発熱というものは、身体より先に、記憶をゆるめるらしい。意識が熱に侵されるにつれ、時間は順序を失っていく。いつから熱があったのか、それすら曖昧になっていた。何度目の熱かは、もう数えていない。体の内側で、何かがずれている。暑いのか寒いのかも、もうよく分からない。手足は鉛のように重く、シーツに沈み込んでいく感覚だけが、やけに鮮明だった。汗を吸った部屋着はシーツまで濡らした。額から流れた汗は、目尻を伝って落ちる。だからこれは、涙ではない。
瞼の裏は、私が望んでいた黒だった。
塗りつぶされることに、安堵した。
このままブラックアウトできたら――ますます最高だ。
この街に来た記憶が、断片的に蘇る。
摩天楼の隙間から溢れ落ちる鋭い日差し。
初めて視線がぶつかった彼の瞳の色が、見上げた空の色と同じだと気づいたこと。
連絡手段を得た私たちは、ほぼ毎週どこかの曜日で会っていた。
食事の席では、いつも彼のほうが忙しかった。
私の皿に、何度も料理を取り分けてくる。量が多すぎる、と言っても聞かない。
幼少期に、養護施設で食べた味の薄い野菜スープの話をしたときなど、彼は目を潤ませて、私の皿の余白を埋め、高さも山のように盛った。
善意が過剰で、少し不器用で、それでも疑う余地のない優しさだった。
タクシーに乗るときは、必ず彼が行き先を告げた。
彼の発音はいつもアナウンサーのようにはっきりしていて、とても聞き取りやすかった。
コーヒーショップでは、必ず紅茶の有無を確認してくれた。自分が飲まなくても、私の選択肢がそこにあるかどうかを、先に気にかける人間だった。
待ち遠しかった帰国の日は、いつのまにかカウントをやめていた。
そして、その日をなるべく考えないように、私は目を逸らした。
ニューヨーク滞在中、彼が提案したミュージアム巡りやミュージカルは、私たちの距離にちょうど良かった。鑑賞中、言葉を交わす必要がなく、同じものを前にして、同じ沈黙を分かち合った。
MoMAで、私は作品を見つめながら、時折、彼の横顔を盗み見ていた。真剣で、時折あどけなく、少しだけ頑な表情だった。見つめていたら目が合って、小さく微笑まれた。私は同じだけの微笑みを返し、何事もなかったかのように、静かに目の前の絵画へ視線を戻した。深い藍色の空と星々と月が渦巻いていた。
静寂に包まれた美術館で、自分の心臓だけが、やけにうるさかった。
瞼の裏、暗闇の中で、発光するような彩りが浮かぶ。
そして、最後に行った、冬のコニー・アイランド・ビーチ。帰り道の記憶だけが、きれいに抜け落ちている。どうやって帰ったのか、全く覚えていない。
覚えているのは、頬を打つ冷たい風。潮の匂い。風に煽られ、形を失っては寄せてくる波。首元に残る、あの優しい温もり。彼のコートの裾が風に揺れ、その隙間から、あのチェックの赤い線がちらりと覗く。巻いてもらったマフラーと同じデザインの一部。
彼の視線には、ためらいがあった。踏み出したいのに、踏み出してはいけない場所を、正確に理解している人間の目だった。
あの瞬間を、私は何度も思い出していた。
思い出すたび、同じ出来事が、少しずつ違う角度で胸を刺す。痛みは薄れない。ただ、形を変えて滲み出すだけだ。
素性、理由、目的。
彼の口から、問いが途切れなく疑問詞たちが、こぼれ落ちていた。堰き止められていたものが、ついに溢れ出したかのように。
それは、こちらを追い詰める声ではない。責めるための言葉でもない。ただ、確かめようとするための問いだった。
だからこそ、逃げ場がなかった。ひとつひとつなら、やり過ごせたはずだ。だが、Wが三つ重なった瞬間、それは冗談では済まなくなった。
私はその瞬間、はっきりと理解してしまった。
彼は、私を疑っているのではない。知ろうとしているのだ。私という人間を。私がどこから来て、何をしていて、
何を隠し、何を差し出そうとしているのかを。
ただ、何も言わなくとも、信じてほしかった、それは傲慢なことだろうか。
本当に、ただ、それだけだった。
それだけの理由で、傷つく権利はないはずの私は、はっきりと傷ついていた。
そして、私は何よりも恐れていた。
彼の品格、高潔で、清廉で、疑うよりも先に信じようとする魂。それが、私という異物によって濁ってしまうことを。隣に立つには、私は相応しくない。私は、彼の隣に立ちたいのではなく、彼の品格を守りたいのだと、そのとき初めて理解した。
そう理解していながら――
それでも、信じてほしいと願ってしまった時点で、私はもう、引き返せないところまで、来てしまったと、悟った。
黒く塗りつぶせば、消えると思っていた。
けれど、その奥で、まだ熱が静かに燃え、燻っているのが分かった。
――恋とは、名づける前に起こるものだ。
そして、名づけてしまった瞬間に、引き返せなくなる。今の私のように。
……そんなことを考えているうちに、意識の底から、微かな音が浮かび上がった。扉を叩くノック音だった。規則正しくもなく、強すぎもしない。遠慮と躊躇が混じった、曖昧な間隔。これが黒髭なら、こんな叩き方はしない。あの男はいつだって、世界に断りを入れない。
もう一度、同じ音。
私は返事をしなかった。
声を出せば、今の思考が崩れてしまう気がした。だが、扉の向こうの気配は消えない。立ち去るでもなく、押し入るでもなく、ただ、そこに在り続けている。
逃げ道を塞ぐような沈黙。
やがて、小さくそれでも確かによく通る声がした。
「……バーソロミュー?」
聞き慣れた声だった。名前を呼ばれただけで、この期に及んでも喜びと、胸の奥がひくりと痛む。
私はゆっくりと上体を起こした。頭が重く、視界がわずかに揺れる。喉は乾ききっていて、息を整えるのにも時間がかかった。
目を閉じると、真っ黒なキャンバスに強い色の筋が走り、冷たく痛む光を残した。
意を決して扉を開ける。それは、音を立てずに開いた。
立っていたのは、彼だった。
コートを着たまま、左手に紙袋を提げ、右手はノックの名残のように、宙にその手を残したままだった。
一瞬、視線が合う。
驚き。
安堵。
そして――まだ消えきらない、あの躊躇。
すべてが、ほんの一瞬で過ぎていく。
「黒髭は?」
「……ホテルのロビーで会って。荷物を頼まれた」
一瞬何かを飲み込むようにして、彼は目を伏せながら呟いた。
「水と、解熱剤。あと……何か、食べられそうなものが入っていた」
紙袋を持ち上げて見せる。中身よりも、その仕草の慎重さが目に焼き付いた。
「一応、貴方のホテルに向かうとは、メールで送信したけど……」
言葉が途切れる。続く言葉を探している目だった。
疑われた記憶が、まだ胸の奥で生々しく疼いている。
私は何も答えなかった。ただ、扉の横に立ったまま、身体をわずかに引いた。それを合図だと受け取ったのだろう。
彼は一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。
距離が、縮まる。
「……熱、ひどそうだね」
額に手を伸ばしかけて、途中で止まった。触れていいのか、まだ測りかねている指。
その躊躇が、何よりも雄弁だった。
私は視線を逸らし、散らかったローテーブルをみた。テーブルの上のノート型パソコンと、メモ代わりのコースターと地図と、巻紙、……乾いた植物片。
彼の視線も、同じ場所に落ちる。
一瞬だけ、空気が張りつめた。彼が今、何を考えているか、安易に想像がついた。
「ここでは、一応合法だけど……」
問いは、慎重だった。断罪ではなく、確認。
私は、今度は目を逸らさなかった。
「勘違いさせて申し訳ないけど、私は大麻は吸わない。巻いて焚いて吸うのも、ジョイントも。もちろん、違法な薬物も使用したことはない。タバコですら、随分前にやめたよ――神に誓って」
そう言ってから、ベッドサイドに置かれたものへ、目をやる。旅の供として持ち込んだ聖書。添えられるように置かれたロザリオ。
「君に誤解を与えるような置き方で申し訳ないが、アレは、ただの紅茶の茶葉だよ。自分でブレンドしているんだ。飲んで確かめてみるかい?」
彼は、紅茶の茶葉をじっと見つめ、それから安心したように小さく息を吐いた。
そして一度、顔を伏せる。
次に上げた視線は、まっすぐに私を射抜いてきた。彼は唇を噛み、言葉を選ぶように、ほんの一瞬だけ黙った。
私は、その沈黙を待った。
「……謝罪したい」
短い。逃げも、装飾もない。シンプルな言葉だった。
「ビーチでのことも、今の問いも。私は、貴方を疑った。貴方が傷つく可能性より、自分が納得することを優先した。それを、謝りたい」
言い訳は、続かなかった。
「傷つけたと思ってる」
それだけを置いて、彼は顔を上げた。私は、すぐには答えられなかった。謝罪は誠実だった。だが、それで消える感情ではない。
それでも――
信じようとしている人間が、今、目の前にいる。それが、どれほど残酷で、どれほど救いだったかを、彼はまだ知らない。
「……君に少し、私のことを話しておこう」
熱のせいだろう。判断が、少しだけ緩んでいる。そう思いたかった。そもそも、隠すつもりはなかった。だが、打ち明けるつもりもなかった。
脳が揺れる。
ベッドに腰掛け、目を瞑った。
膝に肘をつき、両指を編んだ手に、重い頭を預けた。
図らずとも、祈りと懺悔のあいだの姿勢になっていた。
「私は、きれいな人間じゃない。過去も、今も」
声に出した瞬間、喉の奥で言葉が引っかかった。乾いているから、だけではない。
「誇れない選択を数えきれないくらい重ねてきたし、自分の目的のためなら、誰かの善意を材料にする。人が隠したいものを暴き、それを奪う。そしてそれを自分の財宝のように扱う」
熱で頭が朦朧とする。そこで、息が詰まる。一拍、遅れて続きを探した。
「それを“悪い”と理解したまま、やめていない」
だから、と言いかけて、やめた。それは、言い訳になる。
「君のことも、君の職業のことを知った上で連絡先を渡した。この街のガイドも含めて、仕事に利用しようとした」
言葉にするほど、その事実は鋭くなる。
彼は何も言わず、ペットボトルの水と解熱剤を私に差し出した。促されるまま、錠剤を口に含み、水を流し込む。
冷たいはずなのに、喉を通る感覚は鈍い。
これ以上発する言葉は無いと、全てを水で喉に流し込んだ。
「……それで?」
静かな声だった。そして予想外の返答だった。
「今の話は……私を、職業も含めて知ろうとしてくれたこと。そして、この街のガイドに私を選んだこと。それだけだ」
何も騙していない、と彼は続ける。
「それで、私は、何を信じればいい?バーソロミュー、教えてほしい。貴方が、これから発する言葉を信じると誓う。だから――」
“今”を見ようとする、その問い。胸の奥が、熱とは別の理由で軋んだ。私は答えかけて、視界が揺れた。彼は何も言わず、ベッドの端に腰を下ろした。距離は、保ったまま。
私は何か言おうと口を開くが、体力が限界らしい。まともに目も開けられず頭を抱えた。
その直後、空気が近づく。
「……すまない。結局、急いてしまった。今日は、もう休んで」
低く、優しい声だった。そっと肩と背に手を添えられ、音もなくシーツに横たえられた。視界が、ゆっくりと滲んでいく。
「……私は……」
言い残そうとして、言葉が続かなかった。
眠りに、落ちる。
瞼の裏で何が爆ぜるような光だけ見えた。目眩が見せるものだと理解した。
意識の底で、額に柔らかな感触と、あの安心する香りだけが漂っていた。
――そこで意識は、ブラックアウトした。
あんなにも、望んでいたはずなのに。
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