西尾六朗
2026-03-20 22:36:13
2565文字
Public Beyond The 10 Stars
 

七日の曇天

3/20のイド記念日。この日からモンクリを遠ざけるぐだの話。

 地球がどれほど漂白されていようとも、そこに生きる者が居る限り、暦は存在する。
 本日は三月二十日、現代日本でいう春分の日であると、カルデアのカレンダー機能が伝えている。マスターはマイルームの壁にはめ込まれた画面の、液晶表記の数字を指で撫ぜた。
 忘れられない日付だ。きっと一生。
「じゃあ、そろそろ」
 そう呟くと、背後で微動だにしなかった巌窟王が短く、
「ああ」
 と頷いた。
 互いの表情に憂いはなく、むしろ薄く微笑んでさえいる。
 マスターは、まるでじんわりと、髪に染み込む雨粒のように。巌窟王は、僅かな苦みを敢えて味わうように。
 短い挨拶を経て、二人は背を向ける。
 搔き消える黒衣の裾から、燻る炎の余韻と煙草の残り香。マスターは鼻をすんと鳴らし、その匂いが消えるまで待った。
 数を数える。恐らくの予測を絡めて、三、二、一。
 零、で現れる、同じ匂いをした違う影。
「一週間、よろしくね」
 軽い挨拶を投げかける。つばの広い帽子をかぶった懐かしい影法師は、片方しかない瞳を応の形に細めた。



 三月二十日から七日間、巌窟王――モンテ・クリストが姿を消すことを、サーヴァントもスタッフも知っていた。
 それはとりもなおさず、巌窟王とマスターの関係がただの主従ではないことが知れ渡っているという事実でもあるが、マスターとしては(もう隠すのも難しいし逆に恥ずかしいので)それで良い、と思っている。
 だから、この行為に否定的な口を出す者はほとんどいない。
 三月二十日は何の日か。それはマスターが愛する男を失った日。
 信頼する者たちを――先生のように慕った銀色の指揮者を、友人のようにじゃれ合った竜の魔女を、他にも多くを失った日。
 この日を境に一週間、マスターはたったひとり帰還した男を遠ざけ、かつての影を傍らに置く。彼が戻った七日後まで。
 誰かが言った。これは黙祷のようなものだと。
 また誰かが言った。藤丸立香にとっては必要な行為だと。
 耀星のハサンには、
『痛々しい。見てるこっちが苦しくなる』
 と顔を顰められてしまったが、彼も止めはしなかった。
 察してくれる気遣いをありがたいと思う。優しい仲間だ。感謝と謝罪を胸に、マスターはベッドの上で天井を眺める。
 視界のぎりぎり隅には【彼】が居た。
 曇天の辺獄でのおしまいに、彼が残してくれた影。正真正銘これっきりだと信じて止まなかった巌窟王が、伝言を刻んで傍に置いた【彼】は喋らない。モンテ・クリストとして召喚されてから、【彼】の役目は真実、戦力としてのそれで――時間の止まった【あの日の巌窟王】のままなのだけれど、この七日間の意図を、正確に把握してくれていた。
 じっと見つめていると、影にすう、と色が付く。
 濃緑の外套。短い灰の髪。金色の瞳。引き結んだ唇。
 エドモン・ダンテスの姿で、【彼】はただ、そこにいてくれた。
「ありがとね。空気、読んでくれて」
 語り掛けると、視線がちらとこちらを見た。構わない、と言っているのが分かる。
 ふ、と笑って、マスターは続けた。相槌は瞬きだけ。それでもいい。
「みんなが。……ほっといてくれるんだ。マシュもだよ」
「ひいきって言わないでくれる。そうなんだよ。わたしもさ、これマスターとしてはあんまし良くないのかもって思うんだけど」
「アヴェンジャークラスだけじゃないし。もう、お喋りもできなくなっちゃったのは。……なのにこの日だけって。怒られてもいいのに」
「あ、その顔。怒られたって止められないだろって言うんでしょ。そうだよ!」
「それだけ特別で。サリエリも、オルタも、ヘシアンたち、も……
――キミも」
 喉が少し、震えた。
 だが、涙にはならなかった。したくなくて堪えた。【彼】以外は誰も居ない自室のベッドの上だ、今はマスターの顔を貫かなくても良い。そうと分かっていても、泣くことはしたくなかった。噛み締める唇が痛い。声が揺れる。
「わたしは、忘れたくない。慣れたくない。みんながもういないこと。アヴェンジャーだけが帰ってきてくれたこと。それを、当たり前だって思いたくない」
 奇跡なのだ。
 巌窟王が、エドモン・ダンテスでなく、モンテ・クリストの名でもって、隣に居る事実が。
 彼がどれほどのことをしたか知っている。あの人生そのものが復讐だった人が、その存在理由を、在り方を変え、マスターの炎としてここに居る。
 そうでもしなければ果たせない帰還を、その重さと意味を忘れたくない。
「だから、こんなことをしてる」
 忘れないために、思い出すために。
 七日をかけて、喪失の日々をなぞる。巌窟王を遠ざけ、【彼】と居る。
 せっかく塞がった傷をわざとえぐり返して、新鮮な血を溢れさせるような真似だ。だからこそハサンは、痛々しいと言ったのだろう。
……つきあってくれて、ありがとね」
 物言わぬ【彼】が、片眉を持ち上げた。少し皮肉なその表情は、当たり前だがまるきり巌窟王そのもので、マスターの胸はぎゅっと苦しくなる。
 それが想起の結果なのか、モンテ・クリストを想っての痛みなのかはあいまいだ。だけれど、結局同じことだった。同じ男を想って、心臓が悲鳴を上げるのだ。
 きっと抱きしめたいと感じてくれている【彼】。
 冷えた頬を撫でたいと。或いは暖かいコーヒーをいれてやりたいと。自らの意志で選ぶ行為を尊ぶ巌窟王だからこそ、マスターの哀悼と痛みに、想いを寄せてくれているだろう。
 だけれどそうしないのは、約束があるから。
 【彼】は影であり、巌窟王ではなく――決意の姿でも未練の姿でもない。カルデアの巌窟王の影法師。故に、マスターに触れることを許されていない。ただ近くで佇むだけ。だが、十分だ。
……七日後、わたしはキミと再会する)
 マスターは、開いた手を天井の灯に翳す。五指の影が顔に落ちる。潤んだ瞳を曇らせる。
 七日後には、泣いても良い。
 それまではずっと、狂おしく過去に浸ろうと思う。もう会えない復讐者たちのように。未来よりも、かつての日々に囚われることが在り方そのものだった彼らのように。
 藤丸立香は、この七日を【彼】と過ごす。親愛と、友情と、愛情の全てを思い返しながら。