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泯
2026-03-13 14:05:23
3204文字
Public
NYPB
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5.Go nuts!
本来であれば、午後からの出社予定だった。
だが、少し早めに署へ向かうことにした。
午前の遅い時間帯だが、警察署では珍しいことではない。
誰も理由を詳しくは聞かないし、こちらも説明しない。この場所では、その程度の曖昧さが、ちょうどいい。
署内は、思ったより騒がしかった。
夜勤明けの署員が気怠そうにコーヒーを啜り、電話が鳴り、どこかで誰かの怒号が飛ぶ。
床清掃の機械が、遠くで低く唸っている。
そんな中で、ドーナツの箱を三つ重ねて抱えた自分の姿が、やけに浮いて見えた。
だが、それも含めて、ここでは日常だった。
甘い匂いが鼻につく。
朝食を取る気分でもなかったはずなのに、店では迷わずトレイを埋めていた。
選んだ味は覚えていない。
デスクに着くと、背後で椅子の軋む音がした。
先輩が、ゆっくりとこちらを振り返る。
「
……
寝てないだろ」
「少し、寝ました」
「“少し”って言うやつは、大体寝てない。俺も毎日、“少し”寝てる」
デスクの上、書類の山の谷間に、エナジードリンクが数本見えた。
先輩は苦笑いを浮かべながら椅子を回し、こちらを向く。
視線が、私の顔から手元、ドーナツの箱へと一瞬で移動した。
「朝食? 昼食?」
「
……
朝食です。よかったら、先輩もどうぞ」
「
……
遠慮しとくわ」
曖昧な表情。
先輩は、深く考えないふりをするとき、こういう表情をする。
私は一度、息を整えた。
「あの
……
報告と、相談があります」
「
……
おっとぉ、相談の方は、もし私用なら業務終了後にしてくれる?」
一瞬、間が空く。
「先輩、あのバーの張り込み、荷が重いので、当初の指示通り、先輩がやりませんか?」
その言葉で、空気が切り替わった。
「
……
なるほど。そうきたか」
先輩は立ち上がり、周囲を見渡す。
近くのデスクでは同僚がキーボードを叩き、コール音が鳴り響く。
「三番会議室、空いてるな」
そう言って、私の腕の中の箱を見る。
「ドーナツ持って集合だ。俺は後輩くんのバディでもあり、メンターでもあるからね!大切な後輩のメンタルケアも、大事な業務だ」
「
……
ありがとうございます」
会議室は、ガラス越しに署内が見えるだけの簡素な部屋だった。
先輩はコーヒーを注ぎ、私は無言でドーナツの箱を開ける。
「で」
紙コップを机に置く音。
「先に昨日の件だ。進展は?」
私は一拍置いた。
言葉の順番を選んでいる自分に、少し苛立つ。
「重要参考人の特徴と酷似する人物を、今朝見ました」
先輩の眉が、ほんのわずかに動く。
「やっぱりバーに現れた? 何時頃?」
「ホテルです。今朝、エンパイアステートビルの近くで」
「
……
ホテル?」
一瞬、会議室の空気が止まった。
「なんで?」
間が悪い。
ドーナツの砂糖が、やけに白く見えた。観念して、事実をそのまま続ける。
「昨日、五番街で助けた英国人とバーで再会して、家に泊めました。
それで、今朝、ホテルまで送った際に、重要参考人の特徴によく似た人物と遭遇しました」
先輩は、数秒、何も言わなかった。
コーヒーを一口飲み、それから、ゆっくり息を吐く。
「
……
お前さ」
吐いたため息は、会議室の空気を重たくさせた。
「純真無垢な後輩くんだと思ってたら、まさかバーでナンパして、お持ち帰りするタイプだったとはな」
「
……
ッ違います。結果的には、そうなんですが
……
歓談いただき、
……
保護しただけです」
「いや、歓談はまだいいよ?あそこで一人でいるの辛いもんな。めちゃくちゃ見られるし、虚無の時間だよね。わかるよ。俺も一日張り込みしただけで無理だったし。その節はありがとな。でもさ、連れ帰ったのは、何で?
……
ごめん、やっぱ聞きたくない! 後輩の生々しい話、無理だわ!」
先輩は一息に話すが、半分、面白がっている声だった。
だが、すぐに仕事の顔に戻る。
先輩はドーナツの残りを口に放り込み、指先についた砂糖を軽く払った。
「で。その英国人は、どこが似てる?」
「正確には、彼の
た
・
だ
・
の
・
知
・
り
・
合
・
い
・
、が
黒髪で、背が高く、黒い髭でした。
……
今ある情報、特徴が抽象的すぎます」
「
……
ちょっと待って。
……
昨日、五番街で会った英国人って、あの英語のアクセントに特徴ある?」
「
……
彼はおそらく無関係です。
……
そもそも髭が、ないですし、背も、私より低いです」
「髭は剃ったかもしれないだろうし、
背だって恐らく、六フィート以上はあるから、高いよ?」
正論だった。私は言葉を飲み込む。
「そもそも、そいつ自身が、あのバーに現れたタイミングが良すぎる。重要参考人が出没する曜日、時間帯。偶然にしては出来すぎてる」
机を指で叩きながら、続ける。
「だったら、疑うのが仕事だ。まず、旅行者っていうのも怪しい。英国から何かを持ち込むのか、何かを持ち帰るのか。
……
そういうバイヤーの可能性もある」
その言葉に、胸の奥がわずかにざらついた。
「でも
……
彼は」
何を続けて言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
「
……
怪しくない、って言いたい顔だな」
先輩はため息をつく。
「お前、それ、仕事と感情、今ちょっと混ざってるだろ」
図星だった。
「
……
正直に言うと、それが相談です」
言葉が、意志とは別に零れた。
「自分でも、よく分からない感情で
……
その、彼を見ると」
一度、言葉を切った。
「世界が、少しだけ明るく見えたり。理由もなく、落ち着かなくなったりします」
自分の声が、思ったより低い。
「それで」
続けるべきか迷ってから、正直に言った。
「自分の知らない一面を、他の人に見せているのを見ると
……
嫌な気分になるんです。腹が立つとか、悲しいとか、そういう名前のつく感情じゃなくて、もっと醜い」
言葉が、途中で失速する。
「
……
ただ、落ち着かない」
先輩は一瞬黙り、それから肩をすくめた。
「それ、多分な」
少し考えるふりをして、口の端を上げる。
「
……
やっぱり、自分で答え探して、それ」
「
……
」
私は視線を落とした。
ドーナツの穴が、同じように、こちらを見返してくる。
「もしくは、だよ。その感情に、そもそも定義なんて、必要ないんじゃね?」
――
その言葉は、どこかで聞いたことがあった。
彼、バーソロミュー自身が、私に最初に教えてくれた答えだ。
私はもう、知っていた。
あろうことか
――
彼自身に、教えられていたのだ。
胸の奥で、絡まっていた糸が、静かに、ほどけていった。
「ま、唯一言えるとしたら、遠くで悩むより、近くで見て、答えを出してみたら?」
先輩の声が、仕事の調子に戻る。
「組織としてもな。重要参考人の可能性があるなら、近くで監視するのが正解だ」
「
……
」
並んでいるドーナツの穴が一斉にこちらを見つめてくる。
「感情的にも、捜査的にも」
先輩は、肩をすくめる。
「まあ、どっちに転んでも、仕事だ」
指先の砂糖を落としながら、先輩は続ける。
「まー、最後にやっぱりヤバいヤツってわかった場合のメンタルへのダメージは、でかいだろうね」
一拍置いて、にやりと笑った。
「まぁ、そんな難しく考えなくていいでしょ。後輩くんには、ちょうどいい距離だ。髭の男の方は俺が見張るから、後輩くんは英国人と交流を続けて」
私は返事をしなかった。
ただ、その言葉が仕事の指示であり、同時に、私自身への忠告でもあることだけは、はっきり分かっていた。
さらにもう一箱分のドーナツを勧める私を制すように、掌を、軽く突き返された。
一拍置いて、先輩は言った。
「
Go nuts
狂おうぜ
」
コーヒーを流し込んで、軽い調子で笑う。
「正気で警察なんて職業、やってられるか」
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