ももつ
2026-03-18 12:37:40
1158文字
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心臓を止められるのは

弟だけ ㍽軸

 木々の合間から、目覚めたばかりの陽光が邸の塀を淡く照らしている。隠によって整備された玄関通路を大股で渡り切ったところで、バサバサと聴き慣れた羽音が耳に入った。1匹の鴉が鳴きながら邸の庭上を旋回している。
 どうやら今日も帰宅する訳にはいかないらしい。舌をひとつ打ち、鴉の近くに寄ってから止まり木代わりに腕を差し出した。
 降下してくるのを眺めながら、また糞鬼が出やがったかと先ほど斬り伏せた鬼を思い出す。襲われた村人が命乞いする様をひしゃげた声で笑い飛ばし、村人の指や腕の関節を順々に折っては泣き叫ぶ様子を楽しんでいたらしい。喰う訳でもなくただ人を甚振りたいという醜悪な姿に、湧き上がる憎悪と吐きそうなほどの怒りで柄を握る手に血管がぼこぼこと浮かんだ。
 改めて誓う。何があろうと醜い鬼共は俺が全部殺す。例え手足をもがれたとしても這いずってでも鬼の頸を噛みちぎってやろう。

 すべては弟の安寧のために。

 声変わりもしていない弟が嬉しそうに自分を呼ぶ声音が頭に響き、数回繰り返した後、なくさないようにまた胸の内へ閉じ込めた。もう二度とやわこい頬に触れられなくても、癖の酷い髪をとかしてやれなくても、兄ちゃんと甘えた声で擦り寄ってくる温かな体を抱きしめてやれなくても、お前がどこかで幸せに生きていてくれるのなら、それでいい。

 次はどこに向かえばいい、と口を開きかけたところでそれが弟に仕えている鎹鴉であることに気付いて目を見張った。
「榛」
「玄弥負傷!玄弥負傷!至急蝶屋敷ニ直行セヨ!」
 心臓が頭の中で鳴っている。一定の間隔で脈打つそれは弟の心臓が動けば動くし、もし、もしも、万一止まってしまうことがあれば、俺の心臓も涙に沈んで動かなくなるだろう。
(玄弥)
 榛が何かを叫んでいるが、俺の耳にあるのは自身の荒れた呼吸と小さな弟の穏やかに笑う声だけだ。らしくなく絡れそうになる足をどうにか動かし、地面に跡が残るほど強く踏み込んで一直線に蝶屋敷へ向かう。己を冠する名のように早く動け、早く、はやく。
 弟が生きていてくれればいい、俺にはそれだけあればいい。他になにも望まないのに、なのに、なぜそれすら叶わない。ああやはりあの時目を潰しておけばよかった。命さえ残っていれば、後は俺が全部何とかしてやれるのだから。
(玄弥、玄弥)
 丸く膨らんだ頬が夕闇に赤く染まる光景を覚えている。癇癪を起こし床に転がって泣き喚く姿も、涎を垂らして眠る顔も、ふくふくとした紅葉のような手も、大きさ比べをした小さい足も、一欠片も取りこぼすことなく俺の中にある。返せるものなんか一つも持ってない愚図な兄に、小さな体で目一杯の愛を与えてくれたお前を守らせてくれ。
 
 どうか、心臓を止めてくれるな。




(続きません)