二卵性
10321文字
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いつか星を描く致命傷4

水龍がベッドの上で迫ってくる回(ヌヴィリオ)すべてが捏造です


庭ではロマリタイムフラワーが気持ちよさそうに揺れている。
数十年ぶりの光景だ。ヌヴィレットはパレ・メルモニアに一部屋、フォンテーヌ廷の一角に一部屋、そしてこのフォンテーヌ廷郊外に邸宅を持っている。
この郊外の邸宅は、はじめはメリュジーヌたちを保護するための場所だった。フォンテーヌ廷に来たばかりで部屋を借りられていない者や、マレショーセ・ファントムの仕事で怪我を負ってしまった者。そういった者たちを住まわせるのに、一軒家があると都合がよかった。前者のケースは、メリュジーヌがフォンテーヌ社会に溶け込むにつれほぼなくなっていたが。
最後に使ったのはかなり前だったが、ちょっとした細工をしておけば家がそう悪くなることもない。必要な時に片づけをすればいいだけだ。埃を払い、朽ちている窓枠や屋根があれば直し、もてなしに必要な備品を運び込む。
メリュジーヌのための小さな椅子ではなく、リオセスリが腰かけられる大きなソファを。美しい茶器と、紅茶の葉を。彼が好みそうな歴史書と、それを置くための本棚を。くつろげるラグを足元に、人間用の寝室には清潔なシーツと丈夫なマットレスを。
リビングルームのテーブルには、メリュジーヌたちの勧めに従って花瓶を飾ることにした。花屋で見つけた真紅と黒の薔薇を。青と白が基調の部屋ではいささか浮いていたが、ヌヴィレットは満足していた。リオセスリも、この部屋ではぱっと目立つのかもしれない。それはきっといいことだ。

準備を終え、リオセスリから日程の連絡が届き、業務の調整も終えた。当日歌劇場の裏まで迎えに行くと申し出たが、断られてしまったので住所だけ伝えた。時間は昼過ぎ、ティータイムから。ヌヴィレットの業務上は少しばかりの早退となる。
最高審判官は多忙のため、パレ・メルモニアから姿を消しても誰も不審に思わない。今は自分の休暇届を自分で申請し自分で受理しているので、ヌヴィレットの早退を知っているのはセドナくらいのものだった。
朝から機嫌のいいヌヴィレットはいつも通りに業務を捌きつつ、帰宅前に買うべきものを考えていた。茶菓子は当日フォンテーヌ廷で買おうと決めていたのだ。紅茶に合う甘いものを。メロピデ要塞にもシェフはいるが、生菓子は貴重だというから、そういった繊細な菓子がいい。自分も食べるのだから、水気のあるものとなると、何がいいだろうか。ショーケースの前で悩む時間くらいはあるだろう。
昼休みも厭わず仕事をし、そろそろ――と考えたところで、ヌヴィレットははっと顔を上げた。
「大変!どうしよう、たすけて!ヌヴィレット様!」
メリュジーヌが執務室に飛び込んできたからだ。
メリュジーヌはヌヴィレットの眷属であり、庇護すべき存在だ。そんな彼女たちに助けを求められれば、何を置いても助けに向かう。リオセスリとの約束があってもだ。きりりと眉を吊り上げたヌヴィレットは「何があったのだ」と尋ねた。
しかし次の言葉で、目を見開く。
「公爵様が、大変なの!」
ヌヴィレットは立ち上がり、メリュジーヌを抱き上げ、執務室を飛び出す。椅子に引っ掛かった髪留めのリボンが解け、床に落ちた。



ブチ、と肉を裂くような感覚がした。グロテスクな繭から伸びた支えが、また一本ちぎれて落ちる。なぜか脚をむしられる虫を連想させた。
ど真ん中の繭――嚢胞には、ろくにダメージが入っている感覚がない。殴っても凍らせても、殻を破壊し弾を吐き出すだけだ。水中で壁が抉れ、氷塊が舞い、水温が下がる。リオセスリの腕はすでにボロボロで、脇腹の傷口から赤い色が水に滲んでいる。避け損ねた弾を喰らった肋骨がぎしりと痛んだ。
だが、何も手が打てないというわけではなかった。あの取水口の向こうに嚢胞を押し出してしまえば、ひとまず取水口の扉を閉めることができる。海の向こうに違法投棄してしまうのは問題だが、メロピデ要塞へ影響を与える確率はぐんと下がるだろう。あとの対処は多少時間をかけても問題ないはずだ。
そんな考えで、リオセスリは壁や床に伸ばされた触手を引きはがすことから始めた。残りはあと二本だ。頭は冴え渡っている。ただ、嚢胞が吐き出した弾――謎の液体が水に溶けているせいか、視界が悪い。そして肌がピリピリと痛んだ。おそらく人が長くいるべき環境ではないのだろう。長期戦は不利だ。
「は……、」
がぽ、と口から空気が漏れる。指先の感覚はなくなりつつあるが、メンテナンスを怠らないナックルは問題なく動く。弾を避け、ナックルの補助を頼りに触手を掴んだ。いつも懐に忍ばせている刃渡りの短いナイフは正直頼りないが、これくらいしか使えるものがない。水の中の戦闘というのは思ったよりも厄介だ。氷元素も思ったように扱えない。
痛みにあえぐように嚢胞がボコボコと膨らみ、弾を投げつけてくる。すべて避けるのは難しい、時間をかけてはいられない、一発くらいの被弾よりも効率を――
そう思った瞬間、ぞくりと背筋が震えた。
パン!
水の中で弾ける音が聞こえるはずもない。ただ、目の前でその弾が何かにぶつかったように霧散し、リオセスリは目を見開いた。
「あ、」
振り向く。
ずるり。
取水口から這い出るように、そのひとが姿を現した。
薄汚れた水の中で、真珠色の髪が艶めいて広がっている。その中に紛れる青い二房が、常より伸びて淡く輝きを放っていた。見間違いでなければ。
――なんで、あんたがここに。
疑問は泡に消える。濃紺のグローブに包まれた手がリオセスリを抱き寄せた。再び目の前に迫っていた弾が、杖を手にした一振りでまた消し去られる。
そして、審判の時を思い出させる仕草で床を打った途端、目の前の嚢胞が弾け飛んだ。
と言っても、衝撃が襲ってくることはなかった。内側から爆発させられたはずなのに、不可思議な力で押さえつけられているようだったから。視界を濁らせる色もすべて、ひとところに集まるように流れていく。そしてその緑色は、ヌヴィレットがグッと手を握ると、手品のように消えてしまった。
呆然と眺めるしかなかったリオセスリを、いつもより濃い色の瞳が見つめていた。再びカン!と杖で打つ仕草をすると、たちまちのうちに水が引いていく。
重力が戻ってきて、リオセスリはヌヴィレットの腕の中でたたらを踏んだ。軽い音を立ててナイフが床に落ちる。ずぶ濡れのリオセスリが何も言えないうちに、ヌヴィレットは取水口に封印を施してしまった。
「リオセスリ殿」
ようやく音が聞こえるようになる。リオセスリを抱き寄せたままのヌヴィレットはなぜか濡れていない。声は低く、責めるような響きがあった。
……ヌヴィレットさん、なんで」
「怪我がひどい。掴まりなさい」
「は?え、ちょ……ッ!」
質問が終わらないうちに、リオセスリはひょいと担ぎ上げられていた。ヌヴィレットは天井の扉を見つけると、それに向かって杖を振る。魔法というには強引に扉が吹っ飛んで、乱雑な速度でぐわっと重力に置いていかれた。
「うわあッ!?」
「ヌ、ヌヴィレット様?!」
突如扉を破壊し浮いてきた最高審判官様に看守たちも大混乱だ。人間技じゃないもんな。
「本当に来てくれたんですね!?」
いや待て、来てくれたってなんだ。誰が呼んだんだ。リオセスリは文句を言いたかったが、急な浮遊感でめまいがしていた。血を流したのもあるだろうが、体温が下がりすぎている気がする。氷元素の神の目を持っていても、凍結ダメージが入らないわけではないのだ。
「問題は解決した。先にリオセスリ殿の手当てを。シグウィン」
「はあい。でもヌヴィレットさん、その持ち方はダメよ。両手で抱えてちょうだい」
「ふむ。こうだろうか?」
ふわりとリオセスリの体が浮いて、肩に担がれていたはずが両腕に収まっていた。俗にいうお姫様抱っこだ。待てこれはさすがにいただけないだろう、公爵的に。いや、メロピデ要塞の管理者的に。
「じ、ぶんで、歩ける……!おろしてくれ」
呂律がやや回らないのは、戦闘中のアドレナリンが切れたからだろうか。頭の中で冷静に分析しつつ、リオセスリは身をよじろうとした。しかしヌヴィレットの腕に抱えられている以上に何かに拘束されていて、動けない。
「却下だ。君はひどく冷えている。傷も深い」
「致命傷、じゃ、ない」
「シグウィン、どちらへ」
「こっちよ。大丈夫なのよ、人目のつかない道を使うから」
いやそんな気遣いよりも、下ろしてくれ、本当に。看守たちも戸惑っている。それよりあの囚人はどうした?尋問しなくてはならない。あとはこの区画を閉鎖して横道も精査し、どういう状況だったかの調査を……。うわごとのように言いながら、リオセスリは体の揺れを感じていた。寒い。ぐっと抱き寄せられる。最高審判官様の威厳の形をした飾りたちが食い込んで痛い。
シグウィンは、看守用の病室にリオセスリを抱えたヌヴィレットを通すことにしたようだった。医務室に近く、しかし囚人たちには見つからない場所だ。
ようやくヌヴィレットの腕から解放されてベッドに下ろされ、リオセスリはホッとした。それも束の間だった。
「ヌヴィレットさん、公爵の服を脱がしてちょうだい。そのままだともっと冷えちゃう」
「承知した」
グローブに包まれた手が伸びてくる。リオセスリは緩慢な仕草で首を横に振った。
「自分で脱げる……
「君はナックルを外すこともできていないと自覚すべきだ」
そういえば、そうだった。言われてナックルを外す。バンテージが巻かれた腕は赤く、指先は垢を通り越して褐色になっていた。じんじんと痺れて感覚がなく、ろくに動かない。つまり脱げない。なんで自分で脱げるなんて言ったのか。
ほら見ろ、と言わんばかりの顔したヌヴィレットは、流れるような手つきでタイの結び目を解いた。ボタンが外され、濡れた布を一枚一枚剥がされる。恋人でもないのに。ヌヴィレットは医師免許をまだ取得していないのに。
救命活動だ、とわかっている。
手早く上半身の布を剥がれ、ベッドの上に座るリオセスリの足元に傅いたヌヴィレットが無骨な防具のベルトや金具をパチン、パチン、と外していく。最高審判官様に靴を脱がさせるなんて、とリオセスリは軽口を叩こうとしたが、紫色の唇はわななくだけだった。
やがで濡れた布が山を作り、下着だけになったリオセスリはタオルと毛布に包まれた。眠くなってきた気がする。いやしかし、聞くべきことがまだ山のようにある……
「まだ体温が戻らない……。湯たんぽを作らないと」
「こういうとき、裸で温めるものだと本で読んだことがある」
回らない頭で、冗談だろ、とリオセスリは思った。ヌヴィレットさんを脱がせるのはなんらかの法に抵触する。刑期がのびる。
「でもヌヴィレットさん、温められるの?」
「確かに。……ふむ」
シグウィンに尋ねられ、ヌヴィレットは少し考え込んでから両手でリオセスリの凍傷一歩手前の指先をそれぞれ掴んだ。そこからじんわりと熱が伝わってくる。明らかに体内の温度が変わり、巡っていく感覚にリオセスリは目を見開いた。
「どうだろうか」
……一体、なにを?」
体温が戻り、ようやくまともに考えられるようになってきた。リオセスリは焦点が合うようになった瞳を、ヌヴィレットに向けた。
「君の血液の温度を、少しばかり調整した」
「そんなことできるのか、あんた。ってことは、人の血液を沸騰させて殺すとかできそうだな……
「そのようなことはしない」
思わずこぼれた素直な感想に、ヌヴィレットは硬い声色で言い返してきた。確かに今のはまずかった、とリオセスリも反省する。
「すまない、俺もあんたがそんなことをするとは思っちゃいないさ。ああいや、その前に感謝をすべきだな、助けてくれてありがとうヌヴィレットさん」
「うむ」
「だがどうしてわざわざ?とてもじゃないがあんたにお出ましいただくような事態じゃ――
「公爵。質問は手当ての後でにしてちょうだい!」
看護師長に叱られ、リオセスリは口をつぐんだ。もう必要ないとわかるや否や、容赦なく毛布を剥がれ、傷を検分される。ヌヴィレットは少し離れたスツールに腰掛け、その様子をじっと眺めていた。
「肋骨にヒビが入ってるの。あと脇腹の傷は縫う必要があるのよ」
「おっと、肋骨は折れたもんだと思ってたが、案外丈夫だったか。脇腹、縫えるかい?瓦礫が刺さったから組織がやられてるんじゃないか?」
「そのわりには綺麗なのよ。破片も全部取り除かれているし……
リオセスリは思わずヌヴィレットを見た。彼は何食わぬ顔で脚を組み、平然と告げた。
「不純物はすべて取り除いた」
「それは……、どうも」
言われてみれば、あの謎の液体のせいでぴりつく感覚も拭い去られていた。あれもきっと不純物だったのだろう。
「便利ね~」
医療従事者の視点からのコメントだとしてちょっと不適切じゃないか?口にはできず、リオセスリはもにょりと唇を動かした。
まあ、血液の温度を調整して低体温症を防ぐのも、ものすごく便利ではあるが。いろいろ使いどころがありそうだ。あとは、あの嚢胞を一発で破壊する力も便利だったし、水の流れや重力も完全に無視していた。よく考えたら、なんだったんだあれ。原始胎海のゲートを一人で鎮めたひとにもはや何を言っても無駄ではある。
「ほら公爵、横になって。腕はここ。麻酔かけるのよ」
「麻酔は嫌だ」
「ヌヴィレットさんもいるんだから、わがままを言わないの!」
いつものやり取りだが、今日は看護師長の切り札があるらしい。リオセスリはやれやれと肩を竦めた。
「関係ないだろ、ヌヴィレットさんは」
しかし、間髪入れずに答えが返ってきた。
「私があらゆる危機や障害を取り除くので、君が意識を失っていても問題ない」
……は、」
「シグウィンの言うことを聞きなさい」
聞き分けの悪い子どもに対するような窘めかたに言葉を失っている間に、看護師長が腕に針を刺した。容赦がない。
「あ、んたに、ぜんぶ……、」
血液に不純物が混ぜられる。
まばたきをしたつもりが意識が落ちていた。

――何を言おうとしたんだっけ。
目を覚ましたと気づいた瞬間、リオセスリは起き上がった。要塞の病室、ベッドの上だ。体の上にはブランケットがかけられている。顔を挙げると、意識を失う前と同じようにヌヴィレットがスツールに座り、リオセスリを見つめていた。シグウィンの姿は見えない。
「君は七十四分間意識を失っていた。その間、何の問題も起きていない」
淡々と言われて、リオセスリは脇腹に手をやった。包帯の下に、縫い痕の感触がある。
……そいつは」
よかったのか。よかったに決まっている。このひとに迷惑をかけるつもりは到底なく、信頼という名の甘えを持っていたつもりもない。ルールを無視するな。境界線を踏み越えるな。
リオセスリが黙ると、ヌヴィレットが再び口を開いた。
「服を着たまえ。風邪を引いてはいけない」
「はは、あんた、俺の裸が見たかったんじゃなかったのかい?」
反射的に軽口を返すと、ヌヴィレットは目を丸くした。それから、じろり、と見つめる視線に色が乗ったような。
ヌヴィレットは静かに立ち上がると、病人用のベッドのそばまで大股で近づいてきた。サイドボードに置いてあったシャツとスラックスをつかんでリオセスリの膝の上に放る。
「服を着なさい」
視線の強さとは裏腹に、あきれたような声色だった。麻酔で意識を落とされる前に聞いたのと同じだ。リオセスリは黙るしかなく、もぞもぞと渡された服を着る。びしょびしょに濡れていたはずのそれは、七十四分とすこしの間にすっかり乾いていた。血痕は残っていないが、シャツの脇腹が破けているので、同じ服のはずである。
「あんたはずっとここに?」
気まずい沈黙に耐えられず、リオセスリは口を開いた。
「そうだ」
「そりゃあ……、悪いことをした」
「君が意識を失っている間の対処が必要だっただろう」
「何も起こっていないのに?」
「結果論だ。それに……もともと君と会う予定で、時間はあった」
そういえば、とリオセスリは時計を見た。もう夕刻で、約束の時間は過ぎている。異常を調べに行ったのは昼過ぎだったので、それなりに時間がかかってしまっていたようだ。
「確かにそうだが。そもそもヌヴィレットさん、どうしてあんたがここにいるんだい?」
これを訊くのが先決だったと思い出す。「誰かが呼んだらしかったが、なぜだ?」と続けると、ヌヴィレットは怪訝そうな顔をした。
「君の危機で、君が呼んでいるのだと聞いたのだが」
「は?いや、たいした問題じゃなかっただろう。あんたの助けがなくともなんとかなったし、こんなことでいちいち最高審判官様を呼びつけはしないさ」
「ふむ……
「どこかで伝言ゲームが間違ったのかね。手間をかけさせて悪かったよ」
決まりの悪さにぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜる。まさか、ヌヴィレットさんに連絡を、と言っただけで勘違いされたのか?とリオセスリは内心首を傾げた。看護師長は今日リオセスリがヌヴィレットと約束していたことを知っていたはずなのに。
なんだか嫌な予感がしたが、そのことについて考える前に、ヌヴィレットがベッドの端に腰かけてきた。ぐっ、と近づいた距離に、リオセスリはのけぞる。
「お……っと、」
「今の私は最高審判官ではなく、ヌヴィレット個人だ。公務は終わらせてきたのでね」
「そ、うか、」
「名を名乗ったほうが?」
「だからそれはいいって……
この間から、なぜ名乗りたがるのか。これが特別扱いの証左なのだろうか?信じがたい。リオセスリの知らぬところで、メリュジーヌたちには名を教えている可能性はあるが。できればそうであってほしい。
「しかし、ヌヴィレットさん。あんたが個人だったら何が変わるんだ?」
「君の質問に答えることができる」
ずいぶんと抽象的な答えだ。やはり凡人では彼の思考回路がわからない。つい苦笑する。
「そうかい。だがあいにく今はヌヴィレットさんをもてなす時間がなくってね。お茶の一杯くらいはご馳走したいところだが、今から一仕事しなきゃならない。また都合のいい日を連絡しよう」
「この状態で仕事に戻ると?」
ヌヴィレットはリオセスリの腕を掴んだ。決して逃しはしないと、罪人を問い詰める看守のように。
白亜の執務室でもないのに、空気は重く、湿気に満ちていた。ひたひたと迫ってくるものを感じながら、リオセスリは目を逸らす。服装はいつも通り厳格で威厳のある最高審判官なのに、髪は結ばれておらず、ベッドのシーツに流れている。それだけで落ち着かなくなった。ソファの上で迫られるよりも、いたたまれない。
動揺を表に出すことはない。脈拍だけがヌヴィレットの手の下で速くなる。
「こんなもの、怪我のうちに入らないさ」
「君は死にかけていたのだ」
「今は健康体だ。処置は終わった、肋骨も折れてない。確かに俺たちは個人的な約束をしていたが、職務より優先すべきことはない。そうは思わないかい?」
トラブルがあったから約束を反故にした。理由が職務ならば、ヌヴィレットが不快に思うこともないはず。居直るのもどうかとは思うが、この主張を覆すつもりはなかった。
しかし、ヌヴィレットも簡単に引いてくれるわけではない。
「君はたいした問題ではないと言ったな。ならば公爵がわざわざ片を付ける必要もあるまい」
「あれは意味が違う。あんなちっぽけな扉一枚壊されたところで、メロピデ要塞は沈みやしないってだけだ。それよりも、あの訳のわからん嚢胞が問題だ」
あの囚人は勘違いしていたようだが、あれっぽっちの水漏れで要塞が水没していたならば、この場所はとうに崩壊していただろう。止水策はいくらでもある。よってこんなものは日常茶飯事レベルのトラブルに過ぎず、嚢胞に対処したのはあくまで被害を最小限にするためだ。
とはいえあの正体不明の嚢胞がどうして発生したのか、調査を行う必要がある。ヌヴィレットのおかげで水没させたままにならなかったのは幸いだった。情報は鮮度が命だ、さっさと済ませてしまいたい。
説明したって、ヌヴィレットが腕を掴む強さは変わらない。
「危機でもなんでもないのに君は己の命を危険に晒したというのか」
「退路も勝算もあるんだったら命を賭けてるうちに入らないんだよ、ヌヴィレットさん」
「血を流し、毒に侵され、体の芯から指の先まで冷たくなっていた君が、それを言うか」
冷えた声色は明確にリオセスリを批判していた。裁判での事実の列挙ではなく、行いに対する責めるような口ぶり。確かにそれは、私的な感情かもしれない。
「まいったな、最高審判官様にはあの程度の負傷も刺激が強かったのかい」
「ヌヴィレットと呼びなさい」
「はいはい、ヌヴィレットさん。だがもう一度言うが、今の俺は五体満足で機能に傷も欠けもない。そう心配することじゃあないのさ、水の下ではこれくらい生き汚くなきゃやってられないんでね」
本心からリオセスリはそう言った。体に傷は残っているが、その全てに命の危機があったわけではない。逆に言えば、傷が残らずとも命の危機を感じたことはあるが、それは言わぬが花というやつだ。
「しかし、君は……
ヌヴィレットは不意に言葉を途切れさせた。つややかな唇を震わせ、何か続けようとしたが、音になっていない。
長いまつげが彼の顔に影を作り、水の上にいるときよりも淡い陰影を刻んでいる。水の下の病室のランプは真珠色の髪をオレンジに染め、夜明けの色の瞳に赤みを増やしていた。
「ヌヴィレットさん?」
美しいひとが唐突に見覚えのないものになったように感じて、リオセスリは思わず呼びかけていた。ヌヴィレットがかすかに息を吐く。「なるほど、」そんな言葉を聞いた気がした。
……龍は、宝物ほうもつを集めるものだ」
突然の話題の転換に、リオセスリは片眉を上げた。龍。このひとから聞くと、どきりとする単語だ。
なぜなら彼の正体は、その龍であるから。五百年を超える時を生き、人ならざる力を持つ者。その権能は今や水の神さえも超えていて、ならば答えは自ずと得られる。
リオセスリは答え合わせをしようと思ったことはなかった。――今この瞬間までは。
「そして勇者には、宝を与える」
ぽつりとこぼすような語り口は、物語というにはそっけなく、しかし、独白というには力強い。
「それは力であり、権能だ。あれらの枠組に倣うのは業腹であるが、人類の願いには意義がある。人の正義を、私は知らなくてはならない。過去を以て、審判を下す――
鋭い眼光がリオセスリをとらえる。
その審判は、きっと歌劇場で行われるものではない。只人には理解しえない。龍である目の前のひとが、何を見ているかも。
「君の正義を、知らなくてはならない。しかしそれだけではない」
……は、」
知らずのうちに息を詰めて、リオセスリは喘いだ。脆弱な人間の呼吸すらも支配するように、龍が目を細める。
「君はとくべつな、特殊な勇者だ。望むものを与えよう。同時に、なにもかもを、私の宝物にしなくてはならない。命のかけらも、傷の理由も、すべて――
あぎとが開くのを幻視した。海の底で待ち構えていた、白く暗い美しい巨獣の。
「君は、私のものだ」
丸呑みにされる。
目の前が真っ暗になる。
座っていられず、リオセスリは背中からベッドに倒れ込んだ。ぜひゅ、と忙しない呼吸音がすぐ近くで聞こえて、それが自分のものだと気がつく。全力疾走したときよりも息は荒く、乾いていたはずのシャツは再びべっとりと肌に張り付いていた。肋骨が痛い。心臓のポンプが壊れたように早鐘を打ち、こめかみもガンガンと痛んだ。
「リオセスリ殿」
こんなときなのに、透き通った水のように清涼な声で名前を呼ばれると、少しだけ痛みが和らぐ。いつもの最高審判官を、リオセスリはなんとか見上げた。
「は、ァ、ぬ、ゔぃれっとさん、」
「安心するといい。私は人間の手順に従う。今日は休むと約束するのなら、これ以上は何も言うまい」
……そ、いつは……、ありがたくって、涙が出そうだ……
「ハンカチは必要かね」
「ははっ……、あんたにしちゃうまいジョークだ」
「私はいつでもハンカチを持ち歩いている。清潔なものだ」
頓珍漢な返答に、リオセスリはまた少し笑って、咽せた。やっぱり肋骨が痛い。もう今日は休んだほうがいい、そう、その通りだ。何も間違っちゃいない。
ぐったりと天井を見上げて、リオセスリは降参した。
「わかったよ……、今日は休もう。ヌヴィレットさん、悪いが見送りはできそうにない」
「怪我人相手に無理を強いるつもりはない。君は療養すべきだ。ベッドから出てはならない」
「それじゃあ、遠慮なく。これ以上の見舞いは不要だぜ、ヌヴィレットさん」
「うむ。水の上で待っている、リオセスリ殿」
ベッドから立ち上がり、ヌヴィレットは一度だけ振り向いた。結えていない髪が広がって揺れ、リオセスリは喉を鳴らす。しかし互いにそれ以上何かを口にすることなく、ヌヴィレットは病室を出ていった。
病室の空気は重苦しく、沈黙に満ちたままだ。足音が聞こえなくなるのを待ってから、さて、ベッドの上からどうやって看守たちを呼びつけるか、現実逃避のようにリオセスリは考えを巡らせ始めた。