2026-03-17 00:43:49
2596文字
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🎂

ばんりさんゆめ/夢主名前有り

 言われて初めて、日付が超えていることに気が付いた。携帯で時間を確認して、あ、と一拍遅れて反応を返す。
「わ、すご、ありがとうございます……。ほんとだ、もう今日ですね」
「そうだよ。気付いてなかったみたいだけど」
 誕生日は数時間前にも散々祝われたばかりだ。当日の夜に予定を立てようとしてくれていた万理さんに、わたしからその前の休日がいいとお願いした。どれだけ豪華なレストランの椅子を用意されるより、丸一日万理さんとくっついて過ごせるほうが祝いの日に相応しい。そうでしょ、と言うと、苦笑いで返されたけれど。
 それでもちゃんとわたしの要求に応えてくれたことが嬉しかった。はしゃいだ二人の余韻はまだ玄関から寝室まで残されている。熱の保温されたリビングでソファーに座って、キッチンに立つ万理さんを夢みたいに眺める。
「はい、熱いから気を付けて」
「ありがとうございます」
 鍋で温めた牛乳がマグカップに注がれて渡された。
 日付を超えたタイミングでのお祝いや、ホットミルクひとつ作るのにもレンジで済ませないさり気ない優しさが細やかに降り積もる。それはなにか大きな出来事があるよりも余程確かで間違いがない。丁寧に温められた牛乳に膜は張られていなくて、ひとくち含むとなめらかに喉に流れた。
「美味しい?」
「おいしいです」
「なら良かった」
 隣に座る万理さんも同じものを飲んでいた。この人がわたしと一緒になって寝る前にカフェオレやホットミルクを飲むようになったのはいつからだったろう、ともの珍しい気持ちで横顔を見る。
 デートの最中に買ってくれたわたし専用のマグカップも、わたしだけのために用意されたスリッパも、今では当然のように溶け込んでいる。なるべく物を置かないようにしようとしていたかつてのわたしの苦労なんて素知らぬ顔で。
「飲み終わったら、わたし洗いものしますね」
「いいよ、本日の主役でしょ。大した手間でもないし俺がやります。先に歯磨いてベッド入ってて」
「そしたらすぐに寝ちゃいますよ。わたし万理さんの家ではすぐに眠くなるもん」
「いいよ。俺もすぐ横になるし」
「えー……
「なに、まだ寝たくない?」
「ね……たくないのもありますけど、そうじゃなくて」なんだか変な方向に話が傾きかけているのをどうにか軌道修整する。「一緒に寝たくないんですか」
 ふ、と吹き出すように笑われて少しむくれた。
「ごめんごめん。わかりました、一緒にベッド行こう」
 前倒しでいいなんて言っておきながらちゃんと当日までねだってみせたわたしの我儘を、万理さんはゆるやかに受けとめてくれる。それどころか、「実はもうひとつあって」と切り出されてわたしのほうが驚いてしまう。
「え、プレゼントですか? さっきも貰ったのに、第二弾?」
「うん、まあ、そんな感じ」
 サイドテーブルにマグカップを置くと、空いた手のひらには見たことのある形の鍵が握らされた。その軽さに見合わない情報量の多さに、僅かにたじろぐ。
 何も言えないままに固まって、口を開いては閉じることを繰り返した。けれど珍しく緊張した顔でいる万理さんの姿に、これが冗談でもなければ誕生日によるまやかしでもないことを理解する。
……喜んでくれない?」
…………喜んでます。ただ、ちょっと、嬉しすぎて」
 この事実をどう受け止めて良いのか、わからないほどに。
「よかった。元々いつ渡そうか考えてたから、ちょうどいいかなって」
 貰った合鍵を握りしめる。手のなかにある硬さにじわじわと実感が募った。冷たいはずの金属が、熱を持ったように熱い。
 考えてくれていた。それだけでもわたしにとって嬉しくて仕方がないことなのに。身体におさまりきらない喜びは、どうやったって表現できない。そしてここにきてやっと、まだ何かを疑い続けたままでいたのだと自覚した。いつの間にか増えていたブランケットも、置いていっていいよと言われたパジャマだって、万理さんにとっては何ひとつ特別なことではないのかもしれないと思っていたのだ。
 喜んじゃってバカみたい。とろけるような幸福を覚える瞬間には、いつだってそれを監視し嘲笑する自分が存在していた。わたしの安心は、そうだねバカみたいだねってそれに答えないで無視することでギリギリを保たれるものでしかなかった。そうやって自制していた。
「あのさ、ちゃんと……伝わってるかな、こういうの」
「伝わってると、思います……。たぶん、わかんないけど」
「多分じゃなくて。わかって」
 低く掠れた声と一緒に口付けられる。長い前髪が顔を撫で、その下では握った合鍵ごとまとめて両の手のひらに包まれていた。それからもじゃれ合うみたいに口の横や髪の毛に何度も唇が当てられて、慣れた動作の中にある幼さがどうしようもなく愛しくなる。
「万理さん、ばんりさん、あの、これって」
「うん、何」
「いつ使っていいですか……
「いつでも使っていいから渡したんだよ」
 言い聞かせるみたいな口調だった。鼻先がぶつかるくらいの至近距離で、砂糖ばかりをまぶした言葉が注がれる。
「いつでも」
「そうだよ」
 いつきちゃんは、いつ使ってくれる?
 そう問われた気がしたのは勘違いだったのかもしれない。けれど、何も言えないままでいるわたしを嘲笑うようにして伏し目がちに逸らされかけた視線に耐えられなかった。
「きょう」
 咄嗟に出た言葉は多分最初からわたしのなかに存在していた。いつも逃げていこうとする幸福の尻尾を、万理さんを掴んでいたい一心で捕らえた。
「今日、使います。仕事終わったら、またここに来ます」
 だってわたし本当は今日が誕生日で、本日の主役だから――。それはあまりに都合のいい言い訳だとわかっていたから、心の中でだけ唱えるに控えた。
「毎日みたいに来ちゃうかもしれませんよ。……渡したの後悔するくらい、いつもいるかも」
「いいよ。それなら、俺も渡した甲斐あるね」
 万理さんの額が首元に当てられる。そのままもたれかかられて、二人でずるずるとソファーに埋もれた。乗せられる体重が心地良く、小さい頃から少し重い布団がないと眠れなかったことを思い出す。このまま沈んで起き上がれなくなったらどうしようという焦りすら、大きすぎる幸福の重力には逆らえずに喪われていく。