2026-03-13 14:30:16
3601文字
Public ワンドロ
 

無償の愛

パーバソワンドロライ
お題・無言

 「パーシー、去勢をしようと思うんだ」
 バーソロミューのその一言は、世界中の秒針の先に、ナイフを突き立てたようだった。
 沈黙が、部屋いっぱいに広がる。窓の外では、どこか遠くで車の走る音がした。だが、この部屋の中では、それさえも遠い。
 しばらくして――解放されたかのように、壁の時計がコツ、コツ、と秒を刻み始める。その音だけが、妙に大きく聞こえた。
 大事な話がある、と呼び出されたパーシヴァルは、今まさにその「大事な話」に鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。
……え、だれの?」
 ようやく紡ぎ出した言葉は掠れて、かろうじて音になった。
「もちろん。パーシーに決まっているだろ」
 バーソロミューは、向かいの椅子に座ったまま、落ち着いた様子で紅茶を口に運ぶ。
淹れたての湯気が、淡く立ち上っていた。
「な、なんで?」
「なんで、って。毎晩毎晩、ベッドの上での人間の気持ちになってみてくれないか?」
 言葉の調子は穏やかだが、内容は容赦がない。カップをソーサーに戻す音が、小さく鳴った。
……貴方は、それでいいのかい?」
 パーシヴァルは思わず聞き返した。バーソロミューはしばらく黙っていた。カップの縁に指を添えたまま、視線だけを落としている。それから静かに言う。
「私だって、大切なパーシーの愛しい一部が無くなるのは辛い」
 そう言いながらも、その視線は揺れない。
「でも、そうしてやるのが私の責任なんだ」
 真っ直ぐ見つめられると、何も言えなくなる。
 そこには、ひどく切実なものがあった。――哀願にすら似ていた。
 パーシヴァルは言葉を探した。それは、喉の奥に引っかかったまま、うまく形にならない。
「他に何か……昇華させたり、運動とか……
「そのフェーズは過ぎているんだよ」
 バーソロミューは即座に答えた。
「運動だって、毎日朝と夜にしている。これ以上どうしたらいい?昼もか?」
 そう言うと、彼は頭を抱え、肘をテーブルについた。
「大好きなんだ。愛おしいと思っている。だけど、これは、私の責任なんだ」
――その時だった。
バーソロミューが、ふっと顔を上げた。カップの中の紅茶が、わずかに揺れる。
……あ」
何かに気づいたように、彼は椅子を引いた。脚が床を擦る音が、短く鳴る。
 次の瞬間、バーソロミューはリビングを飛び出した。
「バーソロミュー?」
パーシヴァルも慌てて後を追う。
駆けつけた先の寝室のドアを開けると――
そこには、ベッドの上で必死に腰を振る白い毛玉がいた。
「こらッ!パーシー!メッ!」
 バーソロミューは素早くベッドに飛びつき、毛玉の下に組み敷かれていた枕を引き抜いた。
 ベッドの上には、雪を固めたような白い毛に覆われた大きな犬――パーシーがいる。叱られたパーシーはベッドから降り、耳をぺたりと伏せ、切なそうな声を出してその場に伏せた。
「まったく……目を離すと、すぐに私の枕でマウンティングするんだ」
 バーソロミューは呆れたように言う。
「もう習性になってしまったのかな」
 生後十一ヶ月。
 子犬だったパーシーは、いつの間にか立派な体格になっていた。そして最近、どうやら発情期に入ったらしい。隙を見ては、バーソロミューの枕を相手に情熱をぶつけている。朝晩の散歩で発散させているらしいが、成果はなかなか現れない。
 奪われた枕を取り返そうとしているのか、パーシーはバーソロミューの周りをぐるぐる回り始めた。
「な?」
バーソロミューは言う。
「毎日こんな感じなんだ」
 それから、パーシヴァルをちらりと見た。
「以前、君に話した時、人間の都合で手を加えるのは、と難色を示していたからね」
 その言葉に、パーシヴァルは苦い顔をする。
「それに、今日だって君の愛猫も姉君に預けて来たんだろ?」
 パーシヴァルの飼い猫、黒猫のバートは、初めてこの家に来た日にパーシーにマウンティングされ、大喧嘩になった。それ以来、パーシヴァルが泊まる夜は、近くに住む姉に預けるか、泊まらずに夜中でも自分の部屋へ帰るようにしている。
 寂しい思いをさせているのだと思う。
 お互いに。
「発情期のマウンティング対策は、やはり飼い主として責任を持って対応しなければ」
 そう言うと、バーソロミューはパーシーをぎゅっと抱きしめた。白い体が腕の中に身を押しつけ、甘えるように小さく鼻を鳴らした。

 パーシヴァルがバーソロミューの寝室に泊まる夜、パーシーはリビングの自分のケージで眠っている。
子犬の頃は、バーソロミューのベッドで一緒に寝ていたらしい。だが「そろそろケージで寝る練習を」と決めた時期と、パーシヴァルが泊まりに来るようになった時期が、ちょうど重なってしまった。
――最悪のタイミングだった。
 もしかするとパーシーは、自分の居場所を奪われたと思っているのかもしれない。
あるいは、この部屋は自分の縄張りだと主張しているのか。そう思うと、パーシヴァルは少しだけ罪悪感を覚えた。
 パーシーが小さい頃に眠っていたであろうシーツを、指先でそっと撫でる。けれどそこにはもう、彼の気配は残っていない。代わりに、さっきまでこのベッドにあったバーソロミューと パーシヴァルの体温と気配だけが、静かに染み込んでいる。
「バーソロミュー。昼間の話だけど――パーシーの去勢手術、私も賛成だ」
 ベッドに腰をかけて水を飲んでいたバーソロミューが、ゆっくりと振り返った。濡れた唇のまま、柔らかく微笑む。
……ありがとう。来週の休みに手術の予約を入れるよ」
「そもそも飼い主は貴方だ。わざわざ私にまで確認しなくても良かったのに」
「そんなことないさ」
 バーソロミューは穏やかに笑った。
「君だって、この家という船の大事な一員だ。まぁ、ふたりと二匹だけだけど。航路を決めるのに、船長の独断だけでは楽しい航海はできないからね」
……バーソロミュー」
 パーシヴァルはそっと指先で彼の手首をなぞった。それから、ゆっくりと腕を引き寄せ、もう一度、シーツの海へ連れ戻そうとする。
 バーソロミューが、ふと思い出したように言った。
「それはそうと。君が枕にしているそれは、パーシーの大事な恋人だよ」
……
 パーシヴァルは何も言わず、頭の下からそっと枕を引き抜き、ベッドの端へ置いた。それを見て、バーソロミューが思わず吹き出す。
「おいで。今日は私が腕枕してあげよう。硬い枕だが、一晩くらい我慢してくれ」
 そう言ってバーソロミューが腕を差し出した。パーシヴァルは遠慮がちに、その腕に頭を預けると、もう片方の腕がそっと回され、頭を抱え込むように胸の前へ引き寄せられた。そのまま、汗ばんだ髪をやさしく撫でられる。
 何度も、何度も。
 その手つきは昼間見たパーシーを撫でるものと同じで、慈しみに満ちていた。
――無償の愛とは、きっとこういうものなのだろう。
毎日この腕に抱かれるパーシーが、少しだけ羨ましくなる。指先が髪を梳くたび、胸の奥までほどけていくようだった。
 あまりにも心地よくて――
 パーシヴァルは、静かに瞳を閉じた。

 手術は、あっという間だった。
 日帰りで戻ってきたパーシーの首には、透明な襟巻きが巻かれている。バーソロミューいわく、貴族の襟巻きみたいで可愛いらしい。だが、パーシヴァルには、どう見ても衛星アンテナに見えた。
 パーシーはゆっくりと部屋に入ってきた。歩き方は、どこかぎこちない。それでも、その足取りには妙な重みがある。幾つもの死線を潜り抜けてきた老兵のような、静かな威厳すらあった。
 男として失ったものはある。
それでも、この部屋にいる誰よりも男らしかった。
 パーシヴァルとバーソロミューは、思わず背筋を伸ばした。同じ雄として、妙な敗北感すら覚える。
 バーソロミューは白い犬をそっと抱きしめ、労わるように背中を撫でた。
「頑張ったね、パーシー。怖かっただろう」
 パーシーは一度、黒い鼻を鳴らした。それから慎重に伏せる。エリザベスカラーが床に触れ、軽い音を立てた。
 バーソロミューは優しく微笑む。
「今日はいっぱい抱っこしてあげよう」
 白い背を撫でる手つきは、どこまでも静かで、深い慈しみに満ちている。見返りなど初めから求めていない――ただ愛しいものを愛しているだけの、まっすぐな手だった。
「そうだ。久しぶりに私のベッドで寝てもいいよ」
パーシヴァルが顔を上げた。
「え」
 沈黙が落ちた。世界中の秒針の先に、ナイフを突き立てたようだった。パーシーの尻尾が、秒針の進む音の代わりに、ぱたぱたと鳴る。バーソロミューは、当然のことのようにパーシーを抱き寄せた。

――今夜、リビングで眠るのは、どうやらパーシヴァルの方らしい。