桐子
2026-03-15 23:55:31
2994文字
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ルミナス⑥


「どういうことですか」
カラカラになった喉から、なんとか言葉を絞り出す。埋れ木監督は困ったような笑みを浮かべ、水木とゲゲ郎を見比べている。
「君には悪いんだけど、どうもしっくりこなくてね。彼を見た時にその理由が分かった。水木くん、君ではこの役は演じられない」
「な……っ」
そんな馬鹿な。確かにゲゲ郎は背が高いわりにひょろりとしていて、幽霊や妖怪を演じさせたらぴったりだろう。でも、それは演技力でカバーできるはずだ。演技には自信がある。
「しかし、監督」
いつもなら、役を交代してくれと言われたら素直に応じていただろう。だが、今回だけはどうしても引けなかった。久しぶりに回ってきた主役、それも埋れ木真吾が監督する映画だ。それを、よりにもよって演技を始めたばかりの素人同然の男に奪われるなんて。
「水木くん、すまないけれど、もう決めたことなんだ。この役はゲゲ郎くんにしかできない」
……ッ!」
監督は頑なだった。水木はそれ以上何も言えず、唇を噛み締めた。埋れ木監督が何か言っているが、もう耳に入ってこない。『君ではこの役は演じられない』――――監督のその言葉ばかりが頭の中で反響している。
気が付けば顔合わせは終わり、昼をとってから台本の読み合わせをすることになっていた。隣の席に座っていた男が、おそるおそるといった様子で水木に声をかけてきた。
「水木、大丈夫か」
ゲゲ郎が気遣わしそうに声をかけてくる。その声がますます水木の神経を逆なでした。
「大丈夫だと?大丈夫なわけないだろ!」
思わず怒鳴っていた。周りのスタッフが驚いたようにこちらを見ている。だが、一度堰を切った言葉は止まらなかった。
「お前なんかに俺の気持ちが分かるか!ずっと努力して、やっと主役を掴んだんだ!それを……っ」
……すまぬ」
ゲゲ郎は目を伏せて、小さく呟いた。だが、彼は少しも悪くない。監督に呼ばれてきたら、いきなり主演をやってほしいと監督に言われ、まったく身に覚えのない理由で責め立てられているだけだ。
――――最低だ。嫉妬して、逆恨みをして、こんな醜態をさらして。
……いや、すまない」
居たたまれなくなって席を立つと、ゲゲ郎もそれに続いて立ち上がった。
「どこへ行くんじゃ」
「休憩してくる。朝から何も食べてない」
そう言って稽古場を出た。後ろから「水木」と声が追いかけてくるが、逃げるように歩を速めた。
「待てと言っておるじゃろう!」
背後から腕をつかまれる。
「離せよ!」
「離さぬ」
ゲゲ郎は水木を近くの公園まで引きずっていった。稽古場のすぐ横にある、小さな公園だ。砂場とブランコがあるだけで、子供の姿もない。ゲゲ郎はベンチに腰掛けると、隣へ座れというようにベンチの板をぽんと叩いた。仕方なくそこに腰かけると、ゲゲ郎が小汚いバッグからアルミホイルに包まれたかたまりを取り出した。
「今、倅が遊びに来ておってな。朝作ってくれたんじゃ」
中身はおにぎりだった。海苔が巻かれている。子どもの小さな手で作ったのか、一つ一つがこぶりだった。ゲゲ郎は自分もアルミホイルからおにぎりを取り出してかぶりついた。ぼんやりとそれを見ていた水木も、つられておにぎりにかじりついた。ふわりとした食感の白いご飯には塩が効いていて、中の具は梅干しだった。子どもの作ったものとは思えないほどおいしい。
「おばばに……ああ、妻の母親じゃな。梅干しはおばばの手作りでな。倅もうんと仕込まれておるそうじゃ。うまいじゃろう?」
「ああ、うまい」
「腹が減ったら気も滅入る。これを食べて、昼からの読み合わせもがんばろう。わしからも監督に頼んでみるよ」
水木はハッとして、ゲゲ郎の顔を見た。彼は申し訳なさそうに微笑んでいる。その顔を見たら、なんだか力が抜けてしまった。
……いや、俺こそ悪かった」
「水木は悪くなどない」
ゲゲ郎は水木の背中をバンと叩いた。
「あの監督に見る目がないのじゃ。なんじゃあいつは、水木なら妖怪だろうとなんだろうと立派に演じられるわ」
おにぎりの懐かしい味ともあいまって、ゲゲ郎の言葉は妙に胸にせまるものがあった。あんなひどいことを言った自分に、息子の作ったおにぎりまで食べさせて慰めてくれるなんて。
「ありがとな」
手の中でアルミホイルをくしゃりと小さく握りつぶす。しょせん、自分は監督に認められるような俳優ではなかったのだ。だが、それでも与えられた役を精一杯演じるしかない。
「もういいよ。監督が言うなら、俺には向いてない役なんだろう」
「水木」
「昼からの読み合わせ、がんばろうな」
そう言ってベンチから立ち上がった。ゲゲ郎は何か言いたそうにしていたが、水木が歩き出すと黙ってついてきた。




読み合わせが始まった。
「僕はリアルとフィクションの世界の境界を曖昧にすることで、その人がもつ感情を引き出すことができると考えている。だから役名は全て、君たちの名前を使わせてもらおうと思っているんだ」
例えば、と言いながら埋れ木監督はちらと水木の方を見た。
「野心家のサラリーマンは『水木』、妻を探し歩く妖怪の男は『ゲゲ郎』だ」
監督のこだわりらしい。役名を使わないのは居心地が悪いが、そのうちに慣れるだろう。他にも彼の撮り方には変わった所が多いと聞く。
「じゃあ、始めます」
アシスタントディレクターが声をかけて、読み合わせが始まった。

圧倒された。

ただ脚本を見ながら読み合わせをしているだけなのに、ゲゲ郎がそこにいるだけで空気が一変した。本当にそこにいるのは人間なのかと疑いたくなるほど、彼の存在感は希薄で、それでいて圧倒的だった。
『現にそら、お主の後ろ――――大勢憑いておる』
『ッ、』
かろうじて後ろを振り返らずにすんだのは、水木の矜持だ。本当に後ろに何かいるようで背筋がゾッとした。脚本は読んできた。水木はもっとおどろおどろしく演じるつもりだった。しかし、ゲゲ郎はほとんど素のままで、相手を怖がらせようとか、驚かせようという気配はなかった。柳のようにゆらりと揺れる細い体に、平坦な低い声。それだけでこの男は人間ではないのだと、見るものに実感させる。
一通り読み合わせが終わったあと、共演者たちの目に浮かんでいたのは、羨望と畏怖の色だった。
「素晴らしいね」
監督はニコニコしながら言った。
「僕の見込んだ通りだ。特に水木くん、急な変更にも関わらず、『水木』という男をもう掴んでいるじゃないか」
「はあ、ありがとうございます」
水木はとりあえず頭を下げた。褒められているのに居心地が悪い。どうせ急に役を変更したから、こうしておだてておこうというつもりなのだろう。ちらとゲゲ郎の方を見ると、よくやったなとでも言いたげな顔をして頷いている。こちらは本気で水木の演技を褒めているように見えるが、それはそれで癇に障る。
始まった以上、与えられた役は演じるつもりだ。それに、読み合わせをしていて、意外にも主演は『ゲゲ郎』ではなく『水木』なのではないかと思えてきた。観客はすべてを超越した存在よりも、ちっぽけな人間に感情移入しやすいだろう。うまく立ち回れば、水木でも主役を食うことができるかもしれない。
そのためには、この映画をいいものにする。自分にできることをするだけだ。水木はそう決意した。