二卵性
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いつか星を描く致命傷5

おうちデート回(ヌヴィリオ) すべてが捏造です
1-5のまとめ→https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=27583210


人と役割とは、全く別のものであり、その型に当てはめたり、型で抜いたりするものではない。
しかし、型を見て演じていればその境界はいつしか曖昧になるだろう。本当の自分とは、己がそうと決めたキャラクターなのか?型の外にはみ出したら、いったいどうなってしまうのか?他人に観測されない自分は、本当に存在するのか?
ヌヴィレットはその問いを鼻で笑うことができる。
最高審判官とは、水の龍王の一部にしかすぎない。人の形で生まれ、その意義を探し、招かれてやってきた場所で与えられた役割だ。
責務は全うする。
だが、それが全てではない。
権能の返還を経て、ヌヴィレットは強く思うようになった。この役割は最後の審判のための糧であり、手段にすぎない。目的はすでに定まっている。何百年、何千年先のことかはわからない。まだ若い龍は、積み重ねた千年より長い道を見据えている。
――自分がそうであるのだから。
ヌヴィレットは考えた。
しりたい、ほしい、ねがって、きめた。
彼の持つ役割のその外側。演じる仮面のその内側。すべてを自分は知るべきだ。
宝物庫に収めるとは――須臾の存在を己が内で永遠にするとは、そういうことに違いなかった。



顔色は悪くない。呼吸も整っている。鼓動は少し早いが、問題があると言うほどではない。歩き方も正常で何かをかばっている様子はない。紙を繰る指先に赤みは残っておらず、後遺症も見受けられない。
――とまあ、そういう経緯だったのさ」
よく響く、急かさない明朗な話し方。リオセスリは執務机の向かいから、ヌヴィレットを見下ろしていた。
本来、メロピデ要塞で発生した事件について、彼がパレ・メルモニアに報告する義務はない。あるとするならば、水の上に影響を及ぼすときだ。今回の事件はそれに当てはまらない。
だが、律儀な男は、ヌヴィレットが当事者になったことを踏まえて、会談のついでに口頭での報告をすることにしたようだった。
曰く、あの嚢胞は本来要塞の中のものではなかった。あの部屋も採掘中に行き当たった、メロピデ要塞に属さない遺跡の一部であったらしい。
あの嚢胞は最初、取水口の外側にべったりと張り付いていたので、脱獄ルートとしては不適切だった。それを、アルケウム鉱石の持つ物質と物質以外の何かを分離させる性質を使って無力化しようとした。二十年も前の話だ。
今回捕まった囚人が始めた計画でもなかったらしい。一時期は諦められていたが、ここ数年でメロピデ要塞内にはフォンテーヌ科学院出身の囚人が増えた。アルケウムの扱いに長けた囚人である。空中に華麗な観光スポットを作ることと比べたら、取水口から嚢胞を分離することは極めて簡単だったようだ。
ただ、彼らは嚢胞の存在そのものを消すことはできなかった。アルケウムによって分離された嚢胞は、部屋の中で自然と再構築された。取水口は塞がれていたので外に捨てられなかったのだ。
水を満たさなければ、おそらくは活性化しなかっただろう。脱獄の準備を整えた男が最初からそうするつもりがあったのかはわからない。追われて追い詰められて、ああなったのか。囚人の手作りの潜水服はお粗末でとてもではないが水の上まで逃げられる仕様ではなかったので、どちらにせよ逃げれなかったがね、とリオセスリは肩を竦めた。とはいえ罪状に変わりはないため、要塞の管理者は関係者全員を特定し、処罰したらしい。
「ついでに要塞の壁に残っていた、フォンテーヌ科学院で使われる特殊な暗号を消すために溶剤を大量に作って大掃除をしてね。シャワーを浴びてはきたんだが、匂わないといいんだが……
「不快には感じない。問題ないだろう」
「そりゃあよかった。ちなみにあの嚢胞自体が何かは判明しなかったわけだが、あんたに心当たりはあるかい?」
リオセスリが本当に聞きたかったのはここだろう、とヌヴィレットにもわかる。よって素直に答えてやった。
「あれは汚染クリープの一種だろう。水脈の穢れが物質化したものだ。本来はエリニュス島で発生する……どういった経緯であそこまでたどり着いたかは不明だが」
「自然にできちまうものなのかい?」
「ああ。メロピデ要塞の周りも定期的に見回るよう伝えておこう」
エリニュス島からはやや離れているが、とヌヴィレットは考えながらうなずいた。普段はきままに漂っているのだから、多少遠くても問題はないはずだ。
「あんたの管轄下の事象なら、そうしてもらえるとありがたい。まあ、俺が水中戦の訓練をするという手もあるがね」
そう軽い調子で言うリオセスリに、ヌヴィレットは顎に手をやって答えた。
「ふむ。水中での権能を君に与えてみるか」
「ま……ッ、」
「あの程度であれば問題なく排除可能だろう。要望があれば適宜、」
「待て待て!本気かいあんた、」
執務机に手をついて身を乗り出してくるリオセスリの、瞳孔が開いている。ああ今のは冗談だったのか、とヌヴィレットはようやく理解した。
「君の望むものは与えると言った通りだが、今のがジョークであれば、真に受ける必要はない」
「つまり、俺はあんたの前で気軽にジョークも言えなくなったのかい?」
「もちろん適宜確認するので、遠慮は不要だ。望まぬものを与えるつもりはない」
「心臓に悪いって話なんだが……
ため息をつき、リオセスリは一歩下がった。
「まあ、ここで話すことじゃないな、これは。ヌヴィレットさん、他に確認しておくことはあるかい?」
公人としての顔に戻ってしまったリオセスリに、ヌヴィレットも生真面目に応えるしかない。
しかし、それこそ問題ではなかった。この会議が終われば、彼を私邸に招くことができる。フォンテーヌ廷のパティスリーでお茶請けを買って一緒に帰るのは、ほとんどデートと言って差し支えないだろう。
そして、リオセスリが事件の報告を始めたのはすべての議題が終了した後なので、今すぐにでもパレ・メルモニアを出ることができる。
「私からはない。君は?」
「俺も話したいことはこれで全部さ」
「では……ここからは個人的な時間となる」
ヌヴィレットはおもむろに立ち上がり、リオセスリに手を差し出した。リオセスリも手を差し伸べたが、途中で何かに気づいたように引っ込めてしまう。
「リオセスリ殿?」
「いや、エスコートはいらない。怪我も全部治ったしな」
「怪我がなくとも、君をエスコートすることはやぶさかではない」
というか、怪我をしているときはエスコートはせずに抱え上げるだろう。実際、そのようにした。リオセスリも覚えているはずなのに、彼はたまに都合の悪いことを忘れてしまう。
「そりゃどうも。だが、ゴシップ誌を騒がせる趣味もなくってね。大丈夫、後ろを歩くくらいはするさ」
「隣を歩いてもらいたい。君の茶菓子を選ばなくてはならないのでな」
「あんたのチョイスに文句はないさ。むしろ、何を選んでもらえるか楽しみだ」
「ふむ。では、私の茶菓子を君に選んでもらうのはどうだろうか」
「そいつは責任重大だ。だったらそれぞれ選んで、フォンテーヌ廷の外で合流するってのはどうだい?人生にはちょっとしたサプライズが必要だろう?」
言われると、とてもいい考えのように思える。ヌヴィレットは「君の発想はすばらしい」と受け入れ、そしてパレ・メルモニアの外に出てから、うまいこと丸め込まれたことに気がついたのだった。

とはいえ、共に歩く時間がないわけではなかった。
フォンテーヌ廷の外。二人で別々のパティスリーの箱をぶら下げて、人気のない道を歩く。ヌヴィレットはリオセスリに尋ねられ、家を買った当時の話をしていた。
「あんたはずいぶんと面倒見がいい」
メリュジーヌたちを保護していた話をすると、彼はそう笑った。
「これもまた、私の責務だ。彼女たちを人間の社会に招いた責任がある」
「だろうね。となると、家具も全部メリュジーヌサイズなのかい?」
「いや。君を招くにあたって、いくつかは新調した。なので安心してくれていい」
「はは……、面倒見がいいを通り越したな」
今度の笑い方は、苦笑だった。喜んではくれないのか、とヌヴィレットはこっそり思う。茶菓子を用意することは構わないのに、ソファはいけないらしい。
「通り越すと迷惑になるだろうか」
「いや、あんたのスケールが人と違うことに驚いただけさ。それも今更だがね」
……
ヌヴィレットは歩きながら少し黙り込んだ。リオセスリのことを全て知りたいと思うが、自分のことを知ってもらって、受け入れられるというのも、存外に悪くないことだ。自分が龍であると開示したのもその一端だったのかもしれない。感情の尻尾を掴めたようで、自然と頬が緩む。
そうしているうちに邸宅に辿り着き、庭を囲む鉄門を開けた。両脇にロマリタイムフラワーの咲き誇る石畳を進み、家の扉に手をかける。
「鍵はかけていないのかい?」
そのまま開こうとしたヌヴィレットに、リオセスリが眉間に皺を寄せた。無防備だとでも言いたいのかも知れない。
しかし、ヌヴィレットは自慢げに顎を引いた。
「ああ、君に言われて考えたのだ。物理的な鍵を持つ理由はないのではないかとね」
……つまり?」
「私自身が鍵となるよう封印を施した。そして、君を登録すれば君もまた鍵となる。こうすれば、君が合鍵を失くす可能性はゼロだ」
完璧なセキュリティ、完全なロジックだ、とヌヴィレットは微笑んだ。もはや断られる理由はあるまい。リオセスリはちょっと引いていたが。
「なんというか……、個人的な時間のあんたは、常識外れだな」
「公務から離れているときは人間の枠組みに囚われる必要性を感じない。これで君も好きな時に出入りできる」
「は、はは……
今度こそ扉を開ける。玄関でリオセスリのコートを預かり中へと案内すると、彼は不躾にならない程度に視線を走らせた。ヌヴィレットとしては好きなだけ眺めてもらっても構わないのだが。
リビングルームのテーブルの上には、真紅と黒の薔薇が飾ったままだ。長持ちをするよう、少しだけ弄ってある。
「かけたまえ。茶を用意しよう」
「悪いね」
ソファを指し示すと、リオセスリは素直に腰掛けた。ヌヴィレットはケープとコートを脱ぎ、ブラウスとスラックスだけの気楽な姿になって茶の準備を始めた。茶葉だけでなく、水もこだわったものだ。ティーセットと揃いの食器を出し、一緒にトレーに乗せて運ぶ。リビングルームのリオセスリは、本棚に並ぶ背表紙をぼんやりと眺めていた。
「リオセスリ殿」
「ああ、どうも」
「気になる本が?」
「あんたの趣味に感心してたのさ。見たことのない古書もあるなと思ってね」
リオセスリは自然な仕草でトレーの上の皿を取り、パティスリーの箱を開けた。リオセスリが選んだのは、涼やかな見た目のパート・ドゥ・フリュイだった。
「美しい菓子だ」
「あんたにぴったりだと思ってね。どれ、あんたが選んでくれたのは……、バブルスフレか」
「君の好みに合うだろうか?」
「好物さ。普通のバブルスフレはな」
シュガーポットを渡そうとしたが、リオセスリは「今日はやめておこう」と珍しく断った。ヌヴィレットもソファの隣に腰かけ、ティーカップに手を伸ばし――思い出して、グローブを外した。
露わになった白い指で、改めてカップを手にする。清らかなモンドの水と早摘みの若々しい香りが調和し、ヌヴィレットはそっと口元を緩ませた。自分で茶を淹れる習慣はないが、今回はそれなりにうまくいったように思える。
パート・ドゥ・フリュイも瑞々しさがあり、濃縮された果実の風味がありながらもくどくない。上品に口に運ぶヌヴィレットを、リオセスリはじっと見つめていた。
「お気に召していただけたかな」
「ああ。また君に茶菓子を選んでもらいたいものだ」
「はは、紅茶だけじゃなく茶菓子も選んでいいのかい?」
リオセスリが訪れる日のパレ・メルモニアでのティータイムは、必ず彼が贈ってきた茶葉を選んでいる。そのことに気づかれていたと思わず、ヌヴィレットは瞬いた。
「君はよく気が付く」
「そうでもない。わからないことだらけだよ」
「たとえば?」
「あんたのこととかかな」
ソファに身を預け、リラックスした表情で、しかし眼光だけは何かを見定めるかのように鋭い。ヌヴィレットは空になったカップをソーサーに戻して、リオセスリに向き直った。
「質問に答えよう」
個人的な時間だ。そして個人的な関係だけが、いまこの瞬間の二人の間に横たわっている。
「そうだな。いろいろ考えたんだが……
リオセスリは目を眇め、すこしだけ勿体ぶるように微笑んだ。
「ヌヴィレットさん。龍ってのは、人に恋できるもんなのかい?」
恋。
想定外の質問に、ヌヴィレットは目を丸くした。龍が、人に、恋をする。考えたことがなかった。
「まずはじめに……
言葉を探りながら、ヌヴィレットは口を開く。
「私は私以外の元素龍を知らない。さらに広義の龍に関しても、答えられない。よって以降の回答は私個人のものとなることを承知いただきたい」
「ああ、知りたいのはあんたのことだからな。構わないさ」
「それと、私は映影に詳しくない。そうだな、歌劇であればいくらか鑑賞の経験があるが……
「つまり?」
「恋の定義がわからないため……、いや、回答が不可能とするのは、うむ……
なんでも答えるという意気込みだっただけに、ヌヴィレットは眉根を寄せた。水龍に不可能があるだろうか?いや、ない。
考えてみれば、これは一般的な定義である必要はないのかもしれない。なぜなら質問者はリオセスリで、彼が知りたいのはおそらく「ヌヴィレットがリオセスリに恋ができるか」ということなので。
「君はどう思う?」
「おっと、答える前に俺に訊くのはずるいんじゃないかい」
「私は、君の恋の定義を知る必要がある」
「五百年生きていて、恋をしたことがない?」
ヌヴィレットは律義に訂正した。
「千年生きているが、恋をしたことがない。そもそも、他人に対して多くを感じたことはない」
他所龍として、審判席からずっと見下ろしてきたのだから。
もちろん、と続ける。
「君はとくべつだ」
「それがよくわからない。どうして?」
「理由が必要なのかね」
「自分の主張を通すには、いつだって理由が必要だろう?」
皮肉っぽい笑顔を向けられて、ヌヴィレットは考え込んだ。ヌヴィレットに理由はいらないが、彼がいると言うなら望む通りに与えるべきだから。
「君は……他の人間と異なると感じる。人のできることには限りがあるが、君にはそれがないのではないだろうか?」
身を乗り出し、淡いブルーの瞳を見つめる。その中できらりと光る金環で見つめ返しながら、リオセスリは苦笑した。
「勘違いされちゃ困るが、俺はただの人間だよ」
「そう言い切るには、君には功績がありすぎる」
「公爵になったやつ全員をそうやって口説くつもりかい?」
「地位と名誉ごときが、私に少しでも影響を及ぼすと思っているのか?私は与える側だ」
人間社会での枠組みに意味がないとは言わない。リオセスリもまた、法の下で裁かれている。社会の中で、己の意思を貫き通し、こうしてヌヴィレットとまみえている。最初から最高審判官として招かれたヌヴィレットとは違うのだ。
だからだろう。
彼がなんでも知っていて、なんでもできるのだと思うのは。ヌヴィレットに対し穏やかで慎重で礼儀正しい男は、老獪で威圧的で苛烈だ。人を率いる革命者であり、人の上に立つ統治者だ。
役割も、演じる仮面も、内側も外側も全部を知りたい。その点、幼いころからの様子をシグウィンを通じて知ることができたのは、ヌヴィレットにとっては幸運だった。
「私は不貞を働かないと言った通りだ。そして、君だけをとくべつに思っている。そうだな、君が判断すべきは、が恋かどうかではないかね」
「人を裸に剥いて傷を見ることをかい?」
「君のすべてを私のうちに収め、天地の終わるときまで眺めていたいと思うことをだ」
言葉にするとたまらずに、ヌヴィレットは手を伸ばした。リオセスリの冷たくない指先に、グローブに覆われていない手を重ねる。気づけば膝が触れ合う距離にいた。といっても、衝動に抗わなかっただけだ。彼の近くにいたいと思ったから、そうしている。
「君の傷を見て、君の命を賭す理由を、君の正義を知りたい。君に生命の原則に逆らわず――明日も一か月後も一年後も十年後も、変わらぬ声であいさつをしてほしい」
流れる水のように、自然とヌヴィレットは囁いた。瞬きをする黒いまつげを見て、目の下の傷に目を細める。リオセスリの指に嵌るゴツゴツとした指環のひとつひとつを撫でた。
「君に、ソファの上でキスをしたい」
跳ねる鼓動を聞いている。
この瞬間ができるだけ長く続いてほしいという気持ちと、早く答えが聞きたいと逸る心があった。少し顔を傾ければキスができてしまう。してもいいだろうか。したらどうなるだろうか。
ヌヴィレットは顔を傾けた。
「ぅあ、」
まつげが触れるほど近くに、誰かがいたことはない。これが初めてだ。
唇で頬に触れて、離れて、ヌヴィレットはため息を吐いた。
……合法だ」
友人同士なら、そう、頬にキスすることくらいできる。リオセスリの顔がじんわりと赤く染まっていくのを見つめた。まなじりから耳の先まで、それから首元までも。
「あの、なあ……
低く掠れた声で呟かれ、その声をもっと聞いていたかったが、その前にふと思いついた考えを口走っていた。
「思ったのだが。恋人の関係でしかできないことをしたいと思うのは、恋なのでは?」
……あんた、たまにメリュジーヌみたいなことを言うよな」
「褒めているのだろうか?」
「まあ、そんなとこだ」
美しく純真な彼女たちと同じように捉えられるのならば、悪く思われていない証左だろう。しかし、メリュジーヌとはキスをしないので、少し不安にもなった。
「君はどうだろうか?キスをしても?」
ヌヴィレットが急かすように捲し立てると、リオセスリはゆったりと答えた。
……どこに?」
「恋人にしか許されないところに」
「合法的に?」
「合法的に」
するりとリオセスリの手がヌヴィレットの手のひらの下から逃げた。「あんたはどうかしてる」頭の後ろまでじんわり響くような声で、リオセスリは囁いた。
「あんたのそれは、恋じゃない」
……では、なんだろうか」
「さあ。知らないな」
突き放す言葉のコンマ秒後に、鼻先が触れる。
唇に、少し濡れた感覚がして、ヌヴィレットは目を見開いた。近すぎてぼやける視界の先のリオセスリは目を閉じている。キスをしているみたいに。
バブルオレンジの香りが唇の隙間から潜り込んだ。
「違法だな」
数秒か、数十秒の後に、リオセスリは唇を離して笑っていた。
意味がわからなかったが、なぜか彼がひどく――この表現が正しいかもわからない――魅力的に思えて、ヌヴィレットは距離を詰めた。キスをする。唇を重ねるだけのそれを。リオセスリが肩を押すことはもうなかった。
「君のことがまったくわからない」
気が済むまでそうして、それから顔を上げたヌヴィレットがこぼしたのはそんな文句だった。顔を赤くしながら、リオセスリはまなじりを和らげる。
「そりゃあいい。あんたは俺のことが知りたいんだろう?わからないことがあれば、そのぶん夢中になってくれる。明日も一ヶ月後も一年後も十年後も」
「今、少し理解した。君がずるい男である、ということを」
老練さとはこのようなことを言うのかもしれない。とっくに丸呑みにしたはずの相手から、まだ丸呑みにできていないのだと笑われている。一体どこから抜け出したのか、不思議でならなかった。
「ヌヴィレットさんにまでそう言われるんだったら、名刺にも書いておこうかな。メロピデ要塞管理者、ずるい男、リオセスリ」
「新しい名刺ができたら渡してくれ」
ヌヴィレットが真顔で言うと、リオセスリは肩を震わせて笑った。目に涙さえ浮かんでいる。それを拭おうとした手を咄嗟に掴み、ヌヴィレットは再度顔を寄せた。
「え」
まつげを濡らす水滴に唇で触れる。じんと舌が痺れるような味わいだった。人の体液とはこういうものなのだろうか、それとも、彼の体液だからなのか。
「びっ……、くりするから、急にはやめてくれ」
「そうか。次からは気をつけよう」
「あんたのそれ、案外当てにならないみたいだけどな」
……善処する」
そういえばソファの上で迫るなと言われて、同じような会話をした記憶がある。覚えていたはずのことを忘れているというのは、なんだか妙な感覚だった。
そしてリオセスリが涙を浮かべているのを見たらば、また口に含みたくなるのは確実だった。いや……、と少し考えて、ヌヴィレットはリオセスリの顎に指先で触れた。
「ヌヴィレットさ、んッ!?」
名前を呼んで、口を開けていたので、その中に舌を入れるのは簡単だった。唾液を掬い取る。先ほどより強くバブルオレンジが香って、スフレと紅茶の味がする気がした。もう少し味わっていたい。縮こまる熱い舌を引っ張り出して、行儀悪く吸い上げた。
「あ、ぅ、ふ……ッ」
「ン……
ごくりと喉を鳴らす。リオセスリの手がヌヴィレットの肩を掴んで、しかし押し戻す真似はしなかった。置き場所を探していただけなのかもしれない。パズルのピースを嵌めるように、今はそこに収まっていた。
ヌヴィレットもそっと腕を回した。リオセスリの背を撫でると、びくりと跳ねる。「うぁ、」と湿った声が漏れて、なんだか笑いたくなった。唾液が甘いから、喉が渇いて、もっと飲みたくなる。舌を伸ばして喉の奥をくすぐった。
「ぁ、あえ゛ッ!」
そこに触れられるのは苦しかったのか、リオセスリの手に力が入る。ようやく唇を離すと、リオセスリは咳き込んで嘔吐えづきはじめた。ヌヴィレットの肩に額をくっつけるから、シャツからのぞくうなじまで赤いのが良く見える。
「げほっ、ぅえ゛ッ、は、はー……っ、」
「すまない。大丈夫だろうか」
「だいじょうぶに見えるか……?」
「苦しそうだ」
自分がそうしたのだが。背中を撫でてやると、呼吸が落ち着いてきたらしいリオセスリが顔を上げた。
「違法だ違法。なんのつもりだ……
涙がにじむ目で睨まれると、驚くくらいに迫力がない。しかし怒られているようなので、涙を舐めとるのはやめることにした。
「君の体液に触れたかったのだが。キスならばいいのでは?」
「身が持たないからやめてくれ」
「急だからだろうか?」
「いや、ああいうキスは、なんというか……よくない」
「私はよかった」
もう一度したい、と見つめてみたが、顔ごと視線を逸らされる。
……恋人でないから?」
「まあ、そうかもな」
人間の手順は複雑だ。フォンテーヌの法の煩雑さとは別のベクトルで、面倒らしい。
ヌヴィレットは龍なので、それに従う必要はないのかもしれない。無理やりにリオセスリの唇を塞いで、舌を伸ばすことなんて簡単だ。だが、できない。目の前のまだ赤い耳を指でなぞりながら思う。ピアスまでもがぬるくて、リオセスリという男の一部になっていた。
「人間は、龍に恋をできないのだろうか」
リオセスリの質問をなぞるように問いかけると、常より薄い色の瞳がようやくヌヴィレットに向けられた。
「さてな。ヌヴィレットさんは、できると思うかい」
「わからない。君がさきほどのキスをすることを恋というのなら、できてほしい」
「案外俗っぽい人だな……
「君からの評価であれば、甘んじて受け入れよう」
キスをすることが――つまり肉体の接触が俗っぽいのなら、その通りである。ヌヴィレットはもう、腕に抱いた体を離したいと思っていない。鎖がじゃらじゃらと音を立てて少し邪魔だが、シャツ越しの体温は心地いい。自分もブラウス一枚でよかったと思う。怪我をした彼を抱き上げたときは、ケープやら何やらが邪魔で仕方がなかった。
「ちなみに、人間ってのはもっと俗っぽいんだが」
大の大人にぴたりとくっつかれて、真珠色の髪に強制的に顔を埋もれさせられながらリオセスリが呟いた。
「人間の欲の際限なさはよく知っている」
「俺も立派に人間でね」
「ふむ……?」
「まあ、そのうちわかるよ」
秘密の多い男だ。
まあいい、とヌヴィレットは簡単に思考を手放した。キスもしたいが、抱きしめるという行為はかなりいい。二人の関係が恋人でないのにソファの半分を二人で分かち合えている理屈はよくわからない。ヌヴィレットとしては関係性の名前なんてどうでもよく、勝手にこだわっていたリオセスリが受け入れているのならばそれでよかった。
やりたいと願っていたことがたくさんあり、知りたいと思っていたことが山のように残っているのに、今こうしているだけで満足しているのも不思議な感覚だった。仕事に例えるなら、確認すべき書類がいくつも机の上に散らばっているのに、まったく焦っていないという状況だ。怠惰すぎる。
だが……、とヌヴィレットは目を閉じた。
個人的な時間においては、追い立てられるための締切もない。生来穏やかな気質の水龍は、相手の肩に頭を乗せて、ゆるく息を吐く。
「寝るつもりかい?」
リオセスリの声も緩んでいて、彼の心臓の音を聞きながらヌヴィレットは沈黙した。眠気は全くない。このまま、彼の音だけを聞いていたい。
「ヌヴィレットさん?」
……なにか、話してほしい」
「何かって、これまた曖昧なリクエストだな」
「君の声を聞いていたい」
「物語でも語れば満足かい?」
「なかなかいい考えだ……
ヌヴィレットは緩慢な動作でリオセスリから離れ、立ち上がった。リオセスリが眺めていた本棚から、一番分厚い本を手に取る。
「これを」
渡すと、怪訝そうな顔で受け取られた。
「クロックワーク・マシナリー新式基礎制御理論?」
四百年以上前の本だ。新式クロックワーク・マシナリーを開発したエンジニアが記したものであるが、基礎理論は今日こんにちも変わっていない。
「読んでほしい」
「意外だ。ヌヴィレットさん、新式制御に興味が?」
「ない。君の声を聞いていたい」
「ないかあ」
再度ソファの隣に腰を下ろし、横から肩に頭を乗せる。抱きしめていると、頁を捲るのに邪魔だろうという配慮だ。
「これ初版か?想像以上の稀覯本だな……
そんなことを言いながら、リオセスリは本を開いた。序文を飛ばし、目次をじっと眺めている。
「ああ、なるほど、最初に動力学の解説をしておいて、対消滅のための回路理論を――
ぶつぶつと呟いている横顔を見上げる。好奇心の強い男だ、あっという間に本に夢中になってしまったらしい。ただ、ヌヴィレットのリクエストに従い、解説文を読み上げることは忘れなかった。
この分厚い本をすべて読み終わるまで留めておければ、夜が来る。見たことのない一夜をリオセスリと過ごすことを想像して、ヌヴィレットはうっすらと微笑みを浮かべた。