隙間なく埋まったあの人の、僅かなスケジュールの余白をもらって、二人で映画を観ることができる事実にきっと浮かれていたのだ。目の当たりにした事実に、膿んだ傷のように疼く胸が痛いことは分かるのに、思考はいたく冷静だった。
そう、僕は解っていた、分かっていたつもりだった。あの人の、ライカンという人の中に、僕の腰掛ける隙はないのだと。
ライカンさんが見たいと言った映画は、ホロウ災害を克明に描いたフィクション映画だった。予期された災いを免れなかった孤独な科学者の物語だ。恋人達が観るにはロマンチックさにかけるけれど、幸い僕とライカンさんは仕事を共にする友人同士。殊更ドキュメンタリーを好んで観る僕には、好みの分類に含まれるだろう。
『虚無』
タイトル通り、色彩ごと飲み込まれたスクリーンは、絶望感の現れなのか。難しいテーマを扱った作品だ、けれど僕は何度も観ている。初めて観るライカンさんに、少し解説みたいなことができたらいいな。なんて、今思えば調子にのっていた。いいとこを見せて、ライカンさんの関心を少しでも惹けたらいいな、なんて。その浅はかさは、どうやら運命に見透かされていたようだ。聡明なライカンさんは、話が進めば進むほど、映画への没入感を深くしていた。登場人物達の置かれた状況を把握し、見極め、とられた行動や会話に深く頷く。僕の言葉なんてこの人には要らないようだ。視聴体験を損なわないよう、余計なことを言わないよう努める方が大切だと、真摯な瞳でスクリーンを見つめる横顔を、やっぱり格好いい人だなと眺めながら、無難な言葉を選ぶことしか出来なかった。
「次回は紅茶と甘味を交えて、深い余韻ののち、日の当たる場所で、心を落ち着かせるお供とさせていただければ」
仰々しい言い方が、あまりにもライカンさんらしくて笑ってしまいそうになる。次回、なんておべっかにしか聞こえないよ。耳障りのいい言葉でご機嫌を取ってくれるのは、僕があなたにとって最適なビジネスパートナーだからだって分かっているから。あなたと親しくなったつもりだったのに。僕は全く理解できていなかったんだね。
「……馬鹿みたい」
自分勝手に相手の印象を下げてしまいそうな、小さな器に自制を流し込んだ。溢れても涙も出ないのは、負け戦だと本当は感じていたのかもしれない。迫った次のスケジュールへ向かうべく、先に映画館を出たライカンさんを見送って、小さく溜息をつくと、僕は車へ戻ろうと駐車場へ足を向けた。
「お姉ちゃんおかえりなさい! ライカンさんと映画観てきたんでしょ? どうだった? 」
社用車のエンジン音を聞きつけて、期待に満ちた眼差しで迎えてくれたリンから開口一番に浴びせられた言葉だった。年頃のリンは、それ相応に恋愛ごとへの関心がある。他人の恋愛にもイマイチ首を突っ込む気にはなれない僕は、自分のこととなるとより一層疎かになっていた。
「どうだったって、なんだい? 」
「なんだい? じゃないよ、あんなに楽しみにしていたじゃない。誘うのに緊張してるお姉ちゃんにメッセージ送るまで付き合って、OKが貰えたって一緒にハイタッチしたじゃない」
なんでそんなに機嫌悪いの?
何かあったんでしょ?
リンに隠そうとしても隠せる訳がない。隠す気もないけれど、だって、実際何も無かったんだ。何と伝えればいい?
「一緒に映画を観て、ライカンさんは楽しんでたよ」
「それでそれで? 」
「重いテーマだけどよかったね、って感想言い合って終わり。ライカンさんは次の予定にさっさと行っちゃったよ」
本当にそれだけだ。次回は紅茶と甘味を〜のくだりはリンに言えなかった。誘われたの! なんてぬか喜びしてくれるリンに、社交辞令だよ。次なんてないの。とハッキリ口にしてしまえば、せっかく耐えたものが零れてしまいそうだった。
「ちょっとだけ部屋で休むから、夕飯になったら起こして」
「あっ!! お姉ちゃん! 」
追いかけてきたそうなリンを、ビデオ屋の入口の開く音が引き止めた。助かったとほっと息を吐き、僕は逃げるように自室に駆け込んだ。
その夜リンは目にも止まらぬ指さばきで、メッセージをしたためていた。相手は今日、姉とデートを終えたばかりのライカンだった。
今のところリンしか知り得ない秘密。アキラとライカンはお互いに興味と好意がある、いわゆる両片思いというやつである。レイン救出の際イアス越しにヴィクトリア家政と結ばれた縁は、人懐っこいリンと、交流と監視を兼ねて頻繁にビデオ屋へ通ってくれるライカンとの間で交わされていった。あまり人付き合いが得意ではないアキラは、ライカンの容姿やヴィクトリア家政の雰囲気に押されて表立った交流は控えていた。そんな二人が寄りによって、リンの居ない日に出会ってしまった。
「いつも妹共々お世話になっております。姉のアキラです」
リンより幾分か高い身長、遠慮がちに下げられた頭と控えめな笑顔、穏やかで低めの声に、柔らかく丸みのあるショートカットがよく似合っていた。ゆるりと笑ったその人に、ライカンは初めて人を好きになったと気づいた。一目惚れである。
「ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。ヴィクトリア家政の執行責任者をしております。フォン・ライカンと申します」
ぎこちないアキラと違い、深々とされたお辞儀は映画のワンシーンかと思うほど絵になった。立派な体格に着こなされた上等な執事服と、腰に響くバリトンは、誰かが調整したのかと思うほどぴったりで。アキラは初めて異性にドキドキした、恋の入口である。
張り詰めた緊張は、お互いに何やら覚えた照れくささを増長させた。向かい合ったまま下を向いて、声も出せずに立ちすくんだ二人を見たリンは『お見合いでもしてるの?』などと間の抜けたツッコミをしてしまったのである。今思えばあながち間違いでもない。
姉の機嫌は夕飯時も芳しくなかった。気分転換にラーメン食べに行こうよ、というリンの誘いにも生返事、激辛ラーメンを無心に啜って、シャワーを浴びるなり部屋に閉じ篭ってしまった。リンには分かる、落ち込んでいる。
元凶となった相手はもちろん、アキラのビッグイベントであった映画鑑賞の相手、ライカンだろうとあたりがついていた。というか、それしかないだろう。アキラが落ち込んでいるなどと知れば、ライカンは狼狽えてしまう。どうしたのですか、アキラ様の身になにが、もしや私が失礼をしてしまったのでしょうかと、矢継ぎ早に言葉を飛ばしてくるに決まっている。起こっていることは隠したまま、リンは何気ないことのようにメッセージを打つ。
『ライカンさん、今日どうだった?』
『リン様! 本日はご協力いただき誠にありがとうございました。大変有意義な時間を過ごすことができました』
文面だけで分かるご機嫌な内容に、リンは首を捻るしかない。
『そうなんだ、よかったじゃん! 映画って何観たの?』
『虚無という作品をご存知ですか? 以前ある方との談笑の折り強く記憶に残った言葉がございまして、その所以から関心を抱いていた映画だったのです』
よりにも寄って? お互いに気のある男女が忙しい合間を縫って、観る映画が虚無? 何考えてるの二人共? 隣の部屋にも聞こえんばかりの特大溜息をついたリンは、気を取り直そうと首を振る。ど真面目なライカンさんと、ドキュメンタリーが好きなお姉ちゃんなら盛り上がったのかな? でも、それならどうして……
『そうなんだ、楽しめた?』
『もちろんでございます。避けられない絶望と、それでも成しえない行為を成そうとする意志、ただ独りにお仕えし続けることの在り方、このライカン忠誠心とはなにかを再確認いたしました』
薔薇のキラキラ輝くスタンプまで送られてきては、ライカンのご機嫌具合を窺うまでもない。その忠誠心ってさぁ、もしかするともしかしませんか。思い当たり始めたリンは、確信を探ろうと回りくどい質問を続けた。
『面白かったってことだよね、良かったね! お姉ちゃんも楽しめてた?』
『アキラ様には、さすがの一言でございました。聡明で映画への見識も広いお方です。浅慮な私の感想にも優しく頷いてくださり、慈愛に満ちた優しさに感服いたしました』
今度は涙のスタンプが送られてきた。ライカンさんのこのスタンプ文化は誰が培ったのだろう、エレンだろうか。苦笑いしながら返信を考えるリンは、喉元に引っかかった違和感をまだ探り当てられずにいる。
『大切な方と映画を鑑賞することができるこの日常を守ることこそが私の使命なのだと、気が引き締まる思いでございます』
『待った、それお姉ちゃんにも言ったの?』
『えぇ、お伝えいたしました。お仕えする方への忠誠と己の在るべき姿がより鮮明になった事が嬉しくなりましたので』
『お姉ちゃん何て言ってた?』
『ライカンさんなら出来るよ、頑張って。とお言葉をいただきました。アキラ様からの激励をいただいたのであれば、このライカンどこまでも邁進していく所存でございます』
二度目の感涙スタンプに、リンは苦虫を噛み潰したような気分になっていた。
『もうどこまでもライカンさんらしくて笑っちゃった。お姉ちゃんが落ち込んでた理由分かっちゃったよ 』
本当に、どこまでもブレないんだから。
アキラの態度に得心した。こんなことを仕事熱心な想い人から言われてしまっては、アキラにはもう口を挟む余地が無くなってしまうのだ。ただでさえ仕事一筋で、みっちりと埋まったスケジュール帳の、何とか空いた隙間にねじ込んだ予定だというのに。忙しい彼から、映画を観たからやる気が出た! もっと仕事頑張るよ!! などと意気込みを聞かされては、頑張って、応援してるね。と遠巻きにする以外どうすればいいのか。元よりライカンは生活能力も高く、身なりもしっかりとしている。忙しいから行き届かないところもあるだろう、支えて助けてあげなければ、なんてタイプでもない。自分一人でどうにかなってしまい、尚且つ、家事全般が不得意なアキラは入り込もうとすればするほど、お荷物になってしまいそうな未来が目に見えている。相手が自分のことを好いているとも知らず、自分だけが想いを募らせていると思ってあるアキラには、アキラは不必要だと言われているように感じてしまっても無理はなかった。
まぁ、この経緯がしっかり想像できちゃうのは、私がお姉ちゃんの妹だからなんだけどね。考え過ぎて、自分にとって都合のいいことである程、簡単に信じられなくなってしまうのは姉の悪い癖だ。心配し過ぎだとリンからいくら言われても、アキラは考えることを止めたりはしない。その警戒心と懐疑心の強さが、姉妹を荒事から守ってきたのだから、頭ごなしに否定することも出来なかった。
『アキラ様が落ち込んでいらっしゃるのですか。何故でしょうか、私がなにか粗相でもしてしまったのですか』
明らかな動揺が滲む文面に、想像した通りだとこちらも笑うしかない。
『ライカンさんがあまりにも仕事一筋だから、入り込む余地がなくて落ち込んじゃったんだと思うよ。お姉ちゃんなんだかんだ頼られたり甘えられたりするのに弱いから。ほとんど私のせいなんだけどね』
『次回は紅茶と甘味もご用意して、アキラ様のお好きな映画を一緒に観ましょうとお誘いしたつもりだったのですが…… 微笑んでくださったので、次もあるものだと思ってしまいました』
お姉ちゃんお得意の愛想笑いが炸裂してるな。
柔らかく微笑む(妹のリンからすれば、不明瞭で曖昧な表情なのだが、周囲からはそう見えないらしい)姉の表情を想像して、ライカンさん程の人を誑かせるのであれば、相当なものだと関心してしまいそうになる。
イヌ科のシリオン特有の、尻尾や耳が力なく下がっている様子を思うと、ずっと年上のライカンも可愛げがあると思えてくる。そういうところをお姉ちゃんにもっと見せれば、こんなに回り道しなくてもいいんだけどな。
そう思うが、そういう事でもないのだろう。立場や関係性における見栄といったものが、きっとある筈なのだ。
『あ〜、お姉ちゃん私にそんなこと言ってなかったな。多分社交辞令だと思われてるかも』
『な!? 社交辞令などと、アキラ様にそのような甘言じみたことは申し上げません』
『ライカンさんがそのつもりでも、お姉ちゃんに伝わってなかったら一緒だよ。まだライカンさんのこと、手放しに信じられる程親しくなってないと思ってるはずだから』
辛辣かとも思うが、きっとライカンにもこれくらいの強さで言わなければ伝わらないのだ。アキラは遠回しな言葉を、自分に都合の悪い方に一旦解釈する。無駄な期待はしない、一度遠くに置いて、しっかり眺めて吟味する。境界線の外から渡されたものであれば、相手の気持ちも心も、品定めをしている。これは、自分が信じるに値するものか、リンを、自分を傷つけるものではないか。
渡された愛情を、自分への贈り物だと素直にアキラが受け取るには、根気強く積み重ねた実績と信頼が必要なのだと、ライカンはまだ知らない。
『必ず私からお誘いします。その、差し支えなければアキラ様のご予定など、教えていただけませんでしょうか』
『しょうがないなぁ、早い方がいいよ。一週間以内に誘ってね』
一朝一夕で姉は人を信じたりしない。処世術と呼ぶには少し寂しいのではないかと、人を遠ざけるアキラの心を、溶かす相手が現れるのを待っていたのは自分かもしれない。
頑張ってライカンさん!! 私からは直接言いすぎたりできないけど!
心の中でライカンへの応援を飛ばしながら、明日はお姉ちゃんの機嫌が直っていますようにと強く願い、その日は祈る思いで端末を握りしめたままリンは眠りについた。
アキラのスケジュールを確認したリンは、鉛でもつけたような重い指で、このことを何とライカンに伝えようか、心底悩んでいた。
『ライカンさんへ、残念なお知らせです』
『お姉ちゃんに予定を確認したら、この期間はずっとビリーと映画を観に行く予定が入っているみたい。スターライトナイトの映画の、週替わりランダム得点をコンプリートする手伝いを頼まれてるんだって』
ごめん! と手を合わせた謝罪スタンプと共に内容を確認したのは、依頼を終えて、ヴィクトリア家政の事務所で帰り支度を整えている最中だった。なんとかみっちりと詰まったスケジュールを調整して、映画一本分プラス感想を話す時間を空けられそうな予定を確保したばかりのことだった。深く刻まれた皴を揉み解そうと、ライカンは眉間に指を添える。リンに言われた通り、期間が開けば開くほど、アキラとの関係値は他人に戻ってしまう気がしていた。この恋が前途多難であることを、ライカンはやっと理解し始めたのである。
ed.
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