ねぶくろ
2026-03-20 22:58:54
2633文字
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因果応報

仲間を殺すことを夢想するSSです

 殺せる、と直感的にそう思った。
 目の前の相手、──同じ組織に属するその男は、無警戒にソファに身を沈めた姿勢で、こちらに笑いかけている。彼はテレビを指さし、「ここ、行ったことある店じゃない?」などと弛緩した声を発した。それに曖昧な相槌を打って、手の中に小石を握り込むような心地で彼を殺す手順を思い浮かべる。
 相手は警戒していない。ソファの後ろには電気ケトルの置かれたテーブルがある。お茶を淹れる素振りで背後に回って、首を絞める。彼は暴れるだろうが、体格や力の差を考えれば押さえ込むことは簡単だろう。あるいは、ケトルで殴ってから首を絞めてもいい。幸いにして、この部屋は防音性能がしっかりしている。ちょっとやそっとの騒ぎじゃ、隣近所に不審がられることもあり得ない。
 殺せる。自分は、その気になれば彼を殺せるのだ。コップ一杯の水を飲み干すように自然にそれを思って、あまりに平坦な心持に落胆する。──同じ組織で何年も活動をし、友人として多くの時間を共にした相手を殺す夢想をした。殺意も憎悪もなく、ただ新しいレシピを確認するような気軽さでその手順を確かめて、それだというのに俺は何の呵責も感じていない。『それ』があまりに日常的な思考だから、『それ』に対する罪悪感というものが欠落している。
 その事実に、ため息が零れそうになる。
 俺は、彼を殺すことができる。きっと、なにかのきっかけがあれば何の躊躇も抵抗もなく、彼の首を絞め、あるいは殴り、あるいは刃物を用いて、彼を死に至らしめるだろう。『その先』を考えたことはないが、もしその時が来たら、俺は平坦な気持ちのまま彼をトランクに押し込んで、人気ひとけの少ない海辺へと車を走らせるはずだ。──なぜならそれを、俺は一度彼にそそのかされて実行したことがある。
 俺は、人を一人、殺したことがあるのだ。
 殺人という一線を越えたことのある人間は、その他の人間とは別種の存在だ。絶対の倫理を失い、確固たる正しさを捨てた生き物。あるいは、獣。この世に、俺を縛るルールや道徳は存在しない。法による秩序も、慈愛に満ちた平穏も、持ち合わせていない。だからきっと、『次』もうまくやる。

 俺はいつかお前を殺すだろう、と彼に伝えたことがある。
 だからどうか警戒してくれ。──そう嘆願した俺に向け、彼はテレビを見ている時と変わらない穏やかで気の抜けた、平時通りの笑みを返した。そして、何の根拠があるのか、こちらの目を覗き込んで、「君は僕を殺さないよ」と断じる。彼は、微塵も警戒を抱くことなく、俺の頬を撫でた。
「君に僕は殺せない。だからそんな心配はしなくていい」
 ──心配ではないのだ、とその頬を殴ってやればよかった。
 俺は、彼を殺すことができる。それは、可能性に対する心配ではなく、単なる事実だ。太陽が東から昇るように当然のこととして、日ごとに人が年を取るように当たり前のこととして、俺は彼を殺す力を有している。体格の差、体力の差、年齢の差、性格の差。それらすべてが、俺の内部に存在する暴力を証明し、肯定している。俺は悪人であり、俺は罪人であり、俺は殺人者である。それを実行する機会があれば、それを実行したいという欲望があれば、それを実行するべきだという必要性があれば、俺は容易く彼を殺すだろう。太陽が西へと沈むように当然のこととして、人がやがて死に絶えるという当たり前の営みとして。
 俺は、彼を殺せる。──今だって、いつだって。

     *     *     *

 彼は微塵も警戒を抱いていない。いつでも殺せる。それを考えながら、油断しきった横顔を眺めて夢想する。
 首を絞める。頭部を殴る。浴槽に顔を沈める。高所から突き落とす。刃物で突き刺す。あるいは、致死量の薬物を摂取させるなんてのも可能だろう。手段を選ばないのならば、今すぐにでも彼を殺すことができる。可能性ではなく、事実として。心配ごととしてではなく、単なる選択肢として。思考の中に、ずっとそれがある。日常の一コマで、折に触れてそれを考えている。
 いつ、『その時』が来るかなんてわからない。一生『その気』にはならないかもしれないし、次の瞬間、彼の不用意な発言で『その気』になるかもしれない。あるいは、何の理由も正当性もなく、ただの興味本位で『それ』を選ぶかもしれないし、切羽詰まった事情があって『それ』を実行せざるを得なくなるかもしれない。
 俺は、俺の持つ暴力の際限のなさを知っている。同時に、俺は、俺の持つ理性の限界を知っている。俺はきっと、彼を殺すことを止められない。『その時』が来たとして、俺は、自分自身を抑えることができないだろう。
 殺人という一線を越えたことのある人間は、その他の人間とは別種の存在だ。『その時』、俺は俺を止める正当性を持たない。『その時』、俺は俺を止める理性を持たない。『その時』、俺はきっと彼を手にかけることに昏く、甘美で、他の何にも代えがたい喜びを感じるだろう。
 ──だって、本当はずっと、彼を殺してみたいのだから。
 唯一無二で掛け替えのない、自身の生命を手中に握られた時、彼はどんな目で俺を見るのだろう。どんな声で、どんな言葉を選び取って、俺に語り掛けるのだろう。あるいは、どんな沈黙を俺に向けるのだろう。油断し、慢心し、あるいは俺を軽視している彼が、俺を重要で重大な存在として認識する瞬間があるとすれば、『その時』を措いて他にない。
 殺せる、ではない。殺したい、のだ。俺はずっと、彼を裏切り、彼を痛めつけ、彼の目を奪いたいのだ。
 彼にそそのかされて、人を一人殺した。だから、『次』もうまくやる。──たとえうまくやれないとしても、躊躇う理由はない。倫理を愛し、道徳を守り、ルールと秩序に縛られていた『俺』という人格は、彼が殺した。彼に、殺された。だから、俺は彼を殺すことを夢想する。その手順を思い浮かべて、整理し、実行する力を手に入れてしまった。
 因果応報だ。過去の罪が、今の不幸を形作って、俺を苛んでいる。──人なんて殺さなければ、俺はこんなことを考えずに済んだだろう。彼の言葉に頷かなければ、彼の願いを聞き入れなければ、俺は今、こんな不幸を背負うことはなかったはずだ。

 テレビへと視線を向けている彼の横顔を眺めてから、目を瞑る。
 俺はいつか、彼を殺すだろう。それは、彼にとっても報いであるはずだ。