はらす
2026-03-15 13:42:03
2203文字
Public 忘バ
 

20260314桐智 ホワイトデー

2026/03/14 桐智 ホワイトデー2026 大学生でバッテリーを組んでる桐智 2200字

「じゃあ、始めるな」
桐島さんは俺の前で正座になり、膝の上に手を置いて俯いた。あらたまって座り直し、俺を見つめる。なんだろう。謝罪会見か?
「え、なんですか?」
「とりあえず、ええかな?」
彼の手が俺の頬を包む。
「では」
桐島さんは小さな声で平板に呟いた。
「では?とは?」
訝しむ俺を無視し、彼は頬にキスをした。軽く、そっと、口先で産毛に触れるみたいに。
そこでようやく、この人が何をしようとしているか気がついた。
「ちょっと!桐島さん!やめてください!」
クレームはもちろん、受け付けられない。桐島さんは俺を無視して、粛々とそれを続けた。
もう一度、頬に口が触れる。柔らかく、じんわりとあたたかい感触が広がり、徐々に耳まで熱は伝わる。
あーあ、やっぱりあれだ。勘弁してほしい。
「じゃあ、本当に、するから」
「いいですから!」
この次は唇にくる。知ってる。分かってるんだ。
腹立たしさが先立って自分から仕掛けてやろうと身を乗り出したが、頬を掴む彼の手は思いのほか力強く、びくともしなかった。なんだよ。投手の腕力を無駄なことに使うなよ。
「ほな、いくで」
じれったいほどもったいぶって宣言した桐島さんは、また俯いた。はあ、「いく」んじゃねぇのかよ。面倒くさいし、なによりかにより、もっっの凄く恥ずかしい。早くしてくんねえかな。
そろそろと彼の顔が近づき、さらさらの前髪が頬をくすぐる。朝の肌からは、汗と皮脂と、それに溶け込んだ甘くてなまぐさい、濃密な香りがした。昨晩の残り香だ。
チッっ。
小鳥のついばみのようなかすかな音を残して、彼はすぐさま俺から離れた。その身のこなしは、小鳥が軽やかに飛び立っていくようだった。身軽だけど印象の深い翼ある生き物を思わせる。いつもは注意深く悪戯好きな猫か狐のようなのに。
「本当に、一瞬でしたね」
「ちゃうやん、そこは『いま、なんかあった?』やん」
「桐島さんの遊びに俺を巻き込まないでください」
「えええ、ノリ悪いなあ」
桐島さんはそれこそ狐みたいな糸目になってクスクスと笑った。楽しいんだったら、俺がこの遊びにのっかる必要もない。どのみち、俺が不機嫌になっている時点で、彼の勝ちなんだから。
「じゃあ、ノリ良くしますよ」
「そう?」
「あの日の続きをするんだったら、こうでしょ?」
俺は桐島さんの顎を強い力で掴んで引き寄せ、ぐっと唇を押しつけた。一瞬こわばった唇はすぐに柔らかくゆるみ、隙だらけになったところへ舌を割り込ませ、咥内をゆっくりとたどりながら、少しずつ舐めまわして彼を探った。
「ぷはっ」
口を離すと、息を吹き返すみたいに彼が息継ぎをする。これも、あの日の再現だ。バレンタインデーの日に、初めてキスした日の再現。
あらためて正座するのも、「じゃあ、始めます」と言ったのも、「では」と言って頬にしかキスしなかったのも、「じゃあ、本当に、するから」と宣言して小鳥みたいな触れあいしかしなかったのも全部、あの日の俺の真似だった。腹立つな。
でも、正直なところ面白い。俺が桐島さんに初めて唇に触れ、桐島さんが初めて俺の口の中に入り込んだ日の逆転を、ホワイトデーの今日にしたがるこの人の悪趣味に付き合うのは、悪くない。猛烈な恥ずかしさはあるけれど。
「俺、こんなにねっとりしとったん?」
「してましたよ」
「うそん」
ふざけた声で答え、にやりと笑う顔が嬉しそうだ。嫌じゃないらしい。ひと月前、俺の拙さに焦れたこの人が、深いキスをしてきた時の印象だ。あの時に感じたいやらしさを再現したつもりだったけど、喜ぶんだったら正解だったんだろうか。
「あの時の要くんは、さらっさらの羽みたいなキスやったのにな」
「初めてなんだからしょうがねぇだろ」
恥ずかしさから思わずいじけているような言い方になる。はあ、俺もどうしようもないな。
「楽しみにしとけ、っていう予告までしてたくせに、いざやってみたら、小鳥みたいなちいこいキスで、なにも起こらんかったかと思ってびっくりしたもん」
「だから、もう、いいだろ」
恥ずかしいやらムカつくやら、どうにもじっとしていられなくなり、耳をぎゅっと噛むと、彼はくすぐったそうに体をよじらせた。筋肉の曲線が綺麗だな。見惚れていると肩を抱かれ、引き寄せられる。
「今ではこんなに、こってりしたキスもしてくれるのに」
彼は早口でそう囁き、再び口を重ねてきた。割り込んできた舌を受け止め、むしろ自分から絡めるように迎えいれ、溶けあうようにじっとりとこすり合わせる。
「はあ、要くんが俺に合わせて受け止めてくれる感じが好きやわ」
たぶん、それは野球のこともだ。
俺もそうだ。器用で丁寧で、それでいて挑戦的な桐島さんと一緒にいるのはいつだって、投球を受けている時と同じ充足感がある、と思っていることは黙っておいた。
「じゃあ、今度は俺がリードしますよ」
指先に力を込め、裸の腰をゆっくりとなぞる。
バレンタインに初めて触れあった俺たちは、その後すぐに、お互いの身体を覚え、誰にも触れない場所まで確かめ合い、組み合って絡み合うようになっていた。まあ、大学生だからな。若さってこういうことなんだと思い知らされている。
外は三月の雨。やわらかな白い雨だ。
練習はおろか走ることもできないが、それでもいい。今日もふたりで絡み合っていればいい。