和綺
2026-03-21 12:52:27
5825文字
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梅の花の咲くころに

歌+虎。五条不在エンド。

寂しい庭の木々の先に膨らんだ芽を見つけて、虎杖は足を止めた。見上げるはるか頭上、曇り空に線を描くように伸びた茶色の先端のあちこちにぷくぷくとした丸みがある。
花は嫌いではないけれど種類には詳しくなく、このまだ寒さが残る時期に咲くようなものにあまり心当たりがなかった。
「桜、はまだ早いよなぁ」
これから会う相手ならわかるかもしれない。なんてったって先生だし、と虎杖は歩みを再開する。枯れた葉がかさりと音を立てて、まだ寒いな、と襟元を締めた。白い息が見えにくくなってから少し経つ。順調に春がやってきている。季節が進む。こちらはあまり雪は降らないから、視覚的にはわからないけれど、花が咲き、草木が芽吹く春がやってくる。


虎杖は庵歌姫のことをあまりよく知らない。京都校所属の教師であり、家入硝子と仲が良く、酒飲みで、そして、あの五条悟を更に強くできる術式の持ち主だということくらいしか知らない。自分と直接の接点があるわけではなく、五条や硝子を通した向こう側にいるような存在だ。
こんこんとノックしたあとに聞こえた、どうぞ、と言う声が低く落ち着いているのに透き通るようで、きれいだなと思った。
……失礼しまーす」
木造の、古い部屋は静かで、一番に目に入った大きな窓には、先ほど目にした大きな樹が、まるで人の手のように細い節々を伸ばしている姿が見える。
そのすぐ下で歌姫の頭は下がったまま、なにかを読んでいるようだ。白いリボンがぴょこりと踊っている。
「ちょっと待ってね。もうちょっと……うん、よし」
読み終えたのか、書類を置いた歌姫がそのまま横の木箱を開けている。大きな印鑑を取り出して、白い袴の袖を押さえながらぐりぐりと朱肉を付け、ぐ、と書面に押し当てている。
「ごめん、お待たせ」
ぱ、と顔を上げた歌姫が、虎杖に笑いかける。その手元では、ぱちぱちぱちん、と印鑑が木箱に仕舞われている。なんとなく、あの印鑑には庵の文字が刻まれているのかと想像した。夜蛾が刻まれた印鑑は今どこにあるのだろう。もしかしたら個人名ではないかもしれないが、そう考えることは、少し寂しいことだなと思うからやめた。
「あら、どうしたの。虎杖くん。珍しいわね」
流れ落ちた髪を耳にかけて、歌姫が首を傾げる。うん、まぁ、と濁して、虎杖は視線をさ迷わせた。大きな窓の横にはそれぞれこれも古めかしい木造の本棚があって、そこにはだいぶ乱雑に本やら書類の束やらが突っ込まれている。ダイヤルが付いた金庫は大中小と様々なサイズのものがあった。右手の奥まった位置には簡易キッチンがあり、電気ケトルがぽつんと置かれている。
女のひとの、しかもこんなきれいな声で、虎杖くん、と呼ばれるのはむず痒い。すごく丁寧に扱われている気がする。
「とりあえず座ったら?」
「あ、いや、伊地知さんからいろいろ預かって」
机の前にある応接セットのソファーを指した歌姫に首を振って、虎杖はすすすと部屋を進んだ。
「伊地知から? ……そう、ありがとう」
抱えていた紙の束を渡すと、歌姫はぺらぺらと一枚ずつめくって内容を確かめている。自分が作ったものでもないのに、なんとなくそわそわとしてしまう。そういえば先生だった。もうはるか昔のように感じる普通の学生だった頃を思い出す。勉強は今でも苦手な部類だ。
しん、とした部屋にかさりという紙の音が響く。虎杖の耳は小さな呼吸音も拾ってしまい、ふるりと頭を振って、意識的に息を吸った。部屋の中にはなにか、柔らかい香りが漂っている。
「あと、硝子さんからも」
「硝子も?」
ぴくんと顔を上げた歌姫の顔に苦笑いが刻まれている。虎杖が硝子から預かったのは封筒だった。
「ああ、分析結果ね……はいはい」
少しだけ取り出した書類の先だけを見て頷いた歌姫は、それを戻すと、くるくるとひも状の封をして、ぽんとそれを机に置いた。
「いいの?」
「あとで見るわ」
ぎ、と歌姫が椅子の背もたれに体重を預けた。はーっと天井に向けて息を吐いている。
……疲れてる?」
「まぁね。次から次に書類だ確認だ決済だ。打ち合わせに会議で酒飲む暇がないわ」
「あ、酒なんだ」
「そりゃそうよ。それを楽しみに毎日仕事してんだから」
そりゃそうだよ、と頭に声が響いた。甘いものを楽しみにしていると言っている声だ。
「君は?」
「俺?」
「体はなんともない?」
「あ、ああ、うん」
そう、と微笑む顔が、本当に虎杖自身を心配しているように見えて、不思議な心地になる。
「無理しないで、休めるときは休むのよ」
「大丈夫。ちゃんと休んでる」
「それから、気になることがあるなら、ちゃんと聞きなさい」
「え」
ほら、座って、と再びソファーを示されて、虎杖は思わずすとんと座り込んだ。
「歌姫先生って、声で操る術式とかも持ってる?」
「んなわけないでしょ」
……先生って久しぶりに呼んだかも」
立ち上がった歌姫が机を回り込んで、虎杖の向かい側のソファーへと座る。
「そうなの?」
「うん。硝子さんは硝子さんだし、日下部さんもそうだし」
「虎杖くんにとって、先生は私とあいつしかいないってわけ?」
「そういうんじゃないけど……うーん、でもそうかも」
虎杖が首を傾げつつ、考えながら答えると、歌姫は、ふ、と表情を緩めた。
「なんだかんだ、あいつもちゃんと先生してたってことね」
感心感心と腕を組んだ歌姫が、大きな黒いソファーに沈み込みながら頷いている。
「うん……俺にとって先生は、五条先生しか、いない、かも」
……教師冥利に尽きるわね」
膝に頬杖を付いた歌姫が、窓の外をぼんやりと眺めている。きれいな横顔だ。少し細められた目にかかるまつ毛は長く、青みがかった頬は水面のようで、きれいな角度の鼻からわずかに覗く傷跡ですら必要な彩りのように思える。
あの透き通っている瞳に、さっき虎杖が見つけた、木々の膨らみが同じように映っているのだろうか。このひとなら、あの樹に咲く花の名前がわかるだろうか。
「五条先生、のことが、知り、たくて」
「うん?」
優しい相槌と眼差しに勇気づけられるように、虎杖は、す、と静かに息を吸う。
「なるべくたくさんのことを覚えてたいんだ。全部、たくさんのことを、俺は知りたい」
……硝子と伊地知は教えてくれた?」
子供をあやすような声だと思った。夜、眠りにつく直前に囁かれる静かで優しい声だ。
「うん……俺が知ってる五条先生はずっと先生だったから、新鮮だった」
「ま、あいつにそこまで裏表があったとは思えないけど」
「硝子さんが、一番素に近い、昔のままの五条先生を知ってるのは歌姫先生だって言ってた」
「えぇ……? まったく硝子はまた適当なこと言って」
「え、硝子さんって適当なの?」
「というか、めんどくさがって、すぐ誰かに投げちゃうのよね。変わらないんだから」
「そうなんだ、なんか意外かも……
「仕事はちゃんとしてるわよ。安心しなさい」
「そこは疑ってないけど……
「そう、よかった」
ふふふと笑う声が風のようで、先ほど感じた、これから巡ってくる季節を思い起こさせる。
「五条はね、いつも子どもみたいなやつなの」
「うん?」
唐突に始まった口上に、虎杖は少し面食らった。ぐ、と身を乗り出した歌姫が、まるで告げ口をするように言葉を紡いでいく。
「会うたびにひとのこと、あ、私のことね、弱い弱いってバカにするし、いちいち級のことを持ち出してきてうざったいたらないし、私が行った任務に妙に詳しくてダメ出しもしょっちゅうだったわね。急に現れて無理難題吹っ掛けて学長怒らせたかと思ったら、あとはよろしくとかって後始末こっちに全部押し付けてくるし、誘ってない飲み会に突然現れるし、酒も飲めないのに何が楽しいんだか、ずっと隣でにやにや笑って顔見てくるから酒がまずくなるし、私のもずく酢、ずぞって吸い込んだ恨みまだ忘れてないから。そもそも酢の物一気に吸うんじゃないってのよ、むせるでしょ。あとリボン変えると目ざとく気づいて、すぐほどいてくるのが本当にいやでいやでむかつくのよ」
確かに虎杖が知りたかった、五条の知らない一面ではあった。自分が知っている姿と重なるところもあるが、歌姫しか知らない顔であろうことが多すぎる。というか。
……えーと、五条先生って歌姫先生の前だと、つまり昔からそんな感じ?」
「全然変わらないわよ。図体ばっかり大きくなって成長ってもんを知らないんじゃない?」
辛辣な言葉に、虎杖は苦笑いを浮かべるしかない。あのひとにここまではっきりと物申せるひとを、虎杖は他に知らない。
「硝子さんが、歌姫先生の前では、ありのままでいられるって言ってて」
「硝子が? 嬉しいこと言ってくれるわね」
「だから、五条先生も、そういうことだったのかな、って」
「つまり素がクズってことね」
……五条先生、ごめん。俺にはどうすることもできない」
「あいつの行いのせいよ。虎杖くんは気にしなくていい」
……その、あんまり仲良くなかった感じ……?」
「あいつが先輩を敬わないのが悪い」
「あ、そうですか」
きっぱりと言い切られて、虎杖はソファーの上できゅっと身を縮こまらせた。まったくもってその通りで、擁護できる箇所が見つからない。ここできっと誰もが気づいていたであろう五条の気持ちについて語ることが悪手だということもわかる。
今、こうして、虎杖の口から伝えられることが、ひどく曖昧で、意味を為すようなものにならないことも、わかる。
「でもね」
歌姫の声のトーンが変わった。遠くを眺めるような、ああ、これは過去を振り返っている声だ。優しく、柔らかく、思い出を、記憶を包みこむような、静かな声。
「私、みんなに歌姫先生って呼ばれるのよ」
「え、あ」
思わず口を押えた虎杖を見て、歌姫は微笑んだ。
「五条は五条先生でしょ? 日下部さんも日下部さんだし、七海も七海さん。伊地知だって伊地知さんだし、硝子は、まぁ、硝子か」
「っすね」
「受け持ったことがない子にも歌姫先生って呼ばれるのね。それは全然悪い気しないからいいんだけど」
歌姫が少し首を傾けると、黒髪がさらりと白い巫女服の上を流れた。艶々と光っている。
「入ったばっかりの補助監督にもそう呼ばれて思わず笑っちゃったわ。なんで? って聞いたら、歌姫、歌姫、って何度も大きな声で呼ぶひとがいるからつられてって」
目を閉じたせいで、眼球の丸みがはっきりとわかる。まつ毛の一本一本が細くて、繊細な影を生んでいる。頬にかかる傷跡が形を変えて、それはゆっくりと微笑みを象った。大きな窓から日が差す。あの曇り空を割った光だ。
ちりちりと小さなほこりが舞う光の中で、庵歌姫は優しく静かに笑っている。過去を、あの人を、思い出して、こんなにも優しい顔で懐かしんでいる。
「私は、東京校から京都に行ったの。当然誰も私のことなんて知らなくてね。若いし、女だし、たくさんナメられたわ。そういう世界なの。知ってたから、知ってたけどやるしかなかったから、後悔なんてひとつもしてないの。ナメんじゃねーわよ、いつか見てろよこのやろうの気持ちでいたのね」
「思ってたけど、歌姫先生もめちゃくちゃたくましいよね」
「当然でしょ。呪術師だもの」
にこ、と笑いかけられて、虎杖も思わず、そうだね、と笑い返した。嬉しかった。このひとと同じ世界で生きられることが。同じ世界で生きてくれていることが。
ずっと、同じ世界で生きてきてくれていたことが。
「そこにね、東京から来たやたらでかい目立つやつが、それはもうきゃんきゃんきゃんきゃんうるさいわけ。もうずっと歌姫、歌姫って、しょっちゅうよ。暇かっての」
「あー……それってもしかして」
「仲間だと思われるの、ほんと迷惑だったわ」
けっと吐き捨てる歌姫に、虎杖は笑ってしまった。それを横目で見た歌姫は、少しだけ不機嫌な顔を維持してから、諦めたように力を抜いた。
「あいつもすべて計算尽くってわけじゃないのよ。それでも、ね」
「うん」
「そういうところがまたむかつくんだけど」
「うん」
「それでも、私はあいつの先輩だから」
「うん、ありがとう。ね、歌姫先生」
「うん?」
「また五条先生のこと教えて」
……ええ、いいわよ」
頷くと、歌姫は両手を組んで、ぐっと体を上に持ち上げた。んーと声を出して伸びをしている。
「疲れた? お茶でも淹れようか?」
「いいの? じゃあ、お願いするわ」
立ち上がった虎杖に、歌姫が電気ケトルと茶葉の在りかを示す。
「なにがいい?」
「何にしようかしら……
水を入れた電気ケトルのスイッチを入れ、戸棚を開けると緑茶にコーヒー紅茶と一通りのものが揃っている。
立ち上がって窓のそばに来たことで、あの樹も虎杖のそばに迫っている。日が差し、少しだけ青が覗いた空に、茶色の木々が這うようにして、線を描いている。丸みを帯びたいくつもの芽が、時を教えてくれる。
「ねぇ、歌姫先生。あれってなんの花?」
緑茶の茶筒を手の中で転がしながら尋ねると、ああ、と歌姫も窓の奥の景色を見やったのがわかった。
「あれは梅よ。もうそんな時期なのね」
「そっか、梅か。桜かと思った」
「梅もきれいよ。静かで凛としてて、いい香りがするの」
ふーんと応えながら、虎杖はなんとなく窓の外を見ている歌姫を眺めた。
「五条先生って梅好きかなぁ」
「さぁ。ああ、でも、咲いてることに気づくのはいつも一番早かったわ。咲いたよ、ってよくわざわざ言いに来てた」
……それはなんかわかる気がする」
「なんで?」
「いや、なんとなく……?」
ふーんと先程の虎杖と同じように応じた歌姫が、虎杖を振り返る。
「っていうか、ずっと気になってたんだけど」
「なに?」
「敬語」
「え」
「年上はちゃんと敬いなさい。まったく、変なところが五条に似ちゃったのね」
滑らかな叱責に慣れたものを感じて、きっとあの五条先生も言われ続けたんだろうな、とたやすく想像ができてしまった。ぷくくとこみ上げる笑いを抑え込んで、虎杖は神妙に頷く。
「はい、気を付けます」
「素直でよろしい」
うんうん、と頷いた歌姫に、で、何飲む? と聞いたら、梅昆布茶、というリクエストのあとに、敬語! と飛んできた。