「死んでくれ」男がそう言ったので、僕は「そうですか」とこたえた。男がそう言った類のかんしゃくを起こすのは初めてではなく、けれども「死んでくれ」と言われたのは初めてだったので、僕はきちんと死ぬ方法をインターネットで調べて、それから風邪薬をひと瓶と首によく馴染みそうな、けれども強度のある紐を用意した。本当なら今日の昼ごはん代だったお金はそれでなくなって(正確には少し足りなかったのでささやかな貯金をくずすはめになった)、けれど死んだ後のことを考えたらできるだけ胃の中はきれいな方がいいだろうと思ったのでそれでいいことにした。どこで死ぬか考えて、男がきちんと僕が死んだことを確認できる場所の方がいいと思って風呂場にすることにした。血も洗い流せるし、死んだ後の汚物も流せるし、一石二鳥だ。人間は意外と簡単に死なない。だから念には念を入れる。僕は風邪薬をひと瓶、ゆっくりと、でも確実に全て飲み込んだ。湯船にお湯を溜めて、シャワーをひっかけるところに紐をかけて、できるだけ短く首に巻く。その後部屋にあったカッターナイフで手首をなるべく深く切った。手をお湯につけると、血がゆらゆらと流れ出してきれいだった。それを確認してから、ぼんやりしている頭の中で、これで男が落ち着けたらいいな、と思った。座っていた風呂の椅子から重たくなった体をずり下ろすと、首が絞まる感覚がして、暴れる体力は残っていなくて、頭が貧血の時みたいにくらくらした。
ゆるしてください。
最後にそう思った、と思う。僕の意識はそこでぶつ切れている。
気がついたら病院にいた。病院とわかったのは、点滴のふくろがぶら下がっていて、規則正しい電子音がしていたからだ。これがはじめてじゃない。心配そうに覗き込む知らない人間の顔を顔として認識するのに少しだけ時間がかかった。何かを話していたけれど、それを理解できるほど頭は働いていなかった。手が伸びてきて、怖いと思ったけれど、避けるほどの気力はなく、その手も別に僕を殴ったりはしなかった。僕はただぼんやりと天井を見ていればよかった。あとは時間が勝手に解決してくれる。死んでくれと言われたのに結局死ねなかったことのほうがきがかりだった。男は腹を立てなかっただろうか。もし男がまだ僕を近くに置きたいのなら、きっと言うことを聞けなかった僕をひどく罵るはずだ。入院費用がバカにならないことくらい知っている。だからきっと余計な金を使わせるなと怒るだろう。それだけはなんだか嫌だった。自分で殺す勇気もないくせに。とどめを刺すこともしなかったくせに。僕がせっかく死にかけていたのに、殺せなかったくせに。考えていたら疲れてしまったから、僕はまた浅い眠りの中に舞い戻る。久々の静かな眠りだった。ありがたいことだ。
こうなった経緯を、僕はあまり覚えていない。一人ふらふらしていたら、いろんな男が声をかけてくるようになった。女の時もあった。金をくれると言うから僕は喜んで了解した。頼れる人を持たない僕にとって、金は喉から手が出るほど欲しいものだった。はじめは優しい。たいていの男はそうだ。だけどだんだんと僕のことを疎ましく思うようになる。それはうまく動かない醜い左腕のせいかもしれないし、左頬から額にかけてまで残った傷跡のせいかもしれなかった。なるべく怒らせないように振る舞うのも鼻につくらしかった。それならさっさと捨てればいいのに、どれだけ酷いことをしても構わない相手として、僕は手元に残されることが多かった。連れ込んだ女とセックスする時にはクローゼットに閉じ込められて出てくるなと言われることもあった。僕はそうですかとだけ言って従った。
セックスは嫌いじゃない。一時でも体温を感じることができるのはしあわせだ。左半身を気味が悪いと触れることすら躊躇する人間の方が多かったから。行きずりの関係でも暖かい人の体温はうれしかった。暴力を振るわれても別になんとも思わなかった。僕のいた施設ではそれは日常だったから。僕が暴力を知らないで生きられた時期はほんの僅かだった。養父と呼んでもいいのか、今でもわからないけれど、その人が僕を引き取って一緒にいてくれた日々は優しさに満ちていた。それもほんの季節一巡りほどで終わりを告げた。彼はやまいで亡くなった。僕はもう施設に戻るつもりもなかったから、ひとりで生活を始めた。家はなかった。金もなかった。路上で生活していても金は必要だ。ゴミも漁った。物乞いもした。不自由な腕を持ちながら野宿を続けるのはきつかった。声をかけられて、風雨をしのげる部屋にいられると言われたら、誰だって飛びつくものだろう。違うのかな。僕がおかしいだけかもしれない。
体が金になることを知ったのもその頃で、今まで僕をぶっていた施設の人たちはどうしてお金をくれなかったんだろうと思った。金さえくれれば、僕はあの人たちを憎むこともなかった。金に見合う相応の暴力なら喜んでうけたのに。
僕は泣かなかった。泣けなかったのかもしれない。泣いたら怖いひとが来るんです、と養父が言っていたからかもしれない。でもその前から泣くことはあんまりなかった。淡々と話す僕に対して、カウンセラーと名乗った人は、包帯まみれの僕に言った。それじゃあまずは、泣く練習をしましょう。そんなものとっくに錆びついてしまっているのに、無茶なことを言う。僕はそうですか、と言って、それで毎回のカウンセリングは終わる。
ここでの生活の金がどこから出ているのか、僕は知らない。いつ請求されるかも知らない。僕はどうやってお金を稼げばいいのか知らない。僕自身を差し出すこと以外にできることなんて知らない。僕は何も知らない。前の男は迎えに来ることも顔を見せることもない。愛想を尽かされたのだと思っている。言うことを聞けなかったから。僕は養われる身で、文句を言う権利はなくて、言うことを聞けなければ痛くされても仕方がなくて、なにもできない木偶の坊で、いつ家から追い出されても仕方がなかった。そういうものだから、僕はそういうものだから、仕方ない。しかたない。そうでしょう。
深い海に潜る。冷たい海水が心地いい。生きている錯覚をしなくていいから。僕はこのまま溶けて消えてしまいたい。生きている理由がないし、なによりとても疲れてしまった。僕の夢の中で、深海のもっと深い場所から養父の声がする。ここだよ、と声がする。僕はそこを目掛けて潜っていく。手を伸ばして、養父の手を掴みたくて、ひたすら潜っていく。いつも失敗して目が覚める。疲労と悲しみが胸の中に渦巻いているのに、僕の目は乾いたままだ。
ねえマナ。生きているのはこんなにつらいよ。
退院することになった。僕の体の傷はほとんどが元に戻った。人間ってのは本当に意味がないくらい頑丈にできている。笑っちゃうくらい。だれも迎えに来ない病院の待合室で、僕は次の病院のスタッフが手続きを終えるのを待っている。せいしんびょういん、というところに連れて行ってくれるそうだ。そこで治療をするという。そんなことしても意味ないと思います。僕は素直にそう言った。だって僕自身に生きる気持ちがあまりないのに、死なせないためにお金を使うなんて馬鹿げている。もっと有意義なことにお金を使った方がいい。でもこれは病院側の決めたことだから僕の意思は関係ないらしかった。そうですか。僕は言った。
ここは優しい場所だ。僕に手をあげたり無理矢理体を暴く人はいない。ごはんも三食きちんと出てくる。お風呂にも入れる。僕は「模範的な患者」らしかった。だからスタッフの人はとても親切で優しくしてくれる。他の人が大変な時に、僕は目を離しても大丈夫だから。僕はただ笑っている。
僕より先に入院していたお姉さんが、親族のお兄さんが迎えにきて一緒に帰っていった。退院することになったらしい。もう大丈夫とお墨付きをもらって、お姉さんは笑顔で病院を出ていった。お兄さんは本当に嬉しそうだった。お姉さんはとても健康的になったそうだ。自分の足で立てなくなるほど痩せてしまってから、何年だったかなあ、と彼女は言った。彼女もいわゆる「模範的な患者」で、僕は彼女とよく話をした。彼女の話はとても面白かったし、自分より年下の患者が来たことに、「不謹慎だけど」喜んでいた。お姉さんぶりたいの、と最初に言われたので、僕はそうですか、と言った。
ここに来て何年かもわすれてしまったけれど、私には大好きな兄さんがいて、支えになってくれたから、きっと死なないですんだのね。
毎週面会をしているのを知っていたから、僕はただ頷いて聞いていた。彼女の名前をついぞ覚えられなかった、と気がついたのは彼女が退院してからしばらくしてからだった。僕にはそんなひといないよ、と一度も言うことはできなかった。あんなに楽しそうに話してくれる人は少なかったし、悲しませることはしたくなかった。でも僕には待っていてくれる人も迎えに来てくれる人も面会に来てくれる人もいなかった。たぶんここにいるほとんどのひとがそうなのだろうなとは思った。ここはさいごの居場所なんだ。世界のすきまから落っこちてしまったひとたちのための場所。やさしくて真綿で包まれるようにして、ただ死ぬことを待つ場所。地獄というのがこんなにやさしいとは知らなかった。
面会ですよ。
そう言われたとき、初めに思ったのはとうとう死ぬのかな、ということだった。方々を体ひとつで渡り歩いていたとき、ちょっとだけ危険な人たちとも関わり合いになっていたから、その辺りの人が殺しに来たんじゃないかとおもったのだ。僕は病院着のまま、面会室に向かった。鼻歌でもしてしまいそうなほどあたたかい春の日だった。それは窓の外の話であって、僕のいる建物の中は完全に管理された季節感のない温度だったけれども。
そのひとは真っ赤な髪をしていて、顔の半分は髪の毛で隠れていた。僕はぼんやりしたまま椅子に座って、そのひとを見上げた。知らないひとだった。
どなたですか。僕は訊ねた。そうしたらそのひとはこう言った。マナの知り合いだ。僕はそうですか、と呟いて、首をひねった。
マナの知り合いがなんのようですか。
お前を引き取りに来た。
何を言われているのかよくわからなかった。おまえをひきとりにきた。どういうことだろう。マナの知り合いがどうして僕のことを知っていて、しかも引き取るなんていうのだろう。僕にはなにもわからなかったので、そうですか。と言った。
「それしか言えんのか」
そう言われたので、僕は微笑んだ。大抵の人はそれで何も言わないでくれる。でもそのひとは違っていた。僕の顔をただ見つめて、それからため息をついた。失礼なひとだ。
「お前を探すのに五年もかかった」
ごねん。僕は間抜けた声で繰り返した。マナが死んでしまってからどのくらい経ったのかよくわかっていなかった。いちにちというのは必要な人のために存在するもので、僕にはそれが不要だったから、どのくらいの時間が経ったのかなんて知らなかったのだ。
「ネアがお前に会いたがってる。覚えてるか」
僕は首を振った。
「マナのことは?」
「おぼえています。手があたたかいひとでした」
乾いてひきつれた喉で僕は言った。きちんと喋れたことにおどろいた。
「いきたくありません」
僕の口は僕の考えてもいないことをはなした。
「きっとあきます」
「飽きるとかそういうことじゃないんだが」
「じゃあセックスをするため?」
「なんでそうなる」
「みんなそうだったから」
みんなそうだったから。マナだけが違った。マナだけは優しかった。でもみんなはマナじゃなかった。みんな僕の体を欲しがった。それしか価値がなかった。それ以外はなんにもできない役立たずだった。気味の悪い人間が生きていくのに、それ以外何を差し出したらゆるしてくれるんだろう。
そのひとは何も言わなかった。何も言わずに、僕のことをじっと見た。
「■■■」
僕はそのひとを見た。ちゃんと見た、と思った。その人の目はマナとは全然似ていなかったけれど、マナとおなじ目だった。のどがひきつった。手が伸びてきて、僕は首をすくめて、けれどその手は変な色と笑われる髪をそっとなでた。僕ののどはひきつったままで、大きな手が頬にふれて、こまったような「泣くなよ」という言葉で、僕はひさしぶりに泣いていることに気がついた。
話はとんとん拍子に進んだ。僕はそのひとに引き取られて、マナのおとうとだというひととも会った。マナにとてもよく似ていて、だからひと目見るなり泣き出してしまって、慌てたふたりがなんとか泣き止ませようとあれこれためすのがおかしくて、泣いているのに僕は笑った。あの日からるいせんが馬鹿になってるみたいに僕はずっと泣いていた。しゃくりあげながらずっと泣いていた。ほほも目も真っ赤になって、でも涙が止まらなかった。そのひとはなにもしないで僕を抱きしめてくれて、僕はその腕のなかで寝ては泣き、起きては泣き、とうとういい加減にしろよと怒られるまで泣いた。怒っているのに困った声音がおかしくて、やっぱり泣いた。
ときどきいろんな傷口がいたくなる。いたい、と言えばそのひとはおおきくてあたたかい手でいたいところをおおってくれる。これはほんとうに痛いんじゃなくて、痛いと感じてしまうだけなのだそうだ。その違いは僕にはわからなかった。いたいのはいたいし、それだけだった。
これまでのたくさんのことが僕を殴りつけていった。ずっと痛かった。痛かったことを自覚したらもっと痛かった。僕は熱を出して、季節が変わるくらいまでずっとふせっていた。そのひとは面倒くさそうに、でもかいがいしく僕の世話を焼いた。いままで我慢していたぶんが熱になってるんじゃないかというのがそのひとのけんかいだった。よくわからなかった。がまんなんてしてないのに、だけどそういうことなのだと言われたらそんな気もした。
僕は今でも夢をみる。冷たい海の中に僕はいる。もう潜ろうとは思わない。だから体から力をぬいて、ぽっかりと空をみながら浮かんでみる。空がとてもあおくて、それが美しいものだと知ったから、僕はただきれいだなあと思いながら浮かんでいる。海の温度がぬるくなったのか、僕の温度が冷たくなったのか、だんだんさかいめがわからなくなって、僕はそっと目を閉じる。
マナ、ぼくにほんとうのあたたかさをおしえてくれてありがとう。
目を開けると、見慣れた太い梁と木目の天井が見えて、それからさっさと起きろと声がかかる。僕は体を起こして、あたたかな布団の中から抜け出して、寝巻きに適当なカーディガンを羽織ってリビングに顔を出す。今日は目玉焼きのトーストで、それを見たらおなかがぐゅるると鳴る。大喰らいめ。そんな小言をよそに僕はいそいそとトーストに食らいつく。美味しいと思える。それはとてもすばらしいことだ。
「■■■」
僕はまだそれに慣れない。でもそれが僕を指し示す言葉であることを知っている。
「おはよう」
言われて、挨拶もそこそこにトーストにかじりついたことに気がついて、僕は慌てて口の中のものを飲み込む。
「……おはようございます」
マナじゃないのにマナみたいな目が僕を見ている。なんだかこそばゆくて、僕はトーストに視線を戻す。
僕が読み書きができないことにそのひとはとても驚いていたけれど、がっこうに行ったことがないといえばそれはそうか、みたいな顔をした。それはそれで失礼な気もしたけれど、事実だからしかたない。せんせい、と呼ぶと決まって不機嫌になって、だから最後にはししょう、と呼ぶのにおちついた。ししょうは大人のくせにちょっと子どもじみたところがある。
読み書きを教わって、動かない左手のリハビリをしながら、ときどきマナのおとうとさんと会って、僕の時間はそうやってすぎていく。おだやかな日々に、目が回りそうなほど怖くなることがある。こんなにしあわせになってしまっていいのだろうか。僕をののしる人たちの声は僕の頭の中にこびりついていて、死んでくれよ、と懇願するような声がする。でも僕はもう死にたくなくなってしまった。楽しみな予定の日まで、指折り毎日を数えることがうれしくなってしまった。生きていることがこんなに大変だとは思わなかったけど、でもそれすらも楽しくなってしまった。だから僕はまだ生きているし、生きるつもりでいるし、そのほうがいいとししょうも言った。
遠出ができるようになったら、マナのお墓に行こうと約束をした。何が何だかわからないままお別れしてしまったから、今度はちゃんとお別れを言って、いま生きていて、うれしくてたのしいことを報告したかった。ししょうもいい考えだ、と言った。家族旅行だな。かぞくりょこうがどういうことかはわからなかったけど、なんとなくすてきなことであることはわかったから、僕は嬉しくて笑った。前よりよほどいい顔になったらしい。鏡を見てもよくわからなかったけど、ししょうが言うならそうなのだろう。
マナ。僕にはまだ知らないことがたくさんあって、ただしい言葉であんたのことを話せているかはわからないけど、これだけは正しいとわかったことがあるよ。僕はマナをあいしていた。今でもあいしている。マナが僕にくれたたくさんのあたたかさややさしさを、僕はこの先もいちばんにして生きていく。それは僕の正しいきもちだ。あんたは笑うかな。笑ってくれるといいな。そうだと信じてもいいかな。
ねえマナ。だいすきだよ。
*
眠っている子供の頬は赤く、また熱がぶり返しているのがわかってため息をつく。無理をおして引き取った時にはアレンは完全に発育不全で栄養不足だった。病院食はきちんと食べていたようだったけれど、内臓の機能が低下していてきちんと栄養が摂取できていたかは怪しいところだった。今だって免疫機能が弱っているから、すぐに風邪をひくし熱も出す。マナが何度目かに送ってきた手紙に挟まれていた写真のアレンは、小さいながらもこどもらしくふっくらした頬をしていたけれど、今のアレンは頬骨がわかるほどにはほっそりしている。あまり知りたくもないマナの死後の生活については、体に残された傷だけで充分すぎるほどだった。正確なところはわからないが、アレンは今年でようやく十六になるそうだ。よく死ななかったな、というのが正直な感想で、何かあったらこの子を頼みます、とメッセージを送ってきたマナと音信不通になってから、ネアと共に五年かけて探し当てた時には本当に同一人物なのか疑わしいほどだった。左の額から頬にかけてついた特徴的な傷と、不自由な左腕がなければ、気が付かなかったかもしれない。
なにひとつ期待をしていない目だった。粗末に扱われることに慣れきった、そんな目をしていた。それが今、食事に目を輝かせて、勉強が難しくてぎゅっと眉を寄せて、屈託なく笑って、わけのわからないタイミングで泣き出すようになって、それがアレンの本来の姿なのかと思えば、年の割に幼くて大袈裟なその反応は、どこか痛々しくさえあった。
「アレン」
そっと髪を撫でる。自分が子供の世話なんかできるわけがないと思っていたのに、何故だか今、父親のようなことをしているのがなんだか滑稽だった。ネアは暇さえあれば家に寄ってアレンの勉強を見たり一緒に遊んだりしているけれど、アレンはネアが来るといつも泣きそうな顔をする。マナを思い出すのだろう。ネアも少しだけ苦しそうな顔をする。けれどネアはもう充分に大人になってしまったから、アレンが寝静まった後に二人で酒を飲みながら、昔の思い出話をしたりするだけだ。いつだったか酔ったネアが天井を見ながらマナに文句を言っていた。「勝手に死にやがってふざけんな」そう呟いて、それから「面倒みきれないならガキなんか引き取るなよ」と続けた。アレンはネアにはマナの話を少しずつしてくれるようになったそうだ。ほんとうにたいしたことじゃない、ほんのささやかな話を。目玉焼きを焦がしたとか、一緒に道に迷っておんなじところをぐるぐるまわったとか、道中で泊まった部屋が雨漏りしていたとか、そんな話だ。放浪癖のあったマナがどうしてアレンを引き取ったのか、それはもはや誰にもわからない。けれどそのほんの少しの間に、マナはアレンというちいさなこどものことを、何よりも誰よりも愛しんでいたことだけが、アレンの朧げな記憶に残されている。ネアはアレンがマナの話をするとき、ただ静かに手を握ってやるのだという。両方の手を祈るような気持ちで握って、そうするとアレンはネアを見て、ようやく少しだけ安心したような顔をするのだという。マナが同じようにしていたというのを知ったのは、つい先日ネアと酒を飲んだ時だった。ネアもその日ようやく手を握る意味をアレンから聞き出せたのだそうだ。それはとてもすごい進歩だった。
アレンはいまだにどこまでも不安定だし、生きることに臆病になるし、こんなところにいていいのかみたいな顔をする。きっとこの先、ずっとその気持ちと生きていくしかないのだろう。折り合いをつけられたとしても、傷ついてしまったこころは元には戻らない。けれどアレンは前を向くことを覚えた。生きていこうとすることを覚えた。ただ流されて溺れるだけじゃなくて、自分の足で立って、一歩ずつ進むことを覚えた。だからきっと大丈夫なのだと今は思う。
「……し、しょ…」
寝言でむにゃむにゃと呟いたアレンに、苦笑してもう一度熱い額に手のひらで触れた。表情がわずかにゆるむのを見て、そうなれて良かったと思う。こんなことをして生きる予定じゃなかったのに。けれどアレンはきっと、マナからの贈り物だったのだろうと思っている。喪失と引き換えに残された、マナの生きた証であり、愛のかたちだった。アレンはきっと否定するだろうけれど、ネアは寂しそうに同意してくれるだろう。
アレンはひとのかたちをした愛だった。どれだけ残酷なことをされてもマナへの愛を決して捨てることはなかったアレンは、今、ネアと自分にその愛を少しずつ分けてくれている。そうやって生きてくれている。それがどれだけ困難なことなのか、自分たちはよく知っている。
「アレン」
額に手のかわりに絞ったタオルを置いてやって、それからもう一度髪を撫でる。
「……生きてこうな」
そっと呟いて、部屋を出た。
三人でマナの墓を訪ねるその日が来たら、アレンのためにタオルをたくさん用意してやろう。きっとひからびてしまうんじゃないかと思うくらいに泣きじゃくるだろうから。その日までは。少なくともその日までは、アレンと生きていこうと、そう思う。まだ春は遠い。けれど必ず来る。それを知っている。アレンにもきっとわかる日が来る。溶けた雪の下に花が咲くことを、いつかきっと知る。その日までは。
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