2026-03-13 14:13:30
4466文字
Public NYPB
 

8.“I love you.”


 追っていた麻薬組織については、あっさりと解決した。
 重要参考人として連行された男は、黒髪の長身ではあったが、肉の落ちた身体に冴えない黒髭を生やしただけの、どこにでもいそうな男だった。鋭さも、異様さもない。記憶に残らない顔だ。
 例のバーで取引らしき動きを押さえた瞬間から、製造元、バイヤー、運び屋と、末端から中枢まで、名前の羅列が書類に並び、組織は内部から空気を抜かれた袋みたいに、音もなく萎んでいった。
 現場となったキッチンは、ケーキ屋の仕込み場のように白い粉で覆われていた。作業台には、半透明の結晶が無造作に並べられている。
 隣で先輩が口笛を吹いた。
「多く見積もって、時価二十五万ドルってところかな」
 押収物は大量の透明な袋の中で、行儀よく整列している。番号、重量、写真。書類に印字された文字列は整っていて、そこに並ぶ数字だけが、ひどく虚しく映った。
 事件解決の、その光景を前にしても胸は高鳴らなかった。私の中に残ったのは達成感ではなく、言葉にしきれない罪悪感と、解けないままの謎だけだった。
 疑っていたことを事実が否定したあとに残る空白。そこに、別の問いが浮かび上がる。
 ――バーソロミュー・ロバーツとは、何者なのか。

 バーソロミューと連絡が途絶えて、もうすぐ一か月になろうとしていた。彼の帰国まで残り二十日。
 あのビーチから帰ったあと、私たちは理由を言葉にすることもなく、互いに連絡をやめた。正確には、返信が途絶えた。こちらから送ったメールに返事はなく、私もそれ以上は、何も送らなかった。
 それでも、ニューヨークの雑踏の中で、浮かび上がる絵画のような彼の姿を、私はいつも探していた。
信号待ちの数十秒、目だけが勝手に人波の向こうへ向かう。地下鉄の入口、ガラスに映る影――あの瞳の色を追ってしまう。あり得ないと分かっていながら、視線だけが先に彼を探していた。
長く引き裂くようなクラクションの音が響き、意識が現実へ引き戻される。
あのマフラーは、まだ彼に預けたままだった。

 せめて謝罪だけでも、と祈るような気持ちで、メールを送った。やはり返事はなかった。それでも足が向かってしまう。彼が滞在しているはずのホテルへ。本当はもっと早くに行くべきだったと後悔している。彼のニューヨークに滞在する残りの日数が、私の背中を押した。

 ホテルのエレベーター前で、見覚えのある巨体が見えた。猫背の姿勢に、ハーフパンツ姿。エドワード・ティーチだった。
「おっ?ハンサムボーイじゃん」
こちらから声をかけるよりも早く、向こうが振り向いた。気配を察したのか、それとも最初から把握していたのか。何か言いたげな笑みを浮かべている。
この季節にハーフパンツという狂気も、この笑い方も、なぜか責められているような気持ちにさせられた。
「丁度よかった。あいつ、熱出して寝込んでるからさ。これ、届けてやって」
差し出された紙袋は、驚くほど軽かった。中を覗くと、水と解熱剤と、食べられそうな食材。――これで本当に足りるのだろうかと、不安になる。
――あと、何を勘違いしてたか知らねーけど、拙者はね、ただのジャパニーズカルチャーのオタクだから。もう尾けるのやめたみたいだけど、本当にやめてね?」
軽い口調。
けれど、その目は笑っていなかった。
尾行していたことも、やめたタイミングも、すべて把握している。
「アフターケアよろしく」
それだけ言い捨て、ティーチは踵を返した。
冬の嵐みたいに、気配だけを残して去っていく。
私は紙袋を握り直し、エレベーターに乗った。
上へ。数字が変わるのを、ひとつひとつ見送った。

 二度目のノックで、バーソロミューの部屋の扉が開いた。
 開口一番に自分以外の名を呼ばれ、私は、嫉妬する資格もないはずの心が軋むのを感じた。
 体調は思っていた以上に悪いようで、何かを言いかけた彼は、最後まで言葉を紡げず、気絶するように眠ってしまった。

 残された私は、初めて入る彼の滞在していた部屋を見渡した。ベッドサイドのランプは消され、カーテンは外の冬の鋭い光を和らげながら半分だけ通している。
 私は手持ち無沙汰に視線を彷徨わせ、先ほどのローテーブルの上のノートパソコンや紙などを再度見つめた。
 乾燥した植物片は、香りを確かめると、確かに紅茶特有の匂いがした。コースターの裏に、ペンで筆記体の走り書きがある。アロマンティック、アセクシュアル。再会したバーで彼がメモしていたものだった。他にも短い単語がいくつか。矢印。消しかけの線。折りたたまれた地図の余白にも、通りの名前の横に数字。括弧。予定なのか、会話の断片なのか、判別がつかない。さらに一枚、薄い巻紙。端が少しよれていて、指の跡が残っていた。そこにも文字がある。紙の種類より、書ける面があるかどうかだけを気にしたような筆致だった。
その他には、ホテルの備え付けの便箋。雑に折られ、角が少し潰れている。
 1週間後の日付と時刻、場所。ドレスコード――ブラックタイ。――授賞式。
 この癖の字は、テーブルに散らばっていたコースターの走り書きと同じだった。
 視線を戻すと、デスクの端にも紙束があった。折り目のついた新聞。握りつぶされたように皺が寄った状態で読みかけのまま伏せられている。
 私は、そっと紙面を開いた。

[筆者紹介]ジョン・ロバーツ ロンドン在住の小説家・脚本家。登場人物の秘匿を剥ぎ取り、羞恥・嫌悪・恐怖を読者に同席させるような心理描写で知られる。暴力表現は冷徹で、残酷さと露悪性を理由に「読後感が不快」「精神衛生に悪い」と酷評される一方、熱狂的な支持も集める。原作提供作が独立系作品を対象とする映画賞で受賞し、現在ニューヨークに滞在中。受賞後の上映・取材対応の合間に、次回作の準備を進めている。

【執筆について、創作することとは――
――作家として紹介されるとき、私はしばしば「人の内側に踏み込みすぎる」と評される。
自覚がないわけではない。ただ、それが特別な態度だとは思っていない。書くという行為が、そもそもそういうものだと考えている。
 私が小説を書き始めた頃、人物の感情を丁寧に追うことは、しばしば「執拗だ」と言われた。距離を保ち、象徴化し、抽象化するほうが文学的だとされた時代でもあった。
しかし私は、距離を保ったまま書くことに、あまり興味が持てなかった。
 人は、遠くから眺められているときよりも、近くに立つ者の前で、はるかに無防備になる。そこに現れるのは、本性というより秘匿だ。隠したいもの、隠しているつもりのもの、隠しきれないもの。私は、あの秘匿性が好きだ。誰にでも見せるためにあるのではない、親しい者だけが許される視界があり、それを手に入れたとき、私は悦びを得る。
 今回の受賞についても、私はそれを「評価」として受け取るより先に、別のものとして扱っている。
賞は、私にとっては扉の札のようなもので、部屋そのものではない。
 私は、アイディアを書き出す、いわゆるネタ帳と呼ばれるノートを持たない。その場で得た紙の方が、文字で書くよりも情報量が多い。だから紙は選ばない。テーブルの上にあったコースター、地図の余白、レシートの裏。時には、隣で大麻を吸っている他人から巻紙を拝借する。紙の素材がどうかより、今この瞬間に文字が置けるかどうかのほうが重要だ。
 私の作品については、しばしば別の言葉も添えられる。
――残酷だ。
――目を覆いたくなる。
――人間の醜さを、剥き出しにしすぎている。
暴力描写についても同じような指摘を受けてきた。過剰に現実的だ、と。想像だけで書いているようには見えない、と。私はそれに対して、反論も弁解もあまりしない。
若い頃、暴力が例外ではない環境にいた。それ以上でも、それ以下でもない。その事実が私の文章に影響を与えているのだとしたら、否定も肯定もするつもりはない。
 昨今、読者は書いてある文章を、そのまま著者の主張として受け取ってしまうことがある。作品の中で登場人物が違法薬物に触れる場面を書けば、著者がそれを推奨していると決めつける。神に背くような行為を描けば、著者まで無神論者扱いされる。
言葉は、現実に触れるための道具であって、著者の身分証明書ではない。物語は同意の文書ではない。
 現在、私はニューヨークに滞在している。次回作は、この街を舞台にした長編になる。主人公は恋愛や性的な感情を持たない人間――アロマンティック、アセクシュアルだ。
ニューヨークは、人が多すぎる街だ。その分、誰も他人を見ていない。見られていないという安心が、この街の秩序を支えている。
だから、ほんの少し近づくだけで、思っていた以上に多くのものが露わになってしまう。
それでも私は書く。親しい者だけが見ることのできる場所が、この街にも確かにあると知ってしまったからだ。
 担当編集者も定期的に監視に来て進捗確認しては散々、締め切りを脅してくる。ニューヨークは、バカンスに来た訳ではないと、自覚しているつもりだ。
 私が書くことは、理解することではない。理解した“ふり”を、最後までやりきることだと私は考えている。
それが誠実かどうかは、読む人が決めればいい。
(文化面寄稿)

 名前は違ったが、すぐに彼のことだと分かった。新聞を閉じると、紙の音がやけに大きく響き、慌ててベッドの様子を見た。彼は静かに眠っている。規則正しい寝息が、部屋の薄い光の中で静かに聞こえた。
 覗き込むと、解熱剤が効いてきたのだろう。呼吸の熱が、少しだけ軽くなっている。
 私は、先ほど唇で触れた額を指先で、起こさない程度の力で、撫でる。触れてはいけない場所を、触ってしまったような罪悪感だけが残った。
 立ち上がろうとして、足元に落ちたものに気づいた。
 コートの内側から滑り落ちたのか、ベッド脇のラグの上に、薄い封筒が伏せてあった。ホテルの便箋と同じ紙質。封はされていない。角が少し潰れている。皺が寄って雑に扱われているように見えたが、宛名だけが、丁寧だった。

 Percival.

 自分の名前を見ただけで、胸の奥がかすかに鳴った。
 覗くつもりはなかった。そう思った。だが、封筒は閉じられていない。誰かに渡す前の形をしていない。――つまり、渡せなかったものだ。
 私は息を吸い、深く吐いて、それでも指先が勝手に便箋を引き出した。

 Dearから始まるその中身は、短い。ひどく短い。
 なのに、ひどく重い。
 胸が詰まった。声が出ない。

 誰に見せるためでもなく、丁寧に丁寧に書かれた文字は、確かに、彼の筆跡だった。私は便箋を元に戻し、それをトレンチの内ポケットにしまった。
 扉の前で一度だけ振り返り、彼の寝息が乱れていないことを確認した。
 その手紙に書かれていた言葉を、私も声に出し、部屋を後にした。