草の香りが、雨と、体温と混ざり合っていた。それを、私は、涙の香りだと思ったのだ。
「……」ヒューゴは何も言わず、ただまた、歩き始めた。
「大丈夫ですか。そうなれば、貴方に、危険が」
「無い。そもそも、君の能力は『目の前にいる相手』に対して起こるものだ。記憶の人物と、寝起きの涙は関係ないだろう。それが俺ならば、いくらでも目の前で涙を流すタイミングがあったはずだ」
「そう……ですね。どうして、気が付かなかったのでしょう」
「そんなことより、君は自分の心配をしてくれ。応急処置はしたが、傷がふさがったわけではない」
「……貴方に……出会えて、良かった」また、意識がおぼろげになってきた。とにかく、彼に、感謝を伝えたかった。
「やめろ、縁起でもない。余計なことは考えるな」
「私は……もう、十分幸せ」
「ビビアン」
焦った声が、柄にもなく弱々しいから、なんだか可笑しかった。けれど、それを笑い飛ばす元気は、もう私には残っていなかった。
***
清潔なベッドの上で目が覚めた。身体は重たいし、頭はふわふわする。左手の甲から管が伸びていて、なんとなく状態を察した。右手は……大きな両手に、固く握られている。私の足元の方で、ぐったりと金髪がうなだれていた。
「……ひゅ」
何日経ったのか分からないが、水分を取っていなかった喉は、上手く名前を呼ぶことさえできない。しかし、そのわずかな呼吸音に、ヒューゴはがばりと起き上がって、真っ直ぐこちらを見た。
「目が覚めたのか」
目元のメイクがぐしゃぐしゃに崩れている。雑に結ばれた髪は、静電気でぼさぼさだ。父親というより、疲れた母親みたいだ。そんなどうでもいいことばかりが浮かぶ。
「おは……。おはよう、ございます。ヒューゴ」
「……」彼は、何も言えないようだった。無表情だったが、今ならわかる。これは葛藤だ。
「……俺は……。君に、そばにいて欲しい。君と生きていたい」
絞り出された声は、願いで、涙で、愛だった。本当に、どこまでも寂しがりで、馬鹿で、アホで、どうしようもない人だ。
「だから……。必ず、過去のことは、話す。聞きたいのなら、今すぐにでも」
「今じゃなくて良いのです。それより、貴方も休んでください。酷い顔ですよ」
「そばにいたい」
「私はもう、どこにも行きませんよ」
「……うん」
今にも泣きそうな震え声に、困ってしまった。愛おしくて、いじらしい。こんなふうに考えるのは、おかしいのかもしれない。手を伸ばして、彼に触れようとした瞬間、扉がノックされた。
「失礼いたします」
「失礼しまーす。あ!起きてる!」
入ってきたのは、ライカンとエレンだった。何がどうなっているのか、先ほどと比べて随分マシな見た目で、ヒューゴは足を組んで二人を出迎えていた。
「ヴィクトリア家政がうちのビビアンに何の用かね」
「見舞いだ。それ以外に何がある」
「エレン、怪我は無いのですか?」ビビアンは、まっさきにエレンの方を見てそう聞いた。
「無いよ。タナトスはボスとおじさんがあのあとすぐに倒してくれたから。それより、ビビアン、本当に……」
「謝らないで。気にしていないのです。短い間でしたが、ヴィクトリア家政には本当にお世話になりました。最後のお仕事は完遂できませんでしたが……」
「ううん、してる。『赤い瞳』は無事に輸送完了したよ」
「……どういう、こと。ヒューゴ、自責の念でお返ししたのですか?」
「いいや。そもそも俺は盗っていない。あの日の目的は君だからな」
「では、予告は……?」
「ビビアン、鏡見てみなよ。まあ、この理屈なら私もボスも対象なんだけどね」
「は……」
つまり、赤い瞳というのは、指輪のことではなく、赤い瞳を持つ少女、ビビアンだったということらしい。
「……ヒューゴ、今すぐエレンに土下座して謝るのです。貴方がややこしいことを言わなければ彼女が危険にさらされる必要もなかったのですから。ほら、早く」
「タナトスも裂け目も俺が仕掛けたわけではない」ヒューゴはあっけらかんとそんなことを言う。
「だが輸送日を早めたことと、ホロウ内という場所の指定は関与しているだろう」ライカンが割って入った。
「何を根拠に?部下の身の安全を守り切れなかったのは、お前にも責任があるんじゃないか」
「どの口が……」
「もっと言ってやってください!」
「ビビアン、あんま煽らないほうがいいって……」
ほどなくして、大騒ぎを聞きつけた看護師に、三人まとめて部屋を追い出された。
「てかおじさんさ」帰る途中、エレンはふいに口を開いた。
「ヒューゴだ」
「ヒューゴさ、それ、やめた方が良いよ。似合ってない」
「何がだ」
「煙草」サメのシリオンは嗅覚が良い。
「……そうだな。もう必要ない」
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