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夜之 夢
2026-03-21 15:52:07
25816文字
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星空を駆けゆく君よ
3月29日 OSAKAFES 無配。
ヌヴィリオのあっさりした死ネタ。
リオセスリが死んだ時、ヌヴィレットはそれなりに嘆き悲しんだ。憔悴するほどではなかったが、抑えきれなかった感情の余波は天気に影響を及ぼし、フォンテーヌでは強い雨が3日間続いた。
『リオセスリ公爵、享年40歳。メロピデ要塞で発生した事故の対応にあたり、その際に重傷を負い死亡。なおこの事故による死者一名、負傷者は二十三名』
リオセスリの名は、2行ほどのそんな簡単な説明でフォンテーヌの歴史に記録された。
納得しきれなかったヌヴィレットがその後すぐに関係者にかけあって、リオセスリの功績をもう少し詳細に追記させたが、ヌヴィレットが出来たことなどそれくらいだ。
リオセスリの遺言により、彼の葬儀もごくごく小さな規模で行われ
――
ヌヴィレットは家族葬規模の『公爵』の葬儀など初めて見た
――
リオセスリの事を知っているほんのわずかな人々だけが参加し、そして終わった。
リオセスリが死んでから3日間雨が降り、4日目に小雨となって、5日目にフォンテーヌは曇り空を取り戻した。6日目には雲が減り、弱々しいながらも日差しが降り注いだ。
ヌヴィレットはそれ以降、リオセスリの死について嘆きはしなかった。
悲しみがなかったというより、感情そのものが薄くなったような心地だった。起こった事をどこか遠くに感じていた。リオセスリは死んだのだと『記録』として頭に入っているが、それによって感情が波立つことがなかった。
やはり己は本質が龍であり、未だ人間のような心を持っていないのだとヌヴィレットは思った。
それが現れたのは3年後だった。
何の予兆もなく、何のきっかけもなく、それはある日突然ヌヴィレットの前に現れた。
ヌヴィレットがいつも通りにパレ・メルモニアに出勤し、執務室の扉を開いたそこに、それは立っていたのだ。
――
青白く半透明になったリオセスリが。
彼の死後、3年だ。3年しか経っていない。ヌヴィレットはそれを目にした瞬間に「リオセスリだ」と理解した。彼は死んだ頃と何ら変わりない姿をしていた。ただ少し、青白くて、透けていて、彼の向こう側が見えるだけで。
「リオセスリ殿
……
?」
ヌヴィレットはそっとした声を漏らしながら、執務室に入り、後ろ手に扉を閉じた。いま目にしているリオセスリから一瞬も目をそらしたくなかった。幻影だったならば、目を離した一瞬で消えてしまう可能性すらある。
『やあ、ヌヴィレットさん。あんたには俺が見えるらしい』
青白いリオセスリは生前とまったく同じ口調と声で喋り、まったく同じ仕草で腕組みをし、まったく同じ笑い方で笑った。ただその聞こえてくる声だけが、どこか幕一枚を隔てているように少しだけ遠い。
ヌヴィレットは立ち尽くして瞬きをするしかなかった。
何も言えず、動きだせないヌヴィレットを見て、リオセスリのほうが誤解したらしい。『ああ、いや
……
見えてはいないのか?』リオセスリが眉を上げてそんな事を言ったので、ヌヴィレットは弾かれたように首を横に振った。
「いや、
――
見えている。君の声も。聞こえている」
『それなら良かった。
……
はは、何だかありがたいな。実はヌヴィレットさんがここに来るまでの間に、ちょっとパレ・メルモニア内を歩き回ってみたりしたんだ。でも誰も俺が見えていない様子だったし、俺は誰にも触れられなかった。メリュジーヌであるセドナさんすら気付かなかったんで、ヌヴィレットさんにも俺の姿は見えないものかと思ったんだが』
「
……
見えている」
半ば茫然としたまま、ヌヴィレットは同じ言葉を繰り返した。
見えてはいるが、これは何だというのか。
『俺は死んだよな?』
先程からヌヴィレットが気にしていたことを、リオセスリの方があっさりと聞いてくる。納品したマシナリーに不備が無かったことを確かめるみたいに、合っていることを確認するかのようだった。
ヌヴィレットはぎこちなく頷いた。「ああ。
……
私もその認識でいた」
だよな?と言うリオセスリは、自分の死を確認して安心した様子すらある。
ヌヴィレットは何も言えないままでいた。
リオセスリは自らの体を見下ろして、自分の透けた手足を確認したり、髪を掻いたりした後、あ、と思いついたようにヌヴィレットを振り向いた。
『俺が死んでから何日目だ?』
「3年
……
3年は経っている」
言いながらヌヴィレットはようやっと自らの執務机へと歩いて行き、そこに置いてある卓上カレンダーを持ち上げて確認した。
「正確に言うならば、君の葬儀が行われてから3年と126日だ」
『何だって?』
これはリオセスリにとって予想外だったらしい。両目を見開いたリオセスリは、続けざまに言った。
『死後3年経って、何で俺は今更幽霊に? 命日ですらない』
幽霊という自覚がある幽霊も珍しい。
持っていたカレンダーを落としそうになり、ヌヴィレットはそれを執務机に置き直した。
「やはり君はその
……
亡霊、といわれる存在と考えて良いのだろうか」
『
……
さてね。俺も今自分が「何」なのかはわからないが
……
俺自身に死んだという自覚があって、そのうえで今こうして透けた体があり思考が働いてるってことは、亡霊だとか幽霊としか言えないんじゃないか』
随分とあっさりとしているが、それがより生前のリオセスリらしかった。
「先程の、今更とは?」
『普通、こういうのは死んだ直後とか
……
そう日を置かずに現れたりしないか?』
「そうなのか」
『さあ? 俺も心霊体験なんてないし、オカルトの類は信じていなかったたちだ。詳しい知識も無いが、歌劇や演劇ではそれが「お決まり」だった印象だな』
そうなのか、と繰り返してヌヴィレットは口を閉じた。
言われて考えてみれば、確かに「亡霊や死者の魂が登場する物語」は歌劇や演劇においても定番ジャンルの一つとして有る。だがそれをもとに考えるならば、リオセスリが指摘した『死後経過した時間』も勿論のこと、その他にも気になる点があった。
それに気付き、ヌヴィレットはリオセスリを見つめて口を開いた。
「では仮に、今の君が亡霊だとして。
……
語り継がれる伝説や逸話、物語においては、通常、そういったものは未練や伝えたい事があって姿を現す。
……
リオセスリ殿は何か強い思いがあって現れたのだろうか」
リオセスリはそこで初めて、弱りきったような表情を見せた。生前の頃も滅多に見られなかった表情だ。
『それなんだよな
……
』
自らの両腕を組み、視線を斜め上に滑らせ、口の端を下げてリオセスリが言う。
「つまり?」
ヌヴィレットが促すと、リオセスリは逸らしていた視線をヌヴィレットへと向け直し、少しだけ眉間を寄せて言った。
『思いつくような未練がまったく無いんだ。怒りも恨みも、欲しいものも何も無い。思い残したことも無い。気付いたらパレ・メルモニアの前にいたんだが、何故自分がここに現れたのかもわからないし、それに
……
どうしてヌヴィレットさんにだけ俺の姿が見えるのかもわからない』
確かに、とヌヴィレットは同意のつもりで頷いた。
なぜヌヴィレットにはリオセスリの姿が見えて声が聞こえるのか、ヌヴィレットにもわからない。
その日からヌヴィレットの生活には、リオセスリの幽霊が存在するようになった。
というのも、リオセスリの姿が見えて声が聞こえて、リオセスリと意思疎通ができるのはヌヴィレットだけだ。リオセスリが幽霊となってしまった謎を解くためにも、あるいはリオセスリを成仏させる方法について探るためにも、二人一緒にいたほうが良い。よってリオセスリは基本的にヌヴィレットと共に行動することになり、彼にとっての拠点は、パレ・メルモニアのヌヴィレットの執務室となった。
ただ、ヌヴィレットも一日中リオセスリと議論をするわけではなく、リオセスリが常にヌヴィレットの傍にいなければならない理由も無い。ヌヴィレットが自身の仕事をしている間はリオセスリも好きに動いており、執務室からふっと姿を消したかと思うと数分も経たず「もうすぐクロリンデさんが来るみたいだ」と伝えに戻ってきたり、かと思えば「フォンテーヌ廷を散歩してたんだ」と数時間戻ってこなかったりした。
リオセスリがヌヴィレットの執務室にいる時は時折ヌヴィレットから話を振り、新しい法制度や裁判の論点について議論をする事もあった。
とにかくヌヴィレットの生活には、猫のような
――
居たり居なかったり、さっきまで視界の端であちこち動いていると思ったら、気付けば部屋のどこにもいなかったり、かと思えばふらりと戻ってきたり、あるいは一日中すぐ近くにいたりする
――
幽霊が入り込んだのだ。
ヌヴィレットにとっては妙な心地だったが、不快ではなかった。
しかし、そんなふうにして1週間が過ぎたところで、リオセスリの状態も状況も何も変わらなかった。
やはり彼は、ヌヴィレット以外には見えず、聞こえない。死者の国に呼ばれる気配も無く、地脈に還る予兆も無い。
一度クロリンデがヌヴィレットを訪れた事があったが、やはりクロリンデもリオセスリを認識した様子は無かった。
「そもそも、リオセスリ殿はいわゆる
……
君が言った『成仏』をしたいのだろうか」
リオセスリという幽霊がヌヴィレットの前に登場してから7日目の夜、ヌヴィレットはリオセスリに尋ねた。
執務室で『幽霊なのに浮遊は出来ないらしい』とぼやいていたリオセスリは、書架の前にある梯子に腰かけていたが、すぐさま返事を寄越した。
『したいさ。死ぬときに「やっと終わる」と安堵したくらいなんだ』
「
……
君がか」
『死にたい願望は無かったが、フォンテーヌの予言を越えてからは、なすべきことはやりきった気持ちでいたんだ』
知らなかっただろ?と、ヌヴィレットの「上」から声が降る。ヌヴィレットは執務机の椅子に座り、リオセスリはその近くの梯子に上り腰かけているので、リオセスリの声はヌヴィレットの頭上から聞こえていた。
リオセスリは軽快な口調だったが、ヌヴィレットは細い針が降ってきたような心地だった。
「
……
知らなかった」
視線を落とし、ヌヴィレットが言えば、喉を震わせるような笑い声が降る。
『ヌヴィレットさんもご存じの通り、俺は結構好き勝手に生きてたからな。思い残す事も無かった』
「自身の責務と職務に対し真摯で誠実だった君がか」
『看護師長が聞いたら目を回しそうな評価だ。俺が突然メロピデ要塞を出て、こっそり旅行に行ったり遊び歩いてたって話を聞いたことないかい?』
「そのような話は一度も聞いたことがない。シグウィンからは、君が隠密な単独行動で事件を探ったり、密かに手を回してさまざまな問題を解決している話をよく聞いた」
あはははは、と笑い声が響いた。ヌヴィレットの耳に確かに聞こえるその声は、執務室の扉を通り越したとしても誰にも聞こえない。
「
……
なぜ私なのだろうか」
とうとう手に持っていた羽根ペンを置き、ヌヴィレットは机上の書類を見つめながら言った。
『本当に、何故だろうな?』
こればかりはリオセスリにもわからないらしい。リオセスリから笑いの気配がすとんと消え、同時に、彼は自らの口元に手をあてて視線を伏せた。今の会話で思いつくものがあったらしい。声量をほんの少し落とし、リオセスリは独り言のように言った。
『
……
そうだな、そこから考えるべきだったかもしれない』
ヌヴィレットがその言葉の意味を問うよりも先に、リオセスリが顔を上げてヌヴィレットへと声をかける。
『ヌヴィレットさん。
……
今更だが
……
俺に関わることで、あんたにだけあった事。何か思い当たる節は無いかい?』
「私だけに?」
『クロリンデさんが此処に来た時に確かめたが、クロリンデさんも俺が見えていなかっただろう? 試しにヌヴィレットさんがそれとなくフリーナさんやシグウィン看護師長を呼んでくれた事もあったが、彼女達さえ俺のことが見えていなかった。当然声も。
……
フリーナさんはともかく、クロリンデさんや看護師長は生前の俺とそれなりに関わりがあった。なのにその二人にも俺が見えず、対して、ヌヴィレットさんだけ俺を認識できるということは、「他の人にはなくてヌヴィレットさんにだけある」何かがあるはずだ。もしかしたらその何かが、俺が幽霊になった理由かもしれない』
リオセスリの言葉がヌヴィレットの頭上から響き降る。
ヌヴィレットははたとした心地で自らの口元に手を当てた。
「私にだけあり、他の者に無いもの
…………
私は龍だが、そのせいだろうか?」
『俺もそれは考えたんだが、ヌヴィレットさんは今まで心霊体験をしたり、幽霊を見たことが?』
「いや
……
無い。君が初めてだ」
『なら、龍だから、という線は薄そうだ。「龍だから幽霊が見える」というなら、数百年以上生きてきて俺以外の幽霊を見たことがないってのは無理が
……
待てよ?』
何か思いついたらしくリオセスリが声を止める。ヌヴィレットは思わず顔を上げてリオセスリを見上げた。
梯子のステップに腰かけている幽霊は、じっと考えこんだようだった。
『これまでフォンテーヌ人は純水精霊のままだった
……
つまり死んでも幽霊になりようがなかった? フォンテーヌの予言後
……
フォンテーヌ人が真に人間となって以降に死んだ奴らのなかで、幽霊になった第一号が俺、というのは有り得るかもしれない
……
いや、だとしても確率的に俺以外の幽霊もいるはずだ』
リオセスリの言葉は独り言に近いのだろうが、その言葉はヌヴィレットの耳にも届いていた。
なるほど、とヌヴィレットは頷く。
「もしそうだとすれば、偶然私の前に現れたのが君だけであり、他に亡霊がいれば私にはそれも見えるということか」
『「龍だから幽霊が見える」というなら、そうなるはずだ』
「
……
ならば、死者が集まりそうな場所
…………
墓地だろうか」
ヌヴィレットとしては独り言のようなものだったが、それだけでリオセスリはヌヴィレットの考えを理解したらしい。
『なるほど、悪くない案だ』
言葉と共にリオセスリがステップから腰を上げ、梯子から飛び降りる。「幽霊なのに浮遊ができない」と文句を言っていた通り、リオセスリの半透明の体は重力に従うようにして落ち
――
だが着地を失敗したらしく、焦ったような声と共にその体がごろりと床に倒れた。
何をしているのか、と問おうとして、ヌヴィレットは黙った。
じっと見ていれば、リオセスリはすぐさま顔をあげて上半身を起こした。
『納得がいかない』
「
……
何に対してだろうか」
『浮いたり飛んだりできないのに、半透明なだけあって体は物体をすり抜ける。足が床をすり抜けて着地が出来なかった』
「痛みは?」
『まったく無いのが幸いだ』
これで俺はあんたに醜態を晒しただけ、と髪を掻きながらリオセスリが立ち上がる。そうしてリオセスリはヌヴィレットの背後にあるステンドグラスへと視線を向けた。
『時間も良さそうだ』
「適した時間があるのかね」
『幽霊ってのは大抵夜に出ると言われてる。夜の墓地は怪談の定番だ』
「
……
なるほど」
『そろそろヌヴィレットさんの今日の仕事も終わる頃じゃないか?』
判断しかねて、ヌヴィレットは机上を見下ろした。
執務机の上にはまだ数十枚の書類が残っている。どれも期日には充分な余裕があるが、それを無視して「終わり」と判断して良いものかがわからなかった。
時間は、と時計を見れば、パレ・メルモニアで定められている時間、いわゆる定時を迎えたところだった。
時計と書類の束を交互に見たヌヴィレットに気付いたのだろう、リオセスリが溜息と共に片手を腰に置く。
『急ぎの仕事があるのかい?』
「いや
……
今私の手元にあるものは全て、期日に余裕がある」
『なら、今日の仕事はもう終わりだ。一緒に墓参りでも行こう』
「これからリオセスリ殿の墓へ?」
『俺という幽霊はここにいるのに、俺の墓へ行っても仕方ないだろう。他の墓地
……
あぁ、カーレスさんの墓がある墓地はどうだ? 俺もカーレスさんに挨拶したいし、ヌヴィレットさんにも墓参りをする相手はいるだろう』
それは誰のことだ、と問いかけて、ヌヴィレットは理解する。これまでに見送った人々の事を思い起こしていれば、リオセスリが『花を買っていくかい?』と尋ねた。やわらかな声は、親が子どもを宥めるような響きをしている。
「
……
ああ、そうしよう」
ヌヴィレットが頷くと、リオセスリは殊更やわらかく微笑んでから口を開いた。
『なら、さっさと行こう。花屋はもうすぐ閉まる』
「わかった」
促されるまま、ヌヴィレットは椅子から立ち上がった。書類を手早く鍵付きキャビネットにしまい、出入口へと歩いていく。ごく自然に、その隣にリオセスリがついた。
□
フォンテーヌにはいくつかの墓地があるが、カーレスの墓があるのはポワソン町の近くの墓地だ。フォンテーヌ廷の花屋で買った控えめな花束を片手に、ヌヴィレットはリオセスリと共にウエスト・オトンヌキの草地を踏んだ。
ポワソン町の入り口を横目に、自然と出来上がった道を進めば、少ししてから墓地が見える。
墓石の集まりの前まで歩き、ヌヴィレットはそこで足を止めて死者の跡に向き合った。
夜の墓地には星月の明かりが降りそそぎ、神秘的ではあるが寂しげな雰囲気がある。
やあカーレスさん、とリオセスリが囁くように言った声が聞こえた。ヌヴィレットがそれに視線を向けたところで、リオセスリはカーレスの墓の前へと歩いて行く。
『俺もとうとうあなたの後輩になった』
笑うに笑えないジョークと共にリオセスリは墓の前に立ち、膝をついて墓石と視線を合わせた。
『しかしまあ、妙な状態だ。
……
幽霊が墓参りをしてるんだから』
笑いを噛みながらリオセスリが言い、ヌヴィレットはその隣から手を伸ばし、リオセスリに代わって墓の前に花を置いた。ルミドゥースベルを主体とした花束だ。
カーレスの墓には茶色く枯葉のようになった花びらが二枚ほど残っており、それと同じと思しきものが他の墓にも散っている。定期的に誰かが花を供えているのだろう。艶やかな金髪が思い浮かび、ヌヴィレットは視線を伏せた。
しばしの沈黙があり、リオセスリが立ち上がる。『さて、』呆気ないような気軽さでそう切り出したリオセスリは、もう理解している気配があった。
『俺の他に幽霊は?』
「いないようだ。
……
私が認識できていないか、ここには他の幽霊がいないだけかもしれないが」
リオセスリが頷く。
『まあでも、此処に来るまでの間、俺も他にお仲間を見かけなかった。一人もな。それに、この一週間俺も色々と出歩いてみたが、どこにもお仲間は見つけられなかったし、ヌヴィレットさん以外に俺のことが見える人もいなかった』
「では
……
リオセスリ殿だけが幽霊になっているということだろうか」
『その可能性も否定はできないが、別の考え方もできる。たとえば
……
幽霊は他にも居るには居るが、ヌヴィレットさんが認識できる幽霊は俺だけ、とか。いずれにせよ「龍だから幽霊が見える」という可能性は低そうだ』
「では
……
やはり、私と、リオセスリ殿にだけあった何かが?」
そう尋ねたが、ヌヴィレット自身それが何なのか見当もつかなかった。
リオセスリも同じなのだろう。肩を竦め、眉を下げて微笑んだ。
夜の風がやわらかくふき、草原を波立たせてヌヴィレットの髪を揺らす。だが、よくよく見ればリオセスリの髪はそよぎもしなかった。
それを見て、ヌヴィレットはふと、今更ながらに自分の精神異常を疑った。
「
……
、リオセスリ殿
……
」
『ん?』
振り向いたリオセスリは不思議そうだった。皮肉や『管理者としての顔』をしまった彼は存外にあどけなく、ヌヴィレットはそのことを久しぶりに思い出した。
ああ彼はそうだった、と思ったが、それに気を取られている場合でもない。ヌヴィレットは少し視線をさまよわせた後、リオセスリを見つめ返して口を開いた。
「今可能性を思いついたのだが
……
たとえば、君は私が作り出した幻覚だという可能性もある」
わお、とリオセスリは言った。口笛でもふきそうな様子だ。
その軽い態度は生前のリオセスリを思い出させたが、だからヌヴィレットの幻覚ではない、とも言いきれない。
自然と眉間のあたりに力がこもり、ヌヴィレットは視線を下げた。
黙したヌヴィレットを見て、リオセスリはまた肩を竦めながら両手を少し上げて見せた。
『だとしたら、ヌヴィレットさんが俺の幻覚を見る理由の方がわからないな。少なくとも、ヌヴィレットさんが俺の幻覚を生み出す理由は無いだろ?』
「
……
君は私の友人と言える存在だった」
『光栄だ。だが、ヌヴィレットさんにとっての友人が俺だけだったわけでもない』
「私にとっては
……
」
反射的に言いかけた瞬間リオセスリが目を丸くさせたのがわかり、ヌヴィレットは
――
ヌヴィレットは、その時に、リオセスリのその表情を見て、自らが何を言いかけたのかを初めて自覚した。
今自分は何を言いかけたのだろう、と思うと同時に、その答えは考えるまでもなく解る。
「
……
――
そうか」
呟きは自然とこぼれ落ち、それはリオセスリにも聞こえただろうが、リオセスリは何も言わなかった。
ただ、見開いていた目を一度閉じ、瞼を開き直して、ヌヴィレットへとやわらかく微笑んだ。
『光栄だよ。本当に』
甘くも感じるような穏やかな声が言う。
それはやはり親が子を宥めるような気配がある、とヌヴィレットは思った。
龍であり千年以上生きているヌヴィレットに対し、敬意を持ったうえで親しい友人のように接するなどリオセスリくらいのもので
――
むしろ人についてなら、彼はヌヴィレットより年長者のようでもあった
――
だからだ、とヌヴィレットは理解した。今更のように。
相手が死んでからわかるものがあるなんて、と思ったが、それを言えば『相手が死んでから理解に至る』のは二度目だ、と気付いた。
「
……
私はいつも、失ってから理解することばかりだ」
『そうかい? 俺はそうは思わないな』
明るい口調が素早くさしこまれる。それがリオセスリの気づかいだとヌヴィレットにも察せられた。
『こぼれ落ちるものの中から、ヌヴィレットさんが掬い上げたものは多くあるさ。フォンテーヌという国が今も在るのは、ヌヴィレットさんのおかげとも言えるし
……
』
星が瞬く空に、リオセスリの柔らかな声が溶けていく。青白く透けた顔を少し下げて視線を落とし、それでも穏やかに微笑んでいた。
じっと押し黙っているヌヴィレットに気付いたのだろう、リオセスリは不自然に言葉を止め、そうだ、とヌヴィレットに顔を向けた。
『なら、俺がヌヴィレットさんの幻覚かそうでないか、確かめてみよう』
「
……
何?」
途端にヌヴィレットの胸中からは、じっとりとしていた嘆きが掻き消える。
怪訝に思った感情も隠さずに聞き返せば、リオセスリはにっこりと、あの愛想笑いを見せた。
青白く透けた手が持ち上がり、人差し指がピンと立てられる。
『つまり、』
リオセスリの声には笑みの気配が混じった。
『俺が、「ヌヴィレットさんが想像もしないようなこと」をしでかしたなら、俺はヌヴィレットさんの幻覚ではない。だろ?』
「
……
それは
……
」
確かにそうなのかもしれないが。
ヌヴィレットは戸惑ったままぎこちなく頷いた。
「だが、例えばどのような事を?」
『種明かしをすると意味が無くなる。まあとにかく、今日はこれでお開きだ。明日からもう少し様子を見てみよう』
リオセスリはやけににこにことした様子だ。『冷えてきたし、ヌヴィレットさんは明日も仕事だろう? 早くパレ・メルモニアに戻ろう』と来た道を戻り始めたので、ヌヴィレットはそれについていくしかない。
リオセスリ殿、と呼びかけたが、リオセスリは『明日は楽しくなるぞ』と言ってまた笑っただけだった。
□
翌日、リオセスリは相変わらずしっかり存在していた。
ヌヴィレットがパレ・メルモニアに出勤すると執務室にいて
――
今のリオセスリには自宅というものがないので、彼は夜間などヌヴィレットが自室にいる間、この執務室を自室代わりにしているらしかった。どうせ空室にしているので好きに過ごしてくれたら良いとヌヴィレットも思っている
――
出勤したヌヴィレットを見て「おはよう」と片手を上げて見せた。7日前から毎朝こうであるので、ヌヴィレットも気にしない。
「ああ、おはよう」
そっとした、他の者には聞こえない程度の声で答えて扉を閉じ、ヌヴィレットは室内を進んで自らの席についた。
『今日は午後から裁判だろう?』
リオセスリが執務机の前まで歩いてきて尋ねる。ヌヴィレットは「ああ」と肯定して頷いた。
『俺もついていっていいかい?』
ペン立てを引き寄せようとしたヌヴィレットは、そこで手を止めた。
顔を上げ、机の前に立っていたリオセスリを見上げる。
「問題は無いが
……
何か気になる事が?」
『いや、何も? ただ幽霊になってから裁判についていった事は無かったと思ってね。別に誰も俺のことは見えやしないんだから、良いだろ? 逆にもし俺が見える奴がいたら、それはそれで重要な情報になる』
確かにそうだ、とヌヴィレットも納得した。
リオセスリという幽霊が現れるようになってから今日に至るまでにも裁判はあった。なのになぜ突然、という疑問はあったが、7日もすれば幽霊も暇になるものかもしれない。実際、リオセスリは時間をもてあましている気配があった。
「わかった。だが何かあった時にはすぐに対応できるよう、できるだけ私の視界に入る範囲にいてほしい」
『ヌヴィレットさんの傍にいるよ』
ささやかな笑いまじりに、口説くような言葉が返ってくる。
ヌヴィレットはほんの少し片眉を上げて見せた。
軽快な笑い声
――
ヌヴィレットにしか聞こえない声
――
が部屋に少し響き、ヌヴィレットはそっと息を吐いた。
「本日の裁判は午後からだ。昼にはここを出よう。それまではリオセスリ殿も好きに過ごすといい」
『出来るだけヌヴィレットさんの近くにいるよ。あんたが想像もしないような事をたくさんしてみせないと』
「
……
なに?」
再びペン立てを動かそうとしていたヌヴィレットは、またもやそこで手を止めた。
落としかけていた視線を上げ直せば、リオセスリはにまりと笑った。子供が悪戯を思いついたような笑い方だ。
『昨日、あの墓地で言っただろ? もし俺が幽霊ではなくヌヴィレットさんの生み出した幻覚なら、俺はあんたの想像を超えるようなことは出来ないはずだ』
だから色々試してみようと思うんだ。
リオセスリはそう言って笑った。穏やかで無害そうに見える綺麗に整えられた笑顔だというのに、ヌヴィレットはリオセスリのその笑顔こそが不穏の前兆だと知っている。
「試してみる、とは」
反射的にヌヴィレットは思考を巡らせた。ヌヴィレット自身の想像を超える事について考えてみたが、想像が出来ないのだから思い浮かばない。
そうと気付かぬうちに黙り込んでおり、リオセスリのくすくすとした笑い声がヌヴィレットを我に返らせた。
『あんたって純真だ』
笑いを噛みながらそんな事を言われ、ヌヴィレットはどのように反応すれば良いのかわからなかった。純真、という言葉を自身に当てはめられたのも心外だが、それを年上のように言われたことも心外である。さらに言えば、今のやりとりでリオセスリが何をもってヌヴィレットを純真と評したのかが理解できなかった。
ヌヴィレットはますます黙り込むしかなかったが、リオセスリはそんなヌヴィレットを見てさらに明るく笑った。
『まあ、これからさ』
□
結局
――
その日の午後の裁判が終わる頃には、ヌヴィレットはこのリオセスリは自らの幻覚などではなく、本当にリオセスリの幽霊なのだ、と納得した。痛感させられた、とも言えるかもしれない。
何せリオセスリの幽霊は、本当にヌヴィレットが想像もしない事をしでかした。
午前のうちはヌヴィレットの傍で猫みたいに過ごしていたというのに、午後は宣告通り裁判についてきたと思ったら、そこで本当に、本当にとんでもないことを色々として見せたのだ。
誰にも見えないのだからと、ヌヴィレットと共にエピクレシス歌劇場に入り、トロウの体をすり抜けてソファに座ってみせたりしたのはまだ良かった。扉をすり抜けて遊んでいたことも、まだいい。
ヌヴィレットの後について、最高審判官用のボックス席に入ったと思ったら、柵から大きく身を乗り出して
――
身を乗りだす、というより上半身はほとんど落ちかけていた
――
ヌヴィレットは思わず慌てたが、それもまあ、まだましな方だった。ひそひそとした声で「危ないからやめなさい」『幽霊なのに?』というやり取りをして、リオセスリは素直にヌヴィレットの横に戻ってきた。
ところがだ。開廷し、原告側の供述が始まったところで、リオセスリは突然に先程の柵へとダッと駆けて
――
それを飛び越えて、その向こう側に落ちたのだ。
思わずヌヴィレットは息を飲んで腰を浮かしかけた。数百年以上生きてきたが「隣にいた人間が、突然目の前で高所から飛び降りた」経験など無い。驚愕と動揺は激しく、ヌヴィレットはその数秒、原告の供述を聞き逃しかけた。事前にそれぞれの情報が得られていたから良かったようなものだ。
リオセスリの状態を確認したかったが、リオセスリが見えているのはヌヴィレットだけで、なおかつ裁判中だ。立ち上がって下を覗き込むことも出来ない。結局ヌヴィレットは前のめりになりかけた上半身を抑え、平静を装うしかなかった。
彼はどうなった、無事なのか、幽霊に怪我は、なぜ突然あんなことを?とヌヴィレットがぐるぐると考えているうちに、リオセスリはけろりとした様子で審判官席に戻ってきて『いや、怪我も痛みも無かった』などとぼやくものだから、ヌヴィレットはたっぷりとした溜息を吐きだすしかなかった。
『驚いたかい?』
驚いたなんてものではない、と立ち上がって文句を言ってやりたいのに、他にはリオセスリの姿は見えないものだからそうも出来ない。
リオセスリ、と密やかな声で叱りつけようとしたところで、リオセスリはくるりと背を向けて席から出て行き、かと思えば十数秒経ってから被告がいる席に現れて見せた。それだけでもヌヴィレットはぎょっとしたというのに、それがヌヴィレットに向かって笑顔で手を振ってくるのだからどうすればいいのかわからない。
こんなふうにしてあの場所に立つ彼を二度も見たくなかった、とヌヴィレットがショックを受けている間にもリオセスリは止まらず、その席から飛び降りて歌劇場内を歩き回り、誰にも見えないことを良い事に傍聴者たちにちょっかいをかけ、弁護人のところまで歩いて行って手元の資料を覗き込んでみたり、果ては二階席の、ヌヴィレットの真正面となる席に腰かけてにんまりとヌヴィレットに対峙して見せたりした。
――
ヌヴィレットがフォンテーヌ廷に招かれ、審判官を務めるようになってから数百年。数多の裁判を担当してきたヌヴィレットだが、これほど泡を食った裁判は初めてだった。それも、出廷者とは全く関係の無い存在のせいで。
閉廷する頃にはヌヴィレットはすっかり疲れた気持ちだった。
だというのに、その原因がのこのことヌヴィレットの傍に戻って来て『結論は出たかい?』なんて言って笑うものだから、何と言えば良いのかもわからない。怒る気力も湧かなった。
「
…………
そういえば君は存外に悪童じみたところがあるのだった」
一息で文句を言いきれば、隣を歩く幽霊が笑う。
『元は少年犯罪の犯人だ。悪ガキも悪ガキ
……
』
「はぁ
……
」
窘めるのも億劫で、ヌヴィレットは溜息でもってリオセスリの言葉を止めさせた。
エピクレシス歌劇場を出たところだったので、近くに立っていたアイフェがヌヴィレットに心配の声を掛けてくる。
「ヌヴィレット様、どうされましたか?」
「いや
……
少し、疲れていたようだ」
大変!と目を大きくさせたアイフェは、おろおろと両手を動かしながら言った。
「休息を取られてください。お休みは必要ですよ! よく公爵も
……
」
そこまで言いかけたところで、アイフェがハッと息と言葉を飲む。
隣にいる幽霊が「おや」とでも言いたげに眉を上げているのを見やって、ヌヴィレットはアイフェへと微笑みかけた。
「気にしなくていい。
……
ああそうだな。助言に従うようにしよう」
そう言ってやっても、アイフェは落ち込んだ様子のままだ。
ヌヴィレットはアイフェの前に膝をついて、彼女の肩に手を置き「ありがとう」と言った。
それでやっと、紫がかったピンクの瞳に安堵の気配が戻る。「はい」愛らしい微笑みを確認して、ヌヴィレットはアイフェから手を離し立ち上がった。そうして、その奥へと続く通路に視線を向ける。
「少し散歩を」
「ヌヴィレット様は、歌劇場裏を歩かれるのがお好きでしたものね」
へぇ?と意外そうに言った幽霊の声を無視し、ヌヴィレットはアイフェに微笑みと頷きで返事をすると歩きだした。
一拍を置いてついてきた幽霊が、アイフェを振り返りながら言う。
『あんな何も無いところを歩くのが好きだったのかい?』
「
……
ああ。人通りが少なく散歩に適しているので好んでいる。
……
それに、時折君やシグウィンと会える事もあるので好んでいた」
そっと答えれば、リオセスリはわずかに目を丸くさせた。
『確かに、ヌヴィレットさんと会った事が何度か
……
。あんたの時間を邪魔したかなと思ってたんだが、そうでないなら良かったよ』
「
……
君は私にとってかけがいのない友人だった。君と過ごした時間は穏やかなものであり、心が弾むものだった」
前を見たまま、歩みを止めずにヌヴィレットは言う。潜めた声は囁きに等しく、けれどリオセスリはきちんと聞き取ったらしい。
『光栄だよ』と、こちらもそっとした声で返事があった。
このまま降りてみようか、とリオセスリが言ったのは、二人が歌劇場裏の広場まで辿り着いた時だった。
火に照らされた細い通路を歩き、水の下へ続く階段が見えてきた頃、リオセスリは思いついたようにそう言った。
「幽霊に
……
その姿になってから要塞へ行った事は無かったのかね」
『あるにはあるんだが、受付のあたりだけ見て帰ってきたんだ。受付やその周辺を見るだけでも特に荒れてる様子は無かったし、もし俺の死後に要塞の環境がひどく悪化していたなら、ヌヴィレットさんは真っ先にその事を俺に相談してただろうからな。今日までヌヴィレットさんの口から要塞のことが話されなかったなら、それだけ変わりないってことだろ』
「確かにリオセスリ殿の言う通りだ。君の遺言がしっかりとしていたゆえに
……
メロピデ要塞は君の死後も正常に運営されている。だが、君が要塞のことを然程気に掛けなかったのは意外に思う」
『気にならないわけじゃないが、気にしないようにした。メロピデ要塞は俺の王国ではないからな』
すかさず返ってきた言葉に、ヌヴィレットは思わず目を瞬かせた。
『自分の力が及ばなくなってからも気に掛けるほうが健全じゃない』
だって自分の王国ではないのだから、とリオセスリは言う。
ヌヴィレットは少しの間何も言えなかった。
風の音だけが聞こえる数秒があり、少ししてからリオセスリが明るい口調で『まあでも、』と声をあげた。
『ちょうどここまで来たし、知ってる奴らが元気にやってるかだけでも見に行ってみるかな』
折角だから、とリオセスリが眉を下げて笑う。
その表情を見て、ヌヴィレットは思わず口を開いていた。
「では私もついて行こう」
『
……
ヌヴィレットさんも? あんたが行くと
……
騒ぎになるだろう』
「驚かれはするかもしれないが、私がメロピデ要塞に出入りすること自体は禁止されていない。
……
君がそうしたように」
『別に先代管理者だって禁止してはいなかった
……
あー
……
まあ、あいつが何だかんだ言い訳をつけて水の上の人間の出入りを弾いてたのは知ってるよ』
「そして君がそれを是正した。おかげで私はシグウィンに会いに行く事が出来る。今も尚」
『今もそうなら、やっぱり要塞について心配は要らなさそうだ。でもじゃあ、ヌヴィレットさんは看護師長に会いに?』
「受付での申請理由はそうしよう」
ヌヴィレットがリオセスリを見つめながら言うと、リオセスリはとうとう「わかった、わかったよ」と苦笑して手を振った。
□
予測したことではあるが、くすんだ金色の世界に足を踏み入れるとほぼ同時に、ヌヴィレットは周囲からの視線を浴びた。
囚人たちは驚きの声をあげてヌヴィレットを凝視するか、小さな声で悪態をついてヌヴィレットから視線を逸らし、近くに立っていた看守の一人が慌てた様子でヌヴィレットの方へと駆け寄った。
「ヌヴィレット様、いかがされたのですか」
「私用で
……
シグウィンに会いに来たのだ。貴方がたの手は煩わせない」
「そ、そうですか。ですが、念のため医務室までお供致します」
『要塞の治安って少し悪くなったのか?』
いいや、と口に出して答えかけ、ヌヴィレットは言葉を飲んだ。
目の前の看守にはヌヴィレット一人の姿しか見えておらず、その隣に前管理者の幽霊が立っている等とは思いもしないだろう。
そのためヌヴィレットはちらとリオセスリを見やり、看守へと視線を戻してから口を開き直した。
「気遣いはありがたいが、先にも言ったように他の者の手を煩わせたくはない。私一人で大丈夫だ。私もまた、余計な事はしないと約束しよう」
看守はそこで引き下がった。では、と敬礼をして、元居た場所へと戻っていく。
その背中を見送って、リオセスリがヌヴィレットを振り返った。
『ざっと中を見た限りでは荒れた様子も無いと思ったんだが
……
そうでもないのか』
ヌヴィレットはそっと答える。
「君が要塞の管理者だった頃は、私がここにやってきた際には君が共に歩いてくれていた。それだけだ」
リオセスリがきょとりとする。一拍を置いて『言われてみればそうだ』とこぼしたのを見るに、リオセスリは当たり前のようにそうしていたのだろう。ヌヴィレットはそれを少し面白く思う。
「君はいつも私を気づかってくれた」
『最高審判官を雑に扱うほうがどうかして
……
』
リオセスリが言い訳のような言葉を口にしかけ、そしてその時に、突如悲鳴のような声が響いた。
「
――
公爵様!?」
一瞬、いや、一秒。二秒。
今耳にした言葉を、ヌヴィレットはすぐには理解できなかった。それは呼ばれた本人
――
リオセスリもそうだろう。
ヌヴィレットとリオセスリが二人そろって驚愕と困惑を抱いて振り返ったそこには、メロピデ要塞の現管理者が、驚愕と恐怖の混じった表情で立っている。おそらく、ヌヴィレットの訪問を耳にして慌てて執務室を出てきたのだろう。ヌヴィレット達がいるほうへ走ってこようとして、そしてその途中で慌てて足を止めたような姿勢だった。
「
…………
ど、どうして
…………
」
震える声で呟きながら、その目は確かにリオセスリを
――
幽霊であり、ヌヴィレット以外には見えないと思われていたリオセスリを
――
見ていた。
未だ信じられない心地ながらも、ヌヴィレットは咄嗟に口を開きかけ、しかしそれを塗り消すようにリオセスリが声を発した。
『よし、それ以上何も言うな。俺の声は聞こえるか?』
現管理者が焦ったように頷く。リオセスリはそれを確認してもう一度『よし、』と言った。
『じゃあ今すぐ黙って、何も無かったようなふりをしろ。あんたも自分がおかしくなったとは思われたくないだろ? 何か適当な理由を
……
』
リオセスリが言いかけたところで、現管理者はその先を察したらしい。
いまだ表情は強張ったままながらも咳払いをし、明らかにヌヴィレットだけを見るようにして口を開き直した。
「あ、ああ、失礼しました。一瞬公爵様のお姿も見えたような気がして
……
いや、まだ慣れないものです」
ヌヴィレットは大した機転だと思ったのだが、リオセスリにとっては落第点だったらしい。隣から舌打ちが聞こえ、それを不思議に思っているうちに『それだとあんたがおかしくなり始めたと思われるぞ』と剣呑な声が付け足された。
その言葉を受けてだろう、現管理者が苦笑しながら髪を掻いたが偶然にもそれが発言と合っており、ヌヴィレット達の様子を不思議そうに見ていた周囲から、安堵のような気配すら生まれた。
「貴殿の気持ちは理解できる。
……
シグウィンに会いに来たのだが、少し話をしたい。良いだろうか」
「え、ええ。もちろん。ではどうぞ私の部屋に。コーヒーくらいならお出しできますよ」
言葉と共に管理者の執務室が示され、ヌヴィレットは頷いた。
「本当に公爵様なんですね
……
」
執務室に入り扉が閉じられ、部屋の中央へ進んだところで、現管理者は溜息まじりに告げた。
『ああ。そうらしい』
答えた本人はけろりとしている。
現管理者である男はそんなリオセスリをじっと見つめた後、はぁ、と疲れたように溜息を吐き出した。
「公爵様がお亡くなりになってから、色々と大変だったんですよ。公爵様が、遺言で後任を俺に指名なんてするから
……
俺は何も聞かされていなかったのに」
『事前に打診したら、あんたは絶対断ってただろ』
「当然です。それに、後任の候補にあげられていることを誰かに知られでもしたら
……
面倒なことこのうえない」
『賢明だ』
「やめてくださいよ。俺は面倒なことが何よりも嫌いなんです。公爵様がお亡くなりになって、とにかく誰かが後任にならなければならない状況だったから任命を受けたんです。あんな状況でなければ、いくら貴方の遺言でも話を蹴っていました」
『ほらな、そういうところが最適なんだ』
俺の判断は合ってた、とリオセスリは得意げに笑ってヌヴィレットを振り向く。
その様子を見てか、男は思い出したようにヌヴィレットへと言った。
「それで
……
ヌヴィレット様にも、公爵様が見えているのですね?」
「ああ」
『逆に言うと、これまでヌヴィレットさんだけが俺の存在を認識できたんだ。他には誰も
……
メリュジーヌらも俺に気付いた様子がなかった。だから何故あんたにも俺が見えたのかが謎だ。つまり
……
あんたとヌヴィレットさん両方に共通してる事があるはずなんだが』
「俺と、ヌヴィレット様が? そんなの思いつきもしませんよ」
いっそ呆れたように言った男は、手を広げてみせながら更に言葉を続けた。
「大体、俺は公爵様が死んだこともまだ実感できていなかったんです。公爵様が死んだなんて信じられなかったというか
……
実は訃報さえ嘘で、いつもみたいに、そのうち突然、生きた姿で現れるような気すらしていました。幽霊となった貴方を見た今、とうとう思い知らされた気持ちで
……
」
「
――――
それだ」
ハッとすると同時に、ヌヴィレットは意識せず呟いていた。
え、という呟きと共に男の声が止まり、リオセスリがヌヴィレットを振り返る。
たった今ヌヴィレットは、現管理者と自身にある共通点を理解した。
自分にあって、他にはなかったもの。クロリンデやフリーナ、シグウィンにすらなく、ヌヴィレット自身もまた、ほとんど自覚していなかったもの。
ヌヴィレットは、おそらく、リオセスリの死を実感していなかった。
葬儀にも出席して、リオセスリの遺体に別れの挨拶をして、その棺の上に花を置いて、3日深く嘆いたというのに。
彼は死んだのだと理解してはいるのに。リオセスリという人間の死が、記録のように頭に残っているというのに。
とうとう幽霊すら目の前に現れたというのに。
それでもどこか、リオセスリの死を信じられていなかった。
だからおそらく中途半端な悲しみしか抱けなかった。
だから幽霊さえ自身の幻覚であることを疑った。
きっとヌヴィレット自身が自覚できぬような心の深層で
――
リオセスリは、彼は、どこかでまだ生きているのではと、そうであってほしいと縋っていた。
訃報すら嘘で、時々リオセスリがして見せた大仕掛けな計画で、またいつものようにヌヴィレットが知らない所で犯罪を防いだり犯罪者達を捕まえたりしていて、それで、いつか。そのうちに。
また、ヌヴィレットの前に現れて。笑って、呼びかけてくれるのではないかと
――
きっと思っていた。
「
………………
そうか
……
」
茫然としたまま言葉は自然とこぼれ落ちた。
ヌヴィレットの前では何故か現管理者の男とリオセスリがぎょっとした様子でいる。
リオセスリが、彼にしては珍しく焦った様子で、本当に困った表情でヌヴィレットへと手を伸ばして
――
、そしてその指先はヌヴィレットの頬をすり抜けた。
リオセスリが触れるはずだった肌を水が伝い、その時やっと、ヌヴィレットは涙を自覚した。
そうか、とか細い声が漏れる。
「
……
君はほんとうに、
…………
」
立っているのがやっとのような心地だった。
ヌヴィレットが他に何も言えないでいるうちに、リオセスリが『看護師長を呼んでくれ』と指示する声が聞こえ、現管理者が慌てた様子で部屋を出ていった。
息を切らせてやって来たシグウィンは、管理者室に入って、ヌヴィレットの姿を見るなり苦しげに表情を歪ませた。
それだけヌヴィレットがひどい様子だったのだろうが、それを取り繕えるほどの気力がヌヴィレットに残っていない。ソファに座り、俯かせていた顔を少し上げるくらいしか出来なかった。
『ほら、ヌヴィレットさん。看護師長が来てくれた』
隣にいる幽霊が優しい声でそんなことを言うので、ますますヌヴィレットの胸は痛む。
「ヌヴィレットさん、」
ゆっくりと歩き近づいてきたシグウィンが、まだ乱れている息を整え直しながらそっと呼びかけた。
ヌヴィレットはそれに応えてシグウィンの名を呼び返そうとしたのだが、声が掠れたせいで上手く音にならない。
それでもシグウィンは何かを感じ取ったのだろう。「大丈夫。大丈夫よ」そう言葉を重ねて、ヌヴィレットの手に自らの手を重ね置いた。互いに手袋越しではあるが、それでも生命としての感触と、かすかな温度を感じられる。
息を吸って、ヌヴィレットはようやく口を開き直した。
「
……
シグウィン、」
聞いているわ、と促すようにシグウィンが頷く。
「
……
彼は
…………
リオセスリ殿は、
……
――――
……
死んでしまった
……
」
言い終わらぬうちに、頭痛がしたような心地を味わう。
また頬に水が伝ったような気がしたが、実際にどうなのかもわからず、もはやどうでもよかった。
シグウィンがハッと息を飲み、何かをこらえるように唇に力をこめたのがわかった。
ぐっと黙り視線を下げたシグウィンが、気を取り直すように顔を上げる。
「
……
そうじゃないかと、思ってたのよ
……
」
涙を滲ませ、それでも笑いかけようとする彼女の表情は悲愴と言えるものだった。
思わず、ヌヴィレットの眉間に力がこもる。
だがシグウィンは何かを振り払うように自らの首を横に振ると、ソファの、ヌヴィレットの隣へとぴょんと座った。ちょうどシグウィンと「重なる」ようになってしまったリオセスリが、無言でソファから立ち上がる。ヌヴィレットはそれを視界の端に認めながら何も言わないようにした。
そうしている間にもシグウィンが口を開く。
「そんな気がしていたの。ヌヴィレットさんを見てると、まるで、公爵がまだ生きてるみたいだった。
……
でもごめんなさい、ウチからは言えなかった
……
」
「ヌヴィレットさんも頭ではわかってるって知ってたし、わざわざ言う必要が無かったもの」
「でも
……
」
でも、と言ったシグウィンは、そこでヌヴィレットの手を優しく握った。
「
……
ヌヴィレットさん、公爵のお葬式の後は、一度も公爵のお墓に行かなかったでしょう?」
「
……
ああ」
「きっと、ヌヴィレットさんの中で公爵はまだお墓にいないんだわ、って
……
ウチ、気付いてたのよ。ヌヴィレットさんは気付いていないみたいだったけど」
「ああ
……
」
何もかもシグウィンの言う通りだった。
リオセスリが死に、葬儀がおこなわれ、墓が建てられたというのに、ヌヴィレットはそれ以降一度もリオセスリの墓に行った事が無い。リオセスリの死後1年目の墓参りはシグウィンに誘われたが仕事が多忙だったため断り、2年目は「近いうちに」と返事をしながらも行かなかった。3年目になっても行く気は無く、そしてそのことにヌヴィレット自身が気付いていなかった。
どうでもよかったわけではない。シグウィンの言った通りだ。リオセスリの墓にリオセスリの遺体があることを、リオセスリが死んでいることを虚構のように感じていた。
――
あるいは、リオセスリの死を実感したくなかった。
もはや何も言えずにいるヌヴィレットへと、シグウィンが涙をこらえながら言った。
「ねぇヌヴィレットさん、公爵のお墓に行ってあげて。お別れを言い直さないと」
ヌヴィレットはのろのろと顔を上げた。
ヌヴィレットの前方でじっと黙って立っていた幽霊は、神妙な面持ちのような微笑んでいるような曖昧な表情をしている。
その幽霊がその表情のまま、「言われた通りにするしかないな」と言うように肩を竦めて見せた。
□
水の上に戻れば、ヌヴィレットも予測した通りの豪雨だった。
人通りは無いに等しく、それを良いことにヌヴィレットは傘をささずにエピクレシス歌劇場までを歩いた。
ずぶ濡れのヌヴィレットを見てアイフェは驚き、心配の声を掛けてくれたが、ヌヴィレットが雨に濡れても平気だということはもちろん知っている。問題ないと答え、このまま専用通路を利用してフォンテーヌ廷に戻ると伝えれば、不安そうながらもお気をつけてと手を振ってくれた。
「ヌヴィレット様、とっても悲しそうです。何があったのかわかりませんが、どうかあまり落ち込まれないでくださいね」
ありがとう、と答えたが、そう答えた時どんな表情をしていたのかヌヴィレット自身もわからない。
専用通路へと入る瞬間、それまで黙っていた幽霊が『なあ、そんなに落ち込まないでくれよ』と言ったので、ヌヴィレットは重たい口を動かして答えた。
「
……
二度も君を見送らねばならない。落ち込まずにいられようか」
幽霊は少しのあいだ何も答えず黙っていたが、少ししてから口を開いたようだった。
『ヌヴィレットさんがそんなに落ち込むなら、俺も変な欲をかかなかったのに。悪い事しちまった』
「何の事だろうか」
『
……
悪い。ちょっと嘘をついてた』
「嘘?」
嘘と聞いても、ヌヴィレットの心は揺れなかった。陰鬱な気持ちが大きく、苛立ちすら湧かない。
ただ確認のために聞き直すと、リオセスリは少し息を吸ってから静かに言った。
『実は、自分が幽霊になった理由については心当たりがある。最初は本当にわかってなかったんだが、数日前には思い出してた』
「
……
そうか」
『それだけかい?』
「他に何を言う必要が? 君の嘘によって私が害を被った事は無い」
『いや、今回ばかりは少しある
……
とも言える。でもまあ、何となく予感がしてる。この話は後にしよう』
嫌な予感だ。ヌヴィレットもまた、その予感を感じ取っている。
きっとリオセスリは、この幽霊は、ヌヴィレットがリオセスリの墓を訪れた時に消えてしまうだろう。
□
リオセスリの遺言には、自身の葬儀はごく簡素に行うよう、そして墓は生前に買っていた土地があるからそこに建てるよう
――
遺言には『板きれでも立てておいてくれたらいい』とあったが、さすがにヌヴィレットもシグウィンもそれを許しはしなかった
――
指示があり、それに従った結果、葬儀も墓もあまりにささやかなものになってしまった。
要塞の後任者や運営について、パレ・メルモニアとのやり取りについてや、自身の遺産の分け方および寄付先、爵位の返還について等にはこれでもかと細かく書いてあったというのに、そういった「引継ぎ」の情報以外は何も無かった遺言だ。無視してしまえばよかった、とヌヴィレットは今更ながらに思った。
彼が遺した言葉だからと大人しく従ったせいで、リオセスリの墓は、訪れるのも一苦労する場所にぽつんと建てられている。
それでもメリュジーヌや、リオセスリと交友があった者達が訪れるのだろう。墓石の前にはまだ枯れ切っていない花束や花輪があり、冷たく素っ気ない墓石に彩りを添えていた。それらが今は雨に打たれている。
重く感じる脚を動かし、ヌヴィレットはその墓の前に立つ。
せめて形式的なものくらいはと思い、購入して持ってきた花輪を供え、そして
――
それだけでも、心臓が引き絞られるようだった。
強い雨に打たれ色濃くしている墓石に、リオセスリの名が刻まれている。多くに惜しまれた証として様々な花が供えられて、ああ確かに自分は最後に彼の棺を見た、と思い出して、とうとうヌヴィレットは立っている意味もわからなくなってしまった。
雨の中だが構わずにゆっくりと片膝をつけば、いまだ隣にいる幽霊が『おいおい』と焦ったように声をかけてくる。
『この雨だ、泥がつく
……
』
「構わない」
『俺が気になって仕方がない』
「
……
今はどうでもよい」
リオセスリがとうとう黙り、ヌヴィレットは何にも構わずにリオセスリの墓石に触れた。刻まれた名を辿り、彼が死んだ日をなぞり、枯葉を少し払ってやる。
「
…………
君は死んでしまった
……
」
言葉にすると同時に雨脚が強まり、ヌヴィレットは目を閉じた。
リオセスリとの思い出すべてが、昨日の事のように思い出せる。声も、表情も、彼が言ったひどく悪趣味なジョークも、何もかも。だというのにその思い出達を丁寧に辿れば、それらは全てリオセスリの葬儀と遺体につながってしまうのだ。
本当は体に穴があいていたという遺体は表面上は綺麗に整えられ、棺におさめられたリオセスリの顔は穏やかだった。それが死者だということは明確にわかっていたが、偽装などという可能性をちらと考えてしまう程度には。
涙を流すシグウィンの肩を支えながら、おそらくあの時ヌヴィレットが一番、リオセスリの死を理解していなかった。信じられなかった。
そうでなければ耐えられないほどの感情を彼に向けていたのだと
――
それに気付いた事すら今だ。
「そうか
……
」
ハッとして目を開くと同時に涙が溢れ、それはすぐに雨に混じって流れていった。
一瞬だけだが驚きが悲嘆を上回り、そしてまた、それ以上の悲嘆が襲い来る。愛情を向けていたのだと気付いたというのに、その相手が今死んでいるとはとんでもない悲劇だった。
ぁ、と思わず声がこぼれると同時に、どっ、とした勢いで雨量が激しさを増し、とうとうリオセスリが悲鳴のような声をあげた。
『ヌヴィレットさん! 頼むから泣かないでくれ!』
リオセスリの体は雨さえ通り抜けていくのだから冷たさも感触も無いはずだというのに、リオセスリは本当に弱りきった様子でヌヴィレットの肩を支えようとした。透けた手でわたわたとヌヴィレットをなだめて、ヌヴィレットの視界に無理やり入り込んで、ぎこちない笑顔を作る。
『ほら、さっき言っただろう? あんたの悲しみは俺のせいもあるんだ。そうだ、少し話そう』
『だから頼むから
……
少し泣きやんでくれ。俺はあんたが悲しんだり落ち込んでる姿に弱いんだ。だから
――
』
まるで親が子供をなだめるみたいだった。
――
大丈夫だから、ほら、落ち着いて。少し話そう。雨を少しおさめることは出来るかい? 少しでいいから抑えてくれると嬉しい。何せほら、雨音が激しいとヌヴィレットさんの声が聞き取りにくくなっちまう
……
。
生前にも無い慌てぶりでリオセスリが言葉を並べ立てるので、ヌヴィレットの意識も思わずそちらへと向いていく。
胸中にある悲しみは未だに激しいものだったが、目の前でリオセスリが弱り切った様子であれこれとヌヴィレットをあやそうとするものだから、それが少し、ほんの少しおかしくもあったのだ。
「
……
君の
……
君がそのように慌てる様子は、初めて見たように思う
……
」
『そりゃ、ヌヴィレットさんがこれ程落ち込んだらな
……
さっきも言ったが、俺はあんたが悲しそうにしてる姿に弱いんだ』
だから泣き止んでくれよ。ああ死ぬんじゃなかった。あんたに触れられたら涙の一筋でも拭ってやれたし、肩を抱いて支えてやれたのに。
リオセスリが本当に反省するように言ったので、その時、その時になって初めて、ヌヴィレットの内にあった何らかの感情は溜飲を下げた。ヌヴィレット自身それがどういった感情なのかわかっていなかったが、それでもリオセスリが自らの死を悔いたという、その事がヌヴィレットの気持ちをわずかに慰めた。
悲しみはまだあったが、落ち着きは戻ったようだった。
ヌヴィレットは目を閉じ、意識して雨を調節した。滅多なことでは天気に働きかけることをしないが、昨日今日の間でさすがに雨が降り過ぎたと理解できる。
自らの嘆きの気持ちを抑えながらも少しずつ雨量を調節し、豪雨が小雨程度の勢いに戻った頃、リオセスリがほっとした息を吐きだす音が聞こえた。
『良かった
……
本当にありがとうな、ヌヴィレットさん』
目を開けば、安堵したような笑みを浮かべるリオセスリがいる。
透けたその姿と表情をじっと見つめて、ヌヴィレットはもう一度目を閉じた。自身が目にした美しいものを記憶に刻み、目を開き直す。
『立てるかい?』
泣き止んだ子供の様子をうかがうようにリオセスリが言うので、ヌヴィレットはのろのろとした動きながらも立ち上がった。服は見事に泥にまみれていたが、そんなものは後で一瞬で落とせる。気にせずにいると、リオセスリは『よし』と言って今度こそからりと笑った。
『じゃあ、あらためて俺からの謝罪を。さっきも言った通り、俺は自分が幽霊になった理由に心当たりがある』
「
……
何か未練を?」
『未練と言っていいものか微妙だが
……
まあそうだな、未練だったんだろう』
「一体何が?
……
君が『成仏』してしまうのは悲しいが、私で手伝えることならば手伝おう」
『ああ、それなら心配は要らない。
――
ほら」
ほら、という言葉と共に、リオセスリが自らの片手を上げて見せる。青白く透けているはずのそれは、しかしよく見れば指先は完全に消え失せていた。透明から薄青にグラデーションしたように、少しずつ少しずつ青白さが薄まっている。
「
――
リオセスリ殿」
ど、とまた空が揺れかけたのを、ヌヴィレットは今度は自制した。
ありがとう、と微笑んだリオセスリが、その笑みを保ったままで口を開く。
『まあ、仕方ないんだ。俺の未練はなくなったから』
「待ってくれ
……
リオセスリ殿の未練とは何だったのだろうか」
つかめないとわかっている体に向かってヌヴィレットが手を伸ばしかけ、その時にリオセスリは言った。
『
――
あんたが、ヌヴィレットさんが時々俺を思い出してくれたらいいなと思ってたんだ』
ふ、と雨がやみ、それに気付いたリオセスリが空を見上げ、視線をヌヴィレットへ戻し、笑う。
そんなに驚いたのかい、とリオセスリはまた笑い、言葉を続けた。
『ああもう死ぬなって思った時、最期にあんたを思い出したよ。未練は無かったが、少し甘い事を考えた。
……
俺が死んでからも、ヌヴィレットさんが時々は俺のことを思い出してくれたらいいな、ってぐあいに』
そう思ったのを確かに覚えてる。
穏やかな声で、童話の読み聞かせのようにリオセスリが言う。
ヌヴィレットは息を飲んで何も言えなかった。
雨はやんでいる。
『そしたら、ヌヴィレットさんは3年経っても一度も墓に来ないし
――
俺のことなんてすっかり忘れた様子だった。だからそれで、ちょっと化けて出てやろうかと』
リオセスリの言葉のどこまでが真実なのかわからない。
それでも悪戯っぽく、且つ申し訳なさそうに告げられたその言葉を、ヌヴィレットは信じることにした。
だからだ、と納得ができた。
だからリオセスリは3年経って幽霊となって、その姿はヌヴィレットくらいしか見ることが出来なかった。ヌヴィレットがリオセスリの死を信じていなかったから。
「
……
リオセスリ殿を忘れていたわけではないのだ。ただ
……
君が死んだことすら認められていなかった。いつかまた会えるのではと、どこかで君が生きているのではと祈っていた
……
」
『ああ、もうわかったよ。わかってる』
ヌヴィレットを宥めようとしたのだろう。リオセスリが手をのばしかけ、けれどそれはもう上腕部から先がすっかり消え失せていた。それに互いに気付き、はっと視線を交わす。
「リオセスリ殿、」
『成仏したいんだ。ごねないでくれよ』
「
……
ごねない」
『ははっ、良かった。お利口さんだ』
そう言っている間にも、リオセスリの足元も消えていく。
雨はやんでいた。濃灰色の雲が空にたちこめているが、泣きわめくのをじっと耐えるように雨は降っていない。
「
……
君の命日には必ず、ここへ訪れると約束しよう」
ヌヴィレットとしては血を吐くような思いで言ったというのに、リオセスリは笑って「いいよいいよ」と首を横に振った。
「なぜ」
『ヌヴィレットさんは忙しいからさ。時々ちょっと俺のことを思い出してくれたらいいんだ。それだけで充分だ』
「
――
いや、君との記憶を日々辿り、そして年に一度必ずここへ来よう。約束する」
ああ困ったな、随分仰々しくなっちまった。
リオセスリがそう苦笑いをして、それが
――
最後だった。
青白く透けていた体が完全に透明になり、霧散し、そしてもう二度とあの柔らかな声は聞こえない。
風がふくごとに濡れた木々から雫が飛び散る音、足元に供えられている花々が揺れる音、遠くで空が唸る音が聞こえ、
……
それだけだった。
ぽつ、と一つ雨粒が落ちてヌヴィレットの靴先を洗ったが、それ以上の雨は降らなかった。
一滴分だけ泥が現れた靴先を見下ろし、ヌヴィレットは目を閉じて空を仰いだ。
雨と雨雲のせいで紛れていたが、もうほとんど夜と言える時間だ。晴れていれば太陽が落ちきり、空気のオレンジ色が薄青に染まり始める頃。
もう少ししてその頃に雲が晴れていれば、その隙間からは星々が見えるだろう。
その中へ
――
巡り上った魂がその星空の中へ飛び込む光景が思い浮かび、ヌヴィレットはそっと目を開いた。
視界に実際に映ったのは厚い雲だが、風は穏やかでほどよく冷えており、濡れた草花からのぼる香りが心地よい。
リオセスリという人間は、聡明で、思慮深く、利発で、実のところあまりじっとしていないタイプだった。
いつか星空さえ駆け抜けた魂が再びこの地に戻って来るさまを想像して、ヌヴィレットはほんの少し微笑んだ。
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