開いていた資料データを閉じ、PCをシャットダウンする。電源が落ちて暗くなった画面を畳み顔を上げると、龍胆くんも作業を終えたようで軽く肩を回しているのが見えた。
公安部のオフィスには他に誰もいない。資料の整理や報告書の作成など細かな作業のために珍しく内勤の日だった。龍胆くんも同じようで、朝からみっちり大量のデータと格闘していた。急ぎ片付けなければならないもの以外はどうしても後回しにしがちだ。そういったものが一つ二つと溜まると、あっという間に煩雑な仕事ができあがる。それらを片付けるのは好きな方だが、思った以上にその数が増えていたのには驚いた。いい機会だろうと作業していたのだが、こんなにかかってしまうとは予想外だった。時計を見ると二十三時半である。
「もしかして、僕を待っていてくれたのかい?」
「べつに。おれもやることあっただけだよ」
「そうかい? ありがとう」
「なんのありがとうだよ」
いたずらっ子のような、ちょっと呆れた息を吐き出す笑い方にこちらもつられて笑みがこぼれる。言ってくれればそれなりの時間で切り上げても良かったのに、黙って待っていてくれるとは随分とお利口さんというか、いじらしいというか。そういうところが龍胆くんのかわいいところだよななんて思ってしまう。
「折角だし食事でもと思ったのだけど、こんな時間になってしまうと難しいね」
「あー、もうどこも閉まってるだろうな」
「こういうのは先に時間を決めておくべきだったね、すまない」
「そんな堅苦しく約束するようなもんじゃないだろ。大体、『飯行くか』『おう』みたいなもんなんだから」
「はは、それもそうか。残念だな、龍胆くんと食事をする機会を一つ潰してしまった」
「大げさだろ」
「このまま帰るのはなんだか勿体ないなと思って」
頬杖をつきながらそう言うと、龍胆くんはちょっと驚いたあとなんだか不思議な表情をした。例えるならば、「苦虫を噛み潰した」……違うか。もう少しポジティブなニュアンスかもしれない。龍胆くんは大抵が顔に出るし嘘が下手だから分かりやすいのだが、たまにうまく表現しにくい感情を浮かべることがある。こういうのを察するのは龍胆くん自身の方が得意な分野なんだろう。彼の場合は理論的というより感覚的なものなのかもしれない。そう考えると、彼はどのくらい僕のことを察しているのだろうか。
しばらく見つめていると、目をうろうろさせたあとに口を開く。
「じゃあ、おれんちで飲んでもいいけど」
「本当かい? では折角だしお邪魔したいな」
「なんでそんなに楽しそうになるんだよ。特に何もねぇぞ」
「いやあ、何と言うんだろうね。人の家で夜遅くに飲むって、なんだか学生みたいで楽しいなと思って」
「そういうもんかね」
「僕はそういったことがなかったものだから。憧れ……というと大きいけれど、そういうの興味があるよ」
「ふうん。ま、じゃあ適当になんか買って帰るか。おれ明日休みだし」
「おや、奇遇だね。僕も明日は休みなんだよ」
「ならちょうどいいか」
そう言って龍胆くんが立ちがる。そのまま二人で駐車場に向かい、いつものように僕は運転席へ、龍胆くんは助手席へと収まる。
途中コンビニに寄り、酒とつまみを調達した。龍胆くんとは何度も食事をしているけれど、基本は外食なのでこんな風に適当な「飲み」をするのははじめてだった。
道案内に従い着いた場所はごくごく一般的な一人暮らし用のマンションだ。「まぁ適当にしてくれ」と言いながら、龍胆くんはドアを開ける。
買ってきたものをテーブルに広げ、ソファに座る。人の生活空間にいるというのはなんだか不思議な感覚だ。思った以上にきれいにしているんだななんて思ったけれど、とりあえず言わないでおく。
龍胆くんは羽織っていたスーツを適当に椅子にかけ、コップとか皿とかをいくつかキッチンから持ってきたあと無音はどうかと思ったのか音量を絞って適当にテレビをつけた。
「あ」
「え?」
「いや、おまえのスーツ、かけといた方がいいのかなと思って。シワになったらやべーだろ」
「やばくはないけれど。まぁでもジャケットだけはかけておこうかな?」
ハンガーを手渡されたのでありがたく頂戴する。シワになったらなったでクリーニングに出せばいいくらいにしか思っていなかったが、なんとなくその気遣いが愉快でくすりと笑う。龍胆くんの眉がちょっとだけはねたのを見逃さなかった。
他愛ない話をしながら買ってきた酒を開ける。お互いに酒に強いというわけではないので、本当に、だらだらゆっくり飲んでいる。
かしゅ、と小気味良い音と共に炭酸がパチパチと踊った。随分と甘ったるい人工的な匂いが漂う。ラベルを見ると「春限定 さくらんぼ」とある。普段ならあまり買わないタイプの味だ。おもしろがって「新商品」「期間限定」とポップがあるものをカゴに入れていたから、やたらときらきらしたチューハイばかりを買ってきていたようだ。
口に含むと、匂いそのままの人工的な甘みが口の中に広がった。
「あま」
龍胆くんが顔をしかめる。彼の持つラベルには「春いちご」と書かれている。
「ビールもあるけど」
「開けちまったから全部飲むって。なんかこういう甘い酒、普段飲まないからちょっとびっくりした」
「同感だ。でも、こういうのってジュースとも違う感じでおもしろいよね。季節ものとして味わうのはいいのかも」
「そうかぁ?」
「季節限定品というのは、そのときに飲んだり食べるときの思い出として消費するものだろう? 味の好みはあるけれど、そういう『この時期に飲んだな』っていうのが面白いんじゃないかなと思うよ」
「分からなくはない……かもしんねぇ」
随分とふんわりした返答に笑い声を漏らすと、龍胆くんも機嫌良さそうに笑みを見せてくれる。ここが彼の自宅だからなのかもしれないが、普段職場や外で見る表情とはなんとなく違うような印象を受ける。やわらかい、のかもしれない。そのやわらかさが自分に向いていることが、なんだかとても気分がよくて。もしかしたら、春限定の甘い酒の気分にも釣られて。
それでちょっと、喋りたくなってしまったのかもしれない。
「龍胆くん」
「あぁ?」
「僕はね、君のこととても気に入っているんだよ」
「はぁ、そうですかいそりゃどーも」
龍胆くんは持っていたチューハイを傾けた。ちらりとも見てくれないので、ちょっと悲しい。完全に、いつもの話を流すときのテンションだ。一口二口と液体を流し込む度に喉仏が上下するのを眺めながら考え込む。
「うーんおかしいな。どうも伝わっていないようだ」
「伝わってるって。はいはい、ありがとうございます」
そう言いながら今度は缶を置き、適当に並べていたつまみを口に運んでいく。いちごのチューハイにビーフジャーキーというのは、少々微妙な組み合わせなんじゃないだろうかと思ってしまった。
「何度も言うけれど、僕はいつも本心で喋っているつもりだよ。だから君を好きだと言うのも本心だ」
「お前にかかったら人類みんな好きの範疇だろ」
「そんなことはないんだけれどなあ」
龍胆くんの面白がっているようなその表情がちょっと気に食わない。コミュニケーションというのは難しいものだななんて思う。心の底から嘘は言っていないしちゃんと伝えている気持ちはあるのに、どうも本気に取られないのはいつものことだけれど、どうしても伝わってほしいということはあるのに。
「君は僕に対してどう思ってる?」
「はァ?」
「僕だけ真面目に言うのはちょっと不公平かなと思って」
「それ真面目なわけ?」
「そうだよ」
龍胆くんはうーんと唸ったあと僕の方を五秒くらいじっと見て、そして目を逸らした。
「バディで、まァ一応上司で。あとは、嘘くさいけど信用できるやつだとは思ってる。嘘くさいけど」
「二回も言うのは酷いじゃないか」
「事実だろ」
「僕は君が好きだよ、と言っているんだよ」
「あー? じゃあ、分かった分かった、おれも好きですよ。これでいいだろ? なんだこのやり取り」
めんどくさい酔っぱらいへの対応みたいな言い回しにちょっとむっとした。そこまで酔っている訳ではないのだが。
持っていたチューハイをテーブルに置く。コトンと鳴った音に龍胆くんが視線を向けた。片眉をぴくりと上げたその顔を、今度は僕がじっと見つめる。赤い瞳が揺れた。
そのままずいと身を乗り出して、何か言おうと開いた口を強引に塞いだ。
龍胆くんが固まるのが分かる。ほんの一瞬触れ合った唇を、すぐに離した。ソファがきしりと微かに音を立てる。
「こうしたら少しは伝わるのかな?」
驚いたのと、何が起こったのか分からないの半々のような表情で瞳を揺らす龍胆くんが、なんだかとてつもなく可愛くて、思わず笑ってしまった。龍胆くんはぱくぱくと口を動かしたあと、それこそ漫画みたいに顔が真っ赤に染まっていく。
「お、まえ……、」
「言葉より行動って言うかなと思ったんだけど」
「いや、そうじゃねえっつうか……いや、あーっもう!」
龍胆くんは頭をぐちゃぐちゃとかきむしる。人の顔……というより耳ってこんなに赤くなるものなんだなと少しだけ愉快な気持ちになる。やっぱり少しだけ酔っているのかも。
だが、「あ」と思った次の瞬間には視界が龍胆くんで埋まっていた。触れた唇が熱い。角度を変えながら何度もキスをされる。ちゅ、となんとも可愛らしい音が聞こえた。
何度かまばたきをして近すぎる焦点を合わせると、龍胆くんの赤い瞳とぶつかる。照明に反射して光るその色は、日中見るよりもとろりと艶を帯びていた。昔飲んだことのあるカクテルを思い出す。ロブ・ロイ。赤茶色の美しい酒。
「りん、」
「……じゅーいち」
やたらと甘い声色で名前を呼ばれる。頭がぼうっとして溶けていきそうになる。
どちらからともなく舌を絡めた。龍胆くんの「ふ、」という息を吐く音が耳に届いて、ぞくりとした感覚が全身に走る。ああ、その声好きだなと思う。もっと聞きたいけれど、どうやったら聞かせてくれるんだろう。
お互いの熱がどんどん高くなっていくようだ。軽く胸を押すと、大きな体はあっけなく重力に任せてソファに倒れる。青い髪がふわりと広がった。
散々合わせていた唇を離すと、繋がったままの光る糸が名残惜しそうに切れて消えた。
見下ろした龍胆くんは息を整えようとしてか、大きな呼吸を繰り返す。広く開いた胸元が上下する。瞬きとともに、一粒だけ涙が頬を滑って落ちていくのが見えた。乱れた髪を一房梳いてあげると、潤んだ瞳でこちらを睨む。
「がっつきすぎ」
「おや、穏やかなのが好みだったかな」
「そうじゃねぇつうか……そもそも急だろ」
「君に分かってもらうのは、これが一番なのかなと思って」
「なんだよそれ……」
「嫌だったのなら、謝罪しよう」
「そう見えたのかよ」
龍胆くんの手が伸びて来て頬を包まれた。その手が熱いのか、それとも自分の顔が熱いのか、よくわからない。見つめるその瞳は相変わらずとろりとした艶を含んでいる。
「いいや、全然」
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