縁側の日なたでへそを天井へ向けて眠る猫のように、魔術師が仰向けで眠る姿を見せるようになったのは少し前のことである。あの無防備な間抜け面に加えて、人の腕を枕にして我が物顔で脇に納まる寝姿もすっかり懐いた飼い猫のようで、まぁ悪くはなかった。狭い寝床の中でああだこうだうるさい身体を半ば強引に抱きすくめ、有無を言わさず眠りに就いた日を思えば大した進歩だろう。
ファイはいつものように右隣へ横たわり、しばらく位置を調整したあと身を落ち着けたように見えた。だが腕の中の身体はわずかに硬い。力を抜いてこちらに身を預けきっていないときの魔術師は、大抵何か考え事を続けている。
「どうした」
「なにが?」
「こっちが聞いてんだ。何考えてる」
「えー? ……ああ、えっと、考えてるってほどじゃないんだけどー」
「さっさと言え」
「黒ぷーはせっかちだねぇ」
先ほどよりいくらか脱力した身体がぺたりと寄りかかってくる。たとえ微睡んでいても、ファイの体温は決まって黒鋼より低い。
「リビングの家具の配置をね、動かそうかちょーっと迷ってて」
「ならさっさと変えればいいじゃねぇか」
「んー、でも本当にちょっと気になってるだけなんだよねぇ。ここにいつまで居るかわかんないし、みんなも今のレイアウトに慣れてるだろうし……」
気に掛けたのが阿呆らしくなるほどくだらない理由だ。事によっては散々こちらをこき使うこともあるくせに、今更何を躊躇する必要があるのだろう。
「黒りん?」
反応がないことに焦れてか、ファイが胸元に乗り上げてこちらを覗き込んできた。つくづく猫のような印象の生き物である。黒鋼は大きくため息をついた。呼吸に合わせて魔術師の身体もわずかに上下する。
「明日」
「ん?」
「飯の前に動かすぞ。小僧にも手伝わせろ」
「いいの?」
「長々とくだらんことに悩まれるよりマシだ」
「オレそこまで悩んでないよー!」
魔術師が勢いよく顔を上げた拍子に、視界の端で柔らかい髪が揺れた。不服そうな声こそ出しているが、その蒼い目に浮かんだ喜色は明らかだ。
「……でもありがと、黒様」
ちゅ、とお手本のような音を立てて魔術師が黒鋼の頬に口づけた。そのまま首元にすりよってくる。今にも喉の鳴る音が聞こえてきそうだ。あまりにも自然な一連の動作に、黒鋼は見慣れたその容貌をまじまじと見つめなおしてしまった。
こいつは今、黒鋼に対する礼としてこの行動をとった。それはつまり自分からの口づけが、相手にとって価値があるものだと当の本人が認識しているということだ。モコナが冗談交じりにじゃれてくるのとは訳が違う。あの白まんじゅうが旅に出る前どう過ごしていたかを知らずとも、言動を見るだけで周囲からの愛情をきちんと受け取ってきたのは明らかだった。
だがファイは違う。初めの頃は馴れ馴れしい態度でこちらに触れてくることも多かったが、それが魔術師なりの武装だったことは言うまでもない。その思考回路を構築するに至った所以は、過去を垣間見ただけの己でも十分に理解できた。幾度となく難儀な姿勢に手を焼かされてきたのも、今となっては必要な過程だったのかもしれないと柄にもない考えが頭を過ぎるほどだ。
だからこそ黒鋼は、この状況になにやら感慨のような心情すら抱いているのだった。
「えっ、どうしたの」
黙ったまま自身を見つめる黒鋼に、魔術師の瞳が不安そうに翳る。深く考える前に腕が動いた。やっと変わりつつあるこいつの考えを、今の対応で不正解として上書きするわけにはいかない。
左手を伸ばし乱暴に頭を撫でた。気が急いて少々力加減を間違えたが、些細な問題ということにしておく。
「ほんとになに!?」
乱れた前髪の隙間から戸惑いと呆れの混じった視線が向けられた。それでも心許ない迷子のような顔をされるよりはよほどいい。
改めてファイを見る。相変わらず線は細いが髪も頬も枕元の照明を受け淡く光っており、率直に言えばその容姿はどこからどう見ても健康的に整えられている。その姿を目にして、黒鋼はいつにない満足感を覚えた。
力こそ緩めたものの未だにゆっくりと頭を撫でられ続けているファイは、肩身が狭そうに視線を泳がせている。
「黒ぴっぴがご乱心だ……」
指先を後頭部に移し力を込め、随分と勝手なことを呟いている口を塞ぐ。薄い唇を舐めてから顔を離すと、丸くなった双眸と目が合った。舌すら入れていないのにいやに大げさな反応をする。
「……黒わんこのバカ」
「誰がバカだ」
「なんで今の流れでそうなるの? 唐突すぎるよー……」
先刻までのくつろいだ姿が嘘のように身を硬くしたファイは、それでも黒鋼の上から離れようとはしなかった。
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