そして、体育祭本番の朝。
宗真たちの父・宗二は、まだ空気のひんやり残る早朝の校庭で、場所取りをさせられていた。
(弁当作りは静乃に任せたとはいえ
……ここでじっと待ってるのも、手持ち無沙汰だな)
レジャーシートの上に腰を下ろし、しばらく周囲を眺めたあと、思い立ったように立ち上がる。次の瞬間、何の前触れもなく始まる
――親指だけで行う腕立て伏せ。
ぐっ、ぐっ、と静かに体を上下させるたび、周囲の保護者たちの視線が集まる。
(
……今の、見た?)
(え、あれ何のトレーニング
……?)
そんな空気など意に介さず、宗二は淡々と回数を重ねていた。
一方、月城家。
鏡台の前で、宗真はそわそわと落ち着かない様子で座っていた。
「よし、できた。これなら動きやすいでしょ?」
鏡越しに映る自分の姿を見て、宗真の表情がぱっと明るくなる。
「おーーっ!ポニテだー!かわいいっ!」
普段より高めの位置で結ばれたポニーテールが、首元をすっきり見せている。
「シュシュもチームカラーに合わせてピンクにしてみたの。チア衣装にも映えそうでしょ?」
「うんっ!サンキュー、静姉!」
嬉しそうに軽く跳ねる宗真を見て、静乃は小さく息をついた。
「響は青組で、宗真は赤組ね。
……間をとって黄組を応援しようかしら?」
「えーっ!?少なくともリレーは赤組を応援しろよぉ!」
「はいはい」
「美術部で作ったモニュメントも、チアも、リレーもちゃんと撮ってよ!あ、あと借り物競走もあったの忘れてた!」
「
……あんた、ずいぶん手広くやってるのね。ま、楽しみにしとくわ。ほら、行ってきなさい」
「はーい。行ってきます!」
玄関を出る直前、胸の奥が少しだけぎゅっとする。今日は、たくさんの視線が集まる日。
でも
――不思議と怖くはなかった。
(大丈夫。今日は
……ちゃんと楽しむって決めたんだ)
そう心の中で言い聞かせて、宗真は体育祭へと向かうのだった。
静乃は、早朝からの場所取りのおかげで、宗二が確保した一等地のレジャーシートに無事座ることができた。
……できたのだが。
宗二はというと、未だにレジャーシートの上で筋トレを続行中だった。
「おっ、静乃も来たか!」
「
……」
(あっ
……場所取り筋トレマンの身内だ
……)
(親指腕立てマンの家族だ
……)
ひそひそとした視線と気配が、四方八方から突き刺さる。静乃のこめかみが、ぴくりと引きつった。
(
……他人のフリしとこ)
さりげなく
――しかし明確に、宗二から距離を取るように荷物を置き、端のほうへ小さく座り込む。
「なんでそんな隅の方に!そんなとこからじゃ、響も宗真もよく見えないぞ〜?」
「人の勝手でしょ!」
きっぱり言い返した、その直後。
「
……ん?」
保護者席に人が増え、ざわめきが大きくなる中。その向こう側に、明らかに異質な集団が目に入った。狐の面を被った四人。
赤星流
――宗真に呪いをかけたとされる、あの集団。そして、その中心に立つのは。
同じく狐の面をつけ、女物の和服に身を包んだ人物だった。体育祭の華やかな雰囲気の中で、そこだけ色が違って見える。どう見ても場に溶け込んでいない。
静乃の背筋を、ひやりとしたものが走る。
(今のって
……まさか)
無意識のうちに、校庭のほうへ視線を向ける。
(宗真
……大丈夫かしら
……)
胸の奥に、小さな不安が沈殿していく。楽しいはずの一日の始まりに、静乃はかすかな違和感を覚えていた。
最初のプログラムは、一年生の徒競走。つまり、宗真の出番だった。
(走るだけなら、リレーより全然楽勝だなっ)
招集場所へ向かいながら、軽く肩を回す。選抜リレーに出るくらいの実力はある。ここで負ける気はしなかった。
その頃、静乃は宗二に撮影を任せ、人混みの中であの狐の面の集団を探していた。あれほど異様な格好なら目立つはずなのに
――不思議と、保護者席のどこにも見当たらない。
(見間違い
……じゃ、ないわよね)
そんな中、徒競走が次々と進み、ついに宗真の順番が呼ばれた。
――スタート。
宗真は一気に前へ飛び出す。脚は軽く、呼吸も乱れない。結果は、誰の目にも明らかだった。
一位。楽々のトップゴール。
(ま、こんなもんだな)
胸を張り、少しドヤ顔で一位の列に並ぼうとした
――その時だった。
目の前に、ふっと影が差す。
「
……っ?」
いつの間に、そこにいたのか。女性物の和服をまとい、狐の面をつけた人物が、宗真の進路を塞ぐように立っていた。
「
……な、なんで
……オレに、なんか用かよ
……?」
喉がひりつく。声を出すだけで精一杯だった。
(もう呪いは受けてるだろ
……これ以上、何すんだよ
……)
身体が強ばり、逃げることもできない。狐の面の人物は、一言も発さなかった。
ただ、ゆっくりと腕を伸ばし
――宗真の頭を、そっと撫でた。
「
……っ」
驚きで、息が止まる。触れ方は、乱暴でも威圧的でもない。まるで
――幼い子どもをあやすような、静かな仕草だった。
その瞬間。
「みなさんっ!!あの人、不審者です!!」
静乃の鋭い声が、校庭に響いた。周囲がざわつき、視線が一斉に集まる。
宗真を撫でていた狐の面の人物は、すっと距離を取り、他の狐の面の集団と合流すると、そのまま人混みに紛れるように去っていった。
「宗真っ!!大丈夫!?何かされてない!?」
駆け寄ってくる静乃に、宗真は一瞬だけ言葉に詰まり
――小さく首を振った。
「あ、ああ
……別に何も。男に戻ったりとかも、なんも
……ただ、頭撫でられただけ」
「はあっ!?
……それ、逆にキモいでしょ!」
「うん
……でも
……」
自分でも不思議だった。恐怖はあったはずなのに、それだけじゃない。
「なんか
……嫌な感じ、しなかったんだ。むしろ懐かしい、みたいな
……」
静乃は宗真の表情を見て、それ以上何も言えなくなった。
一方、その頃。狐の面の集団は、校門の外に停められた黒塗りの車に乗り込んでいた。
「
……もう、よろしいのですか?」
宗真を撫でた狐の面は、静かに答える。
「今は
……あれで、十分だ」
車のドアが閉まり、エンジン音が遠ざかっていく。体育祭の喧騒の裏で、何かが確かに
――動き始めていた。
午前中は、それ以降宗真の出番はなかった。残っているのは、昼明けの応援合戦
――チアダンスを皮切りに、借り物競走、そして選抜リレー。いずれも午後のプログラムだ。
宗真は応援席で声を出しながらも、どこか落ち着かなかった。視線は無意識のうちに、黄組の陣地を探している。
(
……いた)
見つけたのは、黄組の一角で仲間と談笑している少年。宗真はそっとその場を離れ、彼に合図を送った。
そして、こっそりと倉庫裏へ。
「なんだよ、こんなとこで。てか応援しなくて大丈夫なのか?」
……ヨツダだった。
「すぐ戻るって。
……なあ、今日のオレのポニテ、かわいくねっ?」
「
……そんなこと、わざわざ言いに来たのか?」
いつもなら、ここで軽口の応酬になっていたはずだった。
だが、宗真は一拍置いて、視線を逸らす。
「
……そうじゃなくてさ。ずっと言えてなかったんだけど」
「?」
「オレ
……午後の応援合戦、出るんだ。チアでさ
……結構、放課後もちゃんと練習した」
一度、息を吸ってから、言葉を選ぶように続ける。
「
……真ん中で踊る。だから
……お前に、見てほしい」
ふざけも、照れ隠しもない。いつもの距離感より、ほんの少しだけ踏み込んだ、真剣な声音だった。
「
……わ、わかったよ」
ヨツダは少しだけ目を逸らし、ぶっきらぼうに言う。
「見ればいいんだろ」
宗真はそれだけで、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
(
……よかった)
それ以上、何も言わずに踵を返す。倉庫裏を離れながら、午後のプログラムを思い浮かべた。
(
……ちゃんと、見せてやるからな)
ポニーテールが、風に揺れた。
宗真は、何事もなかったかのような顔で応援席へ戻った。さっきまでの胸の高鳴りを、体操着の奥に押し込む。
「月城、どこ行ってたんだよ?お前の応援ないと、士気下がるんだけどー?」
近くの席の男子が話しかけてきた。
「ちょっとトイレ行ってたんだよ」
軽く流したつもりだったが、その男子は妙に距離を詰めてきた。周囲に聞こえないよう、声のトーンを落とす。
「そのさ
……正直言って、うちの女子ってお前以外ぶっちゃけレベル低いじゃん?」
一瞬、言葉の意味を噛み砕いてから、胸の奥がすっと冷える。
(
……は?)
褒めているつもりなのだろう。自分を“特別扱い”しているつもりなのだろう。でもその言葉は、宗真にはただ不快なだけだった。
(その言い方で、オレが喜ぶとでも思ってんのか?他の女子を下げて、オレを持ち上げるとか
……最低だろ)
宗真は何も言わなかった。ただ、感情を隠す気もなく、じっと相手を見る。
「
……な、なんだよ?」
「別に」
短くそう返し、視線を外す。さっき倉庫裏で向けられた視線とは、まるで違う。
(
……やっぱり)
見てほしい相手と、見られたくない相手。その違いが、はっきりと輪郭を持ち始めていた。
そして、午前のプログラムがすべて終わった。これから生徒は教室へ、保護者は保護者席へ移動し、それぞれ昼食の時間になる。
「なあゆき、さっきの障害物競走のマシュマロって美味かったか?なんか中に入ってたりした?」
「いや、普通のマシュマロだったよ?」
「なんだ、そっかぁ
……」
「え、そんなに食べたかったの?宗真」
「だって競争率高かったしさ〜」
ちなつとゆきと他愛もない会話をしていると、校庭に顧問の声が響いた。
「美術部の人、集まってくださーい!モニュメント移動しまーす!」
「やっべ、行かなきゃ!悪い、後から教室行くわ!」
「いてら〜」
「午後はチアもあるのに
……ほんと忙しいね」
宗真は軽く手を振り、そのまま美術部の集合場所へ向かった。やがて部員たちが集まり、完成したモニュメントを応援合戦でよく見える位置へ運ぶ作業が始まった。
板を支え、声を掛け合いながらの力仕事。口も手も止まらないのは、いかにも美術部らしい。宗真も黙々と手を動かしながら、自然と耳に入ってくる会話を聞いていた。
「体育祭マジックって、ほんとにあんのかね〜」
「あんなん二次元だけでしょ。ていうか、うちらには関係ないって」
「でもさ、さっき倉庫裏に男の子と女の子が入ってくの見た気がするんだけど」
(
……オレじゃねーか!)
内心ギクリとしつつも、顔には出さずに持ち上げる手に力を込める。
「マジか
……うちらがこれ運んでる間にも青春してるやつがいるとは
……」
(
……青春、ね)
一瞬、応援席でかけられた言葉が脳裏をよぎる。
(
……もしかしてさっきのあいつも、“体育祭マジック”とか期待して、オレを持ち上げてたのか?)
他の女子を下げて、特別扱いをして。そうすれば、ちょっとはその気になるだろう、と。
(
……あんなやり方に引っかかる女子、いるわけねーだろ)
自然と運ぶ手に力を込もる。こうして、モニュメントはゆっくりと所定の位置へと運ばれていった。午後のプログラムは、もうすぐだ。
その少し前、保護者席にて。静乃は、先ほど起きた「宗真が狐面に撫でられ事件」について、すぐにでも父に報告しようとしていた。
……のだが。
その肝心の父・宗二は、場所取り中に張り切りすぎた筋トレ(自称)のせいか、保護者席で
――昼まで爆睡していた。
「徒競走撮ってるって言ってたくせに、撮ってないし!クソ親父!」
珍しく口調も荒くなりつつ、静乃は弁当を勢いよくかき込み、午後の応援合戦
――宗真のチアダンスに間に合うよう、文字通り宗二を叩き起こす。
「
……あ?なんだ、静乃か
……」
「もう!大変だったんだから!お父さんが寝てる間に、あの狐面の
……赤星流のやつらが来てたのよ!」
「なにっ
……それで、宗真は無事だったのか?」
「それが
……狐面の人たちのリーダーっぽい人?女の人みたいだったんだけど
……その人に、頭撫でられてたの」
「
……それで、どうなった?」
「何かされるかと思って、私も慌てて駆けつけて“不審者だー!”って叫んだら
……なんか、そのまま逃げてった」
「
……そうか」
「お父さん、何か心当たりとかないの?」
「うーん
……ないな!」
「即答!?」
「いや、ほんと見当も
……」
「あとね、宗真がさ。その人に撫でられた後で、“嫌な感じはしなかった。むしろ懐かしい感じがした”って言ってたの。
……どういうことか気にならない?」
「ならない!」
「だからなんで即答?!」
「だって、もうすぐ応援合戦始まるだろう?」
「
……っ、うわ!もうこんな時間!?」
静乃は慌てて立ち上がり、空になった弁当箱を片付けながら舌打ちする。
「ったく
……これも全部、クソ親父に付き合ってたせいよ。ほんと、全く
……」
「静乃?なんか父さんの扱い、ひどくないか
……?遅れてきた反抗期か?」
静乃は答えず、ビデオカメラを構えた。その背中を、宗二はしばらく黙って見送っていた。
――応援合戦の開始を告げるアナウンスが、校庭に響き渡る。
入場門の前で、宗真たちは円陣を組んでいた。照り返しの強い校庭の熱気と、観客席のざわめきが混じり合う。その中心で、上級生がはっきりとした声を出した。
「今日まで頑張ってきたし、絶対大丈夫!笑顔忘れずにいこう!やるぞー!」
「おーーーー!」
掛け声と同時に、円陣がほどける。音楽が流れるまでのわずかな沈黙が、やけに長く感じられた。
――そして、本番が始まった。
軽快な音楽に合わせて、足が自然に前へ出る。跳んで、跳ねて、腕を大きく振り上げる。何度も繰り返した振り付けが、身体に染みついていた。
(大丈夫、全部覚えてる)
フォーメーションが切り替わり、宗真は中央へ出る。リズムに合わせてターン。スカートがふわりと広がり、すぐに収まる。着地も、動線も、今のところ完璧だった。
(父ちゃんも、姉ちゃんズも
……)
胸の奥で名前を呼ぶように、思い浮かべる。
(ちなつは
……横で踊ってるけど。ゆきも
……ヨツダも、海成も
……)
笑顔を作る。意識しなくても、口角が上がった。
(ちゃんと、見てくれてるかな。オレの
――晴れ舞台)
曲調が変わり、動きが一段と大きくなる。ジャンプのタイミング、着地の音、周囲とぴたりと合う感覚。ひとりじゃない。全員で作っている、という実感が身体を満たしていく。汗が額を伝っても、息が上がっても、不思議と苦しくはなかった。むしろ楽しい、と宗真ははっきり思った。
最後のポーズ。腕を高く伸ばし、視線を前へ。音楽が止まる。一拍の静寂のあと、観客席からどっと拍手が湧き上がった。その音を浴びながら、宗真は胸いっぱいに息を吸い込んだ。
(
……やった)
短いけれど、確かな達成感が、じんわりと広がっていった。
観客席は、演技が終わった直後もしばらくざわめいていた。
「すご
……」
「真ん中の子、めっちゃ目立ってなかった?」
そんな声が、あちこちから漏れ聞こえる。保護者席の最前列付近では、宗二が立ち上がる勢いで拍手をしていた。
「おおーっ!宗真ー!!」
「ちょっとお父さん、立ち上がらないでよ!後ろの人の邪魔だから!」
「いや今のは立つだろ!?センターだぞ!?」
「
……まあ、目立ってたのは否定しないけど」
静乃は腕を組みつつも、視線はしっかりとフィールド中央に向いていた。汗をかきながらも笑顔を崩さず立つ宗真の姿に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
(
……ほんと、立派になったじゃない)
一方、少し離れた応援席側。
ヨツダは無意識に、拍手をする手を止めていた。周囲が盛り上がる中で、ただ呆然とセンターの人物を見つめている。
(
……あいつ、あんな顔で踊るんだな)
ふざけてる時とも、喧嘩腰の時とも違う。堂々としていて、楽しそうで
――何より、遠い。
(見てほしい、なんて
……あんな真剣な声で言われたらさ)
遅れて、ぎこちなく拍手を再開する。
その少し後ろでは、海成が胸の前で小さく手を叩いていた。大きな音を立てるのが、なぜか気恥ずかしかった。
(
……すごく、可愛かった)
衣装も、振り付けも、笑顔も。でもそれ以上に、「自分の場所」に立っている宗真が、まぶしかった。
(本番、楽しみにしてる、って
……言えてよかった)
ゆきは、目を輝かせて前のめりになっていた。
(バッチリ撮れたよ!ちなっちゃん
……宗真!
……でももしかして、レンズ越しじゃなくて生で見た方がよかった?)
フィールド中央で一礼する宗真の姿を見て、観客席のあちこちで拍手が重なる。誰か一人に向けたものではなく、確かに“みんな”に届いている拍手だった。そしてその音は、宗真の知らないところで、確実にいくつもの心を揺らしていた。
宗真はチア衣装から着替え、ちなつと並んで応援席へ戻ろうとした
――その時だった。
「月城、ちょっと」
声をかけてきたのは、先程他の女子を下げるような言い方で、宗真を持ち上げてきたあの男子だった。
(
……んだよ、気持ちよく踊ってたのに)
話しかけられただけで、胸の奥に小さな苛立ちが灯る。
「は?なんだよ」
「先生が呼んでるんだよ。こっち
……」
「
……しょうがねえな」
「ちなつ、ごめん。先行ってて」
「う、うん
……」
不安そうな顔を一瞬だけ見せて、ちなつはその場を離れた。連れてこられたのは、さっきヨツダと話した
――倉庫の裏。
「で、先生どこ?」
返ってきたのは、間の抜けた沈黙だった。
「ごめん、ウソ」
「
……は?」
一気に、空気が変わる。宗真は反射的に一歩、距離を取ろうとした。
「あのさ、俺
……変かもしんないけど。お前のこと、ずっと可愛いって思ってて!今日の髪型もすごくいいと思う。もし良かったら、付き合って
……ほしい」
(
……はあ?)
頭の中で警報が鳴る。嫌な予感が、最悪の形で当たった。
「お前、何言ってんだよ。オレ、ほんとは男なの知ってるだろ?悪いけど、お前とは付き合えな
――」
「それでもいいんだ!」
被せるような声。一歩、距離を詰めてくる。
「さっきのチアもさ、すげえ可愛かったし。最近、ずっとお前のこと考えてて
……!」
(
……無理。無理無理無理)
胸の奥が、すっと冷える。嬉しさなんて、欠片もない。
(コイツ、オレの何を見てたんだよ。都合のいいとこだけ、勝手に
……)
宗真は、わざとらしく舌を出した。
「お前なんかと付き合うわけねーだろ。ばーか!」
踵を返し、その場を離れようとした
――その瞬間。ぐい、と腕を掴まれた。
「
……なんでだよ。話、まだ終わってないだろ」
力が入っている。逃げ道を塞ぐような位置取り。
(
……なに、コイツ。冗談じゃねえよ)
心臓が一気に早鐘を打つ。
「は、放せよ!」
掴まれた腕に、じわりと力が込められるのを感じながら、宗真は歯を食いしばった。
「
……お前、何やってんの?」
低く、落ち着いた声だった。怒鳴るでもなく、焦るでもなく
――ただ、状況を正確に切り取るような声音。
「よ、ヨツダぁ
……」
その声を聞いた瞬間。張り詰めていた宗真の肩から、わずかに力が抜けた。
「何って
……」
言い淀む男子に、ヨツダは一歩、前に出た。宗真と男子の間に、自然に身体を差し入れる位置取り。視線は冷静で、感情を乗せていない。だからこそ、言葉の一つ一つが重かった。
「月城、嫌がってるだろ。やめろよ」
「
……別に、ちょっと話してただけだし」
宗真の腕を掴んだまま、言い訳めいた口調。その瞬間、ヨツダの目がわずかに細くなった。
「『ちょっと』話すのに手掴む必要あるのか?
……放せよ」
短い言葉。でも、逃げ道を残さない断定。ヨツダは一歩、さらに踏み込んだ。声を荒げることなく、しかし確実に圧をかける。
「本人が嫌だって言ってる。それで続けるなら、それはもう『話』じゃないだろ」
宗真の視界に入るのは、自分の前に立つヨツダの背中。
(
……こいつの背中って、こんなにでかかったっけ)
さっきまでの不安や恐怖が、ヨツダの存在一つで、はっきり「安心」に変わっていく。
「
……っ、わかったよ!」
乱暴に手を放し、後ずさる男子。ヨツダは追わない。ただ、宗真の腕に視線を落とした。
「
……大丈夫か?」
「
……う、うん。ありがと
……」
声が、少し震えていた。
「無理すんな。ああいうの、真面目に相手する必要ねえから」
「
……」
(さっきまで、あんなに心臓バクバクしてたのに)
ヨツダは宗真の肩に、軽く手を置いた。触れるか触れないか、ぎりぎりの距離。
「戻ろう。もうすぐ、次の競技だろ」
「
……うん」
倉庫裏を離れながら、宗真は思った。
――何が起きても、戻って来られる場所がある。
ヨツダの背中は、そう言っているみたいだった。
「
……あいつのこと、先生には言っとくから。早く戻れよ」
「あ、ありがと
……」
短く頭を下げる。それだけで十分だった。
(
……まさかヨツダに助けられる日が来るとはな。あ!チアの感想、聞くの忘れた。オレとしたことが
……)
そんなことを考えながら、宗真は小走りで応援席へ戻った。だが
――
「宗真!次、もう借り物競走だから!入場門だよ!」
「え、うわマジか!?やっば、遅れる!」
駆け出しながら、胸の奥がまだざわついている。
(ったく
……さっきのヤツのせいでずっと慌ただしいし、ヨツダ来なかったら、正直かなりヤバかったし。ろくな目に遭ってねえ
……)
そんなことを考えているうちに、いよいよ借り物競走が始まった。
スタートダッシュは文句なし。宗真は一気に先頭に躍り出る。
(くじ引くまでは余裕だな)
そして、引いた紙を開いた瞬間。
――「頼れる異性♡(笑)」。ちなつの字だった。
「
……は?」
一瞬の沈黙。
「ちなつーーーーーっ!!てめええええーー!!」
「あっ、あたしの!?わーい♪ 宗真に当たったー!」
「
……ちなっちゃんって、ほんとそういうとこあるよね」
(異性ってことは
……男なら女、女なら男、だよな
……?)
今の自分は、女子として競技に出ている。つまり
――
(男を連れてこい、ってことかよ
……!)
保護者席では、静乃がその様子を見守っていた。
「宗真?なんかすごい悩んでるけど、そんなに難しいお題なの?」
周囲では、「メガネをかけた人」「帽子を被った人」など簡単なお題を引いた選手たちが、次々と条件に合う人を見つけ、ゴールしていく。
――なのに。
宗真だけが、動けない。
(頼れる異性
……今の流れでいったら、ヨツダだよな
……?さっき、あいつから助けてくれたし)
でも。
(海成も
……物知りでいつもいろいろ教えてくれるし、テストの時も助けられたし、優しいし、頼りになる)
一瞬、海成の顔が浮かぶ。
……けれど。
(でも、(笑)がついてるのが引っかかる。もし海成を連れてったら
……あいつ、真に受けそうだ。それで、傷つけるのは
……違う)
「何ボーッとしてんのよ!誰でもいいから、さっさと連れてきなさーい!」
保護者席では業を煮やした静乃が叫んでいた。
(
……ヨツダなら、ネタだって分かってくれる。ちゃんと笑って、走ってくれる)
――決めた。
宗真は、黄組の応援席に向かって駆け出した。その姿を見て、海成は一瞬、息を詰める。
(
……来る?)
だが。宗真が伸ばした手は、海成ではなく
――吉田
樹だった。
「ヨツダ!走れるか?」
「
……あ、ああ!行ける!」
迷いは、もうなかった。
「
……っし!」
短く気合を入れ、ヨツダは宗真の手をしっかり掴んだ。
(速っ
……!こいつ、小学校の頃はオレより足遅かったのに!)
引っ張られる形で走り出した瞬間、宗真は改めて気づく。ヨツダは
――ちゃんと速い。サッカー部で鍛えた脚力で、迷いなく地面を蹴る。
「転ぶなよ!」
「わ、分かってるって!」
風を切って走りながら、宗真は自然と笑っていた。
(
……変に気を遣わなくていい。今はただ、競技に集中すればいい)

観客席がざわつく。
「あれ、黄組の吉田じゃね?」
「赤組のチアの子と一緒に走ってる!」
「なにあの組み合わせ!」
だが
――そんな声は、もう耳に入らない。
(頼れる異性、か。
……今のオレには、こいつで正解だ)
ゴールは、すぐそこだった。
「ラスト、行くぞ!」
「おうっ!」
最後の一歩。二人で同時にラインを踏み
――
――ゴール!
「はい、赤組ゴール!借り物は
……『頼れる異性』ですね。確認できました!」
応援席から歓声が上がる。
「吉田くんかぁーー!ナイスチョイスじゃん、宗真ー!」
「楽しそうだね、『元凶』?」
「ちょ、ゆき!?あたりキツくない!?」
保護者席では静乃も安堵していた。
「はあ
……まったく、あの子は
……」
宗真は、息を整えながらヨツダを見る。
「
……ありがとな、助かった」
「
……別に、当たり前だろ」
照れ隠しみたいに視線を逸らし、ヨツダはぽりぽりと頬を掻いた。
「それに
……頼れるかどうかはともかく、さっきみたいなことあったら、放っとけねーし」
「
……そっか」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
(ヨツダは、こういうやつだ。言葉は少ないけど、ちゃんと“来てくれる”)
その少し後ろで
――海成は、拍手しながら微笑んでいた。
(
……そっか。今日は、吉田くんなんだ)
胸の奥に、ちくりと小さな痛み。でも、それ以上に
――
(宗真くん、楽しそうだ)
それだけで、十分だった。
「
……にしてもよかったな。『頼れる異性♡(笑)』で、呼びやすい俺がいて」
軽口のように言いながら、ヨツダは肩をすくめて笑った。けれど、その声の端には、ほんのわずかに拗ねた響きが混じっていた。
「
……でもさ」
一瞬だけ言葉を探してから、宗真は真っ直ぐヨツダを見る。
「ほんとに信頼してるやつじゃなかったら、お前を連れてこないよ」
冗談でも強がりでもない、素の声だった。
「
……」
ヨツダは一瞬、言葉に詰まったように視線を逸らし、すぐにいつもの調子に戻る。
「それこそ江沼とかの方が
――……あ、あいつはこういうの、本気で受け取っちゃうか」
「そうなんだよ!」
宗真は勢いよく頷く。
「だからさ、あいつのこと信頼してるって言うなら、こんな体育祭の一競技じゃなくて、ちゃんと向き合わないとって
……」
自分で言っておきながら、少し照れたように視線を逸らす。
「『こんな体育祭の一競技』で呼び出された本人の前で、よく言えるな、それ」
「ご、ごめんて〜!」
宗真は慌てて両手を合わせる。
「さっきのさ、可愛いオレのチアダンス、ゆきに撮ってもらってたから!それ送るから許して!」
「
……なんでそれで許してもらえると思うんだよ」
呆れたように言いながらも、ヨツダの声は少し柔らいでいた。
「ディレクターズカット版にするから!おまけ映像で、着替えの時のサービスカットもつけるから!」
「アホ。要らねーよ!」
強めに突っ込みながら、ヨツダは吹き出す。その笑い声を聞いて、宗真は胸の奥で小さく息をついた。
(
……よかった。ちゃんと、冗談で済む距離だ)
気を張らなくていい。変に構えなくていい。
頼れる、という言葉の意味を、宗真は今、少しだけ理解した気がしていた。
「あっ、そういえばさ。さっきのオレのチア、どうだった?」
「ああ
……すごかったよ。キレもあったし。やっぱ元・次期当主だからか?動き真似するの、得意なんだなって。ちょっと見直した」
「ふーん。なんか回りくどいな」
「は?」
「もっとシンプルに褒められる便利な言葉、あるだろ?」
「
……なんだよ」
「『かわいかった』って言えばいいじゃん?」
宗真は、わざとらしくぶりっ子ポーズを決める。
「そうやって自分から言わせようとしてる時点で、もう可愛くねえんだよ。バカ」
「んだよ!ほんっと素直じゃないな、ヨツダは!」
「
……そんな男を借り物競走で連れてくるお前も大概だろ」
「むきー!
……あ、そうだ。なあ、お前さっき、なんで倉庫のとこにいたんだ?」
「
……たまたま散歩してたら、目に入っただけだよ」
(ほんとは
――あのダンスを見てから、ずっとこいつのことを目で追ってただけなんだけどな。
……この話は、墓場まで持っていくしかないか)
「ふーん、たまたま
……ねえ?あの可愛いチアの子どこだろ〜って追いかけてたりしてな!」
「んなわけねえだろ!」
(こいつ、たまに鋭い
……!)
体育祭も、いよいよ終わりが近づいていた。赤、青、黄組
――どの組の得点も拮抗し、勝敗は選抜リレーに委ねられている。
(よし
……ここはオレの大活躍で、もう一回沸かせてやるとするか
……!)
「月城さん、頑張ろうね」
「あ、はいっ!」
スタート位置で郡司に声をかけられ、宗真は思わず背筋を伸ばす。
「月城。郡司先輩にバトン渡すのは心配してないけどさ」
「ん?」
「僕が月城にバトン渡すの、忘れてないよね?」
「も、もちろん忘れてないって!」
(あっぶな
……!こいつの名前すら、正直ちょっと忘れかけてたなんて言えねえ
……。えーと
……ちなつじゃない方の体育祭実行委員の河口、だったよな?)
――そして、選抜リレーが始まった。
第二走者、ちなつが勢いよくコーナーを回り、河口へ。河口から差し出されたバトンを、宗真は確かに受け取る。
(来た
……!)
周囲の声も、視界の端も、すべてが遠ざかる。宗真はただ、夢中でトラックを駆けた。
「宗真くん!行っけええええ!!!!」
海成の声がした。普段は教室で口を開くことが少ない彼の、腹から出した大声だった。
(海成!?
……お前、黄組だろ。でも
――)
その声に背中を押されるように、さらに加速する。前を行く走者を一人抜き去り
――郡司の姿が、ぐっと近づいた。
「っ
……!」
確かな手応えとともに、宗真は郡司へバトンを渡した。
結果は
――青組の勝ち。そして、そのまま青組の優勝が決まった。
最後の走者は、響。宗真と同じく、選抜リレーのメンバーに選ばれていたのだった。響はバトンを受け取るや否や、前を行く走者たちを一気に抜き去り、
そのまま独走状態でゴールテープを切ったのだった。
「まさか響姉が、あそこでごぼう抜きして、そのまま独走するなんて
……!っていうかさ、響姉が青組だったこと、読者も絶対忘れてただろ!?あんなん、ずるいよ
……」
「勝ちは勝ちよ!まったく
……人のことを空気キャラみたいに言ってくれるじゃない」
――というわけで、メタが過ぎるため、響の出番はこの辺までとする。
「ちょっ、扱い雑すぎない!?酷くない!?あたしだけ狐の面のくだりにも絡めてないのにー!」
表彰式が終わり、校庭は次第に解散ムードへと移っていった。勝った組も、負けた組も、互いの健闘を称え合いながら、どこか名残惜しそうに片付けを始めている。
宗真はモニュメントを倉庫にしまった後、ふっと息をついた。
(色々あったけど
……楽しかったな)
チアダンスに、借り物競走に、選抜リレー。慌ただしくも、どれも妙に印象に残っている。
そんな宗真の隣に、ヨツダが並んだ。
「なんだよ、その顔。燃え尽きたのか?」
「うるせーな。今日はさすがに疲れたんだよ。でも
……まあ、楽しかったな」
「お前、リレーもチアも美術部のやつも頑張ってたもんな。稽古はあんなにサボりまくってたのに、ちょっと見直したわ」
「見直すぐらいならもうちょっとオレのかわいさに言及してくれてもよくね?」
「あのなぁ
……」
「はいはい。どうせまた“自分から言わせようとしてる時点で可愛くない”って言うんだろ」
「よく分かってるじゃん」
「
……ヨツダは、どこまで行ってもヨツダだな」
「それ言ったら、お前もお前じゃん」
「
……かもな」
宗真とヨツダは肩をすくめて笑うと、夕方の風が校庭を吹き抜ける。
(そういえば、徒競走の時の
……あの狐のやつはなんだったんだろう?オレのファン
……なわけないよな?)
体育祭は終わった。けれど、宗真の胸には、どこか引っかかるものが残ったままだった。