ぬす
2026-03-15 12:36:46
8546文字
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2068535

色恋営業

お題箱でいただいたネタで書いたもの。王道のネタも加えて。

ユメユメユメユメユメユメユメユメ「ようこそいらっしゃいました!
 お待ちしておりましたよぉ、僕の最愛のお得意様」
 凍る道を雪靴で踏み締めて訪れたその男の下、ずらりと並べられた奇妙な品々が私の選択を待っている。
肩を抱いて、男が囁く。私好みのものを取り揃えた、と。
どくん、と胸が高鳴るのを感じた。
 私は蒐集家だ。
毎週同じ曜日、同じ時間に彼の元を訪ねては、古代遺物をひとつずつ購入している。
ある時は神事に用いた矢尻を。ある時は考古学的に価値ある鏡を。
どこから手に入れてきたのやら、さまざまな珍品を繰り出しては顧客の需要に応えるこの男とは切っても切れない関係――であることを願う。
「今日はどれを選ぶんです?お嬢さん」
……っ」
 肩に置かれた手が伸びて、その指先がつつ、と頬を撫でる。
熱く赤く染まった頬に意識を向けさせられて、品物よりも彼に目を奪われてしまう。
ああ、タチの悪い男。
覗き込んでくる緑の目と目が合って、その視線から逃れるように目を伏せる。
「ふふ、可愛らしいひとだ。
 ゆぅっくりと、ご覧になってくださいね。
 僕はいくらでも待ちますから」
「サンポさん、近い……です」
「ああ!これはこれは失礼いたしました。
 あなたは一番のお客様ですから、つい」
 彼の手が離れて、名残惜しくてそれを視線で追う。
その先示されたのは彼の商品、並べられた古代遺物の数々。
隅から隅まで目を通して、一際美しく輝くものを指差した。
「ああ、やはりこちらを気に入られると思っていましたよ!
 ユメさんはお目が高いですねぇ。
 こちらはですね……
 真贋を見抜く目は持っている。
彼の蘊蓄を聞きながら、気に入ったそれを包んでもらって、大金を払い大切に袋にしまう。
持ち帰って飾るその時まで汚さないように、傷付けないように。
「では、私はこれで。いつもありがとうございます」
「ああ、このまま帰ってしまわれるなんて。
 もう少し、僕とお話ししましょう?」
 時間が惜しいはずなのに、彼に引き止められると嫌な顔はできなくて。
用意された簡素な椅子に腰掛けて彼の話に耳を傾ける。
少し離れた雪原から、遠い星の夢物語まで。
その全てが非現実的で、全てが彼の嘘のように思える。
この熱いときめきだってそう。
彼の言葉に憧れを抱くより、その微笑みを見つめていたい。
「どうです?行ってみたい星はありますか?」
「うーん……サンポさんのお話がどこまで本当かはわかりませんけど、私はやっぱりベロブルグにいたいです」
「あはは!僕もここがお気に入りです。
 ユメさんはどうして?」
……それは、その……
 ……サンポさんと、お話できるから……
「おや?では僕のためにここにいてくださると?」
……はい。私はずっとここにいます、ふふ」
 心の底からそう願う。
嘘だとしても彼の語る外の世界に憧れていたというのに、今となってはこの街の、この狭い彼の箱罠の中しか考えられない。
何度そこから出されたとしても、餌に釣られてまた戻りたいのだ。
 氷の溶けた道を歩いて、朝日を浴びながら家へと帰る。
朝帰りなんて、と怒声を浴びながら自室に飛び込んで扉を閉める。
サンポ・コースキに会っていた、なんて言えば憤死してしまうだろう。
手に入れた古代遺物を取り出して、うっとりと眺める。
コレクションを並べた棚にまたひとつそれを飾って、はぁ、と恋煩いの溜め息をついた。



「今回も予想通りでしたねぇ」
 受け取った札束の枚数を数えて、自然と笑みがこぼれ出る。
ユメ――彼女はまさしく良いお得意様だ。
家柄が良く、世間知らず。つまり、金を持っていて騙しやすい。
嘘をつけない。善意を断れない。おまけに色仕掛けにも弱い。
今回も綺麗に見栄えのいい偽物を選んで帰って行った。
彼女が顧客になって一年は経つが、返品された試しはない。それどころか、文句の一つも言いやしない。
 以前彼女は己の恵まれた実家を窮屈だ、なんてぼやいていたが、その鳥籠に守られていることを知らないのだろう。
彼女が一人で飛び立てば、たちまち悪い人間に食い物にされるはずだ。いや、現に己が手をつけているのだが。
それなのに深夜に家を抜け出して、金を差し出すのだからたまらない。
「ふふ、僕のためにずっとベロブルグにいるそうですし?
 もう少し稼がせてもらいましょう」
 また来週、彼女が訪れるのが楽しみだ。
次は何を準備しておこうか?
煌びやかな石ころか、磨きすぎた金属片か。
彼女の好みは全て把握しているのだ。またその期待に応えよう。
札束をポケットにしまって路地裏を発つ。
全ては愛しいお得意様のために。なんて、狩人の言葉と共に。



 そしてまた一週間後、一週間後を繰り返して。
鍵をかけられた部屋の中、ただ並べられたコレクションを眺める。
巨大な熊の骨を加工した短剣。
素材が骨ではない。偽物。
古代の占いに使われたという指輪。
時代と伝承が一致しない。偽物。
熱光線を出し持ち主を守るという宝石。
シンプルに熱光線が出ない。偽物。
ここに並べられたすべての古代遺物は彼の作った偽物だ。
面白おかしくてたまらない。
少し学んだものなら発狂して投げ出すような代物が、史実と空想を混ぜ込んだ彼の話術でそのガラクタにすら価値があると思えるのだから。
……はぁ」
 扉の向こうから足音が聞こえる。
品もなく声を荒げて、聞きたくもない近い未来の話ばかり。
おまけに家を抜け出さないようにと部屋に鍵をかけられてしまった。
困ったものだ。これでは買い物にも行けない。
 父の言い分も理解できる。
娘が深夜に抜け出して怪しい市に出入りしているのだから、彼の立場なら間違いなく止めるだろう。
だがしかし、何故その行為に至ったかには目も向けてくれない。
彼がまともに話し合ってくれる人なら、私だって反抗的にならずに済んだのに。
……サンポさん」
 クローゼットを開けて、洋服をひとつひとつ確かめる。
子供の頃は私の好きなドレスやワンピースがたくさん詰まっていたはずなのに、気付けば私好みのものは殆どない。
見知らぬ誰かに向けられた清楚で単調なものばかり。
この先もそれを身に纏う日々が続くのだろう。
――だけど、今夜だけは。
好みでない服を何着も結んで、ベッドに括り付けて脱出の準備を。
隅に隠されていた華やかな花柄のワンピースに袖を通して、命綱を持って窓の外へと飛び出す。
たった二階からとはいえ、落ちたらタダでは済まない。
それでも、今日は何としてでも彼に会いたい!
布の悲鳴に怯えながらも何とか地面に辿り着いて、走って家から抜け出した。
凍り付いた道で滑りながら、彼との縁を握り締めてあの暗い市へ。
「ようこそ、お待ちしておりました。
 お嬢さん、今日は何になさいますか?」
 彼の指と、並べられた古代遺物が私を誘う。
その殆どが偽物だが、稀に本物が混じっている。
どれにしようか。今日だけは、いつもと違う物を選びたい。
「ああ、可哀想に。こんなに冷えてしまって」
大きな手が私の冷え切った手を握る。
彼もさほど体温が高いわけではなかったが、それでも指先が癒えていくのを感じた。
ここで私が彼の手を握り返したらびっくりさせてしまうだろうか、なんて考えて、行動には移さずそっと手を離す。
どれほど甘く囁かれても私はただの顧客の一人。
だからどれだけ頬を赤く染めても、目を潤ませてもそれは私だけの感情だ。
「その靴、部屋履きではないですか。
 ああ、また頑固なお父様に叱られたんですか?
 全く困ったものですね」
「ふふ、そうなんです。
 あの人も、サンポさんみたいにお話してくれる人ならよかったのに」
 こんな男性に惹かれたのは、あの父あっての反動だろうか。
間違いなく彼はわるいひとなのに、こうして会えるだけで胸が高鳴って、それでいてどこか安心してしまうのだ。
今日も煌びやかな偽物を用意して、私が罠に掛かるのを待っているのに。
……これが欲しいです」
しかし今日の私が選んだのは燻んだ色をした本物。
すると彼は驚いた顔をして、本当にそれでいいのかと何度も確かめてきた。
彼の中での私がどれほど愚かな女なのか手に取るようにわかる。
敢えて偽物を選び続けているなんて思うわけがない。
ユメさんの好きそうなのもありますよ?
 ほら、こちらとか。一生懸命用意したんですが、お気に召しませんでしたか?」
「いいえ、そちらもとっても素敵です。
 ですが、今日はこれが欲しいんです。
 いつものようにお話していただけますか?」
「え?ええ、構いませんよ。
 それでは、こちらの古代遺物ですが……
 本物を買うと彼の話も正しいものになるのかと感心する。
それは結婚式で使われる儀式用のグラス。
本来の用途としては酒を飲み干した後叩きつけて割ることで今後の幸福を占うものらしいが、それは保存状態が良く使われることもなければ割れることもなく残っていたようだ。
彼から提示された金額を支払って、包装されるのを待つ。
「サンポさんって、結婚はされてるんですか?」
「してたら今頃怒られてますよ!
 こんなに可愛いお嬢さんと密会して、浮気だって。
 ふふ、今日のワンピースも素敵ですね?」
……そ、そうですか。そうですか……あの……
「んもう、そんなに照れちゃって。
 ユメさんはどうなんです?いい人、いらっしゃるんですか?」
 散々色仕掛けをしておいて、その質問はずるいのではないだろうか。
今私の目に映っているのが誰か、見えないわけではないだろう。
目を逸らした私を追って、その答えを知っているとばかりに彼が笑う。
「言えません」
「そうですか!ええ、無理に聞き出したりはしませんよ。
 ああ、僕にも浮いた話があればこの場が盛り上がったのでしょうが……
……それは聞きたくない、です」
「おや?」
「あ……で、では私はこれで!また来週!」
 最後になんてことを口走ってしまったのだろう。
彼の好意は金のためだ。報われないことは分かりきっているのに。
それにまた来週、なんてない。
咄嗟に口から出たその言葉がずきんと胸を痛めつける。
走ってそこを逃げ出した時には目から涙が溢れていた。
帰りたくないのに、家への帰り道しか知らない。
――彼に会うのも今日が最後。
明日、私はこの星を発つ。
そして、一週間後には顔も知らない誰かと式を挙げるのだ。



 そしてまた一週間。
子供の頃憧れだったウェディングドレスを着て鏡の前に立っているのに笑うことができない。
どこにでもよくある話だ。
父親が勝手に決めた縁談。相手は顔も知らない年の離れた男。
テンプレートをなぞっただけのお決まりの人生だ。
彼のいるベロブルグを離れて、日々の彩りも消えた。
お気に入りの華やかなワンピースはもう着ることがないだろうし、偽物の古代遺物コレクションは全て廃棄された。
「こんな物に金を注ぎ込んで」と父親が怒り狂っていたのは随分と滑稽だったが、空っぽの心から笑みが溢れることはなかった。
最後に、あのグラスを受け取らずに帰ってしまったことだけが心残りだ。
馬鹿なことを口走って、恥ずかしくなって、彼の元から逃げ出した。
 また来週、今日がその日だ。
彼はまたいつもの場所で私を待っているのだろうか。
もうそこに向かうことはできない。こんなハイヒールでは、凍った道を歩けない。
ただ鏡を見つめて、涙を堪えて運命の時を待つだけだ。
「失礼します」
 女性の声がして、扉が開く。
まるで彼のような青い髪が美しい、長身の女性だ。
その色を思い出したくなくて目を閉じる。
――私はもう、彼に会えないのだから。
不幸だとは思わない。
彼に出会って、嘘だとしても恋ができて幸せだった。
この先、夫がどんな人間だったとしてもあのときめきを抱えて生きていこう。
なんて――
「そんな顔しないで目を開けてください。
 忘れ物のお届けに参りましたよ」
……え?」
 目を開けた先。その女性から、サンポさんの声がする。
恋焦がれておかしくなってしまったのだろうか?
目の前の女性は困ったように眉を下げていて、その仕草もどことなく彼を思わせる。
「僕ですよ、僕。本当に、探しましたよ。
 ユメさんたら、お金だけ支払って商品を受け取らずに帰ってしまったんですから」
 もう潜入は成功しましたし、とウィッグを外して口紅を拭いて、彼の顔が現れる。
着込んだ服を脱ぎ捨てれば、そこにはいつものサンポさんがいた。
手にはあの日受け取りそびれたグラスの入った箱を持って、私の目をじっと見つめている。
「どうしてここに……!?」
「はは!その話は後でしましょう。
 あなた、このままこの星で結婚して幸せに暮らすつもりですか?」
「な、何言ってるんですか」
「ああ、もう少しわかりやすく言いましょう。
 僕のためにベロブルグにいてくれるのではなかったのですか?」
 そこに怒りはない。失望に似ていて、しかし叱責の意図は感じない。
それはいつかの私が言った、果たせないとわかっていた口約束だ。願いと言った方が正しい。
まさか、その言葉のためにここに来たというのか?わざわざ星を越えて?
ああ、まさかあの突飛な夢物語は真実だったとでも言うのだろうか。
ただ今はそれを確かめるより、彼の問いかけに答えるべきだ。
「ベロブルグに帰れるなら、帰りたいです。
 だけど……
 そう簡単に逃れられるものとは思えない。
父との仲は良好とは言えないが育てられた恩がある。
顔も知らない未来の夫だって、嫌な人とは限らない。
なんなら目の前の男の方がよっぽど悪人なのだ。
それなのに、どうしてこんなにも心惹かれてしまうのだろうか?
「ここに残るなら、無理強いはしません。
 先程婚約者の方の顔も覗いてきましたが、優しそうな方でしたよ」
……もし私がここを出たいって言ったら?
 あなたは何かしてくれるんですか?」
「勿論、ユメさんをベロブルグに連れて帰りますよ!
 僕にとってはあなたは最高のお得意様です。
 逃すわけにはいきません!」
……本当ですか?」
「ええ、このサンポこんなところで嘘はつきません。
 さぁ、選んでください。あなたの人生を!」
 ここで彼の手を取るほど愚かな選択はない。
彼は私の未来を保証する存在ではない。
育ての父への恩を捨てて、婚約者の顔に泥を塗って、自分を騙し続けた詐欺師を選ぶなんて狂っている。
だけど、彼だけは私の人生に選択肢を与えてくれた。
彼だけは私に選ばせてくれたのだ。
「お願いします、サンポさん。
 私を連れて帰ってください!」
「あはははは!
 あなたは本当に最高のお客様だ!」
 きっとお先は真っ暗だ。
知らない旦那様のもとで従順なふりをして一生を終えた方が穏やかな人生を送れたはずだ。
それなのに私は彼の手を取って、式場を抜け出して車に乗り込んだ。
異変を察知した父が私達を追って、まるでドラマだと他人事のように笑ってしまう。
ユメさん、こちらを」
 渡されたのはあの儀式用のグラス。
叩きつけて割ることで未来の幸福を占うもの。
ああそうだ、今日は結婚式の日だ。
最後にそれらしい姿のひとつ、見せてやるべきだろう。
「破片が多ければ多いほど幸せになれるそうですよ」
大きく振りかぶって、そのグラスを車の後方へ投げつける。
割れたグラスの上を、父達の車が轢き潰してさらに粉々にしていった。



「はぁ、危ないところでした。
 あなたの嘘に騙されて、朝まで待っていたんですよ?
 時差がなければ今頃お得意様を失うところでした」
「ふふ。良いカモでしたもんね、私」
「え?いやいや、カモだなんて、そんな!」
 窮屈なウェディングドレスのまま、助手席で彼の横顔を眺める。
破滅へと向かっているはずなのに、心はとても喜びに満ち溢れていた。
何より自分の意思で未来を選択したという事実が幸福で、何度も現実を確かめていた。
浮かれ切った私に彼が優しく笑いかける。
「さて、お嬢さん。
 あなた、古代遺物の真贋を見る目がありますね?
 どうして偽物ばかり選んでいたんです?」
「ふふ。
 だって、良いお客さんの顔は覚えやすいでしょう?」
「なるほど。
 全くその通りです!
 見事にしてやられましたね」
 追手ももう見えなくなって、悠々と信号の前でブレーキを踏む。
ベロブルグに帰る前に二度と訪れることのないであろう星を観光している気分だ。
そう気楽に考えられるのも彼が隣にいるから。
一人では心細くてどうしようもなかっただろう。
「ではもうひとつ。何故僕の元を訪れたんですか?」
「はじめは父への当てつけでした。
 何もかも勝手に決められて、反抗というものがしたくなって」
「はは!遅い反抗期でしたね。
 そこで出会った人間が僕で良かったです」
「ええ、全く。
 あなたに出会えて良かった」
 彼に会わなければ私はきっと意思を持つことなく人生を終えたのだろう。
古代遺物も、ワンピースも、住む場所も。選ぶことなく過ごしていたはずだ。
親不孝で恥晒しな娘にはなってしまったが、彼に出会えた運命に心から感謝しよう。
「それでは、最後に。
 この度の支払いはどうされるおつもりで?」
 現実的に考えてこれが最大の問題だ、と思う。
裕福な実家を捨てて、婚約者も捨てて、私は一人。
おそらくは、以前より苦しい生活になるだろう。
いつまでも彼のお得意様ではいられないだろうし、まず迎えに来てくれた礼をしなければならない。
「ベロブルグについたらお仕事を探すので、少し待っていただけませんか?」
「あはは!あなたらしい!
 ですがサンポ、それでは待ちくたびれてしまいます。
 星を越えたお迎えですから、高くつきますよ」
「そ、そうですよね。では……どうしたら……
 早々に借金を背負って転落人生だろうか。
思い出しておくべきは、彼が詐欺行為を働く人間だということ。
それなりに覚悟は決めておいた方がよさそうだ。
なんなら恐ろしい稼ぎ方を提案されるかもしれないし、犯罪の片棒を担がされるかもしれない。
「思いつきませんか?
 もっと単純に、僕達の関係を思い出してください」
「えっと、詐欺師と金蔓?」
「そうではなく!
 あなた、隠さなくなってきましたね!?」
「それ以外何があるっていうんですか?」
 彼の言葉ひとつひとつを頭の中に書き起こしても思い当たる節はない。
大きな溜め息をひとつついて、彼が車を止める。
まさかベロブルグに帰る前にこの星で降ろされるのだろうかと怯えた私のウェディンググローブを外して、彼はその手にそっと口付けをした。
「こういう意味ですよ、お得意様」
 その瞬間、かっと頭が熱くなる。
彼の騙し行為については理解した上で乗っかっていた。
贋作を買い漁るのも楽しみの一つだった。
だがこれは違う。
それへの耐性は無に等しい。彼の色仕掛けは心臓に悪い。
「悪い遊びはやめてください……!」
「あはは、真っ赤になって可愛いですね!
 これからたくさん楽しませていただきますよ」
 私の恋心をこれ以上弄ぼうというのか。
こちらは真剣に返済について考えているというのに。
抗議の意味を込めて手のひらで彼の顔を押し返しても笑うばかりでびくともしない。
「僕のためにベロブルグにいてくれるんでしょう?
 なら、遊びかどうかはあなたが確かめてください。ね?」
「い、今楽しませてもらうって言ったじゃないですか!」
「それはそれ、これはこれです。そうでしょう?」
 何がそうでしょうなのか、と抗う手首を掴んでずらされて、唇に何かが触れる。
やわらかくて少しあたたかい、はじめて知った感触。
それが何かを理解しようとして、目の前の光景に脳が理解を拒んで。
だけど目を閉じなければいけない気がして――私の意識はぷつりと途切れた。
 目が覚めた時には空のない街の中、長い髪の女医に看病されていて。
着慣れないが暖かい服を着せてもらって、ここがベロブルグの下層部だと知った。
はじめて来たが、意外にも賑やかで良いところだ。
身につけていたドレス類は全て彼が持っていってしまったらしい。
代わりにと残された箱を手渡され、何があるのかと蓋を開ける。
中身は華やかな色合いの雪靴だった。
普段使いには向かない色だが、可愛らしい服装に似合うだろう。例えば花柄の――
そこまで考えて、どさりと枕に倒れ込む。
「大丈夫?音がしたけど」
「ナターシャさん、おすすめのお仕事ってありますか……
 彼に嘘をついた代償は大きいようだ。
あるいは願いへの対価だろうか。
何にせよこの先の人生は返済で忙しくなるだろう。
この心臓は有限だ。
なるべく金で済ませてしまいたい――紙とペンを借りて、履歴書の作成を開始した。