酔拳
2026-03-21 20:05:32
8871文字
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ドムサブ🎈🌟 playが苦手な🌟の話


※※キャラ崩壊注意※※

※モブdomと司のplay描写あり(軽微・接触は無し)
※司が弱る
※前半は都合により進級前時空(謎時期)
※後半も謎時期(同棲っぽい描写あり)




subだとわかったのは中学生のときだった。
年に一度、学校での定期健康診断に併せて行われるバース性検査の結果通知を見たとき、どことなく他人事のようにそのアルファベット三文字が滑っていったのをぼんやりと覚えている。思春期に差し掛かり声変わりや成長痛に悩み少しずつ変わっていくクラスメイトたち。その中に自分も含まれているという自覚が、なぜだか薄かった。一般的に、第二性は第二次性徴とともに顕現することが多い。司にその診断が下されたのも、まさに声変わりが始まってすぐ、中学二年生のときだった。

その頃、天馬家に流れる空気は暗かった。咲希が家にいないからだ。病状が思わしくない妹は学校にもろくに通えず、少し離れた専門医のいる病院へ入院となった。ピアノ教室のレッスン日を少なくして母はせっせと病院に通っていたし、父も相変わらず仕事が忙しそうで、平日の放課後は殆どの時間をひとりで過ごすことが多かった。ぽろん……と白と黒の鍵盤を撫でれば、自分の心の内を表すかのように寂しげな音が鳴った。
subの診断結果はもちろん両親にも見せていた。一度病院で精密検査とカウンセリングを受けるように、と言われていたことも、きちんと話した。どちらもnormalの両親は咲希の見舞いの日程をずらしてまで検査についてきてくれたし、病院でもらったパンフレットを隅々まで読み込んで、司のことを慮ってくれた。けれど、normalにはバース性を持つ者の感覚はわからない。ただでさえ咲希のことで手一杯な両親にこれ以上負担をかけたくなくて、playの練習をするために「機関」へ行くときには、司は母からの付き添いの申し出を断った。

「機関」はバース性を持つ者のために設置されている公的機関だ。特定のパートナーを持たない者の精神的・身体的な健康維持と、バース性に目覚めたての初心者に対してplayの手ほどきを行うことを目的としており、保健所や専門医のいる大きな病院に隣接していることが多い。司も精密検査を受けた病院の附属施設で一度playすることを勧められ、咲希の見舞いに行く両親と別れ、ひとりで向かったのだった。
受付を済ませると、まず自分の嗜好を知るために質問用紙への記入を求められた。病院でいう問診票のようなものだ。褒められたいのか奉仕したいのか、ある程度の痛みには耐えられるか、身体的接触を好むか、など、バインダーに挟まれた用紙にはさまざまな質問が書かれていたが、司にはどれもぴんと来なかった。確かに誰かのために行動することは多いが、褒められたくてやっているわけではない。行動の結果相手が笑顔になってくれればそれで良いし、誰かを笑顔にするための努力が結果的に自分を成長させてくれることもある。ほとんどの設問で「よくわからない」に丸をつけて、そっと受付に返した。
十数分後、名前を呼ばれてプレイルームに通された。部屋の中にはベッドが一台と机がひとつ。入口で靴を脱ぐようになっていて、足元はカーペットが敷かれている。ドアから一番遠い対角線上に置かれた机に向かって、ひとりの男性が座っていた。

「君が天馬司くんだね」
「はい、よろしくお願いします」

初対面の大人とふたりきりというのは、普段人見知りをしない司でも少し緊張した。相手がdomだとわかっているせいもあるのだろう。司はここで初めて、母の付き添いを断ったことを少しだけ後悔した。付いてきてもらったとしても、この部屋までは入ってこられないのに。

「アンケートの回答は読ませてもらったよ。『よくわからない』が多いようだから、とりあえず初歩的なplayをいくつかしてみようか」

彼が椅子から立ち上がり、ベッドへ移動する。掛け布団のない、マットレスだけのそこに腰掛けると、司のほうを見据えてにこりと微笑んだ。

「じゃあ、始めようか。セーフワードはred、これ以上できないと思ったら言ってくれ」

男の纏う雰囲気ががらりと変わる。豹変、といっても差し支えないほどに。脚を崩してもいないし、表情も変わらないのに、明らかにdomの風格を漂わせている。本能的に、逆らってはいけないのだと強く思った。──これが、domとsubの違いなのか。

「こちらへ来てくれ。『come』」
「は、はい」

一歩踏み出したが、足がひどく重い。足首に錘を巻かれているのかと思うくらい、体が自由に動かせなかった。もう一歩踏み出すためにぐっと拳を握ると、手のひらにはじっとり汗をかいていた。どうやら、かなり緊張しているらしい。ずるずると引きずるような摺り足でやっとベッドの前まで辿り着く頃には、背中を冷や汗が伝っていた。

「うーん、もう少しはきはき動けるかな、ちょっと遅いね」
「す、すみません」
「次はここにお座りして。『kneel』」

言われた途端に膝からがくんと力が抜けて、半ば尻餅をつくように地べたに腰を下ろした。傍から見れば、随分と不格好だったことだろう。これがdomのコマンドなのかと思うと、司は少し怖くなった。自分の身体が思うように動かせず、自分以外の者の支配下にあるような、他人にコントロールを明け渡すような。初めてのplayで感じたのは、紛れもない恐怖だった。

「まあ、及第点をあげようか。Good boy」

感情のこもっていない褒め言葉は、司の心を満たしてはくれなかった。緊張は解れるどころかますます強くなっていく。膝の上でまた拳を強く握った。

「じゃあ、自己紹介してみて。『say』」
「あ、え、っと、天馬、司、です。中学、二年生、です」

ショーの台詞ならすらすらと出てくるのに、十四年間親しんできた自分の名前すら躓いてしまう。いつもの名乗り口上なんて、頭の片隅にも浮かばなかった。生きてきた中で、間違いなく一番下手くそな自己紹介だった。

「んー、なんでそんなにできないかなあ」
……っ」

うまくできなかった。それは自分でもよくわかっている。しかし、真正面から言われると少し堪えた。思わず縋るように見上げると、「こっち見ていいなんて言ってないだろ」と一蹴されて慌てて下を向いた。じわ、と視界が少し滲んだ。
言われたとおりのことをうまくできなかったのは自分だ。どうしてか、身体がうまく動いてくれない。ちゃんとコマンドを守らなければと思うのに、そう強く意識すればするほど、がちがちに固くなってしまう。どう考えても悪循環なのだが、司にはそれを打開するすべはなかった。もう少し、ひと言だけでも、心のこもった褒め言葉が欲しいのに、それをもらうための水準に自分が達していないことが悔しかった。どうして、うまくできないんだろう。いつのまにか、握った拳がかたかた震えていた。

「今日はこれで終わりにしておこうか。調子悪そうだし。もう帰っていいよ」

playの終わりの合図に、男がぱん、と手を打つ。その音にすらひどく驚いて、肩が跳ね上がった。この空間に留まっていたくなくて、小声でお礼を言うと逃げるようにプレイルームを去った。

ばくばくと心臓がいやな鼓動を刻んでいた。気分が悪くて、何度か途中の駅で降りながらゆっくり自宅へ帰った。いつもの自分でいられないことが恐ろしく思えて、初めてバース性の怖さを思い知った。
その日の夕食後、母に機関でのことを聞かれたけれど、「初めてだから慣れなくて、少し手こずった」と言っておいた。初めてだから不慣れなのも、手こずったのも本当だ。嘘はついていない。normalの両親を心配させたくなかったし、今は自分よりも咲希に時間を割いてほしかった。
初回のプログラムを完了するため、機関には最低でもあと二回通う必要があった。そのたびに同じdomをあてがわれ、緊張で足が竦んでは怒られる。恐怖の中ではセーフワードなど言えるはずもないし、これ以上誰にも迷惑をかけたくなくて、相手を代えてほしいと受付に申し出ることもできなかった。ただただ、domとは怖い生き物なのだとその身に刻み込んだだけで、やっと全三回の初回プログラムを終えた。それ以来、機関には一度も足を運んでいない。


*****


司は高校生になった。すっかり声変わりを終え、身長の伸びも少し落ち着いた。司としては、もう少し伸びてほしいところだけれど。妹もやっと退院し、幼馴染たちと同じ高校へ毎日通うことができるようになった。どんよりとしていた天馬家のリビングにはあたたかな光が戻り、帰れば誰かが家にいることが増えた。

そんな中で、類と恋仲になった。
偏見があったわけではなかったが、まさか自分が同性に恋をするとは思っていなかった。けれど、共にショーをする仲間であり、同じ高校に通う友人である類と、友達の延長のような、少しだけ友達の線を超えた付き合いをすることには、不思議と抵抗はなかった。たまたま好きになった相手が類だった、それだけのことだ。ただ、手を繋いだりキスをしたりするとき、咲希が持っていた少女漫画の主人公のようなときめきを覚える自分に慣れない日々は続いていた。

「一度、playをしてみないかい?」

友達も恋人も超えた、そんな提案を類からされたのは、ある金曜の帰り道だった。
台風が近づいているから、明日はワンダーステージは休みだ。今は雨は降っていないけれど、ざわざわとうねる木々と生ぬるい風が、これからの天気を予言していた。
自分がsubであることは初期のうちに明かしている。ダイナミクスによる体調不良などもあるし、そのたびに適当にごまかすよりは初めから伝えておいた方がよいと思ったのだ。特定のパートナーはいないけれど、市販薬を服用していれば普段は問題なく過ごせているということも併せて伝えていた。そして、類がdomであるということも同様に伝えられていたのだった。

「play、か?」
「恋人とパートナーが同じである必要はないし、そのような選択をしているカップルが世間にはたくさんあることはもちろんわかっているよ。けれど、折角僕がdomで司くんがsubであるのなら、相性を確かめてみるのはありなんじゃないかな、と思ってね」
「まあ、構わんが……。しかし、オレはあまりplayの経験が多くないから、うまくできないかもしれんぞ」
「僕も普段は薬に頼っているしね。そこはお互い様じゃないかな」

一度くらいなら試してみるのはありかもしれない。あれから何年も経っているし、相手が類ならうまくできるかもしれないと思った。早速帰りが遅くなる旨を親に連絡し、コンビニでホットスナックとお菓子を買って類の家へ向かった。


*****


「じゃあ、始めようか」

ソファに腰掛けた類はそう言った。セーフワードはお決まりのredと事前に決めてある。少し離れたところへ立つ司に、柔らかな声で指示を出した。

「僕のところまで来れるかな、『come』」

あのときと同じ、たった数メートルだ。機関でのことが頭によぎった瞬間、見慣れたカラフルなガレージが瞬時に無機質なプレイルームに変わる。類が座るソファは白いベッドで、そこで自分を待っているのは──domだ。

……っ」

また足が重くなる。早くしないと怒られる。頭ではわかっているのに、身体がいうことを聞いてくれない。domがそこにいる。コマンドを出して、司がそれを遂行するのを待っている。待たせている。そう思うだけで、何故か足が竦むのだった。ほんの数歩の距離が、恐ろしく遠く感じる。絶対に間違えてはいけないという緊張が全身をこわばらせて、司は何もない床で躓いた。

……!」
「司くん! 大丈夫かい?」

始める前にちゃんと二人で片付けをしたから、床にはなにも落ちてはいない。障害物のない平坦な地面で思い切り躓いた上に、類の目の前で転んで膝をついた。きっとこの次にkneelが出されるはずだったのに、その前に座ってしまった。playの流れを壊したのは司だ。
類を見上げると、心配そうな顔をしていた。うまくできなかったのは自分のほうなのに、何故類がそんな顔をするのだろう。その前に、ちゃんと謝らないと。

「すまん、もう一回、やり直しても、いいか……?」

類の表情は固かった。深刻そうな顔をして、こちらを見下ろしている。

……今日はもうやめておこう」
……え、」

衝撃が喉からこぼれた。もう、しない? 今日は? それとも、この先ずっと? やっぱりオレが、うまくできなかったから?

「待ってくれ、もう一回、次は、ちゃんと、するからっ……もう一回だけ……!」
……ううん、しないよ」
……!」

類は自分とのplayをもうしない。してくれない。その事実が、司の心に突き刺さった。やはり自分は、誰とplayしてもうまくできない、subとしての務めを果たせない、domの期待に応えられない、だめなsubなんだ。
さあっと血の気が引いた。息が上手く吸えない。滲んだ視界が徐々に暗くなっていく。

「待って、司くん、違う……!」

目の前の人影が隣に降りてくる。肩を支えられて、背中をさすられた。

「呼吸をゆっくりするんだ。吸って、吐いて……そう、上手だね」

吸って、吐いて、吸って、吐いて。何度繰り返したかわからないが、少しずつ視界がクリアになってきてようやく、自分が類の肩に凭れかかっていることに気づいた。大きな手に背中をさすられると、呼吸がしやすい。ずっとこの部屋にいるのに、肩口からより濃い類の匂いがする。

……少し、落ち着いたかな」
「ああ……取り乱して、すまなかった」
「謝らないで。むしろ僕のほうこそごめんね、もっときちんと話をしてから始めるべきだった」
「いや……おれが、言わなかったから……

まだ少し、頭がぼうっとする。酸欠になっていたのだろうか。でも今は、手足までちゃんとあたたかい。触れているところから、類の体温が分け与えられているかのようだ。その優しさが、少しだけつらい。

……やはり、オレはplayには向いていないようだ。すまんが、パートナーは他の人を探して……
「嫌だ。僕は都合のいいsubがほしいわけじゃない。司くんだからいいんだ。ああは言ったけれど、僕は司くん以外の人とパートナー関係を結びたくない」
「しかし……
「うまくできないのなら、できるようになるまで付き合うよ。緊張しなくなるまで、司くんが慣れるまで、ずっと待とうじゃないか」

類が優しすぎる言葉をくれるたびに、じんわりと身体の内側から温まっていく気がする。十分すぎるほどに、失った体温を取り戻すことができていた。待っていて、くれるのか。

「嫌だったら言わなくていい。でも、司くんのことをもう傷つけたくないから、何があったのか教えてくれないかな」
…………
「無理はしなくていいからね」

添えられた言葉も、寄り添う体温も、すべてがあたたかい。これなら──類になら、話してもいい、と思った。

「機関で初めてplayをしたとき……今みたいに緊張して、うまくできなかった。それで、ほめて、もらえなくて」
……うん」
「三回、通っても、やっぱり、だめで……怒られて、こわくて……
……うん」
「おれは、subとして、だめなんだ、って思って、playが、こわくなって」
……うん」
「それから一回も、誰ともしてない。こわい、から」

ひとりでに声が震えて、また視界がうっすら滲んだ。あのときのことは普段は忘れていられるけれど、時折風邪を引いて熱を出したときなんかに夢に見ることがある。誰からも必要とされていないのだと突きつけられたような気持ちになって、身体はつらいのに眠れなくなってさらに苦しい思いをしたことが何度かあった。

「うん、話してくれてありがとう。司くんはいい子だね」
……え?」
「僕がお願いしたから、辛いことを思い出して、話してくれたんだろう? とってもいい子じゃないか。もっとたくさん褒めてあげたいよ。よくできました、って」
……っ!」

さっきの酸欠とはまた違う感覚で、頭がふわふわする。堰き止めていた涙がついに決壊して、勝手にあふれ出して止まらない。これが、domからもらうご褒美……

「ちがう、ちがうんだ、これは、勝手に……はじめて、domに、ほめられたから……っ」

止まることを知らない涙で類のカーディガンが濡れていく。涙腺がばかになってしまったみたいだ。離れなければ、と思うのに、このぬくもりを手放すのが惜しくて、身体は動いてくれなかった。嬉しくて泣くなんていつぶりだろう。それも、自分のことで。

……大丈夫だよ。これからもいっぱい褒めてあげるから、ゆっくり、少しずつ進んでいこうね」

柔らかな声で落とされるその言葉があまりにも優しくて、また大粒の涙がこぼれた。ご褒美がこんなに気持ち良いことだなんて、微塵も知らなかった。この先もいっぱい褒めてくれる。その約束があまりにも嬉しくて、潤んだ視界の中、類の左手に自分の右手を絡めた。












『早く、ここに。ほら、お座りするんだ』

目の前にdomがいた。ここは小さな四角い箱の中。逃げられない真っ白なプレイルーム。竦む足、逸る呼吸、震える手。ぎゅっと握った末端に、もはや感覚はない。

『まだできないのか。もう三回目だぞ』

domの機嫌が悪くなる。早く、コマンドを、守らないと。また怒られる。既に全身が冷たいのに、これ以上されたら心臓まで凍りついてしまいそうだ。寒い。今の季節は、今は、何月だったっけ。そんなことを考える暇があったら早く足を動かすべきで。オレは、いったい何をしているんだ。早く、はやく──。

恐怖が弾けて、目の前が真っ白になった。
忘れ去った記憶のはずが、こういうときだけ都合よく顔を出して内側からも司を苦しめる。もう会いたくない、思い出したくもない、初めてのdom。闇に引きずり込まれそうになった手を、誰かが強く握った気がした。


*****


…………っ」

苦しそうにぎゅっと閉じていた目が開いて、いつもよりぼやけたアプリコットがこちらをぼんやりと見た。一度まばたきをしたあと、何かに気づいたように慌てて体を起こそうとする。熱い背中を支えてやれば、震える手が布団の端を固く握りしめていた。

……ん、……ぃ」

かすれた喉が何かを必死に伝えようとしている。そこで初めて、彼の見ていた悪夢の内容に思い至った。前も一度、同じことがあったのだ。熱を出して寝込んでいるときに、急に起き上がって取り乱していた司の姿。あのときは初めてだったから、原因と対処法に気づくまでに時間がかかってしまった。

「大丈夫、司くん、落ち着いて」

起き上がったはいいもののまだ辛いらしく、ベッドサイドから軽く抱きしめてやれば熱い身体は簡単に体重をこちらへ預けた。目覚める前、うなされていたときと同じように手を握り、何度も繰り返す。

「大丈夫だよ、きみはいい子だから。ちゃんと、よくできているよ」

コマンドを出したわけでもないのにご褒美をあげる。一見無意味な行為だが、今の司にはこれが一番効くのだ。──夢の中で、彼はコマンドを受けている。
時折けほ、と乾いた咳がする。マスク越しに感じる吐息が熱い。こうして身体が弱ったときにだけ、司の過去に刻まれたよくない記憶が弱みにつけこむ悪魔のように顔を出す。
第二性が発現してすぐ、「機関」であてがわれた初めてのplay相手。ずっと何年も、司にplayへの苦手意識を植え付けた顔も名前も知らないそのdomに、類はやりきれない怒りを覚えている。もういい加減、司くんの記憶から出て行ってくれ。パートナーである自分以外のdomが司の心に未だ棲みついていることも、そのdomとの恐ろしい記憶を未だに上書きしきれない自分自身にも、正直腹が立った。司とのplayは少しずつ前に進んでいるが、その歩みは亀よりもゆっくりだ。しかし、いつか司が自分とのplayでサブスペースに入ってくれるその日まで、類は諦めるつもりはない。
けほ、とまた咳がする。ストローを差したスポーツドリンクを差し出すと、ちびちびと飲んでくれた。まだ熱が高そうなところを見ると、食事を摂らせるのは厳しいかもしれない。

……るい」
「うん、ここにいるよ」
……すまん」
「謝らないで。まだ寒気はあるかい?」
「すこしだけ」
「じゃあ、ちゃんとあたたかくして寝ようね。どこか痛むところは?」

繋いだままの手が持ち上げられる。緩慢な動きで運ばれた先は──司の胸元で。

……ここ、いたい」
「え、」
……こわかった、ゆめ」

パジャマの下の皮膚のそのまた下で、司の心臓が懸命に脈打っている。しかし、今この瞬間痛むのは、臓器ではない。司の心そのものだ。透明な水の膜が張った瞳が、類ではないdomを思い浮かべて歪む。

……うん、大丈夫、大丈夫だからね。怖いdomはもう、いないから。僕がいるからね」

今はまだ、怖い記憶を覆い隠せるほどではないとしても。身も心も弱った彼の隣にいられる権利だけでいい。こうして心のやわらかいところをさらけ出してくれるだけでも、十分嬉しかった。

「るい」
「ん?」
……起きたら、りんごがたべたい。あまくて、おいしいやつ」

熱を持つ身体を再度ベッドに横たえて、司がそっとつぶやいた。お安い御用さ、と返しながら布団を掛けてやる。昨夜司が熱を出したと聞いて、えむと寧々が差し入れてくれた紙袋の中にちょうど入っていたはずだ。今から冷蔵庫で冷やしておけば、次に司が起きる頃には食べごろだろう。

──数時間後、類はりんごをすりおろすか兎の形に切るかでキッチンにて延々と思い悩むことになるのだった。