2026-03-13 12:58:36
4502文字
Public NYPB
 

3.三〇五

ニューヨークのパーバソ

 焙煎した豆の香りが、冬のニューヨークの切り裂くような冷気を、ほんの一瞬だけ遠ざけてくれる。
温度差で曇った窓を背に、私はフィルターから落ちていくコーヒーの一雫たちを見つめていた。
この街の雑音がまだ届かない早朝。この静けさこそが、ニューヨークでの贅沢だった。

「おはよう。私の分は、コーヒーではなく、紅茶をいただけるかい」
声の主はキッチンの戸口に片肩を預け、微睡みの中の眼差しで、こちらを見ていた。
昨夜より、幾分か表情が柔らかい。貸したルームウェアは少し大きかったのか、肩口が落ちていた。
豆の香りに沈んでいた意識を現実に戻しながら、来客用の茶葉を探して戸棚を開けた。
……貴方の分は、淹れなおすよ」
紅茶を所望した彼は満足げに片眉を上げ、ソファへ腰を下ろした。よければ観葉植物に水を、と頼むと、嬉しそうに頷き、「喜んで」と返される。
 冬の光が大きな窓から差し込み、硝子と真鍮の霧吹きから水滴が散るたび、小ぶりなオリーブの木の深い緑が、光を含んでわずかに揺れて見えた。
「昨夜、君はウェールズ出身って言っていなかったかい?
朝からコーヒーとは、やっぱりニューヨークの人間だね」
冗談めかした声が陽に溶け、彼の周囲だけがひときわ明るく見える。
霧吹きの水滴と光の乱反射――それだけが理由ではない気がした。
……物心ついた頃には、ニューヨークに住んでたから。
朝はコーヒーだよ」
 昨夜、彼は自らをバーソロミュー・ロバーツと名乗った。
短期滞在中の英国人――それ以上の説明はなかったが、彼の気配は、この街の雑踏とは別の風景を纏っている。
朝の光の中で見る彼は、原色ばかりのニューヨークに紛れ込んだ、淡い色調の印象派の絵のようだった。
――本来なら。
酔っ払いの曖昧な記憶を頼りにでも、宿泊先まで送り届けるべきだったかもしれない。
あるいは、別のホテルを手配するなど、もっと無難な手段もあったはずだ。お互いのためにも。
それでも、そうしなかった。夜のこのニューヨークで、行き先を正確に言えない観光客を歩かせる気になれなかった。
それに――会話を、途中で切るのが惜しかった。
部屋に誘い、帰る道すがら、ふと我に返った。
慌てて無実を証明するように身分証と運転免許証を並べ、最後には、図書館の貸出カードまで差し出していた。まるで、自分という人間が安全であることを、相手にではなく、自分自身に言い聞かせるように。それを見て、バーソロミューは大きな声で肩を震わせて笑った。
「今夜の君以上に信頼できる人間はいないね」
その信頼と期待に、応える責任が生まれてしまったことだけは、はっきりと分かった。

 家では、もうアルコールは飲まなかった。
鍋で温めたミルクを二つのマグに分け、ソファに並んで座った。両手で包んだマグの湯気の向こうで、ウェールズで生まれたことや、ニューヨークの観光名所をプレゼンテーションしたり、流れでニューヨークを舞台にした映画を、サブスクリプションで適当に選び、いつの間にか後半は映画そっちのけで、他愛もない話を延々としていた。ルームウェアに着替えたあと、彼は悪戯を見つけられた子どもみたいに、しおらしくジャケットのポケットを探り、ボロボロになったホテルの名刺を取り出した。
そこに自分のメールアドレスを書き添え、私に渡してくれた。
指先に、紙の乾いた感触が残ったとき、空が白みはじめていることに気づいた。
 不思議なくらい、安心して、少しだけ目を瞑った。

 紅茶の湯気が立ちのぼる頃、バーソロミューはローテーブルに置かれた本を手にとった。
ページを繰る音さえ、儀式のような静けさになる。
彼の唇に、喜びとも戸惑いともつかない淡い陰影が落ちる。
「ニューヨークの滞在中は、どこか行きたいところは?」
昨夜、よかったらニューヨークを案内したいと申し出たのは、親切心だったのか、それともただの思いつきだったのか、自分でも判然としないままの言葉だった。
ただ、口約束のまま宙に浮かせておくのが性に合わず、言った以上は、形にしておきたかった。
少し考えるように視線を上へ向けてから、彼は言った。
「あー……海が見たい、な」
即答ではなかった。その言い方が、なぜか印象に残った。
「それなら、フェリーに乗ってブルックリンへ向かおう。海の上から自由の女神に挨拶もできるよ」
言いながら、自分が“案内”ではなく“同行”を前提にしていることに、あとから気づいた。
「フェリー? 船に乗れるのかい?」
彼の声が、ほんの少しだけ弾む。子どもみたいに、期待を隠しきれない調子で。
「冬のコニー・アイランド・ビーチなら、人も観光客も少ない。近くに遊園地があって、観覧車が見えるんだ」
寒さや不便さよりも、その景色が先に浮かんだ。
彼は短く笑って、静かに頷いた。
「君は素晴らしいガイドだね」
その言葉に、否定も謙遜もできないまま、黙ってしまった。彼の笑い声は、約束の言葉みたいに、しばらく空気の中に残っていた。

バーソロミューが滞在しているホテルは、エンパイア・ステート・ビルのほど近くにあり、通りに対して必要以上に自己主張しない佇まいだった。低層の建物が肩を寄せ合う一角に、落ち着いた色調の石壁が続いていた。
午前十時。
観光客は立ち止まって空を見上げ、出勤途中の人々は携帯を耳に当てたまま生き急ぐように通り過ぎる。
その中に立つバーソロミューは、やはりこの街の速度とは噛み合っていなかった。浮いているわけでも、馴染んでいるわけでもない。ただ、一定の距離を保ったまま、そこに風景として存在していた。
「部屋まで送ろうか」
そう申し出るも、彼は小さく首を振った。
「ロビーまででいい。十分だよ。次の約束はメールをくれたらいいから」
 真鍮の回転扉を抜け、ロビーへ足を踏み入れた瞬間だった。ソファに腰を下ろしていた男を見つけた途端、バーソロミューが「げっ」と短い声を上げた。反射的な悲鳴だった。
男がその声に反応してゆっくりと振り返る。

「てめえ、バーソロォ滞在三日目で朝帰りとは、いい身分じゃねえの」
 低く、ざらついた声。ソファに沈むように座っていた男はゆっくりと立ち上がった。
 その瞬間、私は息を呑んだ。
 ――でかい。
 六フィート半は優に超えている。
自分より背の高い人間に会うのは、NBA選手以来だ。男の鼻は鉤鼻のそれのように高く、窪んだ大きな目がぎょろりと動いて、私たちを見下ろしていた。獲物を見定める猛禽類を思わせる視線。そして、顎から頬にかけて伸びる黒々とした髭が、視界の端で妙に残る。登山用ブランドの分厚いダウンジャケットが、その巨躯をさらに大きく見せている。近くに立たれただけで、空気が一段、重くなった気がした。だが、何よりも目を疑ったのは――脚だった。
ハーフパンツ。
この、ニューヨークの冬に!
むき出しの脚の先で、最新型のハイテクスニーカーが、床の光を鈍く弾いている。
路上で眠れば凍死しかねないこの街で、長いコートでも足りないと感じる気温の中、男は素肌を晒し、平然と立っている。この冬のニューヨークにハーフパンツの人間がいないわけじゃない。たいていはランナーか、あるいはストリートでときどき見かける、明らかに様子のおかしい人々だ。だが、この男はどちらにも見えなかった。正気だ、と直感が告げていた。理性を保ったまま、正常に狂っている。そして、その場に立った瞬間から、空気の流れが、わずかに変わっていた。
 バーソロミューは一歩引き、私と男の視線が一瞬、交差した。
……お知り合い、ですか」
 自分の声が、わずかに遅れて響いた。
バーソロミューは一瞬だけ言葉を選び、それから苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「仕事関係の人間だ」
男はしなをつくり、巨躯を揺らした。
「えーっ!拙者、連絡繋がらないバーソロ心配したBBAに“様子見て来い”って言われて、マイアミから飛んできたんですけど。つれなくない?あっ、どーもー、拙者、ミスターワイルドワイドのエドワード・ティーチですッ!よろしくネッ」
その男は外見からは全く想像できないくらい明るく、砕けた調子で自己紹介した。
「パーシヴァル・ド・ゲール、です」
差し出された右手もやはり自分よりも大きく、軽く握手しただけなのに、指の骨に残る圧が消えなかった。
「恩着せがましく言うな。お前も休暇で、マイアミの“パートナー”のところに行ってただけだろ」
“パートナー”。
その単語を聞いて、胸の奥がわずかに緩む。
決まった相手がいる。なぜか安堵する心に戸惑った。

「あー、そうそう。十二番目の。昔マイアミ住んでた時の元・六番目。ヨリ戻して今がいちばん大事な時期だから、構ってやらねば〜」
意味が分からず、私は反射的にバーソロミューを見る。彼は重いため息をついてから口を開いた。
「あー、この黒髭は、世界各地に合計十四人パートナーがいる。インターネットの海を大航海してビデオチャットでナンパしているから、だいたい画面越しだがね」
バーソロミューは口の端を歪ませながら続ける。
「なにがミスターワールドワイドだ。私から言わせれば、ワールドワイドウェブ、ネットの海でしか威張れない悲しきモンスターだよ」
「おい、侮蔑か?バーソロォ」
「自覚があるのか?」
男は、言い返す代わりに、喉の奥で何かを転がすような音を立てた。
次の瞬間、堪えきれなかったものが一気に溢れたように、大きな口を開けて笑い出した。
「ハッ、ハハハ! ひっど!ひどすぎるでショ!」
腹の底から響く笑い声が、ロビーの天井にぶつかって跳ね返る。品も、遠慮もない。ただ、その目は全く笑っておらず、悪ふざけが、そのまま人の形をして立っているようだった。黒髭と呼ばれた男が親しげにバーソロミューの腕を肘で小突く。次の瞬間、バーソロミューの黒革のブーツが、黒髭の足を、静かに踏み止めていた。
ホテルのフロントやポーターは、こちらに一瞥もくれず、まるで最初から私たちなど存在しなかったかのように、仕事だけを続けている。

 背が高い。
 黒髪。
 そして――
 立派な髭。

 男の顎を覆う黒い髭が、ロビーの柔らかな照明の下で不自然なほどはっきりと浮かび上がっていた。
 胸の奥が、ざわつく。
それは先輩から聞いていた重要人物の特徴と酷似していた。
 これは捜査の勘なのか。
 それとも――別の感情なのか。
 自分でも区別がつかなかった。
 バーソロミューは、その男に向き直り、肩をすくめた。
「仕事の話なら部屋で聞く」
「うーい」
 男の視線が、今度は私に向く。値踏みするような一瞬。それだけで、十分だった。
 この男は、“仕事関係の人間”ではない。
 二人を乗せたエレベーターの扉が閉まり、上昇を告げる音が、短く鳴った。
数字のランプが切り替わる。その光が消えるのを、なぜか最後まで見送っていた。
ロビーに残されたのは、名前を知らない感情と、それを抱えたままの自分だった。