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しか野
2026-03-14 20:38:23
3183文字
Public
スミイサ短編
還らずの(スミイサ)
2024.5.23/約3,000字/プールで遊ぶ話。2025.5に出した本はここから生えました。
還らずの
初出:2024.5.23
※再録本『Just we two』に収録
----------
大きく切り取られた天窓から陽光が差し、揺らめく水面が不規則に眩く光り輝く。その光の中を、まるで水棲生物であるかのように軽やかに泳ぐ男がいた。
(なんてきれいなんだろう
……
)
スミスはプールサイドに腰かけて彼に熱い視線を注いでおり、その緑の眼球はその姿を追って左右にいったりきたりを繰り返していた。
ひとしきり自由に遊んで満足したのか、そう深くはない水底に足をついて男が立つ。彼は濡れそぼる髪をかき上げて、秀でた額を晒した。彼は全身あますところなく全てが芸術品のように美しいが、そのシャープに整った横顔は格別だとスミスはしみじみ感じ入るのだった。
「お前は泳がないのか? せっかく貸切なのに」
足だけを水に浸して座っているスミスに、彼が水をかき分けるようにして近寄ってくる。ほとんど水の抵抗を感じさせない、軽やかな歩みだった。
「お前があんまりきれいだから、見惚れてたんだ。まるでおとぎ話のmermaidみたいだった」
思っていたことを正直に口にしてみると、イサミは一瞬ぽかんとした後に、バーカ、とくすぐったそうに笑うのだった。
半ば無理やり押し込まれた豪華客船、ここはその一角にある小さな屋内プールである。基本的にはすべての乗客に解放されているが、事前に予約を取ることで一定時間貸し切ることも可能だ。
『ちょっと泳ぎたいな』
スミスはそんなイサミの何気ない一言を決して聞き逃さず、即座に船内のプールの場所、大きさ、使用時間帯などを調べ上げた。イサミやルルの可憐な姿を他人の視線の前に晒すわけにはいかない、金を握らせてでも三人だけの空間を作ってやる、と息巻いたが幸い、人目を気にせず遊泳したい客のニーズに応える仕組みが存在した。スミスはその足で、直近の日程で、三時間ほどの予約を取りつけた。
そして喜ぶ二人を連れて、船内のショッピングモールで水着や浮き輪、それから水鉄砲やビーチボールなどの玩具もひと通り買い揃え、早速南国リゾート感の演出された空間に足を運んだのである。
子供のようにはしゃいで遊び回ったルルは疲れ切ったのか、プールサイドに上陸したフロートをベッド代わりに、すやすや眠っている。部屋に運んでやってもいいが、目が覚めた時に一人きりだったらきっと寂しがるだろう。
冷えて風邪を引かないようにと何重にもバスタオルをかけてやった後、イサミは水中に戻り、それは見事な泳ぎを披露してくれたのだった。
「まだへばるには早いだろ? 来いって」
「あ、こら引っ張るな!」
ぐいっと加減なく手を引かれると、彼ときたらそれはもう力が強いので、気を抜いていたスミスは踏みとどまることもできない。そのまま見事に、水中へダイブである。シャツが水を吸って重石のようになるし、塩素の効いた水が少し鼻に入ってツンとした。
ぶは、とどうにか水面に出てイサミを叱ろうとしたものの、彼があんまり楽しそうに笑っているので毒気をすっと抜かれてしまった。
はしゃいでいるのだ、あのイサミが!
笑顔にしばし見惚れていると──今日は見惚れっぱなしだ、多分明日も、その先もそうだろう──、イサミは髪をくしゃくしゃとやりながらぼやく。
「人魚姫なんてやだぜ、俺。だって、あれって泡になって消えちまうだろ?」
「それは恋が叶わなかった時の話だから、イサミは消えないよ。なぜなら、俺は必ずイサミに惚れるからだ」
片目を閉じて自信満々に言ってのけ、ちょっぴり拗ねたみたいに尖った唇の、端の方に柔く口づける。
恋に破れて海の泡と消えた悲劇の少女と彼は違う。例えば彼が言葉を発することができなくても、上手く歩くことができなくても、そもそも人でなかったとしても、間違いなく好きになるだろうという確固たる自信がスミスにはあった。
イサミという存在そのものを愛しているから、彼を取り巻く様々な要素はほんの些細なことだ。もうほとんど、信仰に近いと言ってもよかった。
「それに、お前が海から離れたくないって望むなら、俺がそっちで暮らしたっていい」
「無理だろ、肺呼吸人間」
つん、と豊かな胸板をつつかれる。
「知らないか? 昔の映画だけど
……
ここに」
スミスは彼の濡れた首筋に手をやった。そして丸く短く整えられた爪を立てるようにして、指先でそうっとなぞる。イサミの体がほんの少し跳ねた。
「異形の男が、人のここにできた傷を鰓に変えて、海で幸せに生きていく話」
「
……
俺は土の上がいいな。ルルもいるし、みんなもいるし」
「はは! そりゃそうだ」
いかにもただのジョークだというように笑い飛ばして見せたが、スミスは彼については常に本気だった。本当に、どこへだって着いていくし、永遠に隣を歩くつもりでいる。そうでない人生など考えるだけ無駄だ。
スミスは彼の腰を抱いて引き寄せると、ほんの少しだけ爪の跡が残ったそこに、歯を立てないよう唇をかぶせて甘くかじりついた。誓いの証を残すように、柔らかいそこを吸う。
「こら、見えるところに跡つけんなよ」
ぺちん、と後頭部をはたかれるが、ほとんど力なんて入っちゃいない。どうやら甘やかしてくれるつもりらしい。そう踏んで調子に乗り舌を這わせてみると、今度こそ彼は身をよじって嫌がる様子を見せた。
「やめろ、って
……
」
「どうせ誰も見てないよ。ルルも
……
ほら、寝てるし」
「そういう問題じゃねぇっての」
イサミはするりと猫のようにスミスの腕から抜け出して、そのまま水中へ逃げて行ってしまった。追いかけるように水中へと体を沈めると、器用に潜水した彼は仰向けでこちらを見ていた。
黒髪がゆらめき、複雑な形の影を作る。口からぷくぷくこぼれては水面へ上がっていく泡は真珠のようだった。スミスを見つめて小さく微笑む彼は、本当に水の中で暮らす美しい生き物のようだ。
スミスは彼を捕まえて、水が入らぬようにそっと口づけする。息が少しずつ交わって、肺に入り、体中へと染みわたっていく気がした。
しかし悲しいかな、やはり二人は酸素がなくては生きていけない生物だった。意地を張るように唇をくっつけあっていたが、やがて限界が訪れてほとんど同時に水面へ上がる。派手な水柱が立って、二人は一斉に大きく息を吐き出した。
「ば、馬鹿やろ
……
し、死ぬかと思った
……
」
「はぁ
……
はぁ
……
でも、まんざらでもなかったろ?」
「
……
やっぱり無理だな、水の中は」
「だな。地に足つけて生きていこうってことだ」
おそらくそろそろ、三時間が経過するころだろう。玩具を片付け、ルルを連れて引き上げなくてはならない。
「待てスミス。時間もう少し大丈夫だろ? 最後に勝負しようぜ」
踵を返そうとしたスミスのシャツをイサミがつかむ。振り返ると、彼はまだまだ遊び足りない子供のような顔をしていた。
「
……
いいぜ、望むところだ。何を賭ける?」
「お前らってほんと賭け事好きだよな。そうだな
……
じゃあ負けた方は、勝った方の言うことをなんでも聞く
……
。もちろん『今夜』に」
tonight、と秘め事のようにひっそりとイサミは口にした。夜の気配を感じさせる笑みに胸を高鳴らせながら、スミスはなるべく鷹揚に頷いた。余裕がないと思われたくなかった。
「
……
いいね、定番だ。フェアに行こうぜ、イサミ」
「こっちのセリフだ。その重そうなもんは脱いどけよ」
「お前が濡らしたくせに!」
先ほど垣間見せた色気はどこへやら、ぱっと表情を華やがせたイサミは早速スタート地点へすいすい泳いでいく。スミスはいそいそ『重そうなもん』であるところのシャツを脱いでプールサイドに放り、愛しの人魚姫を追いかけた。
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