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泯
2026-03-13 12:55:30
4792文字
Public
NYPB
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2.八十ドル
ニューヨークのパーバソ
男たちからの、品定めをするような視線が痛い。
カウンター越しに立ちのぼる蒸気の向こうから、熱を帯びた視線が皮膚を刺す。
ここでは、視線は挨拶であり、値踏みであり、誘いだ。
だから、絶対に目を合わせてはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、手元のジンで唇を湿らせた。
情報収集の捜査で訪れたゲイ・ネイバーフッドのバー。私はカウンターの隅に、身を縮めるようにして座っていた。
本来なら、ここにいるのは先輩の斎藤のはずだった。だが張り込み初日の翌朝には「悪い、俺には荷が重いわ
……
」と、一日で身を引いた。
結果、重要参考人が現れる可能性のある日は、すべて自分が張り込む羽目になった。
――
もっとも、それを苦に感じているかといえば、そうでもない。
この店にいると、必ず聞かれる。
どちらが好きなのか。
男か、女か。
あるいは、どちらもか。
そのたびに、うまく答えられない自分がいる。
アロマンティックだとか、アセクシャルだとか、
もっともらしい言葉を並べられたこともある。
だが、そのどれもが、いまひとつ腑に落ちなかった。
人を好きになったことがないなどありえない、拒むならもっと心に寄り添った拒み方があるだろう
――
そんな言葉を押しつけられたこともある。
自分は、誰にでも優しくしてしまうだけだ。
距離を詰めることに抵抗がないだけで、好意と誤解されることには慣れている。
気をつけなければならないことも自覚している。
恋愛感情になると、殊更わからない。
誰かを特別に欲しいと思ったことが、全くない。焦りがないわけではない。ただ、無理に何かの枠に押し込まれるのが、どうにも性に合わなかった。
人を美しいと思うことはある。
たとえば今日、五番街で出会った、イギリス英語の響きを帯びた男は、遠くからでも、その美しさははっきりとわかった。雑踏のなかで、年配の女性と並んで硬貨を拾う姿は、誰かに見せるための親切でもなく、ただ、そこにある行為として静かだった。その光景は、かつてパリの美術館で目にした、落穂を拾う人々の油彩画を思わせた。慎ましく、黙々と、それでも確かに尊厳のある姿。
――
美しい、と思った。
それは欲情とは違う。
ただ、人としての気高い精神の在り方に、目を奪われただけだ。
入口で、かすかな金属音がした。
欲望と酒と汗と香水が混じった重たい熱気のなかへ、扉の向こうの夜が滑り込んでくる。
冷たい空気が、ふっと店内を撫でた。
新鮮な空気を求めて、そちらへ視線を向けた
――
ただ、それだけだったはずだ。
風の先に、昼間、五番街で会った男が立っていた。
艶のある黒革のブーツ。
夜の光を吸い込むようなネイビーのコート。
ブルーとグリーン、そしてブラックが走る、ブラックウォッチのシャツジャケット。
整った服装とは別種の、野性味を帯びた存在感。
視線を集めるのも無理はない。店内の視線が入り口に集まる。
観光客であるこの男が、このバーの趣旨を理解しているかはわからない。
知らずに入ってきたのなら
――
。
心臓がひとつ跳ねる。耳の奥で、何かが始まる。そんな感覚だけが、短く鳴った。
他の誰かが動くよりも先に、気づけば口を開いていた。目を合わせる前に声をかける
――
このバーのタブーを犯して。
「
……
こんばんは。お隣よろしいですか」
声が、わずかに震えたのを自覚する。慌てて背筋を伸ばした。余裕あるように声色を低くする。
「五番街で
――
」
一瞬、彼のまつげが揺れた。
「あぁ!もちろん!先ほどは、ありがとう」
低く落ち着いた声は、バーの喧騒をすり抜けてまっすぐ届いた。隣の席を勧められ、腰を下ろした。
今まで感じたことのない種類の引力だった。
自分はまだ、それを何と呼べばいいのかを知らない。
彼の瞳は、底が見えないほど深い海を思わせた。
覗き込めば答えがある気がするのに、覗き込むことができない。
鼓動が耳の後ろで跳ねる。
張り込み中とは思えないほど動揺している自分に気づき、胸の奥で軽く息をのんだ。
男はバーテンダーに指先を軽く上げた。
「グラスワイン。赤を」
その所作が妙に絵になって、一拍遅れて口を開く。
「
……
同じものを」
「同じもの?」
男は目を細め、少しだけ面白そうに笑った。
ワインが運ばれてくるまでの短い間、沈黙を彼のほうから破った。
「この街に来てから、自分が異質なものみたいに感じることがあってね」
「
……
異質、ですか」
「自分の英語が通じなかったり、この街のスピードについていけなかったり。イエローキャブのドライバーに行き先を聞き返されたときは、さすがに堪えたよ」
軽く肩をすくめるその仕草は冗談めいているのに、どこか本気だった。
「
……
それはただ、運転手の耳が悪かっただけでは?
この街に浮いているのだとしたら
――
それは、良い意味で、だと思います。
現代アートの展示に宗教画が紛れていたら、きっと目を引くでしょう」
真剣に、一息で、そう言った。
けれど男は、くすりと笑った。
冗談だと受け取られたのだと、そのとき分かった。
くつくつと肩を揺らし、それから、ゆっくりと息を吐く。
「確かにね。私はこの街では、少し上品すぎるようだ」
今度は冗談だと分かるように、彼はウインクまでしてみせた。昼間に見た強張った表情とは違う、柔らかな一面が、ふと覗いた気がした。
ちょうどそのとき、グラスが二つ、カウンターに置かれる。
「せっかくだ。再会に
――
乾杯」
「乾杯
……
」
グラスを掲げ、迷いなく正面から差し出した。
薄い硝子がぶつかる音がした。
思ったよりも、はっきりとした音が鳴り、先ほど海に喩えた目が驚くほど丸くなった。
「
……
君、ずいぶん豪快だね」
「そう、ですか?」
「ワインの乾杯は、少し角度をつけるものなんだ」
そう言って、彼は自分のグラスをわずかに傾けてみせる。
「
……
君のは
……
ドイツ語で乾杯が聞こえてきそうだ。ビールジョッキをぶつけるみたいにね」
「
……
問題、ありましたか」
「いいや」
彼は小さく笑った。
「勢いがあって、悪くない」
それ以上、何も言わなかった。
私は声を落とし、確認する。
「
……
この店が、どういう場所か。ご存じで入られましたか」
彼は首を振った。
「いや。地図を見ながら歩いていて、雰囲気が悪くなさそうだったから」
「スマートフォンは?」
「現地SIMもWi-Fiも何もしていないから、ホテルに置いてきた。繋がると仕事の電話がうるさくてね。ホテルのフリーWi-Fiだけで十分さ」
「ホテルの名前は?」
彼は一瞬だけ考え、首を傾けた。
「
……
長い名前だった。今は思い出せないな」
「通りの名前は」
「ここから、そう遠くないはずさ。歩けば分かると思う」
何杯目かわからないワインのグラスは、いつの間にか半分以上空いていた。それでも彼の口調は落ち着いていて、自分が酔っているという自覚がないらしい。
夜のこの界隈で、行き先を正確に説明できない観光客を歩かせる。胸の奥に、嫌な感触だけが残った。このまま歩かせていい気がしなかった。
一瞬、言葉を選ぶ。
「
……
それは、かなり危険です」
「そうなのかい」
「この地域はゲイ・ネイバーフッドで、この店も
――
そういう出会いの場所です」
短い沈黙。
彼は事実をそのまま受け取るように、ゆっくりと頷いた。
「なるほど」
それから、穏やかに問い返す。
「それで、君は?今夜のお相手を探していたのかい?」
絶対に聞かれるであろう質問に、喉の奥が詰まった。
一拍遅れて、正直な言葉が出た。捜査中とも言えず、はぐらかすように答えられる言葉を頭の中で取捨選択する。
「
……
正直、わかりません。自分の嗜好がわからないんです。生まれてこのかた、誰かに恋をしたことがなくて」
少し間を置いて、続ける。
「アロマンティックじゃないかと言われたこともあります」
「
……
え?なんて?」
彼は渋い顔で聞き返し、カウンターに置かれたままの紙製のコースターを手に取った。
ポケットからペンを取り出し、思いついたように筆記体で走り書く。
「アロマンティック、アセクシュアル。他者に恋愛や性的な感情を持たない人、だそうです」
書き終えると、肩をすくめた。
「なんでもジャンル分けしたがるんだな、人は。
……
まぁ、地雷と争いを避けるためには、便利なんだろうけど」
少しだけ頬に朱をさした顔を上げ、軽く笑う。
「君は、ほら若いから、まだ“特別な人”に会っていないだけかもしれない」
「でも、来年で三十になります」
彼は酔っているのか、愉快げに笑い、首を振る。
「ハッ
…
来年ときたか!大きく見積もるってことは、若いって証拠だよ。歳を取るとね、実年齢より少なく勘定するようになる」
からかうようでいて、断定しない声だった。
「君はまだ若い。そんな細かく区切られた小さな枠に、自ら無理に収まる必要はない。しかもここは、人種のるつぼだろ?ぐちゃぐちゃに混ざった人間たちが、この街で生きている」
少しだけ、遠くを見つめるように、表情が変わる。
「定義なんてしなくていいのさ。どうしてもどこかにカテゴライズが必要な時は″博愛主義”だと主張したらいい。誰も愛せないよりは、皆を平等に愛しているほうが、救われるだろう?」
その言葉をどう受け取るべきか考えかけて、途中で思考を止めた。反論も、説明も、今は必要ない気がした。
肩の力が抜けたことに、少し遅れて気づく。
――
定義しなくていい。
その一文だけが、胸の奥に静かに残った。
問題点はもう一つ残っている。
「
……
しかし、スマートフォンを持っていない、というのは」
言葉を選びながら、続ける。
「正直に言って、かなり無防備です」
彼は意外そうに目を瞬かせ、それから気にする様子もなく笑った。
「そうかな?でも、地図があれば何とかなる」
「なりません」
自分が発した声が思ったより強い口調になり、自分でも驚いた。
「
……
この辺りは、迷っていい場所ではありません。今夜に限って言えば、なおさらです」
彼はその言い方を面白がるように、グラスを傾けた。
「君は、ずいぶん心配性だ」
「必要な警戒です。昼間、五番街で伝えたはずです。それに
……
」
言葉を切る。
“このまま別れたら、それきりになる”という考えが浮かんだが、それを理由にするのは正しくない気がした。
代わりに、頭に浮かんだ事実だけを拾い上げる。
「貴方は、連絡手段のない観光客で、ホテルの場所も、正確には覚えていないようだし」
彼は少し考え、それから肩をすくめた。
「確かに。それは少し不用心かもしれないね」
「はい」
ようやく話が通じたことに、小さく安堵する。
「だから
――
」
誘いじゃない、と自分に言い聞かせた。声が少しだけ硬くなった。
「今夜は、私の部屋に来ませんか」
彼が眉を上げる。
「君の?」
「はい。今日二回も偶然に会えたのも、何かの縁を感じます。まだ話したいことがありますし、ゲストルームもあるので、休めます」
念のため、付け足す。
少しの沈黙。
彼は言葉を反芻するように視線を伏せ、やがて軽く頷いた。
「
……
なるほど。君は、年齢のわりに、ずいぶん面倒見がいい」
「そうでしょうか」
「そうだと思うよ」
からかうでもなく、評価するでもない声だった。
「じゃあ、その親切に甘えさせてもらおう」
そう言って、あっさりと立ち上がる。
「お代は私に払わせてくれ。
……
今夜の“宿代”だ」
その言葉に、私は小さく頷いた。
今日できた新しい友人として。
年上の、少し危なっかしい友人として。
それ以上の意味を、少なくとも私は考えないようにしていた。そして、彼の瞳の底を覗き込めば、その答えがあるような気がした。
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