諸葛亮から呼び出された馬岱が通りすがりに物置小屋を見ると、うずくまる人影らしきものが目に入る。その人物が誰なのか瞬時に判断するや否や立ち止まり、小屋の中へ足を踏み入れた。
「銀屏殿? こんな所でどうしたの?」
人影……関銀屏は顔を上げ、馬岱を見る。彼女の目元には、涙が滲んでいた。
「馬岱殿……ごめんなさい、すぐ戻り――」
立ち上がってその場から離れようとする銀屏の手を馬岱は掴み、引き留めた。
「そんな顔を見ちゃったら、黙って行かせるわけにはいかないよー。誰かに悪口とか言われたの?」
「違います。その……どんなに頑張っても、死んだ父上や大兄上のように、戦で役に立てないことがつらくて、それで……」
馬岱は、やはりそうかと思い、
「銀屏殿は十分頑張ってる。戦場での君の姿にどれだけの人たちが元気づけられてるか、君が気づいてないだけだよ」
「馬岱殿……」
「だから、一人でなんでも抱え込んで泣かないで。俺がここにいるからね」
「……っ……!」
銀屏の目から大粒の涙がこぼれ出す。
銀屏の並外れた怪力や、時に予想外の事を引き起こす天然さも含めて、彼女も今や蜀の次代を担う貴重な戦力だ。
――しかし、それらを持ってしても魏には戦力で押されてしまう。
これに関しては純粋な国力と戦力の差が原因なのだが、銀屏はそう思っていないようだった。
「私が非力だから、みんなを守れないんだ……」
ある戦で、想定外の苦戦を強いられ、数少ない将兵たちを連れて戦場から撤退する時、銀屏が微かな声で呟いていたのを、馬岱は聞き逃さなかった。
それ以来、馬岱は銀屏の姿を目で追うようになった。普段、兄たちや女性陣に囲まれている時はいつも通り元気に振る舞っているが、今のように空き部屋の隅で一人で膝を抱え、うずくまる姿を見かけるようになっていた。
その姿は、あの娘を思い出させるようで――。
「どう? 落ち着いた?」
泣き止んだのを見計らい、馬岱は声をかけると、
「はい……でも、馬岱殿はどうして、私を心配してくれるんですか?」
目尻に浮かんだ涙を拭いながら、銀屏が問う。
「そりゃあ、大事な仲間だからよ! それに今の君を見てると、昔俺の側にいてくれた女の子を思い出すんだよね」
「もしかして、馬超殿が言ってた赤い髪の女の子の事ですか?」
馬岱は銀屏が莉杏を覚えていた事に驚きつつも、それを表に出さずさらっと答える。
「そ。俺達一族を裏切って、曹操軍に寝返った子」
馬超と共に劉備軍に降った頃、何処からか「曹操暗殺計画の失敗は、馬岱が匿っていた赤い髪の女が裏切ったことによるものだ」という噂が広まっていた。
蜀を建国した劉備をはじめ、仁と義を重んじる将が多いこの国では、彼女の行いに当然憤慨するものが多かった。
……ただ一人、彼女が西涼でどういう環境に置かれていたかを知っている男を除いて。
「私、皆を裏切るような悪い子に見えてるんですか?」
「違う違う! そうじゃなくて、「悪いのは周りなのに、こうなったのは全部自分が悪いんだ」ってずっと責めてるところ……だから、ちょっと放っておけなくてね」
「でも、その人は助けてくれた馬岱殿をたぶらかして、曹操軍に情報を渡していたから、馬一族が殺されたんですよね?そんな人が落ち込んでいる素振りを見せるなんて、演技だったんですよ。馬岱殿が気に病むことじゃありません」
「……演技なんかじゃないよ」
銀屏の言葉に道化の仮面が落ちてしまった。
「えっ……?」
普段発しない、陽気さの消えた馬岱の声に、銀屏は身体をこわばらせる。
「俺は、涼州軍に両親を殺されたあの娘をたぶらかして、誰も知らない鳥籠の中に閉じ込めた。俺より独りぼっちになったあの娘は、本来は君みたいに明るくて強い子だった」
そう、莉杏は銀屏のような天然さや怪力はなかったが、本来は健気で、誰に対しても優しく、明るい娘だった。
孤独を抱えていた馬岱にとって、彼女の存在は救いになると思った……そう思っていたのに。
「あの娘の輝きが俺には強過ぎたから、普通の女の子ならやりたがらないことを無理やりやらせて、あの娘の心を壊した。孤独な彼女を依存させて、ずっとそばにいてくれるようにしたかった……だから、その日々に限界が来た彼女は曹操軍に逃げたんだ」
心の底に閉まっていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「「ごめんなさい」「私が上手くできないから」「見捨てないで」……今の君のように、何度も自分を責めて、それでも俺の望みを叶えるために、彼女は身も心も擦り減らしていったよ」
細い指で縋りつき、少しでも機嫌を損ねたら捨てられるのでは……と、不安に怯えた瞳で己を見ていた莉杏の姿が脳裏をよぎる。
「その姿を見ても、あの頃の俺は何の罪悪感も湧かなかったよ。むしろ、「これでもっと俺から離れられなくなる」って喜んでた」
銀屏の顔を見ることができなくなる。どんな思いでこんな話を聞いているのか、馬岱は知る勇気がなかった。
「何度言っても若は最期まで信じてくれなかったけど……一族が皆殺しになった原因を作ったのは彼女じゃない。俺なんだよ」
馬超も、生き残った一族も、馬岱を責めることはなかった。
「全ては命惜しさと仇討ちのために馬岱をたぶらかし、曹操暗殺計画実行と同時に裏切った莉杏が悪い」と決めつけ、曹操と同様に彼女にも憎悪を向けていた。
何度弁明しても、誰も信じてくれなかった。
「……嘘ですよね?」
長い沈黙の後、銀屏が口を開く。
「馬岱殿、いつも言ってますよね?「俺、天邪鬼だから」って。私が「演技してたんだ」って言ったから、彼女を庇うために嘘をついてるんですよね?」
「それは……」
「それに、どんな時も陽気で、皆を励ましてくれる馬岱殿が悪い人だなんて、信じたくありません。どんな理由だったとしても、馬超殿と馬岱殿の一族を皆殺しに追い込んだのはその人に変わりないんですから」
「…………」
確かに、莉杏が曹操軍に逃げさえしなければ、曹操暗殺は成功して一族は殺されずに済んだのかも知れない。
それでも彼女だけ憎まれて、自分は罪のない被害者として生きていることへの罪悪感は、長い年月が経った今も馬岱の心を蝕んでいる。
「そうだよねー! 君の言う通り、俺は天邪鬼だからさ。あんな酷い裏切りを受けても、まだ情が残ってたみたい」
道化の仮面を被り直し、馬岱は笑う。
「ごめんね銀屏殿。君を元気づけるつもりだったのに、変な話をしちゃって」
「ううん、私こそいつまでも落ち込んでてごめんなさい。もっと鍛錬して、馬岱殿やみんなに心配をかけないように、心も身体も強くなりますね!」
「そうだね。うん……訂正するよ。やっぱり君は、あの娘に似てないや」
君は、独りじゃないから。
「じゃあ、早速兄上達を誘って鍛錬します!」
鍛錬場に駆けていく銀屏が見えなくなるのを確認すると、馬岱の顔から表情が消えた。
「味方の誰も、裁いてくれない……これこそが、俺への罰なのかもね」
馬超も劉備も、蜀に降った当時の事を知る者のほとんどは既にこの世にいない。
ならば、自分にできる贖罪は彼らが遺した蜀の地を、仁の心を次代に繋ぐために、戦に身を投じていくことしかないのかもしれない。
馬岱は、銀屏を含め次代を担う若い将たちを思いながら、諸葛亮の元へ歩を進めていった。
end.
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.