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月を見上げる。38万キロの彼方にそれはある。
1 ⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
「迷うくらいなら、行った方がいいと思う」
イサミは少し考えて、一見こともなげにそう言った。ある晩秋、二人きりの食卓でのことだった。
もう一人の同居人、もとい二人の娘であるところのルルは、このところ多忙の極みで、ELCO本部の研究所に篭りっぱなしである。すっかり、研究員用仮眠室・Cのベッドの主人となっているらしい。イサミはそんな彼女に着替えやサンドイッチや最近贔屓にしているらしいスナック菓子などを差し入れに行っては、洗い物を抱えて帰ってくる。
スミスはなんとは無しに、本来彼女の所定位置である椅子が空なのをちら、と見遣ってから「一応聞くけど」と努めて冷静に彼に尋ねるべく前置きした。
「それは、本心じゃないよな?」
「
……」
イサミはスプーンを置いて、黙りこくる。深皿の中の、彼手製のクリームシチューは、もう湯気をたてていなかった。
「俺は、断ろうかなって思ってたよ。これまでの短期の出張とはわけが違う」
「
……けど」
「最低2年
……だけど、場所が場所だからな。延びる可能性は十分にある。ルルがいてくれたら安心だが、それでも、お前をそんなに長い間1人にしたくないし
……俺も耐えられない。上の人間に正直に話せば、私情を挟むなと叱られるんだろうが」
目に入れてもちっとも痛くないかわいいパートナーは、いくつになっても寂しがりやだ。こちらの自惚れでなければ、本当は「行かないでほしい」と縋り付く言葉を発したいはずだ。そうしてくれたらスミスは迷わず「行かないよ」と応えたことだろう。
「
……とりあえず、食べよう。お前のシチューは、冷めても最高だけどね」
「
……ああ」
深皿の中で凝固しつつあるそれを混ぜ、とろとろになったそれを口に運ぶ。ぬるいそれは、イサミ好みの優しい味付けで、やっぱりとびきり美味しかった。
***
カリフォルニア州はサンディエゴに位置する第一海兵隊司令本部を出て、スミスはため息をついた。
第3海兵隊から第1海兵隊へ異動してから10年、スミスの立ち位置は非常に特殊なもので、一小隊を預かり、宇宙軍と深く関わりながらほとんど独自に行動している。それでも指揮系統は海兵隊にあるから、スミスは日々忙しく動き回っているのだった。ELCO──Extraterrestrial Life Countermeasures Organization──にも属している関係で、定められた休日以外に、私用でまとまった休暇を取ることも難しい。
それでもスミスが疲れ知らずで働けるのは、帰宅すれば最愛のパートナーが待っていてくれるからだ。スミスはなんとしてもイサミと生活を共に過ごしたくて、それはすでにスミスと同居していたルルとしても同じ気持ちだったようだ。あの手この手で手を回し、考えられる手段はなんでも用いて、ついには彼の上官であるサタケに泣きつきさえして、ようやくイサミをアメリカに攫うことに成功した。それが数年前のことだ。今の彼はJSDFには属したまま、ELCOアメリカ本部の特別顧問として出向中という、前例にない扱いになっている。
帰宅の途につくため車に乗ろうとしたところで、スミスは空を見上げた。すでに日が暮れていて、低いところに、やや灰がかった白い月が浮かんでいる。裸眼で見えるはずもないが、そのクレーターだらけの表面では、多くの人間が活動している。
月開発は熱心に進められている。15年前のデスドライヴズによる襲撃を受けて、それは加速度的に速くなった。『いざ』という時の人類の避難先であったり、攻撃拠点として使いたい意図があり、米軍を主導として各国およびELCOの技術提携によって、すでに活動拠点が築かれているのだった。
スミスは海兵隊所属だが、実際にあの異星人らと直接相対した経験がある。TSの扱いも、トップクラスだ。ゆえに訓練を受け、短期の──と言っても、気軽に行ける場所ではないから大抵の場合期間は月単位になるが、あの衛星へと出張することがままあった。
今回も、その類の話だろうと思ったのだ。
スミスは運転席でハンドルに顔を突っ伏し、またため息をつく。これまでと違う、おおよそ2年の長期任務を打診されたのは、もう1ヶ月ほど前になる。今日はその件で本部に呼び出されたのだ。曰く、来週には返答しろと。
スミスは断るつもりだった。いくら命令であっても、2年も、へたをしたらそれ以上にイサミと離れ離れになるなど、耐えられるわけがない。
彼に隠し事をする趣味は、スミスにない。打診を受けたその日に、断りを入れる前提でスミスはイサミにその任務について報告した。それが、あのクリームシチューの日だった。
そうすると、イサミはしばらく考えてからあの一言を口にしたのだ。
そもそもスミスは、迷ってなどいなかった──つもりだった。なんなら、その場で断ったってよかった。だが一旦引き取って、イサミに報告した。あくまで、なんてことない話題のつもりで。
帰宅すると、玄関の明かりがついている。窓にかかる遮光カーテンの隙間からも、柔らかい光が漏れている。それを見ると、スミスはいつもほっとして、体の中のスイッチが切り替わる心地がした。
イサミとルルを守るため、ドアは電気錠と生体認証で二重にロックされている。それを慣れた仕草で解錠してドアを開ければ、すでに帰宅していたイサミが、すでに待ち構えていた。
「おかえり」
「
……ただいま、イサミ」
いつもそうだ、エンジン音を聞きつけて、よほど手の離せないときを除いて嬉しそうに出迎えてくれる。
スミス家は、イサミに合わせて日本式だ。玄関に靴を脱ぐためのスペースと、大きなシューズボックスがある。スミスはブーツをほとんど放るように脱ぎ捨てて段差を上がり、イサミを抱きしめ、その柔らかい頬にキスをした。彼も同じように返してくれる。
「ルルは今日も?」
娘の気配がない。尋ねると、イサミは困ったように微笑みながら頷いた。
「明日また差し入れに行くよ」
「たまには帰ってこいって伝えてくれ」
「何度も伝えてるんだけど、あいつにとっては趣味を兼ねてるからな
……それに、今が佳境なんだと」
「
……だろうね」
ルルもまたELCO所属の技術者として、2ヶ月後に迫る第21次月面基地遠征計画に携わっている。スミスが参加を打診されているものだ。
「メシできてるから、食おうぜ」
「ああ。腹ペコだよ」
着替えを済ませて食卓につき、スミスはイサミの話に耳を傾ける。1ヶ月に数回ほどは共にELCO本部へ出勤することがあるが、大抵は別行動だ。だから、その日彼がどんな風に働いて、どんなものを食べて、どんなことを誰と話したのか聞くのは、スミスの大いなる楽しみの1つだった。彼のことはどんな細かいことでも把握しておきたい、という邪念も、それなりにある。
「そっちはどうなんだ?」
「まぁ、うん。いつも通りだよ」
「
……さては、あの件で呼び出されたな? そんで、さっさと返事しろって言われた」
「
……お前は鋭い」
「顔見りゃわかるよ」
イサミは薄く微笑んで見せてから、手元のパンをちぎると、皿に残ったスープを丁寧にぬぐって口に入れる。今日のディナーは大ぶりなサーモンのソテーだった。オリーブオイルとバターとガーリック、そしてアジアンスーパーで購入した醤油を混ぜたというソースが絶品だったから、スミスも同じように、一滴も残さぬようパンを4つも平らげてみせた。先に帰宅した方が作るルールだが、このところは彼に任せっきりになっている。
よくないな、とスミスは改めて思った。
最終的に合意があってのこととはいえ、スミスは彼を大切な母国から引き離してしまっている。時どき帰国したり、ビデオチャットで会話しているとはいえ、仲の良い上司や友人たちとも離れ離れだ。だから自分には彼に決して寂しい思いをさせず、守り抜く使命がある、とスミスは思っている。
「イサミ、俺は」
「お前ほどTSを扱える人間は、海兵隊にいないだろ。きっと開発の大きな力になる」
「
……無理だよ。寂しいんだ。もっと長いこと離れていた時期もあるけど、あの時とは全く事情が違う。飛行機に乗って数十時間我慢すればお前を抱きしめられる、ってわけにはいかない」
「
……地球と、月だもんな」
その距離はおおよそ38万km。言葉にすればただの数字なのに、そこにはどうにもならない現実が横たわっている。
「けど本当は、力になりたいって思ってるんだろ?」
「
……」
イサミは鋭く、スミス自身すら自覚できていなかった本音を指摘してくる。スミスははっとして、彼の相貌を見つめた。
月基地が、無重力化でのTS訓練と実践経験を積んだ優秀なパイロットを欲していることはもちろん知っている。だからこそスミスに声がかかったのだ。何度も短期の出張を重ねて月での活動にも慣れがあるし、長く留まればもっと力になれるだろうという自負もある。イサミの言う通り、スミスの中には『俺が行かねば』という強い気持ちが、確かに在るのだ。
それに、対抗手段が増えることは、ひいてはイサミやルルを守ることにもつながる。スミスの行動原理はほとんど、そこに帰結する。
イサミの右手が伸べられ、テーブルに乗っているスミスの大きな手を、少し小さな手のひらが包み込んだ。TSパイロット特有の胼胝が目立つ、努力家の指をしている。黙って考え込んでいたスミスは、その温もりにより引き戻されて視線を上げた。彼と目が合う。どこまでも優しく、澄んだ眼差しをしている。
「
……お前を連れて行けるなら、迷うことなんてないのに」
「郡長と話したけど、いずれはそういう日もくるだろうって」
「いずれ、じゃ遅いんだよな。すぐになんとかならないか? 俺としては、また泣きついてもいいんだけど」
「やめとけよ。あっちじゃ語り種になってるらしいぞ」
イサミは上官との会話を思い出したのか、なんとも複雑そうに笑った。
2 ⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
イサミは大きく膨らんだトートバッグと紙袋をもってELCO・アメリカ本部の研究棟に足を運ぶ。カードキーをかざして入ると、顔見知りの研究者たちが気安い様子で声をかけてきた。ぎこちなくも笑ったり、控えめに手を振ったりなどしてそれに応えつつ、愛娘の姿を探した。事前に連絡を入れ「昼休みに行くから、12時過ぎには入り口にあたりにいろ」と伝えているとはいえ、あの子には夢中になると時間を忘れてしまうところがある。案の定、あの銀色の髪は見当たらない。
やれやれと呆れつつ、イサミはルルにメッセージを送り、そう広くはない敷地内に申し訳程度に作られた中庭に出る。冬が到来していて、昼とはいえ冷え込むから、外で食事を摂ろうという物好きの姿は見当たらなかった。イサミはマフラーを巻き直して、隅のベンチに腰掛ける。
バッグの中身は着替えの類で、紙袋の中身は昨晩の残りのパンで拵えたホットサンドだ。もちろん冷めているから、温め直して貰えば、きっと中のトマトやチーズがとろけてルルの体を温めてくれるはず。
イサミはどんよりした冬空を見上げる。空を覆う雲は白く、雪を伴ってはいないようだった。今はちっとも見えないが、あの雲の向こうの、もっと遠くに、地球のまわりをぐるぐる回る衛星がある。
「──イサミ!!」
長い銀色の髪を高く結い上げてまとめたルルが、大慌てといった様子で駆け寄ってきた。天然の見事な銀髪は心なしか輝きを失ってぼさぼさといるし、少々サイズの大きい藍色の作業着は、ところどころ黒ずみ汚れている。
「ごめん、待たせた! なかなかキリいいところまでいけなくて」
「いいよ。忙しい時に悪いな」
「イサミ、それ変。イサミが謝ることじゃないよ。私がお願いしたのに、私が時間を守らなかったんだよ?」
ルルはいつも素直で、思ったことをまっすぐ伝えてくる。
「
……そうだな」
「
……元気ないね。ね、ここ寒いから中に入ろ? 風邪ひくよ。そしたら私、スミスに怒られちゃう」
ルルはイサミが止める間もなくバッグも紙袋も抱えて(それも片手で)、空いている方の手でイサミの手を取りずんずん歩き出す。躓きそうになりつつもついていった先は、ルルの城と化しているらしい例の『仮眠室・C』である。「本当はオジサマの『S』がよかったんだけど、個室は『J』までしかないんだよね」とは彼女の言である。
中には簡易ベッドと作り付けのクローゼットと、日本のビジネスホテルにあるような小さな冷蔵庫があるのみだ。ベッドのシーツはしわしわでいかにも起床してすぐに飛び出したという様子だし、隅には何着かの作業着が乱雑に積まれている。呆れてルルを見やると「忙しくって、つい」と気まずげに目を逸らすのだった。
「それ洗っといた着替え。そっちの袋は今朝作ったやつ。食堂のレンジ借りてあっためろよ」
「なになに?
……わ、美味しそ! ありがと、イサミ」
紙袋を覗き込んだルルが目を輝かせて、イサミの頰にちゅうちゅう吸い付いてくる。こら、と額を小突くと、へへへとだらしない笑みを浮かべる。根を詰める日々の中、家族の顔を見てすっかり気が抜けてしまったのだろう。
これでも、友人(ミユのことだ)の薫陶を受け、大学で宇宙工学を学び、2人の英雄が後ろ盾となっている優秀な技術者として鳴り物入りでELCOに入隊し、八面六臂の活躍を見せる才女として名を轟かせている。こうして天真爛漫に振る舞うのは、家族や友人の前でだけだ。彼女を尊敬する後輩らがこのふにゃふにゃの顔を見たら、ギャップに驚くに違いなかった。
イサミはバッグから下着や替えの作業着を出して、クローゼットに丁寧に畳んで仕舞う。
「どうせ今日も帰れないんだろ? それ、持って帰るからな」
それ、と指したのはもちろん、隅に丸めてある汚れた服の類だ。
「へへ
……ありがと」
「あんま無理すんなよ。せめて週末は帰ってこい。
……じゃ、昼メシの時間もあるだろうし俺は戻る」
空になったバッグに汚れ物をテキパキ回収し、イサミは仮眠室を立ち去ろうとした。慌てたルルが、手首をがっしり掴んで引き止めてくる。
「え、待って待って! 一緒に食べようよ、これ!」
「冷めてるぞ」
「冷めてても美味しいよ。分けっこしよ!
……っていうか、私はイサミと話したくて連れてきたの」
「俺と?」
ルルは大きく頷く。その手に込められた力は強く、無理に振り解こうとしたら怪我を負わせてしまいそうだ。彼女の、繊細な機械を扱う大切な手に乱暴する気は、とても起きなかった。
「座って! っていっても、ベッドしかないけどね」
ぐっと引き寄せられて、バッグが床に落ちる。大きく空いた口から袖がはみ出すがルルは気にすることなく、イサミを引っ張って肩を押してベッドに腰掛けさせた。仮眠室のベッドにしては、中々悪くない座り心地だ。
「イサミは奥! 私がこっち! 逃げられたら困る」
「逃げねぇよ。俺はやんちゃな子犬か?」
「うーん、近いかも。手負いの野生動物を保護したって気分」
そう揶揄いながらルルは、ホットサンドを取り出して1つイサミに差し出した。すっかり冷え切っていて、パンはかさついている。それでもルルは「美味しい!」と満面の笑みで食べすすめ、たった3口で1つ平らげてしまった。イサミも角のところを、一口だけ齧る。悪くない出来だとは思ったが、食欲があまりない。
「元気ないの、スミスのことでしょ? あのこと、ちゃんと話したの?」
「月の話だろ。行きたいなら行った方がいいって言った」
「素直じゃないなぁ」
「
……行かないでくれって、縋りつけって?」
「スミスは喜ぶと思うし、『わかった! 行かない!』で終わると思うよ」
「
……だから言えないんだ。あいつにも立場が、たくさんの部下を率いる責任がある」
「いっそ2人とも退職したら? 貯金も年金もあるし、いざとなったら私が養ってあげる」
「ばーか。娘にそんなことさせられるか」
イサミはホットサンドをまた齧って、もくもく咀嚼する。ルルはすでに、2つ目を手に取っている。
「
……あいつが人に頼られて、誰かの力になってるのを見るの、すげぇ好きなんだ。
……かっこいいなって、思うし」
「私もそう思うよ。同じこと、イサミにも思ってるけどね。
……難しいね、大人って。私情だけじゃ動けないことが多すぎる」
「お前も大人だろ」
「ルル、甘やかされてるからなぁ。好きなことさせてもらってるし」
「お前はそれでいいんだよ。子供なんだから」
「えー、どっちなの」
あっという間に2つ目を咀嚼して飲み込んで、ルルはベッドに仰向けに転がる。どうにも喉を通る気がしなくて、イサミは同梱してあったペーパーナプキンで、食べかけの昼食を包んだ。それを目にして何を思ったか、ルルが小さくため息をつくのが耳に入った。
「
……じゃ、ルルはそろそろ戻らなきゃ」
見事な腹筋の力でばねのように起き上がったルルは、くしゃくしゃの髪もそのままに立ち上がる。
「待て待て。ほら、座って後ろ向け」
素直に腰掛けた娘の髪を解き、手櫛でさっとまとめ直してやる。彼女がまだ幼かった時分、会うたびに「結んで!」とねだられるから、動画を見たり、本を読んだり、快く協力を申し出てくれたヒビキやミユを練習台にするなどしていくつもヘアアレンジを身につけたものだった。その頃を懐かしく思いながら、動きやすいようにくるくる団子状にしてやる。
「ほら、できた」
ルルはちょんっと指先で己の髪を触り、満足そうに笑って「ありがとう」と相好を崩した。
「週末は帰るんだろ? なんかリクエストあるなら聞いてやるぞ」
「カレー!」ルルはキラキラした目で即答する。
「言うと思った。作って待ってるよ」
「うん! ありがと!!」
「だーいすき」と力強いハグを1つ残し、ルルは騒々しく仮眠室を出ていった。
イサミはその背を見送った後、残りのホットサンドを冷蔵庫に入れてやり、荷物を抱えて仮眠室を出た。
なんとはなしに、先ほどの中庭に戻る。昼の休憩時間はあと20分ほどある。イサミはスマートフォンをちまちまといじって、1通のメッセージを送信した。すぐに返事がもらえるとは思っていない。あちらはそろそろ、丑三つ時だ。
そう思っていたのに、1分後には着信を告げて手の中のものが震え出す。表示された名前は、先ほどメッセージを送った相手である。慌てて画面をタップして耳に当てると「イサミぃ〜?」と呑気な声が耳朶を打った。
「ヒビキ
……お前な、そっち深夜だろ?」
『いいのいいの。明日、っていうか今日休みでさぁ。さっきまでミユたちと飲んでたんだよね』
「こんな時間までか? あんま深酒すんなよ、いい歳なんだから」
イサミはベンチに腰掛け、荷物を下ろしてスマートフォンを持ち直す。
『そういうこと言う〜? 今度話したい、なんて意味深なの送ってくるから連絡してあげたのに』
「
……ありがとう」
『お、素直。どしたの? どうせスミスのことでしょ? あ〜、あのことかな。郡長に聞いてるよ』
「話が早くて助かる」
『そんで? なんでも聞いたげるよぉ』
「
……酔っ払い相手はやめといた方がいいかもな」
『えー? 酔ってないよぉ』
酔っ払いはみんな、そう言うのだ。声はいかにもご機嫌という様子でうわずっていて、なんというか、『ちょうどいい』という気がした。軽く、本当にちょっとした力で、背中をもう一押しして欲しいだけなのだ。そしてその手の持ち主は、気のおけない親友がいいと思った。
『2年かぁ。長いね』
「
……ああ」
『送り出してあげたいけど、本当は寂しいから行かないで欲しいってわけね』
「
……まぁ、そうだな」
『
……いい感じの折衷案があればいいのにねぇ』
「折衷案って
……こればかりは無理だろ、さすがに」
『スミスはやりきったじゃん。あんたをまんまと攫ってくれちゃって』
「別に、攫われたつもりはねぇよ。俺の意思だ。俺がスミスに着いて行きたくて、来たってだけの話」
『愛だねぇ』
スミスの異動が決まってアメリカ本土に帰国するとなった時、彼は「退官して日本に残る」とさえ言ったのだ。日本語はほとんど澱みなく会話できるほど上達していたし、頭も要領も良くて気さくな彼はきっと、その道を選んでもかの国でうまくやっていっただろう。だが、イサミは彼を止めた。お前には力があるのだから、人々のために正しく振るうべき、と。記憶に残るくらいの大きな喧嘩をしたのは、あの時が最初で最後だ。
結果として、折れたのはスミスの方だ。彼を空港で見送った時のイサミは、まさかその数年後にはアメリカに住んでいるなんて、予想だにしていなかった。
それに、こればかりは誰にも、ルルを除いては秘密だが「いざという時には”直接”日本に送り届けるよ」と彼は言っている。
『ん、どした? 照れてる?』
思考に沈んだイサミの沈黙を、ヒビキはそんなふうに捉えたらしい。「いや」と軽く首を振ったところで、イサミは背後からかすかな気配を感じた。
「
……悪い、また今度。話聞いてくれてサンキュ」
『急だね。いやいや、いいってことよ。またね〜』
彼女のことだから問題ないだろうが、二日酔いにならないといいなと祈りつつスマートフォンをおろす。そして視線を正面に向けたまま、絞った声量でつぶやいた。それくらいでも届く距離に、彼がいる。
「
……スミス、そこにいるんだろ?」
「──おっと。ニンジャみたいにはいかないな」
案の定近くから、耳に馴染んだ声がした。現れたのは、海兵隊基地にいるはずのパートナーだった。なでつけた金髪、ネイビー色のオフィサーコートの下に、オリーブドラブが覗いている。珍しく、海兵隊の制服を身につけているらしかった。
「いつからいたんだよ」
「電話し始めたあたりからかな」
「そんなに前からか。気づかなかった」
「楽しそうに話してたしね。ヒビキだろ?」
スミスが隣に座ろうとするから、イサミはさっと荷物を避けた。彼は遠慮なく、ほとんど隙間なく体を寄せて腰掛ける。
「お前、どうしたんだよ。今日はこっちじゃないだろ?」
「急にお前の顔が見たくなって。ヒロが、こっちにおつかいする用事があるって言うから変わってもらったんだ」
「そうしたら会えたよ」とスミスは上機嫌ににこにこして、目尻に刻まれた笑い皺を深くする。今も懇意にしている共通の友人は、スミスと同時期に異動になり、家族ぐるみの付き合いをしている。きっと強引に任務を奪い取られたのであろう彼を思い、今度謝罪しておかねばと思った。
(いや、そんなことより)
ほぼ最初から聞かれていたということは、そう考えて、イサミは頬を熱くする。
「お前が望んで来てくれたことはもちろん知ってるけど、改めて聞くと嬉しいもんだなぁ」
「やめろ」
腕を突っ張ってその大きな体を押しやろうとしても、びくともしない。それどころかさらに距離を詰めて顔を近づけてきて、「顔が真っ赤だ。すごくかわいい」などと甘い言葉で口説いてくる。イサミはやがて諦めて、腕を下ろした。
「
……しかし寒いな。こんなところにいたら風邪ひくよ」
「ルルにも同じこと言われたけど、そんなに柔じゃねぇよ。雪中行軍の訓練だってしてるし。それにそろそろ、戻る時間だ」
「もう少しだけ、駄目かい。遅れたら、俺に捕まってたって言えばいい」
駄目かい、なんて殊勝に尋ねるふりをして、その腕は肩を抱き込んでくる。すぐには逃さないとその力が告げてきている。
「
……あと5分だけなら、ギリギリ間に合う」
「お前は真面目だ。そんなところが好きだけど」
イサミの譲歩に、スミスは頰へのキスで持って応えた。
「とはいえ、本当に風邪をひいちまうな」と、彼はコートを素早く脱いでみせた。言ってることとやってることが反対だろという間も無く、彼はそれが当然のことと言わんばかりにイサミの肩にそれを羽織らせる。普段身につけるものより2サイズほど大きいそれは、イサミの体をすっぽり覆った。
「おい、いらねぇって」突っ返そうとするも、スミスは頑なだった。
「いいから着ておいで。知ってるだろうけど、俺は暑がりな方だし
……お前が体を冷やすことのほうが耐え難い」
つん、とスミスが鼻を突いてくる。「真っ赤だよ」と囁く彼の、髪と同色のまつ毛の向こうにある緑色の目は、どこまでも甘く優しい。目の前の人間がかわいくて仕方ないのだと強く訴えかけてくる。イサミは、この目に弱い。いい歳をして、もっと甘やかしてほしいと考えてしまう。
これ以上は何を言ったところで無駄だろうし、無粋だろう。寒風を防ぐように、コートのあわせをかき合わせる。スミスは満足そうに「あったかいだろ?」と微笑んだ。
「ルル、元気そうだった。週末は帰るって」
「先週もそう言って帰ってこなかったような
……まぁ、元気ならいいけどね」
「戻る前に顔出してやれよ」
「忙しいから帰ってって追い返されるのが目に見えてるな」
こんなふうに他愛もない会話をしていたら、5分なんてあっという間だ。帰宅後にゆっくりと、でもよかったが、イサミは今話すべきような気がして口を開く。
「聞いてたならわかるだろうけど、ヒビキにあのこと相談してた」
「
……それで?」
スミスの声が少しばかり硬さを帯びる。イサミはその精悍な横顔を見る。そこには迷いがありありと浮かんでいる。
「
……なぁ、ルイス・スミス大佐殿」
「お前にそう呼ばれるのは慣れないなぁ。
……何かな、イサミ・アオ・スミス2等陸佐殿?」
「俺
……お前が、俺を理由にして、持ってる力を発揮できないのは
……悔しいんだ。お前は、すごいやつなのに」
「イサミ
……」
「それにいざとなったら、ブレイバーンになれるだろ?」
何か、TSではどうにもならない困難に直面した時、無重力下でも活動できる人型の巨体は最終兵器になるに違いない。もちろん、本当に『いざ』という時だけだ。かの存在は、かつて非常に
……という言葉では到底足りぬほどの苦労を持って秘匿されたのだから。
例えば、誰かの命が風前の灯火であったり、月開発がこれ以上進められぬというほどの巨大な岩が立ちはだかっていたり、そういうケースだったら、あれほど頼りになる存在もあるまい。
しかしスミスは浮かない顔をして「きっと難しいと思う」とこぼした。
「だって、君がいなきゃ
……私は9メートルの木偶の坊にすぎない。ただの置き物さ。でかい分、始末が悪い」
「そ、そこまで言うか? 自分のことだろ」
「知っているだろう? 君がいなきゃ、ほんの10%の力も出せないってこと」
「
……困ったダーリンだな」
「そうなんだ。俺って本当に、君がいないとダメなんだよ」
スミスが肩に額を押し付けてくる。自分で着せかけたくせ「俺のコートの匂いしかしない」と愚痴をこぼす。困ったパートナーの頭を、イサミはそっと撫でてやった。柔らかい金髪だ。出会った時より心なしか色が薄くなっていて、経年を思わせる。
5分はとうに過ぎているだろうが、イサミは彼を跳ね除けたりなどしなかった。冷えた鼻や耳がちくちくと刺すように痛むが、どうということはない。
自身に問いかける。自分は彼に、どうして欲しいのだろう。歳をとってそれなりの役職につき、導かれる側から導く側の立場になり、今日までどうにかやってきている。アオ二佐、あるいはスミス二佐と呼ばれることにも慣れた。だが愛する男を前にすると、こんなにも心をかき乱される。きっと、スミスがスミスである限り、永遠にこの気持ちを抱えて生きていくのだろうと思った。
「
……イサミ」
「うん」
「俺はいつだって、君に恥じない男でありたい。君が好きになってくれた俺のままでいたい
……いや、さらに磨きをかけていきたいと思ってる。ずーっとね」
「どんなお前も、俺は好きだけど」
「俺もだ。どんな君も、愛してるよ」
顔をあげたスミスが顔を寄せてくるのを、避ける選択肢はイサミの中にない。乾燥した唇が重なる。顔は驚くほど冷たいのに、口の中や大きな舌は湯たんぽみたいにあったかい。体温を分け与えるように動く舌を、目を閉じて受け入れた。
体がより深い快感を追いかけてしまう直前で、スミスは顔を離す。そういう塩梅が、すっかり得意になってしまっている。滑るそれが離れるのが惜しくて、イサミはつい下唇に吸い付いてしまった。スミスは嬉しそうに目を細める。
「
……頰が氷みたいだ。もう中に入ろう」
「5分、とっくに過ぎてる」
「大丈夫だよ。おつかいで来たって言っただろう? 君に案内してもらってたって言えば、誰も文句は言えない」
「誰が信じるんだよ、それ」
この施設の構造など、スミスとて知り尽くしている。子供じみた言い訳と思うが、特別咎めたてる人間もいないだろう。幸い、イサミの午後の仕事は内勤が主で、会議や演習、指導といったものはスケジュールに組み込まれておらず、誰かに迷惑がかかることもない。
「っつーか、ここ外! 誰がみてるかわかんねぇのに」
濡れた唇を舐める。「ちゃんとリップを塗らなきゃダメ!」というルルの声が聞こえるようだ。
「誰もいないよ。こんなに寒いんだから。
……さ、行こう。コートはそのままでいいからな。ちゃんと袖は通して」
「ん」
立ち上がって素直にコートを着込むイサミを、スミスはうっとり眺めたかと思うと、甲斐甲斐しくボタンをとめてくる。嬉しそうなので、好きにさせてやることにした。サイズが大きいからちょっとだぼっとしていて、不恰好なシルエットになっているに違いない。だがスミスは「最高にかわいいぜ」とにやけている。
「本当に、かわいい。それにとってもクールだ」
大きな体に抱き込まれ、イサミはほっと息を吐く。スミスに守ってもらわなくてはならないほど弱いつもりは毛頭ないが、この腕の中は世界で1番安全な場所だと体に刻み込まれている。ずっとここにいられたらいいのにと、時々考えてしまうくらいには。
もしそんな風ににイサミがねだったら、スミスはほんの少しだけ驚いたあと「生涯君を離さないと誓うよ」と、今みたいに強く抱きしめてくれるに違いなかった。
だが、イサミはそんな自分でいたいとは思わないのだ。いつだって、彼と同じように、愛する伴侶に恥じない存在でありたいと願っている。
「イサミ、俺は
……」
「わかってるよ」
「
……自分が2人いたらいいのにって、今回ほど強く思ったことはないが
……俺は、要請に応えようと思う」
「ああ」
昔からちっとも変わらない大きな背中に手を回して、オリーブ色の生地をつかむ。盛りを過ぎてなお鍛え抜かれたこの体もまた、スミスの努力の証だ。
「待っていてくれるかい。必ずお前の元に戻るから」
「2年なんて、きっとあっという間だ。俺もルルも大丈夫だから、しっかり活躍してこいよ」
「もちろんさ。こうなったらもう俺の出番が必要なくなるくらい、月基地を万全にしてくるぜ!」
頼もしい言葉に、イサミは顔をあげて「それでこそ俺たちのヒーローだ」と心からの称賛を送った。
スミスはその日のうちに、長期任務を了承した。
3 ⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
出発に際し、スミスは月勤務に備えた訓練に力を注ぐことになった。それでもほとんど毎日帰宅して、イサミと言葉を交わし、肌を合わせる。もうじき2年も離れ離れになるのかと思うと、できることなら四六時中交わっていたいくらいだった。
長年丹念に、丁寧に、悪く言えば執拗にかわいがってきた体は、生来の柔らかさやしなやかさもあって誂えたようにぴったり馴染む。彼の体内に深く挿し込んで包まれるのは、気持ちいいし、あたたかいし、幸せだ。胸のクリスタルの中に入ってもらった時と同じくらいに。ゆるくしか勃たなくなった性器を撫でると、そこよりも後ろがいいとねだられるからたまらなかった。
「スミスお前
……真顔で何考えてんだ?」
「やぁヒロ。そりゃあ、これからの極めて重要な任務のことさ。当然だろ?」
「いや、俺の目は誤魔化せないぜ。絶対イサミのこと考えてたろ」
共に任務を受けた長年の友人が、鋭く指摘してくる。何も言い返せず、スミスは曖昧に笑った。
宇宙に飛び立つものは、出発の2週間前からクルークォーターズに隔離されることになる。宇宙に、病源となる菌やウイルスなどを持ち込まないためだ。月基地にも常駐の医師がいるが、厄介な症例には対応が難しい。こうして万全を期すのは、昔からの厳格な決まりだ。
とはいえ、健康チェックさえクリアすれば、面会も可能である。毎日会いに行くとイサミは言うが、宇宙センターまでは物理的な距離がある。どうか無理をしないでとスミスは彼によく言い聞かせるが、毎日会いたいのは、こちらも同じだ。
するとイサミは、なんと郡長およびELCO上層部に掛け合って長期休暇をもぎ取り、宇宙センター近くにホテルをとって滞在することになったのだった。彼の行動力と愛に、スミスは感涙した。こうと決めたら大胆に行動する、そんなところも大好きだ。「有給をまとめただけだから当然の権利だ」と、イサミは力強く豪語する。
出発までは宇宙センターにかかりきりになるルルも、頻回に顔を出してくれるのだった。
おりしも隔離中に、スミスは41回目の誕生日を迎えた。ここでできることは、せいぜいハグやキス程度だ。食事は管理されているし、口に入るものの差し入れはできないから、愛情たっぷりの手料理やケーキを食べることもできない。
出発が迫るにつれ、イサミの顔色は目に見えて悪くなっていく。比例するように口数も減っていく。100%安全と言い切れる航海はないから、彼はスミスの月遠征のたび、こんな顔をする。だが、今回はいつもよりも悲壮感が滲んでいるように見えた。
イサミは、何度か何か言いたげに口を開いては閉じる、という仕草を繰り返す。スミスにはわかる。「やっぱり行かないでくれ」という懇願が、喉元までせり上がってきている。それを押し留めて苦しげに息を吐くイサミを、スミスはどうしてやればいいのかわからない。絶対に大丈夫だ、と言い切ることもできず、ただ固く抱きしめる。彼も縋り付くように、背中に回した手でシャツを強く掴んだ。
「面会は今日までだ、イサミ」
「
……うん」
彼の頭から、嗅ぎ慣れない香りがする。ホテル備え付けのシャンプーを使っているのだろう。高い鼻先で髪をかき分けるようにして耳裏を嗅ぐと、ぽこんと後頭部を叩かれてしまった。離れ離れになる前に、彼の優しい香りを目一杯嗅いでおきたかったのだ。
イサミは頬を赤く染めている。休暇中だからとセットしていない髪が、額を覆っている。それを少しだけ避けて、幼子の熱を測るかのようにぴったりくっつけた。
「行ってくるよ」
「うん。いつも、お前の無事を祈ってる」
「ありがとう。君が祈ってくれたら百人力さ。
……いいかい。ルルには『くれぐれもイサミを頼む』とよく言ってあるけど、気をつけるんだよ」
「逆だろ普通。親が子供を守らないと」
「じゃあ互いに守り合えば、万事OKってことだな。けど、何かあったら呼んでくれ。いつでもいい」
「
……そうならないように気をつける」
どんなに離れていても、彼が心から助けを求めて名を呼んでくれれば、スミスはどこであろうと聞きつけて駆けつける力と自信がある。一線を退いて久しいかの司令官に、また多大な心労をかけてしまうことになるが、そもそもイサミのために得た力だ。いつだって、彼のために振るう決意がある。この場にサタケあたりがいたら「頼むから勘弁して差し上げてくれ」と呆れていることだろう。
そうして離れ離れになって2日後、スミスをはじめとする選りすぐりのメンバーで構成された第21次月面基地遠征隊は、宇宙へと無事に飛び立った。
どこから調達してきたのか、年季の入ったピックアップトラックに乗ったルルが帰宅したのは、その翌日のことである。その荷台には、これもまたどこから調達してきたのかわからない機器がどっさり積み込まれていた。
「どうしたんだ、これ。っていうか、何だ?」
「すごいでしょ! 電力大丈夫かなぁ
……ま、多分いけるよ!」
全く説明になっていない。訳のわからないまま、イサミは荷物運びを手伝うことになった。
3人の住まう家の2階、ルルの部屋は特に大きくとられている。それでも、持ち込まれた機器は大きく、場所をとる。しかしルルは、生活空間がぐっと狭くなったことなど意に介さない様子で、非常に満足げな様子だった。
「で、これはなんなんだよ」
「まだ内緒だよ。ちょっとだけ待っててね」
そう言ってルルは、冬だというのに汗に濡れてしまった額を拭って笑う。そんなに柔な作りをしていないとはいえ、床が抜けやしないかとイサミは密かに心配した。
数日後、第21次遠征隊が無事月基地に到着したという連絡が、ELCO本部にもたらされた。その日のうちに、世界中を一大ニュースが駆け巡る。
イサミは心の底からほっとして、深く息を吐いた。このところ極めて強い緊張の状態にあって、心の休まる瞬間がなかったのだ。全身の力が抜けてしまって「よかったねぇ」と笑うルルの肩に、思わず縋りついてしまった。彼女は、その華奢な見た目とは裏腹に体幹も力も強いから、難なく受け止めて背中を叩いてくれた。
ここから2年か、とイサミはその時の長さを思う。2年、730日、104週間、17,520時間。変換してみたところで、何も変わらない。ただ、長いということだけを実感するばかりだ。
無事に遠征隊が到着して、正常な勤務形態に無事戻れたらしいルルは、毎日ほとんど決まった時間に家のドアを潜るようになった。本来、それが当たり前ではあるのだが。
2人きりの食卓は、やはり寂しい。その上、ルルは食事が終わるとすぐに部屋にこもってしまうのだ。結局、あの持ち込んだ機器類について、まだ明かしてくれていない。趣味の機械いじりの一環で借りてきただけというならそれまでの話だが、ルルは「待っててね」と言ったのだ。何か、とんでもないことをしでかすような悪い予感もあった。自分1人の力ではとてもではないが、自由気ままなルルの暴走を止めることなど不可能である。
***
スミスが月に到着して、1週間が経過した。イサミは毎夜、庭に出て夜空を──正しくは、月を見上げる。はるか昔から続く規則正しい満ち欠けがまるで鼓動のようで、スミスが確かにそこにいて、生きている証のように思える。
そうしてぼんやりしていた時のことだ。それなりの防音設備が整っている家にも関わらず、快哉の叫びが聞こえてきたのである。聞き間違うはずもなく、それはルルの声だった。振り返ると、両開きの窓が勢いよく開け放たれ、そこからルルが身を乗り出す。
「おい、あぶな」
「イサミ! 今すぐ上がってきて! 早く!」
「わかった! わかったから! 危ないから下がれって!」
「ワオ! Sorry 'bout that! Mom!」
誰がマムだ、と叱りつける前にルルは「早くね!」と言い残してさっと体を引っ込めてしまう。隣家とは距離があるとはいえ、近所迷惑がつい気になってしまうのは日本人の性(さが)だろうか。
イサミはもう一度月を見て「またな」と囁いてから家のドアをくぐり、またルルが騒ぎ出さないうちにと急いで階段を登る。
ルルの部屋のドアは開け放たれていた。ノックもお伺いもいらないからさっさと入ってこい、というメッセージのようだ。
「入るぞ」
「あ、来たよ! ちょっと待って!」
ルルは、例の機器の前に引っ張ってきたらしいソファに座り、イサミではなく、目の前の機械にに向かって喋りかけている。
「んー、まだ少し不安定だけど大丈夫だね。
……イサミ、こっちにきて。隣に座って」
言われるままイサミは、彼女の隣に腰掛ける。ややくたびれた革張りのソファのスプリングが、2人分の体重を受け止めてぎしっと鳴った。
「オッケー。イサミ、何か喋ってみて」
「何かって言われても
……もしかしてこれって、これって通信機器か何かだったのか?」
『──Wow! イサミの声だ!』
「
……?」
少々ノイズ混じりであったが、それは明確にスミスの声だった。焦がれるあまり、幻聴でも聞こえてしまったのかと、イサミは耳を軽く叩く。たった数日でこれでは、2年という期間を無事に乗りこられるのか、我がことながら心配になる。隣のルルは、何も言わない。
『あれ? イサミ、聞こえてるかい?』
「
……聞こえてる」
『ああ、よかった!』
果たしてこういう時、この世ならざる声に応えていいものかわからなかったが、無視を決め込むことはとてもできなかった。何せ、愛してやまない男の声だ。
「
……俺はどうやら疲れてるみたいだ。幻聴が聞こえる。それも、はっきりと」
『NoNo! 俺だよイサミ! 幻聴じゃない!』
イサミは思わずぐるんと首を回し、ルルを見た。彼女はいたずらが成功した子供のような、適切な表現をするとしたら「してやったり」という顔をしていた。
「
……まじか?」
「まじ! これ、通信モジュール。月との通信回線にちょっと間借りしてるの。これで、スミスと話せるよ」
「
……それって、合法か?」
「うーん
……ギリギリ?」
「
……」
「JokeだよJoke! 長期遠征で家族と全く連絡取れないのって、やっぱり辛いでしょ。スミスたちだけに限らず」
「それは、そうだな」
『まったくだ』
「それで、短時間でもいいから個人間通信ができるようならないかな〜って議論されてて、その最初のテストとしてルルたち、というかスミスたちが選ばれたんだよ。それで借りてきたのがこれと、これ!」
「じゃーん!」とルルが上機嫌な様子で差し出してきたのは、手のひらサイズの、トランシーバーのような端末だった。
「うちの敷地内くらいなら電波届くかな。これを使って話してね。と言っても、受信専用だから、スミスの方から連絡を入れてもらわないと話せないよ」
イサミは受け取ったそれを、しげしげと眺めた。あくまで、目の前の大仰な機器からの音声を受け取り、送信するだけの単純な機能しか持っていないものなのだろう、旧時代的な見た目をしている。
それからルルは、いくつかの決め事や注意事項を2人によく言って聞かせた。まだテスト段階で不安定なところもあり、通信網に負荷はかけられないから、話していいのは基本的に週に1回程度、基地の稼働が落ち着く深夜の10分間だけ。そして、その秘密の会話については記録されていること。まだ内々にテストしている段階だから、他言無用であること。
全て聞き終えてもまだ、イサミは夢見心地だった。
『黙っていてごめんな、イサミ』
どこかふわっとした気持ちで、どうやら本当にあの星と繋がっているらしい機器に向き直る。幻聴でなく、たとえ機械的に変換された合成音声であっても本物と言っていいスミスの声に、耳を傾けた。
『それに、驚かせちまった。
……うまくいくかどうか五分五分ってところだったらしくて
……お前をぬか喜びさせたくなかったんだ』
「
……びっくりして心臓止まったかも」
『ワオ、そいつは一大事だ! 今すぐ駆けつけて人工呼吸をしても?』
「やだ。ルルにしてもらう」
「あはは! いいよ!」
『待て待て待ってくれ、悪かったよ!』
表情は見えないが、彼はすっかり慌てて、あちら側の通信機器に縋り付いているに違いない。
「
……あのね、楽しそうなとこ悪いけど
……そろそろ時間かも」
『ああ。2年ってのを思えば、ほんの少しでも話せるだけで救われるよ」
「うん。
……けどなんか、悪い気がする」
『ワルイ?』
「他のみんなも、家族と話したいのを我慢してるだろうに。俺たちだけいいのかなって」
スミスの他にも、結婚していたり、恋人がいたりという隊員も多く飛び立っているはずだった。言うなれば、ある種抜け駆けをしているような気持ちになり、どうにも気が引けた。
「イサミなら、そんなふうに考えちゃうかなって思ってたけど
……どんなシステムも、最初にテストしなきゃ、実用に持っていけないんだよ。つまり、イサミはスミスと話すことで、みんなを間接的に助けてるの!」
「なる、ほど
……?」
『そういうことだな。有用なテストになるよう、たっぷり話すべきだ。サンプルは多ければ多いほどいい』
「10分だけだからね! あとさっきも言ったけど
……記録されてるから、その〜、あんまり
……」
「ん? なんだよ」
ルルは何か言いたげに口をむにゃむにゃと動かし、ここにはいないスミスに助けを求めるように目を逸らした。
「
……なんでもない。スミス、よろしくね。2人が仲良しなの、ルルはすごく嬉しいんだけども」
『努力しよう』
「努力じゃダメだよ。絶対に、気をつけて。じゃあ、今日は終わり!」
2人が何を言っているのかわからないまま、いつの間にか意思疎通が測られて短い通話は終了した。イサミが首を傾げていると、ルルは「多分。そのうちわかるよ」とどこか遠い目をして言った。
月基地は、米国に合わせてGMT-4で稼働しているから、時差はほとんどない。そう聞いてイサミは、不思議な感覚を覚えた。
かつてアメリカと日本で離れ離れであった時は、2人の間には十数時間の時差が隔たりが常に存在していたのに、30倍近く遠い場所の彼と同じ時間を過ごせるなんて。
イサミは手の中の小さな、だが力強くスミスの声を伝えてくれるそれをぎゅっと握りしめた。
『イサミ、今どこにいるんだい? 部屋?』
「いや、庭に出てるよ」
スミスがよく手入れしている芝生も、冬は黄褐色に染まり淋しい見た目になる。古いタオルを敷いて腰を下ろすと、冬の空気で晒された土の冷たさが、擦り切れた生地とボトムを通り抜けて、じわじわと肌を冷やすのだった。
そうして胡座をかいてみたり、あるいは膝を抱えたりしていい具合の姿勢を探してから、イサミはじっと柔らかいクリーム色の衛星を見上げるのだ。
『風邪を引くよ。ちゃんと厚着してる?』
「してる。さっきまで、外にいたし
……」
『
……ずっと、見ててくれた?』
「お前がついてから、毎日」
『俺も見てるよ。地球は、本当にきれいだ
……きっと、君がいるからだろうな』
彼らしい言い回しに、イサミは冷え切った頬を熱くする。「んなわけねえだろ」と照れ隠しの一言を発すると、スミスは「本当だよ」と、全く冗談とは思えない声音で言った。
『特に君のいるところが、光り輝いて見えるんだ。いつも俺を導いてくれる、唯一の星みたいに』
「スミス
……」
『愛してるよ、イサミ』
「俺も」と返す代わりに、指の腹を使ってリップ音を聴かせてやると、彼は殊の外喜んだ。
「これ使えばいいじゃん」とルルが引っ張り出してくれたレジャーシートは、家族3人で、時には友人たちも交えてピクニックでよく使っていたものだ。仕舞い込んで久しいそれは少しだけ嫌な匂いがしたから、よく拭き上げて日光に当てた。3人とも多忙だからなかなか揃って休暇とはいかない現状があるが、もう少し落ち着いたらまたこのシートを持ち出して低山でも登りたいと思った。
ルルは「寒いんだから部屋の中で話せばいい」なんてことは言わない。「風邪ひかないようにね」とあたたかいお茶やココアを差し入れてくれるくらいだ。
ほんの10分間の、声だけの『デート』でも、イサミは幸せだった。じっと月を見つめていると、遥か彼方であるにも関わらず、彼と視線を交わしながら話しているような気分になってくるのだ。寒さなんて感じるいとまもないくらい、胸があたたかくなる。
4 ⚪︎ ⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
イサミとの通信
……という名のひと時のデートは、すっかり毎週恒例のお楽しみになっている。与えられている個室は成人男性には少々手狭ながらも、最低限の家具に、トイレにシャワーも備え付けられている。それだけで、十分に満ち足りている、とスミスは思う。ゆっくり体を休められて、彼と言葉を交わすことさえできれば。
基地内は重力が制御されていて、ほとんど地球にいる時と同じように行動できる。ただし足元には気をつけろ、と厳命されている。地球と同様の引力とはいかないから、転ぶと派手に滑ってしまい、そこかしこに取り付けられているハンドレールをつかむか、あるいは壁にぶち当たるまで(あるいはぶち当たってもなお)止まれない可能性があった。スミスは何度も訪れているので、慣れたものだ。
大切な10分をたっぷり楽しむために、スミスはイサミに連絡を入れる前に食事やシャワー、着替えなどを済ませて、後は眠るだけ、という体勢を整える。彼の穏やかな声を聞きながら寝そべっていると、決して柔らかくはない簡易ベッドが至上の柔らかさを持った最高級マットレスであるような気がしてくるのだった。
地球から持ち込んだ茶葉でホットティーを入れて準備万端だ。スミスは心躍らせながら、通信機のスイッチを入れる。いつもならば間もなく、こちらの名を呼ぶ控えめで、伺うような、奥ゆかしい声が聞こえてくるはずだった。
『
……あ、やっほースミス! 私だよ』
「ルル? どうしたんだ?」
『私でがっかりした?』
「いや、声を聞けて嬉しいよ。いつも遠慮して、俺たちの会話に入ってこないだろ?」
『そりゃあね。
……ごめん、イサミはちょっと忙しくて、今日は話せないって』
その嘘を見抜けないスミスではない。もう大人だし、大勢の部下もいるし、年上の男たちとも対等に渡り合う凛とした女傑だが、それでもスミスにとってルルは誰より近しい娘であった。嘘をついている時の声のトーンや言葉遣いの癖などを、知らぬわけがない。
「あの子に、何かあったのか?」
自然、声が低くなる。
『
……あのね、まず言っておくけど心配いらないからね』
「
……」
『やめて、その顔』
「どんな顔だい? 見えてないだろうに」
『見えてなくてもわかるよ。今すぐ飛んで帰ろうかなって顔してるでしょ』
スミスが彼女のことをわかるように、彼女もスミスのことをよくわかっている。まさにスミスは、今から飛べば数時間ほどで地球に辿り着けるだろうと試算を始めていた。
『はぁ
……。一昨日、訓練中にちょっと怪我しちゃって。本部の医療施設に入院中』
「帰るよ」
『もー!! だから心配いらないんだってば!』
飛ぶのが無理なら、3ヶ月に一度地球からやってくる補給船の、復路に便乗させて貰えばいい。今月の寄港予定は確か2日後だ。もどかしいが、変身してイサミに必要以上に心労をかけるよりは、良い方法かもしれなかった。
他にも、手段は思いつく。スミスの頭の中はたちまちイサミのことでいっぱいになる。
『スミス、黙んないでよ。もしかして、もう準備始めてたりする? 絶対ダメだからね。そんなことしたら、きっと
……ううん、絶対にイサミ怒るよ。せっかく帰ってきても、口をきいてくれなくなるかも』
「けど、何かあったらすぐに駆けつけるって約束なんだ。これだけは、何があっても破れない」
『その「何か」に今回の件が当てはまるかな、イサミの基準として』
「
…………入院って、いつまで?」
『本当に大事をとってるだけだけど、んー、来週になるかなぁ』
「明後日、あの子の誕生日だ。祝いたかった」
『週に1回って約束は
……ま、特別な日だもんね。おめでとうってちゃんと伝えておくから。
……イサミも話したがってたけど、さすがに病室にモジュール設置するのは難しくて』
心配いらないという先ごろの言葉通り、会話することは問題ないらしい。ほんの少しだが、ほっとした。
「けど
……珍しいな。訓練中にイサミが、怪我をするようなミスをしたのか」
彼以上に優秀で卓越したTS乗りを、スミスは片手で数えられるほどしか知らない。腕前に驕ることなくストイックにトレーニングを続け、教官役もこなす。40を回っても、その技術や勘には衰える気配がない。彼の弛まぬ努力はもちろんだが、天性の才もある。スミスは今でも、5回に1回程度しか彼から白星を得ることができないのだ。
「どうか無理するな、と伝えてくれ。くれぐれも、よく。来週は話せたら嬉しいけど、絶対に体を最優先に」
『りょーかい。よーく伝えとく』
「お前も気をつけて。仕事が楽しいのは結構なことだけど、それで体を壊しちゃ意味ないぜ」
『イサミにもよく言われる。最近はちゃんと帰ってるけど、気をつけるよ』
「See you, take care!」という元気な声と共に通信が切れる。スミスはふっと息を吐き、通信機を置いてベッドに仰向けになる。ルルがあんな様子である以上、本当に過剰な心配は不要なのだろう。深刻な事態ならばおそらく、もっと態度に出るはずだった。それに設備の整った外部の病院ではなくELCO本部の医療施設で事足りるなら、重症ではありえない。
とはいえ、心配することをやめるのは不可能だ。スミスの頭の中は常に、イサミが最低でも90%を占めているが、今は間違いなく100%だった。
来週言葉を交わすとき、心配のあまり必要以上に問いただしたり、責めたりしないよう注意を払わなくてはならない。あのかわいい男の手にかかれば、不惑を迎え、多くの部下を従える冷静なスミス大佐も形無しで、彼と出会った頃の24歳の若者へといつだって回帰してしまうのだ。とても正気でいられない。あと10年、20年と経過すれば多少は落ち着くのだろうか。そういう自分は、想像することが難しい。
スミスはごろんと転がって、壁に背を向ける。私物はほとんど持ち込めないから、内装はどこの個室も同じようなものだろう。どうしても付きまとう閉塞感を少しでも和らげるために、壁紙は好きな色を選べると聞いて、ささやかなことだとスミスは笑った。だが愛しいあの子を思わせる青緑色にしてもらうと、なるほど確かに、心癒されるものがあった。彼の優しさはいつも、海のようにスミスを包んでくれる。
心配のあまり仕事が手につかない、などと甘いことは言っていられなかった。彼に叱られないためにも、頭の中の5%くらいはどうにか明日の作業に振り向けねばならない。
(
……おやすみ、イサミ。良い夢を)
今ごろ1人きりであろう片割れに、そっと語りかける。明かりの落とされた部屋の窓から、こちらを眺めてくれているだろうか。
***
月基地での『長期出張』開始から、そろそろ1年が経過しようというところだ。スミスは朝食をとりながら、ヒロと「次の補給船に何をリクエストしたか」という話題で盛り上がっている。
「もちろん、ジャパンのカレーだ。あっちのは、レトルトでも絶品なんだぜ?」
オムレツに添えられたソーセージにケチャップを絡ませ、半分齧る。在庫管理の観点で寮に厳格な規則があるとはいえ、宇宙にいても地上とほぼ変わりない食事を摂れるようになったのは、ここ数十年でもっとも素晴らしい進歩であるとスミスは大真面目に思っていた。気楽にどこかに遊びに行く、なんてことができない以上、食事は重要な娯楽のひとつである。
「できれば、イサミが作ったものを送って欲しいけど。急速冷凍してもらえば、なんとかならないかな?」
「本人に来てもらった方が早いな」
「そりゃ来て欲しいさ。リクエストに『生涯のパートナー』『俺の最愛』『ELCO特別顧問、イサミ・アオ・スミス2等陸佐』と書いては消し、書いては消しを繰り返しているんだ
……毎回」
「新婚の隊員が選ばれていないのは上の温情だが、お前んとこは年中ソレだよな。感心するぜ」
「愛してるからな、心から」
なんの衒いもなく、スミスは素直にそう口にする。ヒロがヒュウ、と口笛を鳴らすのはほとんどお決まりだ。何せ家族ぐるみの付き合いだから、彼のところも配偶者と仲睦まじいことをスミスはよく知っている。子供も可愛い盛りだし、離れ離れでさぞ辛かろう。例の通信システムについて、駐在中に実用化に持っていけたらきっと喜んでくれる。
結果としては、なかなか悪くない。時々音声の乱れはあるが、基地の回線への負荷も最低限で済んでいる。この調子なら、毎日交代制で短時間の会話ならば可能、というふうに持っていけるだろう。家族や友人を残して止まっている隊員たちの士気も、大いに高揚するはずだ。
数ヶ月前、イサミが怪我を負ったと聞いた時、スミスの心は千々に乱れた。遠く──と一言で形容するにはあまりに遠い場所にいる自分は、いざというとき即座に駆けつけることもできないのだと改めて実感した。しかし次週には「先週は悪かったな」と少々気まずげながらも戻って来てくれて、スミスの心は守られた。案の定、怪我の詳細は聞かせてくれず、ちょっとミスっただけ、とあっさり言うのみだった。問い詰めたくなる自分を、スミスは必死に押さえ込まなければならなかった。今もなお、謎のままだ。
『スミス、来週はちょっと用事があって
……話せないんだ。悪いな』
イサミの、開口一番の言葉である。
「そう、なのかい? 仕事?」
珍しいことではない。彼にも仕事があるし、時には母国に帰国することもあるし、残念だがやむを得ないことなのだ。
『そんなところだ。あと、ルルも一緒』
「寂しいな。じゃあ、来週は久しぶりに1人きりの週末になる。ジムにでも篭ろうかなぁ
……。再来週は、平気そう?」
『
……再来週は、絶対。お前の誕生日も近いしな』
「そうだな、こっちに来てから、もうじき1年か。ようやく折り返しだ」
『ん。
……早く会いたい、スミス』
息を軽く吐くような相槌の後にそんなことを、どこかとろっと蕩けた声で言われるとたまらなかった。思わず端末をグッと握りしめて、熱のこもった声で「俺もだ」と返す。
「君に触れたくて仕方ない」
歳を重ねてもなおしっとりと滑らかで、だがこれまでの努力を思わせる小さな傷がいくつも残る濃いクリーム色の肌の温かさと、その手触りを想像する。体が、主として下半身が熱くたぎってくる。
『
……俺も、触って欲しい』
「イサ
……っと、だめだ、そんなかわいいこと言ったら我慢できなくなるから」
『だめだったか?』
「俺としては大歓迎なんだが
……記録に残っちまうから
……お前のそんな声、他の誰にも聞かせたくない」
ルルが懸念していたのは、これだ。10分の間にうっかり盛り上がって、擬似的な性行為にでも至られたらテスト中止もあり得る。それ以前に、彼のこんな甘い声を聞くのは自分だけでなくてはいけない、という強い気持ちがある。
荒くなっている自覚のある鼻息を、深く呼吸することで制御する。今すぐ彼を抱きしめて、耳の裏とかうなじとかに鼻をうずめて思い切り吸い込み「それやめろって言ってるだろ!」と怒鳴られつつ後頭部を叩かれたいものだ。
手の中の端末が、ミシッと嫌な音を立てた。力が入りすぎていた。これがおしゃかになるということはすなわち、イサミとの時間が終わるということを意味する。握力が非常に強い自覚のあるスミスは、どうにか意識して力を抜いた。
『スミス?』
「
……うん、大丈夫そうだ」
『何がだよ』
「人生で1、2を争う危機からどうにか逃れることができたのさ」
「意味わかんねぇ」とイサミは怪訝そうに言ったあと「10分って早いよな」と何十回口にしたか分からない、諦めに満ちた声を出した。
『じゃあ、また』
「ああ。再来週、だな。おやすみイサミ、いい夢を。愛してるよ」
『そっちもよく休めよ。俺も
……大好きだ』
愛らしい返しのあと通信がきれ、スミスは余韻をじんと浸りながら端末を置いた。彼から素直な「I love you」をもらえるようになるまで、ずいぶん時間がかかったことを思い出す。別に、確固たる言葉をもらうことに、そこまで強いこだわりがあるわけではない。何せイサミの目は、言葉よりもよほど素直で雄弁なので。
通信は部屋でこっそりと行わなければならないから、イサミと話しながら見ている地球は、個室内のモニター越しのものだ。月基地ライブカメラの映像が、メンテナンス時間を除いてほぼ24時間配信されている。さすがにちょっと見飽きるよな、なんて、アポロ11号の乗員が聞いたら憤慨しそうなことを放言する隊員もいるが、スミスはそう思わない。いくら見ていても、食傷気味になる、ということがない。何せ、大好きなイサミがいる。
スミスは個室を出る。宿舎エリアを抜けると、展望エリアがある。窓は非常に強固なガラス2層と分厚いアクリルの計3層によって構成されているが、その透明度は極めて高い。自転・公転のタイミングが合えば、彼のいる大陸を視認することができる。今日はあいにく、というところだ。
この急速で目覚ましい宇宙開発の発展をもたらしたのがかの外敵と考えると、素直に「素晴らしい」とは言いがたく、複雑な思いだ。
備えは必要だ、それでいて、『何もない』のが1番良い。備えが無駄になることは、喜ばしいことなのだ。スミスもその想いで、日々の作業に従事している。
ひとえに、イサミとルルを、もう危険な目に遭わせないため。2人を守るため。それだけだ。
つい先ほど通信を終えたばかりなのに、もうイサミと話したくて仕方ない。いや、四六時中、そう考えている。せめて駐在期間が延長しませんようにと祈りながら、明日も仕事に励むだろう。
***
3ヶ月に1度の、補給船がやってくる日である。大量の物資と最低限の人員のみ搭載されて月基地そばに着陸し、積荷の上げ下ろしを行う。それもまた、スミスたちTS部隊の仕事である。その後は基地で出た不要物、言うなればゴミの類を積んで引き返す。いくら宇宙が広大とはいえ、ゴミを無造作に投棄するわけにはいかない。
月基地においても、出向部隊の勤務体系は地上にいるころと同じである。エンジニアたちは24時間交代制だから、基地内には常に活動している人の息遣いがある。
スミスはこの日、休日であった。手伝い、いわゆる休日出勤を申し出たが、ヒロが「荷物の上げ下ろしくらい俺たちだけでできるって」との言葉に甘えて、部屋でぼんやりしている。先週はイサミと話せなかったから、今週はずっと、体に力が入らない。諦めの悪い男という自覚はあるので、あわよくば、と思い、通信を試みてはみた。だが当然ながら応答はなかった。そうして勝手に、空虚な気持ちになったのである。イサミが聞いたらきっと呆れ返ることだろう。いや、仕方ないやつだな、と優しく笑って、抱きしめてくれるかも。そんな夢想をする。
スミスは自前のセルフォンの写真フォルダを開く。画面をスワイプし、何千枚とあるそれをじっくりと見ていく。当然ながら月では使い物にならないから、アルバム代わりにと持ってきたものだ。イサミやルルの笑顔が、たっぷり記録されている。動画だって、たくさんだ。やっぱり動いて喋る彼らは、良い。心が癒され、空虚だった袋が愛で満たされていくような感覚があった。
あとでジムに汗を流しにいくとして、しばらくは思い出に浸っていようと、スミスがごろんと寝返りを打ったところだった。ドアホンの電子音が幾度も鳴らされたのは。
電子制御の分厚い鋼鉄製のドアであるからして、ノックは不条理である。ゆえに個室内の住人を呼び出すために、このあまり聞き心地が良いとはいえないビープ音が鳴らされるのは当然だ。問題は、それがしつこく何度も鳴らされていることで。
基地内に不審者はいない。基本的には。だからスミスは、相手を確認することなくドアの開閉ボタンを押した。多分ヒロだろう。休憩にでも戻ってきて、昼食に誘うつもりなのかもしれない。
「よっ、寝てたのか?」
やはり、ヒロだった。
「やっほー! ほんとだ、髪ボサボサ!」
それと、幻覚だった。こんな見事な銀色の髪の女性を、スミスは愛娘のルルの他に知らないので、間違いなく、幻覚だ。
「びっくりした?」
「驚くにはまだ早いぞ」
ニヤニヤと、人の悪い笑みを浮かべながら、ヒロと幻のルルはスッと横にどいた。スミスの正面に、ぽっかり空間ができた形である。そこに姿を見せたのは、また、幻だった。
「ひ、さしぶり
……だな? スミス」
「
……大変だ、ヒロ。幻覚が見える。しかも、2つも。かなりリアルなやつだ」
「落ち着け、現実だ。ほら」
ヒロが腕を上げて、彼の肩に手を置いた。その手は霧の中に手を突っ込んだかのようにすり抜けてしまう──ことはなかった。そこにわずかにできた服の皺は、彼が確かに、実体を持ってそこに存在することを示している。
「スミス
……?」
彼が不安そうな、寄る辺ない子供のような表情を浮かべる。お前にそんな顔をさせているのは誰だ、と瞬間的に脳みそが沸騰しそうになったところで、俺じゃないか!と気がついた。そうなったら、一瞬だった。
スミスはほとんど本能的に両腕を伸ばし、目の前で居心地悪そうに立つ男をしっかりと、きつく抱き寄せていた。
「ああ、信じられない
……本当に、君なのか?」
「
……よかった、あんまり嬉しそうに見えなかったから」
「そんなわけない! 恋しいあまり、幻が見えたのかと思ったんだよ!」
「幻じゃないって、これでわかるだろ」そう言って彼が、イサミが、背中に手を回してくれた。強く込められた力と、繊維を通り越して伝わってくる体温とが、スミスにじわじわと実感を与えてくれる。耳の裏に鼻を押し当てて匂いを嗅ぐと「それはやめろ!」と後頭部をぺちんと叩かれた。待ち侘びた甘い痛みだった。
サタケがずっと交渉していたのだ、とルルが教えてくれた。スミスは、イサミを抱きしめたままそれに耳を傾ける。「俺は任務の続きがあるから」とヒロは手をひらっと振ってさっていった。どうやら2人を送り届けるために、わざわざ戻ってきてくれたようだった。
「ELCOとしても、早期にもっと深く関わるべきだろうって。それで、先遣隊としてイサミが選ばれたから、補給船に便乗したの。ルルも無理言って来ちゃった!」
「内緒でずっと訓練してたんだよ」とルルが笑う。それで、腑に落ちるものがあった。数ヶ月前のイサミの怪我は、きっと慣れぬ訓練で負ったものだったのだ。
「なんでこんな重大なことを、俺に秘密で
……」
「最終的に許可が降りなかったら、ぬか喜びになる、だろ?」
どうやら、例の通信について、サプライズをやり返された形らしい。共通の共犯として立ち回っていたルルは、さぞ楽しかったことだろうと思った。
「なぁ
……もっと喜んでくれないのか、ダーリン」
「喜んでるよ!! 本当に君って、最高だ」
38万kmの彼方にまで会いにきてくれたかわいい伴侶に、この胸の裡に渦巻く喜びを余さず伝えるにはどうしたらいいだろう。そう考えて、スミスはとても素晴らしい思いつきをした。
「
……ルル」
「分かってるよ。2人っきりにしてあげる。あ、ちょっと早いけど誕生日おめでと、パパ」
「ありがとう」
「お散歩して、食堂でご飯でも食べてるね。ヒロが戻ってきたら案内してもらおっと。じゃ、また後で!」
「それとも次に会うのは明日になるかな?」なんてニヤッと笑みを残し、ルルは軽い足取りで去っていく。基地内の歩き方には少々コツがあるのだが、ルルはすでに慣れた様子だった。なるほど、訓練の成果が出ている。
スミスはその背を見送ってから、イサミを部屋に引き摺り込んだ。彼を抱え込んだまま左手を伸ばしてドアをロックし、ドアフォンのスイッチを切る。本来は許されざることだが、休日だけはこの操作を許可されている。
「ま、待って、あんま匂うなって」
「どうして」
久方ぶりの彼の匂いに、酩酊に似た感覚を覚えている。脳がふわふわとして、気持ちがいい。今すぐ、2人を隔てる邪魔な衣服を剥ぎ取って、全身余すところなく堪能したい。
「頼むから
……風呂、しばらく入れてないんだ。体は拭いてたけど」
「気にするなよ、そんなこと」
「こっちは気になんだよ!! シャワー、使わせてくれ」
イサミは必死に離れようとしているが、その力は決して強くない。その気になれば、スミスを殴り飛ばせる膂力があるにも関わらずそうしているのは、彼もまた、離れ難いと思ってくれているからに他ならない。基地外へと任務に出る隊員向けにシャワーブースがあるにも関わらず、それを使わないでここに真っ直ぐ来てくれたあたり、そんな時間も惜しんで一刻も早く会いたい、そう思ってくれていたのだ。
ますます、離すわけにはいかなくなった。
「
……じゃあ。一緒に浴びようぜ」
「いいだろ?」と耳元で囁く。
月において、水は貴重な資源だった。極地で氷を削り基地に運び入れて、溶かし、濾過して使うのが主だ。レゴリスをマイクロ波で加熱して水を得る研究も進められているが、月面のどこであっても手に入りやすいという利点がある反面、効率が悪いんだとか、スミスにはよくわからないがそういうことらしい。だから水の使用量は制限されている。一緒に使うのは、節約だ。
──というのは、もちろん建前である。
すっかり大人しくなったイサミをシャワールームに引っ張り込むのは、簡単だった。
5 ⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
何せベッドは狭いから、イサミはほとんどスミスの上に乗り上げるようにして眠っている。間違っても彼を固い鉄製の床に落とさぬよう、スミスはその強靭な腕を以て、フェンスの役割を一晩中果たし続けた。もたらされた腕の痺れは、福音に等しい。
間違いなく、いる、彼が。こんな、地球より遠く離れたところに。
腰を掴んだ時にも思ったが、少し痩せただろうか。元々、油断するとすぐ肉が落ちてしまう体質だった。それもあって、彼はトレーニングの人一倍励むのだ。それが高じて趣味になってしまっている。
心労もあっただろう、と思う。それから寂しさも。
補給船は、3日後を目処に地球へと帰還することになる。おそらく今回は視察目的で来たのであろうイサミと、強引にくっついてきたらしいルルは、それに同乗して帰ることになるだろう。
それを考えると、今日はこのまま裸の彼を抱きしめて1日中まどろんでいたいところだったが、あいにく、任務がある。そろそろ起き出して、支度をして、朝食を摂らなくてはならない。彼も腹を空かせているだろう。抱き合う中でかろうじて、非常用のレーションを食べさせてやったきりだ。
「イサミ、イサミ
……朝だよ」
「んん
……」
不安はすこぶる寝起きの良い彼だったが、今日ばかりは疲れもあってか、ポヤポヤとしている。ここまでの旅路で疲れが溜まっていただろうに、そんな体を一晩中撫でて、舐めて、深く穿って揺さぶって一層疲労させたのは自分である。スミスは大いに反省し、休憩時間には必ずここに戻っての世話を焼こうと決意した。
「
……もーにん」
「Mornin’、darling.動けそうかい?」
「ん
……」
スミスの上でもぞもぞ、むずかる赤ん坊のように体を動かすイサミだったが、やがてぐったり動かなくなる。
「1年ぶりだったもんな。今日はここでゆっくり休んでおいで。パンやスープをもらってきてあげるから」
「いい、大丈夫だ.動ける
……」
「とてもそうは見えないよ」
シャワールームで、力の抜けている彼の頭や体を丹念に洗ってやり、髪を乾かしてよく梳いて、下着と服を着せて(彼は荷物を持っていなかったから、自分のを着せた)、とあれこれやってやったところでようやく、ぼんやりしていた彼の目が覚醒した.
「
……腹へった」
「だろうな。立てる? 抱っこしてあげようか? 遠慮しなくていいよ。まだここでの歩き方に慣れてないからって言えば、見られたって恥ずかしくないさ」
「恥ずかしいだろ、普通に」
果たしてイサミは、しっかりと自分の2本の足で立った。気だるげな様子が少々危ういが、そばについていてやれば、まぁ、問題ないだろう。任務中はルルについていて貰えばいい。
「あ
……そうだ、スミス」
「うん?」
「誕生日、おめでとう」
ちゅ、と頬にいたいけなキスをされる。その、柔らかいものが押し当てられたところから、喜びが広がっていくようだった。
「
……ありがとう。お前の存在そのものが、俺にとっては何よりの贈り物だ」
抱っこは駄目でも、手を繋ぐくらいは許されるだろう。連れ立って、2人は小さな部屋を出た。
ちょうど、食堂の前でルルと鉢合わせになった。彼女はちらっと、ゆるく繋がれた2人の手を見て「よかったね」と意味ありげに笑った。
「昨日は放っておいて悪かったな」
「気にしないで。あ、イサミの荷物、ルルが持っていっちゃった。あとで届けるね」
話しながら食事を受け取り、4人がけの広い席に腰掛ける。
「改めてになるが、お前たちに会えて嬉しいよ。来てくれてありがとう。もちろん、俺のためじゃなくて目的があるってことわかってるが、それでも」
「会いたくて来たんだよ。ね? イサミ。
……で、お礼はサタチョにね。あちこちで交渉とか折衝頑張ってくれたの、ほとんどサタチョだから」
「帰ったら丁重に礼を言うよ。月土産は、は難しいけど」
昔から2人に何くれと気を配ってくれるかの男の思惑として、純粋に仲を応援しているとか、そういう青い感情によるものではない。また世界中を巻き込んでの大騒ぎを起こされることを、注意深く忌避しているのだ。もちろん、入隊時からかわいがっている部下の幸せを祈っているという点も、多少はあるのだろうが。
「君たちとゆっくり過ごしたいところだが、俺はこのあと任務でね。本当に、時間が惜しいよ。残された時間も少ないし
……」
「少ないって?」
「補給船の帰り、3日後だろう?」
「ん? 私たちは帰らないよ? ね?」ルルが、不思議そうな顔でイサミを見る。彼は頷いた。
「そう、なのかい?」
「たった3日じゃ何もわからないもんね。数ヶ月はいるよ」
「もしかしたら、帰る時は一緒かもな」
「WOW
……」
スミスは、降ってわいた僥倖に、そんな短い声をあげることしかできなかった。いや、降って湧いたものなどと、とんでもないことだ。彼らが、相応に努力してくれたのだ。スミスは深く感じ入りながら、目の前の2人を見つめた。
「ただ、俺は基地内勤務になるから
……外でお前を手伝ってやることはできないんだが」
そう言うイサミは不服そうだが、さもありなんだ。月面で働くには、また別の訓練をみっちり積む必要があるのである。無重力に対応したTSは、扱いにとても癖があり、並のパイロットなら座学と、それから1ヶ月の集中訓練、そして実技試験を持ってようやく現場に投入される.おそらくイサミならは、その天与の才と努力と負けず嫌いな性質で、あっという間に馴染むのだろうが。さすがに今回は、そこまでの許可は得られなかったようだ。
「イサミ、お前はもどかしい思いをするだろうから、こんなことを言うのは悪いけど
……俺は、嬉しい」
「嬉しい、って?」
「俺が外での任務から戻るたび、お前が『おかえり』って迎えてくれるんだなって」
スミスは隣のイサミの手を取って、ぎゅっと握る。
「スミス
……」
「こんなに最高なこと、ないぜ。今ならどんな無茶な任務もこなせそうだ」
「
……無茶は、すんなよ。ちゃんと無事に帰ってこい」
「ああ」大きく頷いて、彼の指の関節や、手の甲の太い血管を撫でる。
「
……一応イサミも私も部屋もらったけど、イサミはいらなそうだね。一緒がいいでしょ?」
向かいのルルが、お行儀悪くストローを齧りながら言った。
「もちろんさ」
「けど2人で寝たら、体が休まらないだろ? 俺はいいけど
……スミスは」
「イサミを抱きしめて眠るのが、1番疲れが取れるよ。せっかくはるばる来てくれたのに離れ離れでいる方が、よほど苦痛だ
……お前が嫌じゃなければ、そばにいてくれないか」
「
……わかった」
「じゃ、イサミの部屋は私の物置にしよ〜っと。ねぇ、今夜は3人でお祝いできる?」
「そうだな。カレー、リクエストしただろ? 材料が物資の中にあるから、今夜はみんなに振舞ってやることになってる」
「私も手伝うよ! それで、スミスの部屋でパーティだね!」
「Oh my
……最高だな。夢みたいだぜ」
昨日までの寂しい自分との対比に、目眩すら感じた。今日の仕事は途方もないほど時間を長く感じるに違いないと思った。
「たいちょー、そろそろ行くぞー」と、ヒロが遠くから呼んでいる。多分遠慮して、なかなか声をかけられないでいたに違いない。「行ってこいよ」とイサミが肩をぽんと叩いてくれた。
「待ってるから」
「ああ。行ってきます。愛してるよ」
前髪を避けて額にキスして立ち上がり、愛娘の形良い頭をひと撫でして2人に背を向ける。振り返ると、イサミが優しい眼差しでこちらを見ている。笑い返して、スミスは意気揚々とヒロの後を追った。