詠夕れもん
2026-03-20 16:56:14
3542文字
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狛日版週ドロライ「温度差」

本編経由のアイランド軸です。本編の記憶が無い狛枝と、本編の記憶がある日向くんの話です。

「あ」

目の前の人が踵を返したのと同時に、ポケットの中に忍ばせていた物の存在を思い出して小さく声を上げた。けれど狛枝のその声は微かなもので、すぐそばでも届くことはなかったのだろう。そのままコテージへと日向は一歩を踏み出してしまったので、狛枝はそれを止めるため咄嗟に手を伸ばした。
そうして彼の手首を掴んだ力はそう大きなものではなかった筈だが、彼の肩はやけに大仰に跳ねた。

「っ?」

振り向いた日向の表情は単純に形容するならば驚きを示しているものだったけれど、ただそれだけとは言い難かった。どこか強張っているように見えるそこからは、緊張と呼ぶべきか恐怖と表すべきか迷うものが微かに滲んでいる。ただ、どちらにせよそれは間違っても良い感情とは言えないものであることだけは確かだろう。そう分かるや否や、狛枝は慌てて掴んでいた手を離した。

「ごめん! ボクなんかに触られたりしたら気分悪いよね」
「あ、いや、……違うんだ。別にそんな風には思わないから、卑下するなよ」
「でも、……

今の反応に何もないとは思えない。不快感とまでは言わなくても、狛枝が触れたことに対して日向は何かしら思う所があった筈だ。
言外にそう食い下がった狛枝に対し、日向は困ったように眉を落として、それからはっきりと首を振った。

「今のは、その……俺の問題だから」
「問題?」

鸚鵡返しにその意味を問うが、日向はやはり困ったようなかたちを崩さないまま笑みを浮かべた。その枯草色は穏やかな温度を保っていて、決して拒絶を伴ってはいなかったけれど、狛枝を真直ぐ見つめている筈のそれはどこか遠くを映し出している様に見えた。

「悪い、……いつかは絶対話すよ」
「あ、えっと、ボクは別に、キミを困らせたいわけじゃないから」
「俺がお前に知っててほしいんだ。今は言えないってだけで」

勝手な事ばっか言って悪い、と小さく付け足して、日向は決まり悪そうに目を伏せる形で逸らす。しかしそれは一瞬の事で、軽くかぶりを振ると改めて日向は視線をこちらへ向けた。

「それで? 何か用があったんじゃないのか?」
……あ、うん。大した話じゃないんだけど、これを渡そうと思って」

ポケットから出したそれを差し出す。手のひらにおさまるサイズの薄いポーチを受け取って、それを開けた日向は小首を傾げた。

「救急セット?」
「ドラッグストアで見つけたんだ。日向クンはボクのことを気にかけてよく一緒にいてくれるでしょ? だから、何かの拍子にボクの不運に巻き込んじゃったりしたら申し訳ないなって……。そもそもボクが持ってれば良い話なんだけど、それこそ不運で失くしちゃうかもしれないからさ」

それに、こんなものは気休めにしかならない。
修学旅行も半ばを超えて、現状は大きなトラブルを呼び込むには至っていないが、それでも狛枝の才能はいつ大きな災厄を呼び込むかわからない。命に関わるような何かが起こってしまったら、こんなものではどうにもならない。
だから本当に彼のためを思うのならば、距離を取るのが正解だ。そうと分かっていて、狛枝はこちらにやわらかく踏み込んでくる日向から離れられずにいる。……それは、彼の中に眠っている才能と言う名前の希望への好奇心がおさめられないからだろうか。
それとも。

……ありがとう。お前がそうやって心配してくれるのが、嬉しい」

そのやわらかな気持ちを受け渡すかのように今度は自分から狛枝の手を取っておきながらもどこかさみしげに目を細める姿が、胸の内でざわめきのような冷たい波を立ててやまないからだろうか。



ふと視線を上げた瞬間、日向は瞠目した。

「おい狛枝、後ろ!」
「え、……あ」

呼びかけられた狛枝が振り返るも遅く、比較的穏やかな波が多いこの島にしては珍しく高めの波がそれなりの勢いをもって彼にぶつかった。その力に狛枝がバランスを崩すのを見て、日向は慌てて駆け寄る。自分は水中ではなく砂浜のものを採集する予定だったので水着に着替えてはいなかったが、そんなことを気にしている場合ではない。靴や下衣が濡れる感触を受け止めながら狛枝の許に辿り着くと、尻餅をついた状態の彼は苦笑しながらこちらを見上げた。

「あー、ごめん。容器ごと集めた物全部流されちゃった」
「馬鹿、そんなことは良いから。立てるか?」

屈んで右手を差し出すと、狛枝はその指先を神妙な顔で見つめて、それから少し躊躇いがちに左手を持ち上げた。

「?」

外側から握られる違和感に首を傾げながらも引っ張り上げる。浮かんだ疑問の回答が導かれるのは、その右手が視界に入ればすぐのことだった。

「お前、それ、怪我して……っ」
「ああ、丁度ついたところに貝殻か何かの尖った部分が刺さっちゃったみたい。大したことないけど、見苦しくてごめんね」

その手のひらにぱっくりとひらいた傷口から血が流れる様に、日向は思わず身体を強張らせた。嫌な感覚が背筋を駆け抜けて、それから瞬きの間に、血を流し続けているそこを貫通するナイフの輪郭を脳が描いた。
――違う。こんなのは幻覚に過ぎない。
そう理性は分かっていて、けれど心臓が早鐘を打ちはじめるのを止めるには至らなかった。その焦燥感に導かれるまま、日向は狛枝の手を握りなおして踵を返す。

「日向クン?」

狛枝が疑問符をあげた。日向の様子に何か感じ取ったのかもしれない。けれどそれに反応する余裕は日向には無くて、ただ足早に進むことしかできなかった。
握っている手は冷たい。当然だ。彼はずっと水中の採集をしていたのだから、日向の方が温度を保っているに決まっている。単純な理屈を並べながらも、日向の思考はどうしたってあの時のことを思い返してしまっていた。彼が今ではない修学旅行で命を落とした時の、あの体温を。
あの捜査は彼が命を落としてすぐのことで、けれど、だからこそ触れている身体からみるみるうちに温度が無くなっていく様は生々しくて、どうしたって忘れられずにいた。
だから、この平和な修学旅行でやわらかな体温を保つ彼に触れるとどうしてもあの時を思って身が竦んでしまうのを、日向は克服できないままだ。

ビーチハウスに常備されていたペットボトルの水で洗い流し、使い捨ての医療用除菌シートで傷を拭ってから、何枚かのガーゼを使って傷を圧迫して血の勢いがおさまるのを待った後、パッドを貼付する。先日狛枝から渡され、下衣のポケットに入れていたポーチがこんなに直ぐ日の目を見ることになるとは。

「後で罪木にちゃんと診てもらえよ」
……うん。ありがとう」

応急処置を終えてやっと肩の力を抜いた日向は触れていた手を引こうとしたが、それを狛枝の左手が掴んで止めた。

「狛枝?」

視線を上げれば、鈍色の虹彩と真直ぐぶつかる。普段浮かべている、どこか軽薄さをも装っている様な薄い笑みを引っ込めて、静かな面持ちで彼は日向を見つめていた。

「ごめんね。多分、キミにとってこれは一番訊かれたくないことなんだろうけど……

どこかもどかしげにその眦がほどかれて、それから。

「それでも知りたいんだ。こうしてボクが触れてる時、……キミは誰のことを見てるの?」

きゅうと小さく握りしめてきた手は、縋るような心許なさを伴っていた。

…………

日向は、言葉を返すことができなかった。
それが不誠実であることは分かっている。それでも、答えを今の彼に手渡す訳にはいかなかった。
罪悪感が胸を引き絞るような息苦しさを呼んで、それをなんとか飲み下して。そして日向にできることは、力無く首を振ることだけだった。

「ごめん」
「うん」
「言えない、……どうしても、今は……言えないんだ」
「うん」
「ごめん、こんなのずるいって分かってるけど……っ」
「うん。……良いんだよ、日向クン。ずるいって言うなら、ボクの方だろうから」
「?」

疑問を目に載せた日向に対して、狛枝は薄く笑みを浮かべる。漣が引くときの様な虚しさを湛えるそれは、はっきりと自嘲を示していながらも何か満たされたようなやわらかさを綯交ぜにしていた。

「キミを困らせたくないなんて言っておきながら、こうしてキミがボクのために傷付いてくれるのが……堪らなく嬉しいんだ。だから、良いんだよ。キミがどれだけずるくたって、ボクの方がよっぽど醜悪なんだから」

冷たかった筈の指先は気付けば生ぬるい温度を伴って、日向の手の甲を焦れったくたどる。彼にそんな意図はないだろうが、それは何だか、日向の胸の底を離れることの無いあの温度を侵食するかのような生々しさを孕んでいた。