2026-03-13 14:02:46
3625文字
Public NYPB
 

4.BLACK.BLACK.BLACK!


 エレベーターの扉が閉まる瞬間、ロビーに残された彼――パーシヴァルの顔が、頭から離れない。

 この街で初めて、私の歩調に合わせ、周波数に正しく触れてくれた、ニューヨークの友人。
 初めてきた惑星に戸惑う地球外生命体に迷わず手を差し伸べる少年のような男。つい先ほどまで、円熟した司祭のように私を導いていたのに、ロビーでの別れ際は、まるで主人を失った子犬のような表情で、エレベーターの扉が閉まるのを見つめていた。
 その密閉された箱が階を上がるたびに、なぜか胸が切なくなった。
 この気持ちは何なのだろう。これが刷り込み効果というやつなのか――見知らぬ土地で偶然優しくしてもらえた人間に依存しているのかもしれない、と自分に言い聞かせた。

「いやー、それにしてもさー。あのハンサム、大統領選挙の握手かってくらい力こめてきたよ?そのあと拙者のこと、めちゃくちゃ睨んでたんだけど。何? 拙者、もう嫌われた?」
 隣で黒髭が、右手を握ったり開いたりと指を動かし、拙者の白魚のような手が……、と一人喚いていた。
 その声は、ホテルの上品な静けさを悪びれもせず擦り切らせる。奴が歩くたび、最新型のスニーカーが床を鳴らし、ハーフパンツの脚で堂々と冬の廊下を突き進む。
 そもそも、こいつがニューヨークに現れるからいけない。下品でガサツで野蛮な知り合いがいるという事実が十分に屈辱だった。
「で、どっちが抱いたの?バーソロ?」
下世話すぎる問いだった。
——口を慎め」
私は足を止めた。
——二度と、そういう言い方をするな」
黒髭が眉を上げる。
「彼は、そういうふうに扱っていい人間じゃない」
口にしてから、自分で驚いた。なぜ“彼”に対してそう思うのか、説明がつかない。
 黒髭は面倒くさそうに肩をすくめて、カードキーを私の手から奪うように受け取り、器用にドアを開けた。私の部屋だと口を開こうとしたが、無意味だとわかり、声にしなかった。この男にとっては、たぶん、世界のどこでも玄関の敷居は低い。

 部屋に入るなり、奴は勝手に照明を明るくし、ソファの背に黒いダウンジャケットを投げた。空気を切る音がした。日本の土産でもらったという冷奴クールガイと漢字でプリントされたシャツが現れる。そのままテーブルに歩み寄り、そこに置いてあるものを見下ろす。
 ノートパソコン。
 紙束。
 トレイに置かれた乾いた植物片――

「ネタは?」
挨拶という概念を、こいつは持ち歩かない。
私は一言も返さず、脱いだコートのポケットから地図やら紙製のコースターやら巻紙などをテーブルに散らす。
着ていた服を適当に落としながら、バスルームへ向かい、シャワーの栓をひねった。
天井から落ちてきた熱い湯が、肩と背を叩く。
喧しい雑音が消え、水音が立ち上がると同時に、さきほどの光景がまた入り込んでくる。
ロビーの照明。エレベーターの前のランプ。
閉じていく扉の向こうで、取り残されるように立っていた彼の顔。
私は目を閉じた。
弱過ぎる水圧のせいか、どんなに流そうと意識しても、消したいものが消えない。
 この街の人間にしては、あまりに誠実で、空のように澄んだ眼差し、それが時々、前髪で隠れる様子。ワイングラスをぶつけてくる仕草や図書館の貸出しカードまで並べる姿を思い出して、笑みが溢れてしまう。
――困った。
シャワーを浴びれば、街の埃や、他人の気配くらいは落とせる。だが、あの視線だけは、皮膚の内側に入り込んでしまったらしい。それは血液に混ざり合って全身を巡り、心臓を通るたびに、それを掴むように痛めていく。
私は息を吐き、額をタイルに預けた。
湯気の向こうで、流せない記憶を黒く塗りつぶす。

 シャワーを終え、バスローブの紐に手をかけたところで、外から黒髭の声が飛んできた。
「BBAからお土産♡」
 扉を少し開けると、黒髭はベッドの上に小箱を投げてよこした。小箱は音もなくシーツに沈んだ。
「こっちのSIM入りスマートフォンだ。外出中でも持ち歩け」
先日までは不要と決めつけていたものだった。
……あぁ。それは、助かる」
……助かる? その“助かる”は、さっきのハンサムとの連絡用だろ?」
私は一瞬、言葉を探した。
だが黒髭は、答えを待っていない。
取り繕う意味もないと悟り、私は淡々と返した。
「もちろん」
私の即答に、黒髭は嘲るように鼻で笑った。
素直に認めたことで、ただの軽口だと受け取ったらしい。

 バスローブの襟を整えながら、私は部屋へ出る。髪の先からまだ水滴が落ち、首筋を濡らした。小箱からスマートフォンを取り出すと、既に初期設定やら煩雑な作業は済んでいた。そこまでしても、私を監視したいのだ。
 黒髭はテーブルの“葉”を指先でつまみ上げ、光に透かした。乾燥した繊維が、奴の大きな指に脆く挟まれている。

……でぇ、アレ”はどうなのよ?」
「催促するな。まだ仕上がりきっていない。いろいろと甘い」
 私は壁沿いのソファに腰を下ろした。濡れた髪から落ちた雫が背に触れ、冷たさが布越しに染みた。
「“甘い”じゃねぇんだよ。拙者はね、進捗確認に来てんの。なぁ、どれだけ“溜め込んだ”? どれだけ“出せる”?」
  言葉遣いはふざけているのに、眼だけは光を失って、黒く空っぽだ。奴は“葉”をテーブルに落とした。

「なぁ、バーソロミュー。そろそろ“商品”を出す頃だろ。こっちは待ってんだよ。それがないと、困る奴がたくさんいるんだ。……BBAに迷惑かけたくないだろ?な?」
 私は息を吐いた。
「“商品”という呼び方は嫌いだ。私が扱っているのは、もっと繊細だ。粗野な名前で呼ぶな」
「繊細だぁ? なら尚更。丁寧に仕上げてみせろや」
 黒髭は私の前まで歩み寄り、空気を重くする。
 その巨躯が影を落とすだけで、室内が一段と澱むように感じられた。
「遅れたら、誰かが死ぬかもしれねぇなぁ。ドレイクに殺されるのは、俺かお前だ。……たぶん両方だな。分かってんだろ?な?」
 脅しではない。事実だ。
「ハッ!それはむしろ、光栄と受け取るべきだな」
口では軽く返した。黒髭の眉が、ほんのわずか動く。
……溜め込んでる理由はなんだ?」
 私は視線を逸らし、窓の外へ目を投げた。
 ニューヨークはすでに昼の顔をしていて、ガラスを隔てた、この空間とは‪真逆の別の世界に眩しく、目を細めた。
 この街に来てから、どうも調子が狂っている。
強すぎる光と、速すぎる時間と、――あの男の存在が、
私の中の均衡を、少しずつ削っていた
――少々、気になる人間ができてしまった」
 黒髭は、一拍置いてから笑った。
「はァ?本当にさっきの坊や?本気?」
 笑い声は軽い。
 「……本人から申告はないが、おそらく警察だ」
気になる理由を、一つだけ開示した。もう一つは墓場まで持って行かなければならない。
「へー。警察なら、お得意のハニトラで逆にいろいろ話聞けよ。お前に気ィありそうだから簡単だろ」
 次の瞬間、こいつに拳を叩き込む映像が頭をよぎった。衝動は一瞬だったが、十分すぎるほど具体的だった。
「言ったはずだ。彼を汚すな。やめろ」
自らが発した低く落とした声で、ようやく現実に戻る。
 黒髭は肩をすくめる。
「冗談じゃねぇよ。拙者は、お前の“作品”を待ってんの。
 そのためなら過程は気にしないし、利用できるものは利用する」
 こいつには人間的な感情などという概念がない。商品を作品と言い換えたところで、この男の思考は変わらない。
 黒髭は黒いダウンジャケットに身を包み、扉へ向かった。振り返りざま、黒い瞳だけがぎらりと光る。
「“ブツ”を仕上げろ。期限は伸ばさねぇ。――一秒たりともな。別件のXデーも……逃げるなよ」
声色が切り替わる。
「それさえ守れば後は、お好きにドーゾー♡」
最後はふざけた調子で下品なジェスチャーをする。
私はベッドの上に置かれた小箱を掴み、扉に向けて怒りに任せて投げた。ほんの一瞬の差で、扉は閉まり、箱は鈍い音を立てて扉に当たり、床へ落ちた。

 残ったのは静けさと、シャワーの名残の湿気と、テーブルに散った乾いた葉。
 窓の外では、ニューヨークが何事もない顔で流れていく。人々は生き急ぎ、信号は切り替わり、あいかわらず光は強い。
 その強すぎる光の中に、今朝、ロビーに残っていた顔が、妙に鮮明に残っている。
 ――困った。
 机の上のスマートフォンに触れ、私は画面を起動した。メール設定をする指先が、ほんのわずか震える。
 予定として残らない約束は、いつの間にか無かったことになる。
メールボックスには、「テストメール」とだけ記された見知らぬアドレスが、一件残っていた。

 私は、もう一度だけ深く息を吸った。
全てを黒く塗りつぶせば、何も考えずに済むはずだった。