それから、連絡手段を得た私たちは、何も決めないまま、会い続けていた。食事だけ、お茶だけ、ほとんど予定表には残らない時間が、いつの間にか増えていく。
最初に彼が「海が見たい」と言ったのを、私は天気や時間の都合を理由に、何度も先延ばしにしていた。その約束を果たしてしまったら、このニューヨークのアテンドも終わってしまう気がしたからだ。
だから私は、マンハッタンのMoMAなどのミュージアム巡りや、ブロードウェイミュージカルなどの近場の予定を、この街に引き留めるみたいに、詰め込んだ。
「疑わなければならない」という言葉を胸の奥に置いたまま、私はとうとう彼を海に誘った。
ブルックリンへ向かうフェリーに乗ろう、と。
港は朝の色をしていた。
空は硬く、冬の光は刺すように鋭い。
風を受け止めるように、バーソロミューのロング丈のワックスドジャケットが揺れた。
彼は滞在中、様々なファッションに身を包んだ。今日のジャケットも初めて見るものだった。
その装いを賞賛すると同時に、心のどこかで服装を特定されないようにするための手法かと疑ってしまう自分に、嫌気がさした。
フェリーが出るまでの短い時間、彼は子どもみたいに落ち着きなく周囲を眺めていた。
広告の看板、売店のホットドッグ。彼の視線がいちいち止まる。このニューヨークの景色を拾い集めている。
ハドソン川の水面に映る朝日を見て、ふと、ゆらめく光に魅せられた画家たちのことを思い出した。
きっと彼らも、この一瞬を、キャンバスに描き留めたいと願い、その光の表現方法を追い求めたのだろう。
「ニューヨークの冬は、意外と容赦がないね」
彼はそう言いながら、手袋越しに息を吐いた。
声はいつも通り落ち着いているのに、言葉の端が少しだけ弾んでいる。
フェリーが岸を離れる。
低い振動が足裏から上がり、風が甲板を横切って、頬を冷たく打つ。
彼は手すりに身を乗り出し、遠ざかるマンハッタンを振り返っていた。そして、視界に自由の女神が現れると、ためらいもなく大きく腕を振った。
両手で。
子どもみたいに。
思わず、息が漏れた。
手を振る姿があまりにも無防備で、その背中があまりにも楽しそうで。バーソロミューは満足したように腕を下ろし、こちらを振り返った。
「すごい! 思ったより、ずっと大きい」
「観光客みたいな感想だね」
「そうだよ!観光客だよ」
そう言って、また笑う。
その笑顔を見ていると、疑念の輪郭がぼやけていく。
そして、この感情に名前がついて、簡単に前へ出てくる。
もし、もし私が画家だったら、この一瞬を、キャンバスに描き留めただろう。
フェリーがハドソン川を進むにつれ、波が船腹を叩く音が、一定のリズムを刻み始めた。
バーソロミューは今度は何も言わず、海の向こうを見つめていた。彼がたまに見せる、どこか遠くを見つめている表情だった。
視線の先にあるのは、自由の女神が見つめる先――
ドーバー海峡を越えた向こう側を見ているような気がした。
根拠はない。
けれど、なぜかそう思った。
胸の奥が、じわりと冷える。
彼がここにいる時間は、限られている。
いつか、このフェリーの航路よりも、もっと長い距離を越えて空路であっという間に帰ってしまう。抱えている悩みが多すぎて、船酔いのように目眩がした。
「……ロンドンに帰りたい?」
隣に立ったが、彼はこちらを見ずに、同じ方向を見つめていた。
「……どうだろう。ここに来た時は毎日、帰国までの日数を指折り数えていたけれど。ここ最近は数えてなくてね」
疑わなければならない。
職務として。
理性として。
「……そうだね、多分、あと50日ぐらいだと思うな」
その数字が、思ったより具体的で、思ったよりも、残酷だった。私の足元を、静かに何かが、崩し始めていた。
冬のビーチには、人がほとんどいなかった。視界に入る限りでは、私たち二人だけだった。
観光の季節は過ぎ、遠くで見える遊園地の観覧車は、静かに動いているのか、眠っているのかわからない。
色褪せた看板だけが風に晒されている。
砂は湿り、波は低く、寄せては返す音だけが一定に続く。
私たちは、言葉少なに並んで歩いた。
肩が触れそうで、触れない距離。
触れないことで、かろうじて壊さずに済む何かがある気がした。
風が強い。
海から吹き上げる冷気が、コートの隙間を容赦なく探ってくる。彼の首元が寒そうに見えた。
「寒くないかい?」
そう聞きながら、私は自分のマフラーに手をかけていた。
無意識だった。
考えるより先に、身体が動いた。
バーソロミューは一瞬だけ目を瞬かせたが、拒まなかった。
私は彼の首元に近づき、慎重にマフラーを回す。
伏せ目がちの睫毛が頬に影を作っていた。
ベージュを基調に、黒の線が整然と交差し、その間を赤が静かに走るチェック柄。トレンチコートの裏地と、同じデザイン。
自分でも驚くほど、指先が震えていた。
代わりに、胸の奥が妙に静かだった。
「……滞在中は、使ってほしい」
お願い、というより、願いだった。
マフラーを整え終え、私は一歩だけ距離を取った。
それ以上近づけば、何かが壊れる気がしたからだ。
バーソロミューは無言で首元に手をやり、布の端を指先で挟んだ。
ほんの一瞬、目を伏せる。
「……君の匂いがするね」
独り言みたいな声だった。
私に聞かせるためでも、からかうためでもない。
ただ、気づいてしまった、という調子。
胸の奥で、何かが強く鳴った。
衝動的に、その腕を引き寄せて、強く抱きしめたかった。
そう思ったのに、胸につかえた感情が、それを押し留める。
視線を逸らせなかった。
心臓が、はっきりと跳ねるのが分かる。
彼はようやく顔を上げ、少し困ったように笑った。
「安心する匂いだ」
顔を上げた彼と、目が合う。
深い海のような色をした瞳。
光を拒むほど深いのに、見つめ返されると、不思議と逃げ場がない。
その奥を覗き込むと、瞳の底で、揺れているものがあった。
――それは私の気持ちと同じものだった。
名前をつける必要もない。
迷う余地もない。
今、この瞬間に、答えはもう出ている。
だからこそ、私は目を逸らせず、焦る気持ちを抑えることができなかった。
「……あなたは、一体、何者ですか」
声は、驚くほど落ち着いていた。
責めるためでも、拒むためでもない。ただ、彼を信じる前に、確かめなければならないと思った。
胸を張って、彼の隣にいるための、そのための確認だった。
「なぜ、何のために、ニューヨークへ……?」
その一瞬。
バーソロミューの表情が、わずかに変わった。
――傷つけた、とすぐに理解した。
彼はすぐに視線を外し、波の方を見る。
息を吸う音が、少しだけ深い。
うるさいくらいに鳴り響いていたはずの波の音が切り取られたように聞こえなくなった。
「I’m alien」
そう呟いた後、振り返り、私をまっすぐ見た。
「君のような人間が住む世界の、人間じゃない」
その一言で、すべてが繋がった気がした。
違和感も、距離も。
それでも、彼はマフラーを外さなかった。声は淡々としている。怒りも、抗議もない。
それなのに、どこか遠ざかる響きだった。
私は、ようやく気づいた。
疑ったのは、私なのに。
傷ついたのは、彼のほうだった。
風が吹き、チェック柄の端が揺れる。
その赤い線が、冬の海の色の中で、妙に鮮やかだった。
波の音が戻ってきた。
うるさいくらいに、鳴り響いていた。
手の甲が、ほんの少しだけ触れた。
それが、今の私たちに許された、いちばん近い距離だった。
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