恋、という感情があるらしい。ウルテマより借りた古代の演劇を写したものや小説をいくつか読み、気になったことを師匠であるアゼムに尋ねたところ、彼女はたおやかに微笑みながら説明をしてくれた。鮮やかに揺れ動く心、そして内包する美しいだけでは無い感情。
「人は誰しもが恋をするわけでは無いけれども、誰しもが恋をする可能性を秘めているのよ」
いつか、あなたも恋に気付くのでしょうね、と笑う彼女を見上げ、考えてみます、と返事をする。
初めて知識として得たものを胸に抱き、こういうのかな、ああいうのかな、といろんな想像を巡らせて布団に潜り込む。目を閉じて、考える。考えて、考えて。
一つ、思い当たることがあった。だから得た知識と照らし合わせて、ぐるぐると考えた。考えて、考えて。そうして、朝がきた。
「おはよう、ハーデス!」
マカレンサス広場から少し歩いた、建物の影になるベンチ。いつもの待ち合わせ場所にいる友人に駆け寄る。本を読んでいた彼はちらりと視線をあげ、おはよう、と返した後すぐにパタンと本を閉ざした。
「もう日は充分に高いが」
「朝から師匠と街の外で鍛錬してたんだぁ。もうクタクタ。ヒュトロダエウスは?」
「まだ寝ているらしい」
「今日は暖かくていい天気だから、気持ちはわかるよ」
笑いながらハーデスの隣に座る。足や肩をくっつけて、何読んでいたの、と聞けば持っていた本のタイトルをこちらに見せてくれた。
「あー……これ、丸暗記しろって言われたやつだ……」
「これを……?」
「ん。これの原本が西方古典語でね……」
「ああ、確かまだ僅かに話者が残っているという」
互いの知識を共有しながら思考を重ねていくのは楽しい。ああでもない、こうでもない、それは確かに! 笑いながら頷いて、ふと考えてえい、とハーデスの肩に頭を乗せてみた。
「おい」
しっかりしている。肩に厚みがあるようだ。最近、ずっと同じぐらいの身長だと思っていたのに、彼はめきめきと伸びつつある。手のひらもずっと私より大きいし、背中も広い。筋肉とかは私の方がついているはずなのになぁ、と考えながらきちんと膝の上に置いてあったハーデスの手を拾い上げる。骨がしっかりとしてゴツゴツしている。昔はふにふにで柔らかかったのに。握ったり指の筋をなぞったりしても、ハーデスは眉間の皺を寄せるばかりで振り払ったりはしない。それが嬉しい。
「ねえ、ハーデス。私、新しいことを覚えたんだ」
「……なんだ」
ゆっくりと考える。唇が少しだけ乾いていて、そこで初めて自分が妙に緊張していることに気づいた。
「ハーデスは、恋って知っている?」
考えたのだ。たくさん、たくさん。
「昨日、ウルテマ様と師匠から教えてもらって、考えたんだけれども。私にとっての恋って、きっとハーデスだなあって思ったの」
たくさん考えて、そうなのだと。顔を上げて真っ直ぐとハーデスを見つめて。彼は少しだけまるで痛みを堪えるような顔をした後、目を伏せて溜息を一つ吐いた。
「お前、友愛とお前のいうそれは、別物だ」
何を言われているのか、うまく飲み込めなかった。
「お前にとって一番の友人と思われているのは悪くは無いが、それを他の奴にやるなよ。勘違いさせる」
友人。そうだった。ずっと、ずっと友人だと思っていた。
「いいか、友愛と恋は別物だ」
そう、だから。だから、たった一つの特別だと思った。もしかしたら、ハーデスにとっても、と淡く期待をしていた。
ああ、間違えたのだ。彼にとっての私は、ずっとずっと、友人なのだ。彼の優しさも、全部。特別なんかじゃない。
「えーっ、そうなの?」
驚いた顔をつくれば、やっぱり、といった顔をして気難しげにハーデスが頷いた。爛れそうなほど傷付いた感情は隠し込む。二度と、外に出さない。
「難しいなあ……もっと勉強しなきゃ」
「そうだな」
そっと握っていた手を離す。大丈夫。友人としてなら、許されているから。
こうして、初めて知った恋という感情は、呆気なく終わりを遂げたのだった。
「ってことで、だいぶ昔に私エメトセルクに振られてるよ?」
アゼムと呼ばれていたのが師匠ではなく自分となり、さらに友人をエメトセルクと呼ぶことに躊躇いがなくなり、ずっとずっと変わらない友愛をつづけて。随分と、時間が過ぎた。
珍しく酷く酔っ払ったヒュトロダエウスがエメトセルクを無理矢理引っ張ってアゼムの家にやってきた。アゼムは今日の夕方に帰還したばかりで、休養を優先しろとエメトセルクに言われ、大人しく早めに寝巻きに着替え寝支度をしていたタイミングでの来訪だ。二人で飲んでたのなら呼んでよ、とエメトセルクを睨むが、お前はさっさと私達を追い出して鍵を閉めて寝ろ、と返される。
「ヒュトロダエウス〜、お水飲む?」
「ワタシはぁ! キミにぃ! 怒りに来たの!」
「えっなに? 珍しい酔い方してる」
「知らん。急にお前に言いたいことがあると叫んで私を掴むなり転移した」
「んふふ。なーに、告白〜? やだ、アゼムちゃん困っちゃう」
「ちがーーーーーう!!」
べちん、とアゼムの肩を掴み、ヒュトロダエウスがエメトセルクを指差した。
「なんでキミは! エメトセルクと付き合わないの!!」
「は?????」
「ん??」
何を言っているんだ。アゼムはヒュトロダエウスー?と優しく宥めるような声を出した。
「あのねえ、君が私とエメトセルクがだいだいだーいすきなのは分かるけれども」
「ちがぁう! エメトセルクが好きなのはキミ!!」
「何言ってんの酔っ払い」
「おい、おい! 黙れヒュトロダエウス」
好き勝手な言われように流石のエメトセルクも看過できないようで、魔法でヒュトロダエウスの声を封じた。しかし身振り手振りでエメトセルクとアゼムを指さしてはハートを作り、口をぱくぱくさせながら訴えている。
「変な酔い方…………なんでこうなったの?」
「知らん……」
頭を抱えたエメトセルクは酷く疲れているようだ。まったく、と笑いながらアゼムは少し身を屈め、ヒュトロダエウスを覗き込んだ。
「もうー。いくら君が私とエメトセルクが大好きだからってね、感情ってそう簡単じゃないんだよ? それに」
まだ、燻っている。けれどもきっともう、笑って言えるだろう。
「私、もうとっくにエメトセルクに振られてるし!」
「は????????」
ぽかん、と口を開けるヒュトロダエウスの間抜けな顔につい笑ってしまう。エメトセルクすら見たことのない表情をしているものだから、腹を抱えて大笑いしてしまった。それはそうだろう。あんな幼い告白、彼にとっては幼い友人との細やかな会話に過ぎない。
「あのね……」
大丈夫。折り合いはついている。好きでいることはどうにもならないけれども、一番の友人でいられることで充分なのだ。
だから、笑いながら昔話をした。小さい頃の私可愛いでしょ、なんて言って、同意を求めようとして。
思いっきり目が座った状態で腕を組みエメトセルクを睨むヒュトロダエウスと、頭を抱えてその場にしゃがみ込むエメトセルクの図に、なにこれ、とアゼムは呟いた。
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