望月 鏡翠
2026-03-18 22:07:02
1905文字
Public 庭師は何を口遊む 霊山班
 

家の鏡はまだ割れている

#庭師何を口遊む_霊山班/二次創作

 家の鏡は、割れている。
 今のところ、それでも十分に顔は写るし、直す予定はない。
 別段、大した手間ではないはずだ。調べようとして、いつも諦めてしまう。できないのだ。特に理由はない。調べ物は得意なはずだ。それで仕事に支障はない。
 パソコンを起動しようとして、電源を入れる前に手が止まる。
 全身の毛が逆立つような、気持ちの悪さに襲われて、気持ちの悪い汗をかく。貧血になったときのように眩暈がして、ソファに倒れ込む。
 その繰り返しだ。
 そのうち、気にすることも面倒になって日常に馴染んでしまった。
 パソコンは埃除けを掛けたまま置物になり、鏡はひび割れたまま残された。
 指を切ったときの血の跡は黒く固まっている。それすらも、そのまま残っていた。
 比叡 明治は日常を維持している。
 そう望まれている。そのように無理やりに立ち続けることは望まれていないのかも知れないが、今はそうすることでしか自分を保つことができない。
 見ないふり感じないふりをしていた日常のひび割れに気づいたのは、他人を家に招いたときだ。
 以前よりも少し親しく接せられるようになった巩心を家に招き、手を洗いに行っただけの彼が、洗面所に入る前に動きを止めたのをみた。何かあっただろうかと思い返し、そこにかつての比叡が自制できなかったときの痕跡が、そのまま残っていることに気がついた。
 何事もないように振る舞った。そうすることしかできなかった。あのときは君を凄く憎んでしまいそうで怖かった、なんて打ち明けられても困るだけに違いない。
 比叡の中では、もう諦めた問題だ。その古傷は、蓋を閉めた生ゴミのようなもので、もう対処のしようもなく腐り切っていて蓋を開けば悪臭が漂い出す。だからないものとしておくしかなく、まして他人に触れさせるわけにはいかないものになってしまっている。
 比叡はそれを、どうにかして修復しなければいけないと思っていた。
 壊れてしまった自分も、割れた鏡も、人の手を煩わせることなく、どうにかして元の形に戻して、なんの懸念もなく手を離してもらえるようにしなければいけない。
 だが一年経っても、傷は傷のまま痛み続けた。そうして、もう元には戻らないのかも知れないと、ようやく気づいた。
 巩心を遠ざけることも、手を煩わせずに治すこともできやしない。いっそ助けてくれと手を伸ばす方が、彼にとっては誠実なのかもしれない。少なくともそちらの方が、助けたいと手を伸ばしてくれる彼を受け止めている。
 壊れてしまった自分を諦めた。そうして、少しだけ前に進んだ。
「巩心くん」
 どうやって切り出せばいいのかわからず、酒の力を借りた。酩酊しているのは比叡だけで、巩心はどれだけ飲んでも酔っているところを見たことがない。
 彼にとっても、もう見ないふりをすることに慣れた事柄だろう。
 今更、という躊躇いを緩んだ自制心で踏み越えた。
「調べ物が、できないんだ。やらなくちゃいけないことが、あるのに、どうしたらいいのかわからない」
 仕事のときはもちろんそんなことはない。チームのメカニックとして、情報収集担当として、仕事をこなしている。手がつかないのは、全て自分のことだ。
 巩心は座っていても少し高い場所にある顔で、首を傾げたらしかった。
 そんなこともできないのか、なんて彼は言わない。比叡が己を責めるだけだ。
「明治サンは、どうしたいですか?」
 自分が何をしたいのかが、一番わからない。簡単なことを口にするにも、時間がかかった。
 巩心は急かすことなく、比叡が口を開くのを辛抱強く待っていた。
「鏡、を、直したい。君が傷ついた顔をすると、悲しいから」
「一緒に調べてみますか?」
 頷く。彼に全てを任せるのは、違う。自分でやらねば。
「一緒に、調べて」
 パソコンを立ち上げずとも、タブレットで済むことだ。それすらも、手が止まってしまって、頭が真っ白になってしまう。
「ここ賃貸ですもんね」
「うん」
「業者に頼まなくても、換えのやつあると思いますよ〜」
 耳から入ってきた単語を、検索欄に打ち込む。
 鏡、換え。
 まだ頭が考えることから逃げていて、それだけのことがやっとだった。
「あ、サイズ測らなくちゃ」
「メジャーあります? 測ってきますよ」
「ある」
 確かパソコンラックを買うときに使ったあと、捨てていないはずだ。
 工具箱の中に、一緒に入っている。
 巩心は踏み台がなくとも、押入れの上の段に手が届いた。
「ありがとう」
「いっすよ〜、これくらい」
……うん」
 言葉にできない全てに、感謝していた。